yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

平凡こそ真の生き方  〈菜根譚を読んで〉

 『菜根譚』を久しぶりに読み直そうと思い、今年これに関する2冊の本を机上に置き、朝起きたらまずこれらを開いている。その内の1冊は、『菜根譚 洪自誠著 神子侃吉田豊訳』(徳間書房)であり、もう1冊は『菜根譚 今井宇三郎訳注』(岩波文庫)である。後者の表紙に次の言葉と、この書籍の写真が載っている。次のように書いてある。

 

  「人よく菜根を咬めば、即ち百事なすべし」。菜根は堅くて筋が多い、これをかみしめてこそ、ものの真の味わいがわかる。中国明代の末期に儒・佛・道の三教を兼修した洪自誠が、自身の人生体験を基に、深くかみしめて味わうべき人生の哲理を簡潔な語録の形に著わした。的確な読み下し、平易な訳文。更に多年研究の成果は注と解説にも充分に盛りこまれている。

 

 私はこの文庫本を父が亡くなって数年後に購入した。50歳を過ぎてである。徳間書房版はその後数年して手に入れている。いずれも原文の読み方と訳文は殆ど変わらないが、訳者により多少の感じ方の違いがあるので、いつも両書を、先ず神子;吉田訳、ついで今井訳を読んでいる。この本は「前集」223、「後集」134の項目からなっている。どの項目を読んでも教えられる。今朝讀んでこれは中々良いと思ったのがあったので、それについてと、他の項目を書いてみよう。先ず「前集」105に書かれているのは次の文章である。全て漢文で書かれているが、読み下し文と訳、さらに岩波文庫には注があるので読み下し文とその訳文(岩波文庫)を転記してみよう。

 

   人の小過を責めず、人の陰私(いんし)を発(あば)かず、人の旧悪を念(おも)わず。三者、以て徳を養うべく、また以て害に遠かるべし。

 人の小さな過失を責め立てることをせず、人のかくしておきたい私事をむりにあばきたてたりせず、人の過去の悪事をいつまでも覚えておくおようなことをしない。この三つを実行すれば、自分の徳を養うことができるし、また、人の恨みを買う災害から遠ざかることができる。

 

  又次のような言葉もあった。

 

 小人と仇讐(きゅうしゅう)することを休(や)めよ。小人は自ずから対頭(たいとう)あり。君子に向かって諂(てん)媚(び)することを休めよ。君子は原(もと)私恵なし。

 つまらぬ小人どもを相手にするな。小人は小人なりの相手があるものだ。また、りっぱな君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきなど、してくれないものである。

 

 毎週月曜日と金曜日は「燃えるごみ」を出す日なので、先日寄せ集めていた枯れ葉を山口市指定の大きいビニール袋に入れて、我が家の車庫を出て直ぐの所にあるゴミ収集所へ提げて行った。ところが誰も出していない。その時「ああそうか。今日は天皇誕生日でゴミ収集車は来ないのか」と思い至った。退職し、まして年老いておまけに1人暮らしになると、いろいろな事を忘れる。家内が居ればこのようなことは無かろうと思った。

 私は先にも書いたように最近『菜根譚』を少しずつ読んでいる。この他に『平家物語』と山宮允著『英詩詳釋』を読み直している。これら三冊は考えてみると、日本と中国と英国の著者がそれぞれの国の言葉で書いたものである。偶然これらの本をこの齢になって取り上げたが、皆実によい本だとつくづく思いながら味読している。その意味においてはささやかな幸せを感じてゐる。今朝讀んだ『平家物語』には平清盛の娘徳子、後の建礼門院安徳天皇(1178~85)を産んだときのことが書かれていた。安徳天皇の在位は(1180~85)の僅か6年。8歳で天皇壇ノ浦の戦いで、二位の尼に抱かれて瀬戸の海で亡くなっている。是程の人生の浮き沈みは少なかろう。

 安徳天皇の誕生、この時が平家一門にとって最高の栄華を誇った時であろう。こういったことを思いながら、わたしはこの有名な歴史書を読んだ。此の後いつものように『英詩祥釋』を開いたら、わたしの好きなワーズワスの詩が出て来た。「虹」と題した短い詩である。山宮氏の訳を引用する。

 

  空の虹を見ると

  私の心は踊り立つ、

  子供の時分にさうだった、

  大人になった今でもさうだ、

  老人になってもさうありたいものだ―

  さうでなかったら私は死ぬ。

 

  子供こそは大人の親だ

  さうして私は生涯を一貫して 

  親に対する本然の尊敬心の如き尊敬心を

  子供に対して持っていたいものだと思う。

 

 この詩の最期の言葉を山宮氏は、「生涯を通じて親に対する尊敬心と同じ尊敬心を、子供乃至童心に対しても持っていたいというのであります」と説明している。我が家の直ぐ近くに小公園がある。土日の休日ばかりではないが、小さな子を連れた若い母親がよく遊びに来ている。この子等を見ていると童心そのもの、 天真爛漫である。ワーズワスの気持ちが分かるような気がする。

 

 最後にもう一度『菜根譚』に戻ろう。実は今朝この本の「前集」を読み終えた。読み始めたのが今年の1月17日だからまことに遅読である。最後の2つの文章が気に入ったから1つは訳文だけ書き写してみよう。

 桃や李の花は、はなやかで美しいが、松や柏が四季を通じて青々とした緑を変えないのには及ばない。また、梨や杏の実は、甘くておいしいが、黄色いだいだいや緑のみかんの、香気の芳しさには及ばない。してみると、まことに、はなやかではかないものは、あっさりして長久なものに及ばないし、早く熟するものは、遅く実るものには及ばないものだ。

 

 最後の文章は漢文と読み下し文と和訳を載せてみよう。

 

風恬浪静中、見人生之眞境。味淡聲希處、識心體之本然。

風恬(やす)らかに浪静かなる中に、人生の心境を見る。味淡く声希なる処に、心体の本然を識る。

 

  (波風は人生につきものであるが)時には穏やかに静まるもので、その時にこそ、人生の真実のすがたが見える。また、(美味妙声は人心を誘惑するものであるが)、どこかで淡白な味を味わい、静かな声なき声を聞くと、そこでこそ、人心の本来のすがたがわかる。

2024・2・23 記す