yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

亡き妻を憶う                   

 

 年号が代わって令和元年となった。薫風爽やかな五月最後の日である。妻の葬儀が終わって二日目だが、まだそんなに実感が湧かない。しかし妻はもう絶対に朝起きてはこないのだ。私は何時ものように今朝も早く目が醒めた。時計を見ると丁度四時である。座敷の電灯を付けたら仮の仏壇の上から妻はじっと見つめている。大きく引き延ばした遺影はどちらの方向から見てもこちらに目を向けているが、その目は私を見て居ないで私を通り過ぎて更に遠くを見つめている様に思われる。

過日長野県の小布施へ行ったとき、福島正則を祀った古い寺の本堂の天井に、北斎の画いた「八方睨みの鳳凰図」があった。私がどちらに移動しても鳳凰の目は私を射すくめるように睨んでいた。しかし妻は違う。私はふと鴎外の「安井夫人」を思い出した。書棚から『鴎外全集 第十五巻』を取り出して開いてみた。

 

お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。

 

仏壇の遺影は数年前神戸の小磯良平美術館で、妻がベンチに腰掛けているのを私が撮ったものだと判った。確かに妻も自分の死をそれほど恐れてはいなかったように思う。兄や姉が年齢順に、しかも割と早く亡くなっていたから、「私がこんな年まで生きてこられたのは、ブラジルへ行かないで貴方と結婚したからかも知れないね。それにしても性格がこんなに違う二人がよくここまで一緒に暮らせてきたものだね。」と何回も言っていた。

確かに我々は性格が相反している。妻は神経質と云える程潔癖で几帳面である。しかしそれでいて、非常にあっさりとしていてじめじめした点は全く無く、決断力に富んでいる。家系から言って理系である。常に気品を保とうとしていた。心身共にデリケートである。したがって神経が繊細であるが身体もデリケート。言うなれば脆弱な面があってあまり丈夫ではない。しかし若いときはそれほどでもなかった。一方私はずぼらで大雑破。何でも大体で済ませてそれほど気にならない。まあ抜けていると言ったほうが良いだろう。物事を突き詰めて考えようとしない。決断力はそんなにないが、事が決まればくよくよはしない。完全に理系音痴の文系である。何処でも何時でも平気で寝られるし、朝は早く起きる。また何でも美味しく食べられる。妻はと言うと容易に寝付くことが出来ないし、朝早く起きるのは苦手である。又賞味期限が切れた食品は気にするし、魚は嫌いで刺身など絶対に口にしようとしない。私はよく云えば清濁併せ呑む。悪く云えば味噌も糞も一緒。よくもまあ此れ程違った者同士が六十年近くも共同生活を続けてこられたものだと不思議な気がする、とこれまた双方の意見であった。

このような性格の異なる者同士が何とかこの歳まで生活を共にしてこられたものだが、ここに本質的な共通点があるとすれば、それは二人とも真面目に生きようとし、人との付き合いでは和を尊び、特に妻は老若男女誰とでも会話を楽しんだ。その証拠に、結婚して生まれて初めて萩市に来たのに、同じ学年の萩高校卒業の女性の多くと知り合いになった。又平成十年に萩を去って山口市に転居した後にも、知らぬ間に多くの知人をえて毎日を楽しんでいた。

今一つ共通面を見てみると、生きている限りは前向きで少しでも自らを向上させるようにしなければと思っていたことだろう。これは妻の父が子供たちに教えた教訓である。さらに信仰心が篤く神仏を毎朝拝んでいた。政治思想は保守的で、皇室を尊び、日本人としての誇りと喜びを持っていた。この点も私と全く同じである。

 

たとえ夫婦間でもお互いに自由を尊重しなければいけないということで、妻の提案だが、数年前から所謂「家庭内別居」を始めた。三度の食事時は一緒にし、家事の手伝いなど私は積極的にして居たが、それ以外の時間は、それぞれ自分の部屋で自由に時間を使うようにしていた。だが今は私には話し相手が居なくなった。

 

食事後の楽しき語らい今はなし 冷たき杯を独り傾く

 

妻が突然亡くなってもそんなに周章狼狽する事なく、今まで通りの生活を行えるのも、考えて見れば妻が先を見越しての考えだったのかと有り難く思うのである。

例えば、萩からこちらに移転したとき宅地が二百坪ばかりあったので、同じ面積の地所を買って、その半分強に家を建て家の前後に庭を築いた。したがって半分弱の地所を最初は畑にして居たがその後駐車場に換えた。しかし妻はこれを手放したらどうかと言ったので、たしかにそうした方が経済的にも好いと思い決断した。思えば最初購入したときより大分地価は下がっていた、それでもこの決断は正しかったと思う。

 この他に家の前面、道路沿って樫の木を並び植えていたが、毎年枯れ葉が散って近所迷惑なのでこれも思いきって伐る事を妻は提案した。伐る前は淋しく感じたが今になってみるとお陰で晴れ晴れとして猫の額ほどの菜園にも陽が当たって良かったと思う。

ついでにもう一つ。玄関を入った正面の障子の紙が汚れ、破損箇所も目に付くようになった。この障子をロールカーテンにしようとこれまた妻の提案である。業者に来て貰って早速やり替えたら、障子の開け閉ての面倒が減り、その上茶席の庭がよく見えるようになってすっきりした感じになった。このように妻は絶えず先の事に気を配っていたと思う。 

今にして考えるに、終戦後妻の父が全ての人の反対を押し切ってブラジルに渡ろうとした進取の気質を幾分受け継いでいるのではないかと思う。

 

                  二

 

人生に於ける結婚ほど不思議な事は無い。数え切れないほど多くの要因が一つでも欠けていたら、お互いすれ違うだけだろう。私は一年浪人して大学に入った。「

「『お前は山本家を継ぐたった一人の子だから、畑で橙を作りながら地方の銀行にでも就職したら良い』。こういった父の考えに従順に従ったから俺は高校時代全く勉強しなかったよ。しかし緖方の伯母が父を叱って俺を大学に行かせてくれたのだよ」と言うと、

