yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

村の鍛治屋

『英詩講読』(あぽろん社)の著者小川二郎氏は「英詩に対する態度」と題して、「英詩は教材として人気がないと聞いている。英語の力をつけるのに、余り役に立たないというのが理由らしい。散文は実用的だが、詩は贅沢物で、あれば結構だが、なくても差支えがないと考えられているらしい」と最初に書いている。
この本は昭和三十九年(1964)に発行されている。五十年以上も前に小川教授はこうした嘆きの言葉を口にしている。実用英語と言うか英会話を最優先と考える昨今の英語教育では、英詩を読もうということ事は正に時代に逆行した行為であるかもしれない。
こうした今の時代の流に反して、英米の詩人の作品を手にするのも、年を取って時代について行けなくなった証拠である。

数日前に私はこの本を書架から埃を払って手に取ってみた。これは小川博士が還暦の祝いに、研究室卒業生達がお金を出しあって出来たもので、内容は「第一部 近世英詩」と「第二部 現代英詩」にわかれていて、前者には英米の詩人二十八人の三十五編と、後者には五十七人の同じく英米の詩人の八十三編が選ばれている。いずれの詩にも優れた訳が付され、適切な解説も施された五百頁もの浩瀚な研究書とも言うべき物である。
私はこの貴重な本を恩師の池本喬先生から頂いたまま五十年以上もの間書架に眠らせていた。

「私は今更むきになって、英詩教材論を試みるつもりはない。詩は芸術である。芸術は鑑賞して楽しむべきものである。自分の鑑賞を人に強制すべきものではない。ただ聞いて貰うべきものである。聞きたくない人に聞いて貰うのは気の毒だ。同好の士だけお集まり下さい」との小川氏の言葉に、私はこの歳になってやっと耳を傾けることが出来たと言うべきか。
小川氏は最後に、『「生徒が詩に興味を持っていなければ、言語を教える手段とする場合を除いては、詩を扱うことは賢明でない」とする常識を何ほどか越えることが出来たかと思う。』と書いているが、私も自分自身非常識ながら、この優れた研究の成果を、私なりに楽しませてもらおうと思っている。
 
いささか前置きが長くなったが、今朝も早く目が醒めたので、早速この本をアトランダムに開いたら、「村の鍛治屋」という詩が出てきた。作者はアメリカの有名な詩人のロングフェロウである。なぜ有名かと言えば、「人生賛歌」という人口に膾炙した彼の詩があるからである。
この詩はこの本には載っていないが、原詩の最初の二つの節は次の通りである。


Psalm of Life     人生賛歌

Tell me not, in mournful numbers,      言わないでくれ、悲しい調べで、
Life is but an empty dream!          人生はただ空しい夢だと!
For the soul is dead that slumbers      眠りこける魂は死んだも同じ、
And things are not what they seem.      ものごとは外見と違うのだから。

Life is real! Life is earnest!         人生は現実だ! 人生は厳粛だ!
And the grave is not its goal.         墓場がそのゴールではない。
Dust thou art,to dust returnest,       汝塵なれば 塵に帰るべしとは
Was not spoken of the soul.          魂についての汝の教えではない。

 

ロングフェロウはこの詩で良く知られているが、これも「彼の詩が深い思想を欠き、単純さと万人向きの教訓と、流暢なリズムとを特色としていて、一般の人に分かりやすい」からであろう。彼は1807年にアメリカで生まれ、1882年(明治十五年)に亡くなっている。1835年にハーバード大学の教授になっている。此の時最初の妻を、また1861年には二度目の妻が焼死したりしていて人生の辛酸を経験している。

さてそれでは、「村の鍛治屋」を小川氏の訳で読んでみよう。

        村の鍛治屋

     枝を張った栗の木の下に
      村の鍛冶屋の店がある
     鍛冶屋は巨大な人で
      大きな筋骨逞しい手を持っている 
     またその屈強な腕の筋肉は 
      鉄製の帯のように強健だ

髪は波打ち、黒くて、長い
      顔は渋を引いたようである
     額は実直な汗にぬれている
      稼げるだけは稼ぎをし 
     世間の人をみな臆しないで見る
      誰にも負い目がないからである

      来る週も来る週も、朝から晩まで
       彼の鞴の吹く音が聞かれる
      重い大槌を拍子正しくゆっくりと  
       揮り廻す音が聞える
      夕陽が沈むと  
       役僧が村の鐘を鳴らすように規則正しく
   
      学校がえりの子供らは
       開けた戸口をのぞき込む
      火を吹く溶鉱炉を見ることや
       鞴のうなるのを聞くのが好きである
      打穀場からもみがらがとぶように
       燃えてとぶ火花をつかまえることが好きである
 

ここまで読んで私は小学校唱歌の「村の鍛治屋」を思い出した。ネットで調べてみると、
この唱歌大正元年(1912)に初めて歌われたが、昭和六十年には教科書から消えているとあった。

       村の鍛治屋

    しばしも休まず つち打つひびき
     飛び散る火花よ 走る湯玉
    ふいごの風さえ 息をもつかず
     仕事に精出す 村の鍛治屋

あるじは名高い はたらきものよ
     早起き早寝の やまい知らず
    永年きたえた 自慢の腕で
     打ち出すすきくわ 心こもる 
   
流石にこれは歌うに適したリズミカルな調子である。しかし英詩の訳となるとそうはいかない。しかし原文は強弱調で中々良い詩と思う。「翻訳者は反逆者」という言葉があるが、原文のリズムまでも訳し出すのは至難のことだろう。

