yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

『草枕』を読んで

 数日前から『草枕』を読んでいる。初めて読んだのは何時だったか忘れたが、2年前の6月にも読んでいて、もうこれで4回は読むことになる。いくら読んでも凡人の私には、語句の解釈だけでなく文体が凝っていて漱石のこの文章はなかなか難しい。この作品を漱石は明治39年に僅か1週間で書いたと言われているが、もし書き写すとしたら、私には1週間かかるかもしれない。私にとっては難解な禅的言葉を随所に散りばめた風流というか哲学的文章に思える。今日読んだところに英詩の原文が載っていた。明治39年に最初に『新小説』という雑誌に載った時、2日後には売り切れたそうである。しかし果たして読者のうちの幾人の者が正確に理解できただろうか、またこの英詩の意味を解釈出来ただろうかと思う。初めには訳も何にもついていなかっただろうから。その後岩波書店から本になって出版されたときには「注解」があって読者は意味だけは分かるのだが。私が購入したのは昭和41年発行の『漱石全集』全16巻である。

 さてその英詩の訳は次のとおりである。

 

  わが前より消えし汝が美しき顔(かんばせ)は、遠く旅ゆくものにとり、

  かの暁の白むをもまたで、さと消えし月の光にも似て、さらに悲し。

 

 此の後数行の後、漱石はまた原文を引用している。

 

  もし死して汝を見ることかなわむとならば、

  よし、われは喜びもて、この息を絶たむ。

 

 私はこれまで原文は半ば素通りで訳を読んでいたが、今回初めて原文を真面目に読んでみた。実に素晴らしい英詩だと初めて知った。何だか衒学的になるから原文は載せないが、漱石はいとも易々と引用しているが、先にも書いたように果たして幾人の読者が原詩を理解したかと思う。

 

 この小説を読んだのがきっかけで、私は以前友人と熊本へ行き、この小説の舞台と考えられる温泉を訪れたことがある。鄙びていい温泉であった。途中山道を越えたが、山腹にはたわわにミカンがなっていた。我々は峠の茶屋と宮本武蔵が晩年籠っていたという岩窟へも行ってみた。

 

 続いてこの作品を読んでいると、漱石は羊羹が大好きだと書いている。

 

  余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。どう見ても一個の美術品だ。別段食ひたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。

 

 私はこれを読んだとき「羊羹」という字に初めて注目した。それはこの「羊羹」という2文字の中に3匹の羊がいるということだ。最初の「羊」は文句ない。次の「羹」の中の上部の「羔」は子羊の意味で、下の「美」は、大きくて立派な羊の意から、うまい、美しいの意味を表す、と辞書に説明してある。ついでに「羊」だが、これは「祥」と同じで吉祥を意味すると説明してある。

 

 もう少し先を読んでいたらまた面白いことが書いてあった。

 

  世間に茶人程勿体振った風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である。(後略)

 

 漱石の性格からして規則とか形式とかといった事は嫌いで、自由でのびのびと生きることを好んだので、茶席に入って作法に基づくようなことは苦手だったと思う。しかし『利休百話』にもあるように、茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事としるべし

 

 だと知れば、これほど茶道を目の敵にしないだろうと思う。実は私も小さい時から我が家では曽祖父の時代から茶を嗜み、特に祖父も父もお茶の稽古をし、教えてもいたので、私は茶会の前日から、掃除をさせられたり、椿の花をもらいに行かされたりして、お茶なんかなければいいと思った事がある。しかし停年退職して自由になった今、少し真面目にお茶の稽古をしていたらと思わないでもない。特に茶道と禅の関係などについての本を読むとそう感ずる。

 

 萩にいた時我が家には茶室が2間あった。そのうちの1つである仏間兼用の茶室を山口の家にも作ってもらった。しかし妻が足腰が痛いからと言って一度も使ったことがない。しかし私は毎朝読書して中休みに、茶を点てて居間で喫している。それこそ今は知人にもらった羊羹を茶菓子として服用している。「あぶく」なんて一度も思ったことはない。漱石はわざと上記の文を書いたのだろうが、抹茶を茶杓で抄くって、父のお弟子さんが作られた大きい萩焼の茶碗での一服は、私にとって最高の清涼剤ともいえる。まさに「甘露」である。