妻は何時も、「そんなのは言い逃れです。賢い人は誰が何と云っても勉強をしますよ」と言った。これには二の句が継げなかった。

それで大学を卒業したのが昭和三十年である。主任教授の岡崎虎雄先生が、旧制山口高校の教授の時、同僚だった小川五郎校長に話をして下さって、私は県立小野田高校に赴任できた。しかし小川校長はその時の異動で県立豊浦高校へ転勤された。採用試験もなく、この二人の先生の話し合いだけで私の就職は決まったのである。だから私はこの二人の先生には感謝して居る。今では考えられない就職状況である。大学では池本喬先生に一番御世話になった。夕食後しばしば一人で先生のお宅を訪ねた。先生は禅の研究をされていて、禅関係の文献を英訳して海外に紹介しておられた。私が行くといつでも勉強を止めて対応して下さった。考えてみると大変お邪魔したものである。同学年の英文科は定員が十名でその内女性は二名居た。男子の仲間とは、それも全部ではないが、言葉を交わし一緒に語り合うこともあったが、女性達とはただの一度も言葉を交わしたことはない。外の男性も大体同様だったように思うが、中にはそうでもなかったのがいたかも知れない。何しろ男女共学は中学高校の六年間経験したことがないからだ。

そう言ったわけでわたしは池本先生を訪ねる事をもっとも喜びと感じた。先生は何冊かの翻訳をされていた。「私は鈴木大拙の跡を継ぐつもりです」と話して居られ実践されていた。昭和五十二年四月、先生は禅の古典を英訳されて、欧米に紹介された業績が認められて勲三等瑞宝章を受賞された。しかし昭和五十五年三月二日に亡くなられた。私は勤めを休ませて貰って葬儀に参列し弔辞を捧げた。享年七十三だった。先生への恩義は決して忘れることが出来ない。先生が妻に会われた時、「山本君、君の奥さんはベストだよ」と言ってくださったのも、お世辞だとはいえ忘れられない。

 

就職した最初の年は夜間の定時制と昼間の授業の両方を割り当てられた。クラスの担任にはまださせてもらえなかった。その年に入学した一年生の中に三人ほど良くできる生徒がいた。その中でも田中豊君は抜群の秀才で、高校卒業後東大理科1に合格し、大学卒業後岡山大学の数学科の教授になり、我が国の統計学会で中心的存在になった。彼は高校時代授業の時によく質問したが私は即答できないで、夜遅くまで勉強して次の授業で回答したこともしばしばだった。大学で英文学を一寸かじっただけでは、高校での実際の授業には余り役立たない事を思い知らされた。田中君の外に有福君孝岳というこれも良くできる生徒がいた。彼は僧侶の子で京大の哲学科に入り、哲学者カントの研究者として名を成しているほかに、道元禅師の研究者としても有名である。今は京大教授の職を辞し、下関市長府にある古刹功山寺の住職である。功山寺といえば高杉晋作の挙兵で有名である。こうした良くできる生徒がいたことは私にとっては有難かった。「天下の英才を集めてこれを教育するは男子一生の喜びである」という言葉は孟子だったかと思うが、如何せん教える側が凡才では始まらない。更にもう一人の徳永正二郎君は九大の経済学部教授になったが早く亡くなった。田中君と徳永君は数回私の下宿に遊びに来たりしたことも今は良き思い出になる。

私はこうした良き生徒に恵まれたが、クラブ活動においても同様であった。陸上競技部の顧問になって、彼らと一緒に走ったり跳んだりしたことも忘れ難い思い出である。中でも須山和紀君は投擲の選手として、砲丸投げで全国高校ベスト4に入り、また一学年下の植田稔昭君は短距離選手として県内でトップに位置していた。須山君が『小野田高校百年史』に「クラブ活動の思い出」として次のように書いてくれている。

 

三十三年六月に下関で中国大会が開催され、我が校が総合得点で一六〇校中第三位に入賞しました。これも部員5名でやり遂げた快挙であり山口県に於いても、中国大会がはじまって以来二度目の入賞とあって、県の関係者並びに新聞等も小野田高校の健闘を大いにほめてくれました。この良い成績を一番喜んで下さったのが陸上競技部の顧問であった山本孝夫先生でありました。先生も若くて素人でありながら毎日放課後を私達と共に走り、 跳びのスポーツは体力的に大変だったと思います。そのような熱心さと深い愛情でもって、今の言葉でいうスキンシップのお陰で,不良にならず安心して全精力を陸上競技に打ち込むことが出来ました。(以下略)

 

 

                   三  

 

妻が小野田高校に入学したのは昭和三十二年で、私はその時始めてクラスの担任になった。しかし授業で教えただけで、高校在籍中妻のクラス担任になったことはない。

妻は出しゃばるような事は全く無く、いつも控えめにして居たので目立たない存在だった。結婚して意外に思ったのは結構おしゃべりな点である。

妻は「私には兄も姉も弟も妹も居るのよ」とよく言っていた。彼女は昭和十六年に今の山陽小野田市に七人兄弟の一人として生まれた。だから子供の時は賑やかな家庭であり、一人子の私とは正反対であった。しかし終戦後の農地改革で八町歩もの田圃は全部取り上げられた。その時、「『やむを得んことだ。働かないで地主だけが悠々と暮らすのはおかしい』と父は平然と言っていた」と妻は私に何回か話した。

彼女の父(寿(ひさし))は小野田高校の前身の私立興風中学校(注:この中学校創立に当たっては寿の父の良蔵が関係し、また教鞭も執っている)を卒業後旧制山口高校に進み、さらに京大の理科を卒業した。湯川博士の数年先輩になる。卒業後、地主の長男として田舎に帰って山口県内の旧制の中学校の教師になっていた。戦前までは帝国大学卒とそうではない教師との間では給料にかなりの格差があったようである。

だから戦後学制改革で皆平等になり、その上農地改革で田畑を殆ど取り上げられたので、父は忽ち生活に困った。それまでは多くの加徴米もあったからそんなに不自由ではなかった。父は学校制度の変革で定年前に自ら学校を止めてブラジルの新天地に夢を託したのである。とは言え父は百姓の経験は皆無であった。母をはじめとして家族も友人も大反対をしたが、「自分一人でも行く」との強い意志を発揮したので、結局母は折れて、子供たちを引き連れて地球の裏側まで行ったのである。母の苦労は並大抵ではなかったと考えられる。これは昭和二十九年七月のことである。

しかし運命の不思議というか妻は日本に留まった。その訳は、父の弟と母の妹が結婚していたからである。そしてこの叔父と叔母には子供がなくて、妻は叔父を大変尊敬していた。更にもう一つ大きな要因は、その時既に結婚していた年齢が八つも離れた姉が妻を非常に可愛がっていたからである。しかしその内又皆と再会出来ると思っていたと妻は言っていた。

こうして父母をはじめとして多くの兄弟姉妹と別れたのは中学二年生の時だった。神戸の港を後にして連絡船が煙を吐きながら出航した途端、別れのテープを手にして、寂しさが急にこみ上げてきた。別れの情景とその後の状況を弟(酉(みのる))に伝えた父の私信がある。貴重な資料だと思われるので主な部分を書き写してみよう。

