yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

成道会(じょうどうえ)

 「成道会」と云っても殆どの人はその意味が分からないと思う。今日は12月9日で日曜である。私はある決意を以て山口市内にある禅寺に向かった。昨日から急に寒くなり、今朝の気温は零度に近い。身支度して朝7時10分に車を運転して家を出た。国宝五重塔で有名な瑠璃光寺の本堂に着いたのは坐禅が始まる数分前であった。男女10数名が参加していた。7時30分になり、老若の親子二人の僧が本堂に姿を現した。

先ず若い僧の、と云ってももう40歳台と思うが、読経から始まり、それが済むと全員が『般若心経』を読誦する。さらに続けて今朝は『修証(しゅしょう)義(ぎ)』の「第五章 行持報恩」をこれまた皆で唱えた。この中に次のような言葉がある。一部省略すると、

 

「病(びょう)雀(じゃく)尚お恩を忘れず(中略)、窮(きゅう)亀(き)尚お恩を忘れず、(中略)、畜類尚お恩を報ず、人類争(いかで)か恩を知らざらん」

 

またこのような言葉もある。

 

「光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還(かえ)し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」

 

この程度の文章は分かるが良く理解できない言葉が多い。これが終わるといよいよ坐禅である。本堂には石油ストーブが幾つか置かれて居るが今日は流石に寒かった。私は平成21年の2月から参加した。年を取っているので「結跏趺坐」が出来なくて、「半跏趺坐」を当初からしている。鐘の合図で三十分間の坐禅開始である。雑念妄想が何時も浮かび、「無」の境地からはほど遠い。この間若い方の坊さんは警策を持って静かに座って居る者たちの後ろを数回巡回する。その影が近づくと思わず姿勢を少しでも正すようにする。僅か30分の坐禅であるが、時に長く感じたりそれほどでもなかったと思うこともある。これで見ると、人間の時間に対する感覚は、その日の体調や気分によって随分と変わるものだと思う。

坐禅が終わると、そのままの姿勢で、今度は老僧の先導で皆が『普(ふ)勧(かん)坐禅(ざぜん)儀(ぎ)』を唱える。之は道元禅師の書かれたもので、これまた字句が難解であるが優れた文章だと思う。

この後今度は若い僧の短い講話があった。

 

「昨日の12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた大切な日で、永平寺など禅宗のお寺では「成道会(じょうどうえ)」と称して、今月1日から8日間坐禅を行います。この間睡眠も座ったままで僅か3時間だけといった厳しい修行を行います。現在はそれほど厳しいことはありませんが。今から二千五百年ほど前に、インドの一地方の王子だった方で後のお釈迦様が、その地位を捨て、妻子も捨て、二十九歳で城を出て、難行苦行を6年間も続けられたが、その後苦行を止めて菩提樹の下で瞑想にふけられ、十二月八日の日の出の前、明けの明星を眺められ、悟りを開かれた事にちなんで、仏教徒坐禅をするのです。之を成道会と申します」

 

 ほぼこのような話であった。いつもこうして坐禅を主とした全ての行事が終ると、ほとんどの参加者は別室に移動し、茶菓の提供を受けながらしばらく雑談して、散会ということになる。

私はこの文の始めに「ある決意を以て禅寺に向かった」、といささか仰々しい言葉を書いたが、実は此の茶話会の席で、立ち上がって皆さんに挨拶した。

 

「本日を以て坐禅を止めることに致しました。お寺様始め皆様方には大変御世話になりました。10年前に坐禅に参加させて貰いましたが、この間色々と学ばせて頂き本当に有り難く思います。先ほど、『十二月八日はお釈迦様が悟りを開かれた日』とお聞きしましたが、私にはこの日は太平洋戦争が勃発した忘れられない日です。此の事に関して軍医であった従兄が硫黄島で玉砕し、国のために若き命を捧げたことも忘れられません。

それはともかくとして、年が明けたら私は直ぐに87歳になります。最近体力も気力も衰えましたので、今何とか元気な内に身を引いて、人生の最後を無事に送りたく思います。ここ2年間に私の高校時代の級友が8人も次々に亡くなりました。そういったことで、最後の我が身の整理をこれから考えなければと思います。10年と云えば長いようで短い期間ですが、本当に御世話になりました」

