私は毎朝五時前後に起きる。目覚まし時計をセットはしないが、夜九時には床に就くので七時間は熟睡したことになる。従って睡眠時間は充分足りているから、起きたとき頭はすっきりしている。まあそうは言っても頭が回転するのは朝食迄くらいだろう。起きたら直ぐ机に向かって好きな本を読むことにしている。
最近は梅原猛の『法然の哀しみ』と『平家物語』を再読している。なぜこのような本を読むかというと、妻が亡くなって人生の無常をつくづく感じるからである。法然上人が布教活動をしたのが丁度源平の確執があった頃だし、『平家物語』には無常感が漂っているからである。こうして一時間か一時間半ばかり経つと、ちょっと一休みして私は抹茶を点てて一服する事にしている。
その時使用する抹茶茶碗と菓子皿はいつも決まったもの使用する。茶碗は先代の玉村松月という萩焼作家の作ったもので、口径が十四センチ、高さが十センチのかなり大振りの茶碗で、私が一番気に入っているものである。此の作品は玉村氏が息子さんと一緒に私の父の所へお茶の稽古に来ておられたとき、試作品として父が貰ったもので、箱に入った正規のものではない。しかし両手の掌で包んで抱えるような、かなり大きな見事な茶碗である。肌は薄い飴色で、貫入が小さな網の目のように綺麗に入っておる。私はこの茶碗でお茶を飲むのが朝の楽しみの一つである。
抹茶は「又(ゆう)玄(げん)」という銘のものである。私はこれが残り少なくなると、いつも「河崎茶舗」に電話で頼んで持って来て貰うことにしている。この「又玄」はネットを見るとかなり宣伝してあった。「幽玄」という言葉はよく耳にする。これは「奥深く微妙で、容易にはかりしることのできないこと。又、味わいの深いこと。情趣に富むこと。あるいは、上品でやさしいこと。優雅なこと」と云った説明が『広辞苑』に出ている。そこで「又玄」とはどういう意味かと思って調べたら、奈良の薬師寺の123代の管主橋本凝(ぎょう)胤(いん)師が命名されて、「奥深い上にもなお奥深い道」という意味だと分かった。「又」には「また、さらにその上」という意味が確かにある。
玉村氏は小学校を出ただけで陶工の道を進まれ、山口県の名工の一人として、県の『人間国宝』にまでなられた。彼の長男の登陽さんも萩焼作家として名を成したが、惜しいことに数年前に亡くなった。私の家内が亡くなってしばらくして、彼の奥さんと長男が「父が生前差し上げたいと言っていたものですが」と言って桐箱に入った立派な抹茶茶碗を家内の仏前に供えて下さった。これは「紅(べに)萩(はぎ)」と言って登陽さんが研究を重ねて作った赤味のある立派な茶碗である。私は恐縮した。その彼が次のような事を云ったのを私は良く覚えている。
「父は大きな手をしていました。力強かったものですから、一日に三百箇の抹茶茶碗を作ったことがあると言っていました。私なんか精々百箇作れたら上出来です」
学校での教育が小学校で終わっていても、人間はそれからの精進次第で立派になる。
さて今度は私が此の拙文の題とした「都鳥」について書くことにしよう。抹茶を服すには何らかの菓子を同時に口にするので、私はその時の菓子器も、先にも云ったように、いつも決まったものを使うことにしている。これは我が家に昔からあるもので、五枚一揃いになっている。いずれも手書きで鳥の素描をあしらってある。それぞれの皿は多少違った絵柄になっており、そこに「言問」という二文字が書かれてある。大きさは直径十六センチもあるから、菓子皿としてはかなり大きい物である。薄卵色で絵は黒い線で描かれている。恐らく私の曾祖父か祖父が京都で手に入れたものだろう。楽焼きかと思われる。
私はこれらの皿を萩から山口に移って初めて日常に使い始めた。それまでは父がお客用に使用していた。従ってそれまでは此の皿に特別関心も注意も払わなかった。しかしある日、妻に促されて注意を向けて調べて見たら、中々興味深いものだと知った。
ここまで書いたとき電話がかかってきた。肺ガンで自宅療養していた妻の弟に関してのものだった。
「大栄さんが重篤(じゅうとく)で、心臓がいつ止まってもおかしくないと医者が言われました」
彼の妻からの電話だった。私の妻と弟は仲が良くて、妻が亡くなるまでしばしば夜遅く長電話をしていた。妻は生前「昨夜も遅くなって大栄が電話してきたのよ」と朝起きてきた途端によく語っていた。
話を元に戻そう。「都鳥」についてだが、『伊勢物語』に次の歌があるのを知った。
名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
菓子皿のどれにも「言問」の二字が、崩しの書体で書かれてある。この「言問」の二文字と鳥の素描でこの歌の謂われが分かった。そこで改めて『伊勢物語』を読もうと思い、昼過ぎて時刻は三時前だったが、『古典文学全集』(筑摩書房)の「王朝物語集」を開いたら載っていた。現代語訳である。