 

第一信  二九年 八月一〇日 一七〇〇

     日本時間八月一一日 一〇〇〇頃

        ロスアンゼルス 着予定の前日     河 村   寿

        ブラジル丸にて

此の度私共渡航するに際しては、公私夫々の立場において格段の御高配を賜はり且つは御餞別、駅頭或は神戸埠頭まで御見送りを忝うし、尚船中までも祝電、御激励の無電をいただく等、まことに有難く厚く御礼申上げます。御陰を以て明日ロス港に寄る予定であります(ロス港に着いてからと思いましたけれ共郵便物〆切が迫りましたので、どうせ上陸は出来ないようですが、船から見た同港の風景など次の便になります)

天気気温只今は晴れて居ますが概して曇りでありました。日付変更の頃は霧もあり時々氣笛を鳴らしていました。然し雨は殆ど降りませんでした。氣温は船室で自家用寒暖計で見るに二二度から二五度が普通で神戸出帆頃のむし暑さはなく、最低二〇度で二朝、三朝ありました。この時浴衣がけで甲板に出ると、寒くて長くは居られません。波甚だ静かで揺れる時が二、三千屯の船で瀬戸内海を相当風のある日に航行する位です。只今ゆれの最中です。

船中生活、臨済日在途中不離家舎(筆者注:済日に臨み、途中に在りて、家舎を離れず。「済日」とは祖先や父母の祥月命日でこの日は慎んで日を送る事になって居る。)

これ亦貴重なる人生の一コマ、ベレンまで二十六、七日間一人当り十一万円大人一人一日約四千円、七人中子供二人、子供は半額。依って一日二万四千円、計六十六万円、今後は珍しくもない筈ですが?今まで嘗ってない大消費生活、味はざるべけんやです。船は新造一万一千屯、諸調度真ッサラで据え膳、悪くもありませんが、安うありません。静子は最も弱く、殆んど寝てゐます。然し一向心配はありません。碁、将棋、マージャン、柔剣道、酒道輪投げ、演芸会、映画、運動会、子供の学校、ブラジル語講座、諸会議、對火災、ボート乗り訓練等暇つぶし行事がありますが、取るに足らん、寝てもさめても酔うても醒めても一路大圏コースを進みつつあることが大事実、これを大乗、大他力とは申すなり。(筆者注:父は学生時代から結婚後もよく坐禅をして居たようである)

眺め、航路、別表御参照、(筆者注:これは省く)七月三十一日午後豆州の山々、大島近く、はるかに象徴富士に送らるるが如く、挨拶するが如くに遠望、次に房総の起伏の山々近く、はるかに右手犬吠埼かと思はれるあたり遠望、これ亦別離の一段階でありました。其の後は水と空、水又水、大いなる哉、左舷北方アリューシャンは一千粁、南方ミッドウエイは千五百粁、ハワイ約二千粁をへだて、俗眼にては見えませぬ。因にコースは潮岬沖二粁、勝浦灯台(千葉県)沖四粁、この二点を直っすぐに尚延長した線です。一度カツオの様な魚が飛び上がるのを見ました。いるかかと思はれるものも二、三度、飛び魚はしばしば、かもめは数羽から二十羽ばかりいつもついて来ます。途中でリレーするものやら、せんものやら,遊ぶが如く戯れるが如く、羽ばたきもせずに上下左右に飛び回りつつついて来る。綽々たる余裕を以て。生まれ替わればこの鳥じゃ。

闘争を知らざるものの如く、憂いを知らざるものの如し。

悠然として性に従うて長生する、楽しくぞあらんこの鳥どもは。(以下略)

 

昭和二十九年九月十三日の消印がある速達の航空便である。少し破損しているが実に几帳面な細かい字で書かれた文章は、令和元年から六十五年遡る事になるが十分読み取れた。今でこそインターネットで簡単に通信ができるが、当時はこの航空便を利用していた。

 

こうして神戸港で別れた妻は、家に帰るとそれまで賑やかに遊んでいた弟や妹が居ない。急に孤独を感じ悲嘆の涙に暮れたのである。人生は別れからなっていると言われるが、妻はその時人生の別れの悲しさを始めて体験したのである。

 

 一人だけ残りし妻の心境は 悲哀の極みと我思うなり

 

その後中学・高校へと進むが、長期の休みには必ず、新幹線のないときだから、混み合った列車に乗って、長い時間をかけて滋賀県にいる姉のもとへよく行っていた。

高校に入ってからは自覚もし、仲の良い友達も出来て寂しさもやや薄らいだようである。叔父は朝鮮から引き揚げていて、兄の家を譲り受け、和菓子を作って生活を始めていた。

「私はこんな商売をしなくて学校の教師になりたかった」と言っていたようである。従って妻はクラブ活動にも参加せず、高校から帰ると専ら叔父の手伝いをしていた。

「試験の発表があって始めて家で勉強していたのよ。だから授業中だけは真剣に聴いていたの」と言っていた。

「女性は出来るだけ早く結婚して家庭に入り、円満な家庭を築くのが一番の幸せだ」との叔父の言葉を信じて、妻は県立小野田高校を卒業し、なるべく近くの大学というので、山口大学教育学部初等科を選んだ。しかし将来小学校の教師になっても、良い縁があれば直ぐ止めて家庭の人になるつもりだった。

「女は高度な勉強して社会に出て働かなくてもなくても良い。家庭に入って良き妻や良き母になるのが一番幸せだ。」と叔父がよく言っていたのは、次のような理由によると思われる。

父の直ぐ下のこの叔父(酉(みのる))は、小野田市立興風中学校を卒業して間もなく、朝鮮でかなりの商売をしていた山本家の養子となった。彼は「新天地で活躍するのも面白いかも知れない」と思って決断したのだ。養子先で結婚した相手は、兄(寿)の旧制高校の時の友人の妹で、彼女は日本で最初に法曹関係の職に就いていたいわゆる職業婦人であった。だから保守的な考えの叔父と進歩的な彼女では、お互いの性格の違いで、終には破鏡の運命となった。

男の子が一人出来ていて叔父の手元に居たが、別れた妻がどうしても我が子と離れることができないと言って、その子をもらい受けて育てたのである。妻にとっては従弟である。彼の名前は三輪修太郎という。幼いとき妻は小野田の家で会ったのを覚えているが、修太郎さんは記憶にないと言っていた。その後二人の縁が切れて、長い間彼の存在は杳として分からなかった。

