yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

子年の酒器

 主役となるべき妻が亡くなったので、正月料理もなくて淋しいものと思っていたが、長男の嫁が大晦日の昼前にやって来て、夕方まで立ち働いてお節料理を作ってくれて本当に有難かった。翌元旦には次男一家も食べるものを持って来たので、六人で令和二年の正月元旦をこれまで通りに迎える事が出来た。大人五人の中に一人だけ小学生の孫がいる。この子は子年生まれで昨年十二月十五日に満十一歳になった。皆一緒に神仏を拝んで朝食の席に着いたとき、私は一言次のような事を話した。

 

お母さんが亡くなって、今年は確かにやや淋しい感はあるが希望の年でもある。笑瑠(孫の名前)は小学校の最後の学年で来年はいよいよ中学生になる。次男は何処かへ転勤するのは間違いないなかろう。長男は永年の研究論文を本にして出版する予定。そして私も文芸社から文庫本を出版して全国の有名書店に出すことが決まった。人生は良い時もあればそうでない時もある。しかし皆が力を会わせて前向きに助け合って楽しく歩むことが大事である。

 

まあこのようなことを話してお節料理を食べていた時、誰かが来た合図がした。出てみたら正月早々に物品の配達である。ずっしりとした重いものである。室内に持ち帰り開けて見たら、長野市の中村信さんからの贈り物であった。彼から十日ばかり前にお酒を送ったと電話があったのに、いくら待っても来ないので不審に思っていた。それが元旦の朝に届いたのだ。開けて見て吃驚した。打ち出の小槌に二匹のネズミを配した薄い褐色じみた色合いの酒器である。大きな鎚の上に可愛い鼡が一匹と鎚の柄の上にもう一匹、わざわざ今年の干支にちなんでこうした焼き物を作ったのであろう。中身は後で頂戴するとして、陶器の入れ物は置物としても見栄えがすると思ったので、私は皆が帰った後に床の間の黒塗りの台の上に置いてみた。

今年は妻が亡くなったので一切のお飾りはやめることにした。例年ならお重ねの餅などをここに据えて、掛け物は松林桂月に父が画いて貰った旭日を描いた軸を掛けるのだがそれも止めた。代わりに私の母が亡くなった時父が描いた観音様の軸を掛けた。

 

包みのなかに宣伝のカタログが入っていた。「歴史と伝統を今に伝える高級酒『金紋 道潅』」とあり、醸造元は滋賀県草津の「太田酒造株式会社」である。私は太田道潅と聞いて昔習った詩吟「太田道潅と山吹の花」を思い出した。そこで此の事を息子達に一寸説明して下手な詩吟を低唱して聴かせた。

 

  

 太田道潅

 

弧(こ)鞍(あん)雨を衝(つ)いて 茅(ぼう)茨(し)を叩く

少女為に捧ぐ 花一枝        (注:捧ぐ、または、遺る)

 〈七重八重 花は咲けども 山吹きの 

実の一つだに なきぞ悲しき〉

  少女は言わず 花語らず

  将軍の心緒(しんちょ)乱れて 糸の如し

 

 太田道潅は二十四歳の時家督を譲り受け、二十六歳の時に江戸城を築いている。文武両道に秀でた武人である。しかしその域に達するまでには精進していたと云うことが、この詩にまつわる話だけでも分かる。ネットを見ると、『常山紀談』という書に此の事が書いてあるという。この詩についての解説があった。

 

  太田道潅が武蔵野に狩りに出た折り、にわか雨に遭い、家来達ともはぐれてしまった。

おりよく茅葺きの家があり、蓑を借りたいと頼んだが、出て来た少女は無言のまま山吹の枝を差し出した。少女も語らず、花も語らず、道潅は意味が分からず怪訝(けげん)に思ったまま城に帰った後、古歌の由来を聞き大いに恥じて歌道に精進した。

 