ここまで書いたらまた電話があって、妻の弟は遂に亡くなったと知らせてきた。諸行無常、人の命の儚さを痛切に感じた。昨年五月の妻の一周忌の法要には大坂から来て呉れたのだ。その後肺ガンだと診断され、治療に専念していたのである。思いも掛けない事になった。悲しい事だが仕方がない。これが人生というものかと思う。
『伊勢物語』「第9段」の該当の文章だけ引用してみよう。
なお旅をつづけていくと、武蔵の国と下総(しもうさ)の国との境にたいそう大きな河がある。それを隅田川という。その河の岸辺に一行が集まって、旅のあとを思いやると、まあなんと限りなくも遠く来てしまったものだなあという気がして、互いに旅愁をわび合っている折しも、渡守(わたしもり)が「早く舟に乗りなさい、日も暮れてしまいますぞ」というので、乗って渡ろうとするにつけても、皆はなんとなくわびしくて、都に残してきた愛人がないわけでもないので、その人のことを思って旅愁もひとしお身にしむものだった。そうした折も折り、嘴と脚との赤い、鴫(しぎ)の大きさほどの白い鳥が、水の上に遊びながら魚を食っている。都では見られない鳥なので、誰も見知ったものはない。渡守に尋ねると、「これがあの都鳥ですよ」というのを聞いて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の愛人は無事でいるだろうか、どうだろうかと)
と詠んだので、舟の中の人々は一人残らず泣いてしまった。
これだけの背景を持った菓子皿である。それも一枚一枚が手書きであるのが良い。昔の陶工にはこのような風流というか文学的趣味を持つ者がいたのだろう。果たしていまこのような作品があるだろうか。先ず一枚一枚が手書きというのはないように思う。現在は確かに精巧で美しい絵模様の磁器だが、大抵は皆プリント印刷したものだ。
十数年前にイギリスの田園地帯を巡るバスツアーに参加した時、ワーズワスの住んで居たところとして有名な、イングランド北西部の「湖水地方」を一人の友人と訪れた。その時一揃いの小さな皿を目にした。それには皆同じ黄水仙の絵と彼の有名な詩がプリントしてあった。私は記念になると思って買って帰り今でも愛用しているが、やはり印刷では味気なく思うのである。しかしこれは私の好きな詩だから訳文を書いておこう。なお原詩はネットなどで見てもらうことにする。
谷や小山の上の大空高く漂うている雲の様に
一人寂しく(山地を)逍遙していた時、
忽然として私の目に入ったのは、
湖水の岸辺に、又木の下蔭に咲き乱れ、
微風に吹かれてはためき踊っている
夥しい数の黄金色の黄水仙の花だった。
ウイリヤム・ワーズワス
1770-1850
(『英詩詳釋』山宮允訳)
原詩に比べたらそれほど良い訳とは思えない。英語の詩には二個所素敵な脚韻がある。これが訳文では出せないからだ。ワーズワスは丁度80歳で亡くなっている。当時としては長命である。私の妻と妻の弟は共に享年79だった。この文章の始めにちょっと言及した法然上人は、享年80で亡くなっている。釈迦は満80歳で亡くなっている。あの昔80歳と云えば今なら150歳くらいだろう。プラトンも同じ80歳で死んで居る。こう言った有名人の臨終の様子を、私は山田風太郎著『人間臨終図巻』で知った。参考までに名前だけ挙げてみると、次の人たちである。
世阿弥、尾形乾山、カント、幸田露伴、ド・ゴール、永井荷風、トーマス・マンなど。
皆満年齢の80歳で死んでいる。現代は医学が進歩して、確かに長生きの人が格段に増加した。しかし病床に臥して、ただ呼吸をして居るだけで、自意識のないような老人が多い。気の毒だがこれもその人の運命だろうか。私は知らないうちに80歳をとっくに過ぎてしまった。そのうちお迎えが来るだろう。それまでは何とか元気で居たいものだと思う。後は天に任すだけである。
最後に萩高校の教え子で、気象庁を退職した後、探鳥を趣味として全国を旅している上野達雄君から、彼が撮影した多くの「都鳥」、つまり「ユリカモメ」の写真を送ってくれた。その中から二枚だけ載せておこう。彼はこの鳥について次のように書き送ってくれた。
カモメの類は、成長するに従って形態を変えるので、その分、識別が面倒になります。
ユリカモメの場合、幼羽、第一回冬羽、第一回夏羽、成長夏羽、成長冬羽の順で変化します。夏に生まれて2年で成鳥となるようです。日本へは冬鳥としてやって来るので、ほとんどの場合、冬羽しか見れません。たまに夏羽を目に出来ることがありあます。夏羽は頭が真っ黒になります。
彼のお蔭で、私はこの鳥について初めて多くの事を学ぶ事が出来た。彼は雪国の新潟に住んでいるが、今年の積雪は「3年振り」の大雪だといって、雪景色の写真も送って呉れた。早く雪が解けて、彼から珍しい鳥の写真がくるのを楽しみにしている。
2021・1・17 記す