もう一人妻には同じように長い間別れていた一人の従妹がいた。彼女は父の二番目の弟(守)の子供であった。この叔父も興風中学校を卒業して広島高等師範学校に入学した。当時倍率が三十人に一人という難関校だった。授業料がいらない国立の高等学校だから秀才が目指していたのである。叔父は卒業後一時北海道の果て、稚内の中学校に勤務したことがある。山口県に帰って、彼も父の友人の妹と結婚して一人の女の子が生まれたが、生まれる前に太平洋戦争で我が子の顔を見ることなく比島で戦死した。未亡人となった彼の妻は、山口県阿武郡のむつみ村の「八千代」という酒造家へこの女の子を連れて再婚した。従って妻にとって彼女とも長い間音信不通だった。彼女は今、長崎県大村市立病院の元院長だった人の妻となり、矢野恵子という名前である。

 

大学時代、妻は山口市内の母方の親戚の家からしばらく通学した後、小野田の家から列車通学をした。二年生になったとき私と結婚を決意して大学を中退したのである。

先に述べたように、私が県立小野田高校に着任したのは昭和三十年である。最初の年は夜間の定時制で教えたが、翌々年には昼間の普通科勤務に代わった。この年に妻は入学した。私は一年から三年まで持ち上がりで英語を教えたが前述の通りクラス担任になったことはない。

結婚するにあたっての要因が多くある。その内の一つでもかけていたら結婚は成立しない。こう言ったことは前にも書いたが、私と妻の間では、むしろ結婚に反するような要因が幾つかあった。                   

 (2019・6・6)

 

 

 

妻との接点を思い出してみると、どれもおよそ結婚には否定的なものが大半を占める。妻を最初にはっきりと知ったのは、彼女が高校二年生の時だったと思う。運動会の予行練習で、妻が上下白い運動シャツ姿で四列縦隊の行進していたのを、私はテントの中から見ていた。妻は前から二番目で一番こちら側にいた。黄色い鉢巻きをして大きく手を振りながら行進して居たが特別色が白く見えた。その時点ではまだ名前は知らなかったが、その時の印象だけは鮮明に覚えている。

また校舎の二階の廊下で妻が向こうかやって来た時の事も良く覚えている。すらっと背が高くてこちらに真っ直ぐ向かってくる彼女を見て、私は何だか恥ずかしさを感じて左手の階段を降りていった。結婚後その時の情景を覚えていて、「なぜ急に降りたの。外の先生は皆私に言葉をかけて下さっていたのに」と云った。私は妻に会うのを無意識に避けた。それまで私は女性に言葉をかけるなど苦手であった。今にして思えばよく先生になれたものである。

私より一回りぐらい年上の西村という数学の教師がいた。彼は妻の担任で職員室では私の席の隣だった。修学旅行に行く前に妻が職員室に入って担任の西村さんに、「京都での宿に姉が来ますが、その時一寸外出してみいいですか」と尋ねたら、西村氏が「なんなら姉さんのところに泊まってきてもいいよ」と女性に甘いところを見せたので、傍にいた私が本気になって「そんなことはいけませんよ」と言ったのを妻は良く覚えていて、「誰が姉のところに泊まったりするものですか。いけ好かない先生だと思った」と結婚後私に言った。まだこの続きがある。  

修学旅行で京都の宿に泊まっていた時、滋賀県にいた妻の姉が予定通り訪ねてきた。

「ここは小野田高校の宿舎ですか?河村敦子という生徒は居ませんか?」

「その様な生徒は居ません」

私は全く夢中で返事をした。後で判ったが姉は私より一つ年下である。それなのに私はこのような言動に出た。その時妻が宿の階段を丁度降りてきた。

「ああ、あんただったの」

と言うなり私は詫びも言わずにその場を去った。結婚後の妻は姉の言葉をそのまま言った。

「あの時の先生は敦ちゃんが居ないと言われたのよ。宿の前に『小野田高校』と書いてあるから間違いないのに。しかし孝夫さんではなかったよ」

これらのことは今から考えると全く常識では考えられない事である。外にもまだ妻にとっては良くない思い出があるはずである。

また次のことを私も妻も良く覚えている。妻が三年生の時、放課後遅くまで文化祭の準備をクラスの者たちとして居た。帰りがけに通りかかった私は特に妻に向かって「こんなに遅くまで何をして居るか。早く帰らんか」ときつく叱った。妻はそれを聞いて直ぐ帰る仕度をした。今から考えるとあんなにひどく叱る必要はなかった。私は自分の思いとは裏腹の行動に出たのである。異常心理と言うべきか。

 

妻にとってはこうした思い出してもよくない条件にもかかわらず、なぜ結婚してくれたのか。私は不思議に思う。前述の如く、私は在学中の妻についてはあまり意識していない。ただ温和しくて目立たず、良く出来る生徒と思っていただけである。ましてや結婚相手とは全く思ってもみなかった。しかし運命のなせる事か。私は妻が卒業後も年賀状や暑中見舞いを呉れていたので、急に結婚相手に妻を思うようになり、小野田高校で御世話になった平原先生にこの事を伝えた。妻としては年賀状を出すといったようなことは、卒業に当たって担任の先生が言われたことを実行しただけだと結婚後話した。

平原先生は早速妻の家へ行って私の意向を伝えられた。その時妻は「クラスに川村さんと云う方がおられましたが、その方と間違えられたんでないでしょうか」と糺したら、「いいえ決して間違いではありません。ブラジルに行かれた河村先生のお嬢さんですから」と平原先生は答えられたそうである。

妻は私がひそかに自分の事を思ってくれているのかと思い、ブラジルの両親にこの事を伝え、承諾を得て私の所へ来てくれた。妻のその時の決心に対して私は十分応えてやっては居ないことを絶えず反省させられた。私が妻を思う気持ちの数倍の気持ちを、妻は抱いて呉れていたのを知った時、私は心からすまないと思った。前にも書いたように、大学二年で中途退学してまできてくれた妻の気持ちを私は十分に忖度したかどうか。妻はその後幾度か「勘違い結婚だった」と口にした。その都度私は弁解したが心の底では私を信用していたかどうか。しかし私は結婚後はそれほど健康でない妻に出来るだけ尽くそうと思い、その内妻も私の気持ちを汲み取るようになったと思う。

 

「結婚は忍耐と妥協」だとよく言われるが、全く環境の異なる世界で生きてきた者同士が一緒になるのはそんなに容易いことではい。お互いを思いやってこそ始めて結婚生活は上手くいくのではないかと思う。その意味において我々はやはり何らかの努力を重ねてきた。お陰で私が定年退職して、更に山口市に家移りしてからは良かったと思う。こちらに来て二十一年の歳月が流れた。孫も生まれこれから余生を楽しもうという時、妻が忽然と亡くなったのは実に残念で仕方がない。しかしこれも天の定めとして諦めざるをえない。いくら嘆き悲しんでも妻は戻らない。これが運命というものかとつくづく思う。

