yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

独逸語の教師  

 昭和26年3月私は山口大学に入学した。それまで高校時代には全く勉強せず、図書館で一度も本を借りたこともなければ、本屋で本を買うといったこともなかった。伯母が父を説得したお陰で進学することができたのだ。下宿は山口市の清水という処にあった祖母の家で世話になった。しかし朝は当時市内にあった賄屋で食べ、昼食は賄屋が用意してくれた食パンであった。当時賄屋には大学生や県庁に勤めている若い人が多く世話になっていた。夕食は大学の食堂で摂った。今でもよく覚えているが、遅くいくと味噌汁には中身は全くないような有様だった。麦飯に味噌汁の外に、冷えた鯖の煮つけと沢庵2切れといったのが定番の料理だった。まだ終戦後あまり時が経っていないので、食糧難の時代だったから、つねに空腹を覚えていた。このことを思うと、今の飽食の時代は全く隔世の感がある。太っていた人は全く見かけなかった。

 大学では同学年の多くではないが、クラブ活動で活躍するものもおれば、アルバイトに従う者もいたようだ。中にはダンスホールで踊ったといった遊ぶ学生もいた。学生運動でマイクを持って叫んでいる者もいたが、私はノンポリだった。私は土・日は時々、春夏の長期の休暇には必ず帰省して畑仕事に汗を流した。そうしなければ進学させてもらったので、父に済まないと思ったからである。卒業アルバムが作られたようだが、私は金がないから求めなかった。卒業証書だけは頂いた。

 

 下宿は二階の階段を上がると左右に部屋があった。ある日、一方の部屋に下宿していた人が「この本を読んで御覧。江藤淳という慶應の学生が書いたものです。まだ学生ですが大したものですよ」と言って、一冊の本を貸してくれた。70年も前のことで内容はすっかり忘れたが『海賊の唄』という題名だったように記憶している。

 貸してくれた人は当時大学でドイツ語を教えていて、まだ助手だったと思う。その時は名前も知らなかった。それから月日が経ち、私は故郷の萩市で教師をしていたが、定年退職後事情があって山口市に居を移した。それは今から25年前の平成10年の7月だった。実は私の長男がこの先生に大学の教養課程の時ドイツ語の初歩を習っていたので、親子して先生との不思議な縁が出来たと言える。

 

 正確には覚えてゐないが、先生が我が家に話に来られたのは、20年以上前だった。家内が日記に書いているから調べたら具体的内容が分かるだろう。それからというもの殆ど隔月と言っていいほど話に来られた。実は一昨日、令和5年9月29日に先生の葬儀が行われたので、参列したのである。そこで先生のことを思い出して何か書いてみようと思ったのである。

 

  先生は大正15年生まれだから、享年97歳である。「僕は姉と兄たちがいて一番年少で身体がひ弱でした。佐賀中学校の時軍事教練では裸になると肋骨がはっきりわかり、恥ずかしかったです。学業は良く出来て熊本の第五高等學校へは佐賀県から僕だけが入学したので新聞に出ました。

 それより前父は戦前台湾で學校の教師をして居ましたので僕は向こうで生まれたのです。だから引き揚げ者です。兄は元気で頭もよかったです。故郷の伊万里で磁器の研究などしていました。僕は五高を卒業後九州大学へ進学しそこで高橋義孝先生や国松先生に教えを受け、その後山口大学に奉職しました。」

 若い時弱い体であったのに100歳近くまで生きられたのも、考えてみたら人間の寿命は分からないものである。先生はよく「僕の兄も姉も皆長生きですが、まさか弱かった僕が一番長く生きるとは」と自分でも不思議がられていた。

 このような事を私は先生からお聞きした。私の家内が先生の奥様と歴史探訪といった趣味の講座で知り合っていたこともあり、私は先生の大学の同僚のお世話で先生と中国の山東省の泰山や孔子の生誕地などへの旅、又奥様と旧満州への旅で万里の長城などを見学したこともある。

 先生は夜型というか夜晩く2時3時ころまで勉強され、朝は10時ころまで寝て居ると言っておられた。又バラを栽培されていて、時々綺麗なバラの枝を持って来られた。又奥様の出身が鹿児島の南の島とか言われていたが、そこから送って来たと言って珍しい甘藷や柑橘を下さったこともある。

 先生は活発に活動されるタイプではなく、こうした自然と親しみ、猫を何匹か飼って居られたこともある。晩年にただ一匹の猫が先生がベッドに休んでおられると布団の中に潜り込んで来る様子を楽しそうに語っておられた。心優しい人だった。学生時代習った長男の友達が、「独逸語が欠点で単位が足らないので先生に泣きついたら合格点を貰うことが出来た。『仏の渡辺』だ」と云ったと、息子話してくれたこともある。

 先生は大学の教養課程で独逸語を教えておられたが、「ゲーテファウストの注釈」の研究を纏めて立派な本を出された。他にヘッセなどについても研究論文を書いておられる。学究専一の生涯を送られ、美術などにも興味をもっておられて博多の美術展などへも90歳過ぎても行っておられた。考えてみたら好きなことが出来た好い生涯だったのではなかろうか。

 

 我が家へ来られるときはいつも「ドイツ語の渡辺です。今からお伺いしてもいいですか」と言って電話を掛けて、それから電動自転車で来られた。我が家では家内と私が話相手で、家内は話し好きだったので居心地が良かったのかもしれない。我が家ではいつも抹茶を点てて差し上げた。一時話されてから、「晩くまでお邪魔しました」と言って立ち上がって、車庫に置いておられた自転車に乗って去って行かれた。我々が見送っているのを知って、曲がり角で片足ついて我々の方を見て片手を上げて最後の挨拶をされて姿を消された。「これからスーパーに寄って買い物をします」と言われていたが、あの老齢で大丈夫かなといつも私は思っていた。家内が亡くなってもよく来られたが、昨年は一度も来られないので心配していた矢先に、同じ大学の知り合いの先生から、「渡辺信生先生が27日に亡くなられました。葬儀は29日の11時、葬儀場は典礼会館です」などといったメールが来ていた。またその日の晩に先生のお嬢さんから直接連絡があったので葬儀に参列したのである。

 

 人生における人との出会いは考えてみたら不思議である。単なる行きずりといったケースは多くあるだろう。しかしこうして度々会って楽しく語るということは、そこに何らかの気脈の通ずるものがなければ可能ではない。この意味において先生との出会いは私並びに私の妻にとっても良き思い出であったと言える。私は後4か月で満92歳になる。家内は4年前に亡くなった。こうして知り人が次ぎから次へと鬼籍に入っていく。嘆いても仕方がない。これが人間の運命である。命のある限りはしっかりと前を向いて生きなければとつくづく思うのである。先生のご冥福を心から祈る次第である。

 

令和5年10月1日 記す