 漱石が言うこの「あぶく」だが、じっくり茶碗の中を覗いてみると、大きいのは直径1ミリくらいから小さいのは目に見えないほどだが、これらは1つ1つ皆極めて小さい泡粒である。たまたま電灯の下にあって、すべての泡に電灯の光が映し出されているのを目にして驚いた。まさに自然の作り出した美であると思った。漠然と見たら僅かに盛り上がった青い液体に過ぎないが。

 父が以前この漱石の言葉について言った事がある。私は父が漱石のこの『草枕』を読んだのかと今思うのだが、父はおよそ文学書を読んだと言ったこともないし、読んでいる姿を見たこともないからである。

  

  私は茶室で正式に抹茶を喫したことは、平成10年に萩から山口に移って以来一度もない。実は先月25日に私は次男の運転で、彼の妻と娘の4人で防府天満宮へ観梅を兼ねてお参りに行った。菅原道真は西暦845年に生れ903年2月25日に、周知のように左遷先の太宰府で亡くなっている。彼の死から今年で1120年経っている。たまたま2月25日が私の誕生日だから、私は妻とこの日かその前後に毎年参拝していた。社殿の後ろ左に回ったすぐのところに、私の曽祖父が明治の初めに寄進した句碑があるのでいつもそこへも行ってみる。句碑の両サイドに小さな紅白の梅が植えてあるが見事に花を咲かせていた。我々はそこで写真を撮った。

 

  夢想  天満る 薫を此処に 梅の華   佳兆

 

 「夢想」とは夢に神仏が示現する事。「佳兆」は曽祖父の俳号である。

 

 当日は日曜日でもあり、麗らかな春日和で、境内にある数多くの紅白の梅は満開、中でも社殿に向かって右側にある庭の紅白のしだれ梅の見事さは格別で、もの凄い人出で神社に近い駐車場は満杯だった。我々は社殿に登り、すでに待っていた数家族と一緒に御神楽を挙げてもらった。その後、丁度昼前だったので行きつけの蕎麦屋へでも行ってみようと思い、正面の石段をゆっくり降りて行った。石段の途中左手に閑静な庭があり、そこで抹茶の供応があるとの看板が出ていた。そこで立ち寄ることにした。

 

 これまでの人混みとは打って変わって、この門を潜って中に入ると、閑寂にして清楚な池庭にはまったく人気は無かった。石畳を踏んで少しいったところに平屋造りの瀟洒な建物がある。案内を請うと巫女の姿をした若い女性が出てきて座敷に通された。広くて清潔な座敷には先客が4人ばかりいただけで、他には誰もいなかった。やや縦長のこの座敷の正面に床があり、一幅の掛物と陶器の鶴首に梅が一輪活けてあるだけで、他には何一つない。部屋の両サイドは廊下でガラス障子を通して左右の庭の景色を眺めることが出来た。庭の草木は春の日差しを受けて、冬の眠りから覚めて青々と芽ぐみ始めている。室内はもとよりこの庭の掃除は大変だろうと思った。落ち葉一つもなく掃き清めてあったから。

 我々は正面に向かって左側の敷物の上に坐った。しばらくして先程の女性が平たい漆を塗った黒い木製の菓子皿に、白い落雁をのせて持ってきて銘々の前に並べた。その後今度はこれまた黒い楽焼に似た茶碗を盆にのせて運んできて、盆から茶碗を手に取って袱紗に載せ、先ず私の前に置き丁寧に礼をした。そうして順次同様の所作をした。見ていて実にすがすがしく感じた。

 全員にいきわたったので私は先ず落雁を口にし、そのあと茶碗を左の掌に載せ右手を添えて一礼して一服した。その時お茶が実によく点ててあると思った。緑色の茶の泡が目に見えないほど小さく、茶碗の中一面を領していて、見ているだけでも気持ちが良く思われた。落雁は残念ながら砂糖と米の粉の塊で感心しなかったが、もしこれが上等の羊羹だったらと今思うのである。

 喫茶の後廊下伝いに座敷の後ろの部屋へと行ってみた。池があってその上に廊下橋がかかっている。その池に大きい緋鯉や真鯉が実に悠然と泳いでいた。「まな板の上の鯉」という言葉があるが、世の中には何も変わったことがないかのように、その悠々然とした態度にはいつも感心する。