 

問題はこれから如何に一人暮らしの生活を送るかである。ここ数年、妻は脊椎間狭窄症の痛みに耐えず悩まされ、色々と処置を講じていたが、痛みは決して治まらなかったようである。人の痛みを真に実感することは不可能だ。歯痛に苦しむ人に代わってやることはできない。ただ我が子の悲しみを本当に実感できるのは母親だけだろう。同情は出来ても同感は無理である。菩薩が衆生の苦しみを本当に救わんとされるのを「大悲」と言うが、普通の人間にはとてもできない。その意味において私は妻の痛みに対して一種傍観の態度を保ちつつ、ただ助けの手を貸す外には何も出来なかった事をすまないと思う。

妻は良く耐えた。最後のクラス会へも出席を断ろうかと言って居たが、去年も欠席したので今年は無理にでもと思って出かけた。そこに前夜の非常識とも言える長電話など悪条件が重なったのも一つの原因であろう。妻は二度と帰らぬ身となった。

 

                         (2019.7.2)

 

 

最近は夫婦の年齢差にそれほどの開きはないが、戦前はもとより戦後も今ほどではなかったのではなかろうか。私は昭和七年生まれだから、妻とは九歳の開きがあった。後で知ったのだが、妻の両親は八つ違っていた。そういえば私の父と実母は十歳違い、継母と父とは十一歳違っていた。先日長野県へ行って佐久間象山の事蹟を訪ねたが、その時象山と彼の妻になった勝海舟の妹は二十歳以上も年が離れていた。

このような訳で我々は年齢差をあまり感じなかった。私が多少抜けたところがあったからかも知れない。

私は小野田高校に六年勤務し、その後宇部高校へ転勤したが、父が脳溢血で倒れたので僅か三年間の勤務で私は母校の県立萩高等学校に転勤した。父は家で倒れたのが幸いして一ヶ月安静していて元通り元気になった。長男の達夫は既に宇部にいるときに生まれていた。その後妻は子宮筋腫になって流産の憂き目を見た。俗に言う「ぶどう子」である。丁度これより少し前に美智子妃殿下が同じ病気で手術され、精神的にも非常に苦しみ一時ノイローゼになられたとの報道があったばかりである。妻の場合も同様で子宮を除去すれば母胎は大丈夫だからどうしようかとの産科医の話に、耳鼻科医であった従兄がそこまですることはないと言ってくれたので、思いとどまった。お陰でその後次男が生まれた。この子は長男の時に比べて比較的順調に出産した。この後もう一度妊娠したが、此の時はやはり出産が難しく言われ、やむを得ず断念せざるを得なかった。こうして我々には二人の男の子が生まれたが、出産の確率は二分の一で、妻が若かったから何とか子宝に恵まれたと思う。その後も妻は色々な病気に罹り手術なども受けたが、考えて見れば八十近い年になるまでよく生きたと思う。

子供たちが幼稚園や小学校に上がり、妻はPTAの役員などをした関係で次第に話友達も出来たようである。中でも近くの住んでおられた綿貫医院の奥さんとは、次男の子供同士が同学年で、親子とも親密な関係を今に至るまで保っている。また奥さんのご母堂が萩市の連合婦人会長として、またユネスコなどで活躍されていたので、そういった団体へも参加するようになった。一方父が定年退職後は専ら茶道(小堀遠州流)を教えていたので、妻は父の手ほどきで稽古を重ね後には父の手助けをするようにもなった。

思うに現在息子たちはいずれも教職にあって、彼らの妻も同じく学校勤務だから、いずれも多忙を極めている。これを思うと、家庭の主婦専業の妻は当時の多くの既婚女性同様に、私や子供たちが帰るまでは割と自由だったと思う。特に私の父は妻をよく可愛がったのではないかと思う。ある時父の友人が遊びに来られ、そばに妻が居たので、「お嬢さんですか?」と父に向かって問われたと、妻が語ったことがある。

 

昭和四十五年にブラジルから一時妻の父母が日本に帰り、国内の親戚や知人たちを訪ねて、最後は私どもの家でしばらく生活を共にした。そのときやはりブラジルから妻の兄が帰国し腎臓の手術のために山口大学に入院して居た。妻の父は息子の見舞いをして私の家に帰った夜中に急に体調を崩し、私が医者を迎えに行っている間に急死した。昭和四十六年十二月十六日の事である。ブラジルから妻の弟と妹が葬儀に参加するために葬儀を延ばすなどしたことなどもあった。弟はこれが為にそのまま日本に止まり、手術をした妻の兄はブラジルに帰った。しかしその兄も七十歳を前にして亡くなり、日本に止まった弟はまだ健在であるが、妻の死は彼に取って痛恨の極みだと思う。人間の運命は判らないものである。私は母校に丁度二十年勤務し、その後萩商業高校に転勤した。この学校には私の父が三十年もの長い間勤務し、また私の次男も一時勤めたことがあるので、親子三代に亘って御世話になった学校である。

 

                 四

 

人の一生には予期せぬ事がきっかけでそれまでとは違った局面が展開する。私が萩商業に転勤したのは昭和五十九年で五十二歳の時だった。はっきりとは覚えていないが、二年ばかり担任をした後、総務課の仕事をするようになり、それまで殆ど関係のなかったPTAの役員連中を知るようになった。そのお陰で教員以外の人との接触をえて、世の中の事をこれまでより広く見るようになった。これは私にとっては良い勉強になった。さらに定年退職後非常勤講師としてそのまま萩商業に三年間勤めたが、それより数年前から山口高校の通信教育のお手伝いをした事により、山口高校の通信の先生達と昼休み時間に話し合って、学校以外の話が聞かれて楽しかった。 

実はこの通信の先生連中は、平日の授業を敢えて希望しないで自分の好きな文学の道を選んでいたように思われる。その一つの表れとして彼らは『風響樹』という同人誌を発刊していた。この通信教育の先生連中は文章を書くのが好きで皆良い文章を書いていた事を私は山口市に来て初めて知った。この事についてはこの先少し書いて見よう。

 

〈この間しばらく中断〉   

                             

妻の事に話を戻そう。話は前後するが、妻が結婚前にブラジルの父に手紙を出して結婚について親の意向を尋ねたとき、「結婚はお前が良いと思えばそうしたら良い。親として何も云う事は無い。ただ結婚後も自らを高めるために日々学び努めなければいけない」といった手紙が来たと語ったことがある。