 ロングフェロウの詩はこの後も続いている。

日曜に鍛冶屋は教会へ行き
自分の男の子らの間に座る 
    牧師がお祈りをしお説教をするのを彼は聞く
     自分の娘の声が
    村の合唱隊の中で歌うのを聞く
     その声が彼の心を楽しくさせる。

    その声は天国で歌っている
     娘の母の声のように響くのだ
    お墓の中でどういう風にねているやらと
     彼女のことを今一度彼の思うのも是非ないことだ
    荒らくれた固い手で
     両眼をこぼれ出る一滴の涙を彼は拭うのだ

    骨折りながら―楽しみながら―悲しみながら  
     彼は暮らしつづける 
    毎朝何か仕事が始められ
     毎夕それが仕上げられ
    何かが試みられて、何かがなされ
     一夜の憩いが獲得される

    有難う、君に感謝する、立派な友よ
     君が教えてくれる教訓に感謝する
    このように人生の燃ゆる溶鉄炉で
     われわれの運勢は作られねばならぬのだ
    このように人生の響く金床で
     各々の燃ゆる行為や思想は形づくられねばならぬのだ

  小川氏は解説で最後にこう書いている。
 
  たくましい肉体とそれに宿る誠実な勤労精神、並びに亡き妻を偲ぶやさしい心根、学校帰りの子供もしたいよる柔和な性格・・・このような鍛治屋の持つ特色が、この詩を尊く美しいものにしている。名誉欲も金銭欲もなくして誠実に努力出来る人は貴いのである。そうして子供のような可憐な者が親しみを感じて近づいてくるという生活は美しい。人間の尊さ(human dignity)とは、こうしたものを言うのである。偉大な芸術とは、human dignityを追求し表現したものを言う。
  この詩をよんで涙ぐましくならぬ人はないであろう。われわれのま心を打つこの詩はいつまでも心に残るであろう。そしてわれわれをいつまでも慰め元気づけてくれるであろう。このような詩を傑作というのである。

私が小学校に通っていた頃、町内に鍛治屋が一軒あった。学校からの帰り道、店の前に立ち止まって、鞴で風を送ると炭火が一段と真っ赤に燃え、そこから取り出された赤々と燃える鉄の塊を金床に載せ、年取った(私にはその様に見えたのだが)親爺が左手で鉄の鋏でそれを保ち、右手に持った槌で強く叩いて次第に形を整え、また炭火の中へ入れるという繰り返しの作業を倦かずに眺めたものである。飛び散る火花はたしかに美しかった。   
今はこの鍛治屋はない。跡継ぎで私とほぼ同年配の人がいたが、彼は十数年前に亡くなり、店は完全に消滅した。文部省唱歌が教科書から消えたのも無理はない。こうして昔ながらの伝統的なものが急速に姿を消して行く。桶屋もブリキ屋も同じ運命を辿っている。

 私は「鍛治」という言葉を何故「カジ」と読むのかと思って『漢和辞典』を引いてみた。すると「タンヤ」と訓読みするだけである。「鍛」は「金属をトントンと上から下へたたいて質をよくする」という意味だとある。ついでに「段」を調べたら、「ダン」は呉音で「タン」は漢音だと知った。そして「石や板をしいて、一段二段と降りるようにしたもの」とあった。一方「階段」の「階」は「一段二段とのぼる」意味であるとこれまた初めて知った。それでは何故「鍛治」を「カジ」と読むのかと、今度は『日本国語大辞典』を引いてみた。すると「鍛治」はあて字で。かなうち(金打)が「かぬち」となり、さらに「かじ」と変化した語)と説明してあった。要するに「金」と「段」を組み合わせて作った文字が「鍛」だと分かった。
 事のついでに、英語では「鍛冶屋」は「smith」また「blacksmith」である。外に「goldsmith」、「silversmith」という言葉がある。面白い事に「whitesmith」が「ブリキ職人」という意味だと知った。
やはり子供の頃、近所にブリキ職人がいた事を思い出した。 
彼は私の小学校時代の友達の父親だった。いつも黙々とブリキで雨樋などを作っていた。夏になると子供たちが水中眼鏡を作って貰うために、店先で出来上がるのを今か今かと待ち遠しく思っていたことが今でも目に浮かぶ。
「地方創生」という言葉が叫ばれている。しかし日々地方は寂れ、子供がいなくなっている。「村の鍛治屋」も死語となり、辞書にのみ残るようになるのは淋しい限りである。
 
最後に『涅槃経』に鍛冶屋の事が記してあるのを思い出した。

お釈迦様に「最期の食事」を捧げる鍛冶屋のチュンダの物語である。

チュンダは憧れのお釈迦様に食事の供養が出来ることを誇りに思って、最高の食餌を求めたが、気の毒な事にその時の茸がもとになって、お釈迦様の体調が悪化する。チュンダは自分の食事のせいでお釈迦様の死期が早まったことを嘆き、人々にも非難され、とうとう自分がお釈迦様を死なせたと我が身を責める。
このチュンダの心情と周囲の動揺を察したお釈迦様は、チュンダに向け、そして周囲の弟子達にも聞こえるように、ことさらきっぱりとこうお説きになる。

「チュンダよ、私が死んでいくのはお前のせいではない。私が死んでいくのは、私がこの世に生まれたからである」

チュンダは恐らくこの言葉を聞いて、救われた思いをしたであろう。こうして彼は歴史に名を残す「村の鍛冶屋」になった。


                       平成31年4月17日 記す