 

最近坐禅へ行くのが幾らか負担に思っていたので、なんだか重荷を下ろしたように感じた。しかし良い体験ではあった。帰宅してよく手にする『暮らしの365日 生活歳時記』(三宝出版)を読んでみた。この本は昭和53年に初版が出ているが、私は重宝にしていてよく読む。多彩な内容で非常に役立ち便利でもある。「12月8日」に『宗教と私』と題した坂本繁二郎の文章が載っていた。実に良い文章だと思うので書き写してみた。

 

 人間の根本問題はやはり宗教でしょうね。そういう意味で私にとって絵は宗教とも言えるでしょう。何教を信じているわけでもありませんが、しいて言えば自然教―とでも言いましょうか。気持ちとしては仏教の、それも禅宗に近い感じです。禅僧には絵をかく人が多いでしょう。

自然の中で、人間以外の動物は泣きも憎みもしないで自然のままに生きて、死んでいるでしょう。人間だけですよ、悩んでマゴマゴしているのは。

絵の指向そのものには矛盾がありません。それに私は引かれて絵かきになったのです。それでも、この年になってもやっぱり死ぬのはいやですね。悟りを開いて火の中で焼け死んだ禅僧の境地が理想ですが・・・。

  絵の目的は第一に自然を、その美しさをどこまで実感できるか、第二にそれを表現すること、つまり作者自身の趣味性の高さ―それだけです。しかしそんなことにはお構いなしに自然は過去から現在、そして未来へと実在していくでしょう。自然はあまりに偉大です。

  しかしかいた絵は「私」です。「私」そのもので、自然ではありません。私は一生絵をかいてい生きたことを、しあわせに思っています。世の中に絵をかいて後悔している人はいないと思います。   『私の絵 私のこころ』より

 

 私はこの文章を読み、今こうして書き写して、坂本繁二郎の「放牧の馬」の絵を昔見たのを思い出した。朦朧とした何とも言えない安らぎを覚える絵であった。作者の人柄がやはり出ていたのだろう。清貧に甘んじ淡々として好きな絵を描いて87歳の長い人生。悠々自適の生涯を送られた老画家にあやかりたいものである。

 

  坐禅を止めて気持ちの負担がなくなったように感じはしたものの、これから自由で放縦な生活に入ってはいけないので、これまで坐禅に参加したら必ず読誦(どくじゅ)していた『修証義』を改めて読もうと思い、一冊の本を書架から取り出した。『道元禅師のことば「修証義」入門』(宝蔵館)である。著者は有福孝岳氏である。

「謹呈 山本孝夫 先生 H24・10・30 有福孝岳」と、本の見開きにある。

 私はこの本を息子を通して貰った時、有福氏が私のことを覚えていてくれたかと思うと嬉しかった。

実は私は昭和30年に大学を卒業し、県立小野田高校に赴任した。その二年目に彼は入学したので、私は彼の居た1年生のクラスで、新米教師として教壇に立ったのである。此のクラスには彼ともう一人秀才が居て、この生徒から私は何時も質問攻めに逢って、お陰で教えると言うより教わるといった状態だったことを今でも良く覚えている。有福氏は質問は全くしないで黙ってつまらない授業を我慢して聞いていたのだろう。彼は京大で西洋哲学を学び併せて禅の修業もしている。もう一人は東大にはいり、統計学を研究してその道の権威になった。

たった1年間だけ授業に出て、拙い授業をして恥をかいたことのみ記憶にあるが、「先生」と言われて汗顔の至りである。

こう言ったいきさつで、以前生半可に通読したこの本を今度はじっくり読んでみようと思い、昨日の朝から読み始めている。今朝も早く起きて「第一章 総序」の「第一節 生死の問題を明らかにする」から「第六節 今生の我が身の大切さ」を読んだ。

 諸行無常と因果応報が詳しく説かれていて、今を生きる大切さなどを改めて強く感じた。有福氏は来年には満80歳になるだろう。高杉晋作の挙兵で有名な下関の功山寺の住職として禅の精神を教えていると思うが、今や彼のほうが私にとってはよき師である。