今妻が亡くなって其の言葉をこれまで以上に痛切に感じた。葬儀を終えた私は何か物足りなさを覚えて、或る日県立図書館へ行き、書架に並べてある本を見て回っていたら、井筒俊彦著『老子道徳経』という装幀のしっかりした本が目についた。

何気なく借りだして毎朝早く起きて読み始めた。原文は井筒氏が英文で書いたものを京大の先生が日本語に訳したものである。読み終えて非常に良い本だと思った。そこで井筒氏についてもっと知ろうと思い、この本を返却する際に、若松英輔という若い研究者が書いた『井筒俊彦 叡智の哲学』というこれもハードカバーの立派な本を借りて来た。

著者の若松氏は私より30歳以上も若いのに実に良く調べ研究しているのに感心した。この本によって井筒氏の略歴、思想の概要を知る事が出来た。驚くことに彼は三十カ国語をマスターしている。正に語学の天才である。言葉は「言霊」と言ってそのなかに「霊」がある。どの国の言葉にもそれが存在する。だからそれを知るために其の国の言葉で其の国の伝統的な文学歴史文化を学ばなければ本当の其の国について知る事は出来ない。確かにいずれの言葉の深奥にも共通的な『霊』が存在するのではないかと井筒氏は考えて、多言語を学んだとあった。

彼はまず学生時代からヘブライ語を学び,『コーラン』の翻訳を通してアラビア人の精神を研究したのを手始めに、,中国の『老子』、インドの釈迦の教え、空海の「真言」、芭蕉など実に過去から近代まで世界的な広さで研究して、主として英語で発表する事により、宗教・哲学の分野で世界的碩学として、我が国に於けるよりむしろ外国で有名だと私は知った。

私は今考えるに、妻はあのように急逝したが「私はこうして此の世から旅立ちましたが,貴方は残ってもっと勉強して人格を高めるようにして下さい」と言い残したように思えるのである。従ってこれから出来たら、井筒氏の主著である『意識と本質』や『フューイズムとタオイズム』など何とか読んでみたいと思っている。 

(2019・10・21)

 

話をまたもとに戻してみよう。

 

妻が最初に我が家に嫁いだとき、緖方の伯母が「『あんな父親がいますところによう来てくださいました。親の肝を焼いた者ですよ。』と全く思いもかけない言葉を早々にかけられたので、おじいちゃんがよっぽど悪い人かと一寸心配した」と私に何回か言った。私は緖方の伯母が何故嫁に来たばかりの妻にあのような言葉をかけたか不思議に思っていたが、後になっていろいろ事情が分かってある程度納得した。

父は若いとき、因循姑息ともいえる萩のような田舎を離れて、ブラジルのような広大な地で牧場を経営するような事を思ったことがある、と言ったのを思い出した。父は萩中時代、落第を二回もしておる。一回目は数学の点が足らなかったためのようである。当時如何なる教科でも四十点未満のものが一つでもあれば落第、又六十点未満の教科が三つあれば落第だった。したがって毎年十数人の落第生がいた。先の戦争前まではその通りだったと従兄も言っていた。父の頃はもっと厳格だったと思われる。父の場合二度目はやはり数学の試験の時に今度は教えてやったのが見つかり、カンニングをしたと云う事で父もその生徒も一緒に落第させられたと言っていた。

これとは関係がないと思うが、父は萩中時代剣道に夢中になり、主将を務めていたようだ。当時は剣道とは言わずに撃剣と言っていた。京都の武徳殿へ学校の代表として出場してメダルを貰っている。父はこんなことを話してくれた。

「当時岩田博蔵校長は柔道より撃剣の練習を放課後よく見に来られていた。俺は学問の方では目にとまらなかったが、撃剣で校長先生に名前を知られていたので、関西学院を出て大阪で働いて居たが、親父の具合が悪くなってどうしても帰らなければならなくなったとき、岩田校長が俺を萩商業に御世話して下さった。関西学院に入学した時、歓迎の剣道大会で優勝したら先輩が剣道部に入れと勧誘しに何度来たが、俺は今度は勉強しなければいけないと思って断った。」

父が帰郷したのは大正十四年で、その翌年に父の姉である伯母が緖方家に嫁ぎ、同年に祖父は亡くなった。

父がミッション系の関西学院に入ったのは、萩中時代に英語を習った菊池七郎というアメリカ帰りの先生の感化だと思う。私もこの先生に会ったことがあるし、手紙をもっらた事がある。その手紙に「リーダーズ・ダイジェストがすらすら読めるぐらいにならなければ駄目です」と言う事が書いてあったのを覚えている。先生の息子さんが全国英語弁論大会で優勝されたことも記憶にある。

父は大学を卒業して大阪の小林毛布株式会社に就職した。社長は中々立派な人で文学者の与謝野鉄幹、晶子夫妻とも交流があったと父は言っていた。このような萩とは凡そ比べものにならない新天地で、大正時代に青春を謳歌していた父にとっては、萩の田舎へは帰りたくなかったと思う。

一方父より二歳年上の伯母は女学校を出ると直ぐに東京で小堀遠州流の宗家で茶道の修業し、引き続いて京都の池坊で華道の資格を得た後萩に帰って祖父を手助けして茶華道を教えていた。伯母にしてみたら十三歳も年下の妹はまだ女学校を出たばかりだから、父や母の面倒を自分が見なければ誰も見てくれてはない。そうこうするうちに婚期をとっくに過ぎ、既に七十歳を越していた老いた父が病気になって、やっと弟が帰って来たのである。その後伯母は緖方家へ後妻として貰われたが、嫁いだ先は厳しい医者の夫と先妻の残した男の子、それに姑が目をまだ光らせている。このような状況を経験しているので、私の父の勝手な行動にはいささか恨みを抱いていたのだろう。私の妻への最初の言葉があのようなものであったのが何となく分かるような気がする。

 

しかし父は帰郷した後にはまだ萩中時代の仲の良い友達も萩にいて、今とは違い萩商業の先生と言うことで世間では人並み以上に思われていた。金銭的にはあまり恵まれないが、結構気楽に生活して居たと思う。父は理知的な面は欠けているが情け深い点はあったので、妻が来てくれた事を非常に喜んで自分の娘のように可愛がり、「敦子、敦子」と呼んでいた。