 

 漱石の「あぶく」から話が脱線したが、漱石は『草枕』を書いたことがきっかけで、朝日新聞社の社員となって紙上に作品を載せ、大学を辞めることになる。その後は執筆一筋だが、余暇には宝生流の謡の稽古をしたり、水墨画などにも関心があって自分でも描いたりしている。したがって当時の上流社会との接触は当然あっただろから、お茶の席に招待されたこともあっただろう。こうなると冗談にも「あぶく」とは言えなかったと思う。

 

 『草枕』にはこの後、この宿の主人、また近くの禅寺の住職などと主人公との風流談議が記されていて、私にとっては興味ある内容が続く。中でもここに登場する那美という若い女性は、宿の主人の娘で、いったん結婚したが出戻。彼女は常人とは違った言動をし、それが私には面白い。

 主人公の画家が湯船に浸かって陶然とした気持でいた時、彼女が浴室の戸をガラッと開けて入りかけ、中に客がいるのを知ってさっと身を翻すのであるが、その瞬時に見た女体を主人公の画家は実に鮮やかに頭に描く。漱石は数多くの作品を書いているが、ヌードの描写はこれだけである。実に素晴らしいから書き写してみよう。

 

  頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分かれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、又滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、勢の盡くるあたりから、分かれた肉が平衡を保つ為に少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵(かかと)に着く頃、平たき足が、凡ての葛藤を、二枚の蹠(あしのうら)に安々と始末する。世の中に是ほど錯雑した配合はない、是ほど統一のある配合もない。是程自然で、是程柔らかで、是程抵抗の少い、是程苦にならない輪郭は決して見出せぬ。

 

 此の後の描写もさすがだと思う。

 

  輪郭は次第に白く浮き上がる、今一歩を踏み出せば、折角の嫦娥(じやうが)(注:中国古代の伝説上の女性)が、あはれ、俗界に堕落するよと思ふ刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如くに風を起こし、莽(ぼう)と靡いた。渦巻く烟を劈(つんざ)いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑ふ女の聲が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠のく。余はがぶりと湯を呑んだ儘槽(ふね)の中に突立つ。

 驚いた波が、胸へあたる。縁(ふち)を越す湯泉(ゆ)の音がさあさあと鳴る。

 

 漱石は画家の口を通して自分の考えを次のように言っている。

 

 古代希臘の彫刻はいざ知らず、今世佛国の画家が命と頼む裸体画を見る度に、あまりに露骨な肉の美を極端迄描き尽くそうとする痕跡が、ありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持が、今迄われを苦しめてならなかった。

 

 もし漱石が今の世にいたら現在のそれこそあまりに露骨なエロの氾濫をどういうだろうか。希臘彫刻で思い出したが、私はかってフランスのルーブル美術館を訪れた際、事情をよく知っているという日本人のガイドが、要領よく我々を一室に案内してくれた。そこには我々以外観光客は誰もいなかった。そこにあったのは「ミロのビーナス」の彫像一基だけがあった。私は心行くまでこの世界的な傑作を見ることが出来たのを思い出す。

 

 時が早く経つ。初めて妻と一緒に孫を連れて、ここ防府天満宮に来たときの事をつい昨日のように思い出す。来年また来られたらといつも思いながら私は神前に額ずく。加えてここに来るたびに菅原道真の事を思う。この天満宮はわが国で最初に建てられたと言われている。全国に天満宮が幾社あるか知らないが、京都の北野天満宮大宰府天満宮と共に、ここ防府天満宮に今なお多くの参詣者があることは、如何に日本人が菅原道真を崇敬しているかの証だろう。私自身こうしてお参りして心が何だかすっきりした感じになる。私は何時も曽祖父との因縁を感じ感謝している。来年も参詣できるように願い、後1年無事で健康でありたいと思うのである。

 ここまで書いた時電話が掛かってきた。萩高校でかって私のクラスにいた教え子の3人が、近々会って食事をしながら話したいとのことである。彼らは私より17歳若いが元気の様だ。有難いことで喜んで承諾した。日記を見ると7年前にも、彼らとここ山口で食事を共にしている。

 2023・3・11 記す