 父は定年退職後は祖父の後を継いで茶道を学び、今とは違って当時は若い女性の嗜みとしてお茶がまだ廃れていなかったので、熱心に教えて居た。又毎月一回「壬子会」と称して誰でも自由に話しに来てお茶を飲んで欲しいと言ったことを続けていた。そのため初めて来るような人あり、或る人が、傍にいた妻を見て「お宅のお嬢さんですか?」と父に尋ねたと妻は私に話したことがある。此の事は前にも書いた。

 一方妻はこのような状況下の我が家にいたのであるが、近所の医師鹿野家の奥さんとその娘さんの綿貫さんを知るようになり、それまでは全く知らない萩において、とくに綿貫さんとは学年が同じであり、彼女のお陰で萩高校卒の同じ学年の人達との交際の輪が広がった事は、私にとっても非常に有難い事であった。例えば彼女たちとコーラスのグループや西洋料理を習いに行ったりした。又妻は父の手ほどきでお茶の稽古を始め、そのために前から来ていた人達とも付き合いをするようになり、一緒に書道を習いに行ったり、『源氏物語』を読む会に入ったりした。またそうしたグループはよく泊まりがけの旅行にも行っていたので何かと結構楽しんだのでいたようである。また彼女たちの中には商売に関係している人達もいたので、只単に高校の教員の妻にとってはほとんど実社会との繋がりがなかったら、所謂「世間知らずの馬鹿」になって居たかも知れない。この点から考えても異なる環境や職業の人と交わることは有益だったと思う。

象牙の塔」に籠もったままの学者は、往々にして融通が利かず世間の事を殆ど知らないと言われている。そういった者は健全な人間とは云えないのだろう。漱石にしても大学教授を辞めて作家になったお陰で、或いは鴎外にしても軍隊生活だけでなく、小説家として多くの文人達と交わったために、世間知のある賢明な人と仰がれるのだろう。

 規模は全く小さいが妻もそういった点で多少世間のことを知っていたようである。お陰で私も何かと助かった。

 しかし良いことばかりではない。人間生きるに当たり紆余曲折があり、幸不幸の波は寄せては返すものだと思う。

萩に帰った当座は父と母との共同生活で食事も一緒にしていたが、長男が幼稚園に行ったり次男が生まれるとなると、年寄りとの生活は時間的な面でも無理なので、考えた末に我が家の敷地内にある畑を潰して、我々だけの住まいを建てたのである。こうしてしばらくはお互いあまり干渉することなく自由な生活をしていた。ところがある日の朝、猛烈な騒音が隣家から聞こえてきた。

 

       五

 

私が子供の時から隣家のその地は橙の木が数本ある畑であったが、水産加工業を営む隣家がそこに煎り子や小魚といった水産物を乾燥するための大きな乾燥機を取り付けたことにより、この騒音が生じたのである。大きな扇風機が巻き起こす騒音だけではない。それに伴う低周波はいくら窓を閉め切っても地中から伝わってくる。とくに夜間外部に何一つ音が聞こえないときでもかすかな震動は身に感じられた。夏になって涼風を入れようと窓を開ければ騒音と魚の臭いがする。市当局に訴えても基準以下だと言って取り合わない。準工業地区ということで結局泣き寝入りしなければならないかと思うと腹が立った。それでなくても神経過敏な妻はもう絶えられなくなって滋賀県の姉のところへ一ヶ月ばかり避難したこともある。しかし何時までもそうしては居れないから帰って来ればまた妻にとっては地獄の責め苦である。ついに或る日妻は精神に異常をきたしたように見えたので、宇部医大へ診察に連れて行った。私はついに我が家を一端出て他所に住む決心をした。父が昭和五十七年に亡くなり、母の妹が来て母と一緒に住んでくれるようになったので、その点安心して我々だけ引っ越すことができた。

幸いにも萩市内の城下町に青木周弼旧宅の管理人としてそこへ行くことができた。それまでそこには耳鼻咽喉科医師で郷土史家として有名な田中助一先生ご夫妻が住んで居られたが、お二人が老齢でここに住むのは少し不自由だということで、その後に住んで管理する人を探して居られた丁度その時だった。

我々としては騒音を逃れることが最大の目的だったので、多少の不便は問うところではないので早速転居した。五百坪の広い敷地に入るには数段の石段を上り、古いが立派な門を潜って行くと、そこに古い敷居の高い平屋と大きな土蔵のある屋敷がある。座敷とか書斎などは立派だが、台所や風呂といった生活するのに必要不可欠の設備は昔ながらのもので、特に便所は所謂雪隠というべき汲み取り式であった。隙間風は吹くし疊はかなり痛んでいる。そういった状態なので多少金をかけて手を加えた。しかしあくまでも現状を変えてはいけないという条件だからその範囲内で行った。

家の周囲は梅の木が十数本と外に橙や椿の木など多くの樹木が植えられていて周囲を土塀で囲まれ実に静寂である。門前の道を観光客がぞろぞろと往き来してもそういった人声は別に構わない。やれやれこれで一安心したと我々は喜んだ。春ともなれば鶯の囀りさえ耳にすることが出来た。しかし大小便の汲み取りには閉口した。しばらく屎尿運搬車を呼んでいたが、業者が来た時便所以外の部屋を全て閉めきってもその臭気は家全体に広がり反対に戸障子を全て開け広げたりしなければならなかった。そこで後には私がなるべく臭気が広がらないように柄杓で静かにくみ出し畑を掘って埋めることにした。

車庫がないので近くの駐車場を借りたりしたが、私の勤務校が非常に近くなったのでこの点は楽であった。妻は週に一度仲の良い女性連中にお茶を教えながら楽しんでいた。

私はお陰で青木周弼・研藏兄弟や研造の婿養子となった周蔵のことを初めて知り、いろいろと彼らが活躍した時代の事を学ぶことができた。或る日土蔵の床の下から一分銀がぎっしりと入っていた箱が二つ見つかるような事もあった。これは松陰先生の誕生地に建っている「吉田松陰金子重輔の像」の制作者である長嶺武四郎という彫刻家が亡くなって,彼が制作した石膏像を十体ほど市に寄贈されたので、その置き場として青木家の土蔵を考えたのである。ところが永年締め切っていたので床が痛んでいたので床の張り替えようとしたときこの多額の銀貨が出てきたのである。私は丁度そのとき座敷で本を読んでいて、大工さんが驚いて呼びに来たので行ってみて驚いた。それらを座敷に運んで前にここに住んで居られた田中先生と市の教育長に連絡したような事もあった。

こうして八年間我々は騒音から免れる事が出来たが、市長が代わってこの屋敷を観光客に公開することになったので、我々は致し方なくまた浜崎に在る自宅に帰ることになった。それより少し前に母が認知症になっていたので母だけ一緒に面倒を見ていた。母の妹はそのまま一人で住んでいたが、我々が帰ったので叔母には身内の方へ行って貰うことにした。

帰ればまた以前のように騒音に悩まされたので、一事母をショートステイに預けたりして、その間萩市内はもとより、山口市内に迄車を走らせて適当な土地探しにあたった。いつも妻と一緒に行動したが、山口まで何回行ったり来たりしたか分からない。

 

「吉凶は糾へる縄の如し」と言うが、浜崎の自宅を売りに出していたところが買って呉れる人が現れた。その直後、萩市が「伝統的建造物再生モデル事業」の一環として我が家を「梅屋七兵衛旧宅改修工事」に指定したので、先に決まっていた購入者の事を云ったら、市が交渉し話を付けてくれた。また有難い事に曾祖父が嘉永年間に開墾して作った梅屋敷を村谷建設が宅地造成すると言うことで買って呉れることになった。私はこの畑があるがために萩に早く帰って萩高校と萩商業に勤務したが、こうして今は我が家も畑も手放し、先祖代々住み慣れた故郷を後にして山口に居を移すことになったのも、考えて見たら騒音に悩んだ妻の犠牲があったからだと思うと、人生の幸不幸は本当に不思議だと言わざるを得ない。我々が山口吉敷の住宅地に家を建てて移り住んだのは平成十年七月二十八日であった。私はここに来るまでの長い間多くの人に御世話になったが、とりわけ曾祖父をはじめとして先祖のお陰だと心から感謝するのである。

高校生の時の妻を知って三年間、その後結婚して五十七年、合わせて六十年の長きに亘り苦楽を共にしてきたが、最後にこうして安住の地を得て、何とか幸せに暮らすことができたのも、一つには大学を中退してまでして結婚した呉れた妻のお陰だと感謝している。願わくば残り少ない人生を、このまま無事平穏に送ることができたらと願うのみである。

 

(2019・11・16)

 

   

 

                七

 

年が明けて令和二年の元旦も過ぎた。今日は一月七日である。杉村先生が頼んでいた煎り子を持ってくることになっている。明日は直美さんが来る予定だが彼女はインフルエンザにかかったと言うから治っただろうか。いずれにしてもこうして訪ねてくれる人があるのは有り難い。今朝は三時半に目が醒めた。起きて顔を洗うと直ぐ漱石の『行人』を昨日の続きから読んだ。一人の憐れな「あの女」についての話に過ぎないが、結構面白く読んだ。何と云っても漱石の人物の心理描写が読む自分を退屈させないのだ。

ここに出てくる三澤という人物が、彼の家に一時身を寄せていた出戻りの若い女性と知り合ったのだが、彼女が精神的に少し異常な点があって彼に気を寄せているようだったが亡くなった。この女性と、彼が今入院する前に若い芸者と知り合ったのだが、この芸者も具合が悪くて入院している。問題はこの女二人が美人で似たところが有ると言うのがこの話の落ちだったが、私はふと妻が一時精神的に異常をきたしたことを思い出した。妻はしっかりしていたように見えたが普通以上繊細だった。今から思えば妻は結婚後よく病気をしたし手術を受けたりもした。これを思うと、辛い面を伴った結婚生活だったと思う。しかし山口に来てからは肉体的には痛む点があっただろうが、精神的には良くなったと思う。心身の健全というかバランスの取れた状態を常に保つことは誰にとってもそんなに容易ではない。ここで妻の病気のことを思いだして書いてみることにする。

人間誰しも他人の病を我が身の如く感じることは無理だろう。私は妻が書いていた日記を読むと、痛む体についてどうしたらこの痛みが取れるかと絶えず考えていたことを改めて知り、もう少し気を配ってやれば良かったと後悔するが、それこそ「後悔先に立たず」「である。

妻は外の人には肉体の痛みについてはなるべく隠して平常を装っていた。従ってだれもが彼女と楽しく付き合っていた。しかし私には遠慮することのない言動をもってした。それでも日記を読むとなるべく心配をかけないようにと控えていた点があったのだ。

妻はじっと内に籠もって話さないと言った点は無くて、何でもよく話してくれた。また思った事をずばずば言ったりもして、私の神経に障ることもあったが、非は私にあることが多いのでやむを得ないと思うのであった。

 

 子供の時から脚が痛むことがよくあったので、母が吸い出し膏薬を脚はったり擦ったりしてくれたと何回か話した。また神経質だったので、浴衣を着て寝るとき、裾が一寸でも乱れると気になるので、起き上がっては几帳面に裾を揃えて横になるがそれでも少しでも乱れていると感じたら起き上がって同じ動作をして、祖母を困らせたとも言っていた。

しかし頭の回転が割りと良いので、直ぐ上の姉や弟と走り廻って遊んでいても、彼らに意地悪をしたとも云って居た。

中学生になり、父母をはじめ一家の者がブラジルに移住した後は、気持ちの上での寂しさはあったが身体的には別にどうこう言うこともなく、結婚するまでは健康だったと言っていた。女性はやはり何と云っても、結婚して環境の違うところでの生活が始まり、さらに子供を生むと、心身共に異常をきたすことがあると考えられる。妻の場合もそうであった。妻は結婚当初は身長が162センチ、体重が57キロもあり、色白ですらっとした普通以上の立派な体格だった。しかし長男が生まれ出るときいわゆる早期出産で「逆子」だったりもして、その後急に体重が減った。乳も良くは出ないので、私は川沿いの道を寒い冬に粉ミルクを買いに自転車を走らせたことを今思い出す。長男は折角与えたミルクを口からしばしば吹き出したりもした。そのうえ一時音に反応を示さないと云うことも有って非常に心配して、妻は睡眠もおちおち取れない日が続くような事もあって、体重が減っていった。まだ若くしての出産は確かに心身には応えたと思われる。その後妊娠したが、胎児となるべきものが所謂「ぶどう児」であったりして、心身共に大変悩んだりした。しかし次男の時は実に順調だったがその後また妊娠したがこれは諦めざるをえなかった。

今思うと妻が若かったからこうして子宝を授かったが、それでも確率は半分だった。最近の統計によると、結婚する年齢は男性が三十一歳で女性が二十九歳とあった。おまけに女性の多くは働きにでるので、子供の出生率が激減するのも当然だ。しかし国家の将来を考えたときこれは由々しき問題である。共稼ぎをしなければ家計が保たれないと云うのかも知らないが、やはり少しでも贅沢な生活をして楽しみたいという気持ちのほうが、苦労して子育てよりもよいと思っているのではないかと考えられる。この点を考えると、大学を中退してまでして来てくれた妻に私は感謝する。