「実の一つだになきぞ悲しき」つまり山吹の花は「七重八重に咲いても実が一つもない」と云うことと「家が貧しくて貸すことのできる蓑一つだにない」ということを、この山吹の花一枝を黙って差し出して示した少女の、何とも言えない悲しい気持ちを、道潅はこの後城に帰り古歌を知って、彼の心緒つまり心の動く糸口が乱れたのである。

実話かどうかは知らないが、私はこの少女は、今は落ちぶれてはいるが、きっと慎ましやかで美しい教養のある清楚な人だろうと勝手に想像した。それにしてもこういった「掛詞」を果たして英語など外国語に翻訳できるだろうかとも思った。

 

下手な詩吟を謡った後、私は送り主の中村さんのことを皆に簡単に話した。

 

私と妻が萩を出て山口に移り住んだのは平成十年七月だった。それより前、私たちは騒音を避けて萩市内の城下町にある「青木周弼旧宅」に一時管理人として入っていた。そこに八年間世話になったが、その終わり頃だったと思うから、もうかれこれ二十五年は経っている。初夏の或る日、私が玄関の戸を開けて外に出たら、門の側に一人の中年の男性が佇んで、しげしげと古びたこの家の門構えを見ていた。私は何気なく声を掛けてみた。

「どちらからお越しですか?」

「長野から来ました。下関で建築学会がありそれが終わりましたので、折角山口県に来ましたので、まず長府の町を見まして、ついでに萩の市内を見学したところです」

「ご興味がおありなら、家の中をご案内しましょう」

こう言って私は彼を家の中に請じ入れ、座敷から庭等を見せた。当時観光客は家の外観だけしか見ることしかできなかった。今は屋内も自由に見学できる。

こうして案内を終えて私たちは別れたのである。ところがその年の暮れになって大きなリンゴ箱が届いた。送り主が中村信と書いてあるがさっぱり心当たりがない。妻にも訊いてみたが分からないと言う。しばらく考えた末、ふと先に案内した長野の人ではないかと思い、電話してみたらそうだと判明した。

此の事がきっかけとなって中村さんとの親しい交流が始まった。彼は長野市役所の建築課に勤務していて、平成十年(1998)の長野オリンピックの競技場建設にも関与していていると言っていた。従ってオリンピック見学に是非来てくれと言ってくれた。その年にわれわれは前にも言ったように山口市に移ったので、その時はとてもいける状態ではなかったので丁重に断った。

 

オリンピックが終わり、われわれも山口での生活に慣れたので、度重なる中村さんからの要請に応えて、妻と二人で平成十一年九月長野市へ行くことにした。あれから随分時が経ったので、正確な日程と見学地は、旅から帰って中村さんが送って呉れた立派な写真集『北信濃の旅』を見ることによって思い出すことができた。彼は写真が趣味だと言っていただけあって、編集して送って呉れたこのアルバムは実に立派な物である。私は今それを開いてみて、今さらながら彼の親切には頭が下がる思いである。

僅か二十年、されど二十年というべきか、あの頃はまだわれわれは元気だった。写真に写った妻の姿も晴れ晴れとしている。老いを感ずる点は微塵もない。こうして年月が経ち、過去の写真を取りだしてみると、生老病死をまざまざと知らされる。

 

今年五月初旬に、私はかっての同僚二人と信州を訪れた。妻と訪ねた時から丁度二十年の歳月が流れた。今回も中村さんに大変御世話になり、同僚の二人は大変感謝感激していた。旅から帰って間もなく妻が不帰の客となった。五月二十九日に葬儀を無事に済ませた一週間後の六月五日の昼過ぎに思わぬ電話が掛かってきた。

「もしもし、長野の中村です。今新山口駅に居ます。これからタクシーでお宅にお伺いします」

私は一瞬耳を疑った。その内タクシーが到着した。彼はわざわざ信州の遠くから列車を乗り継いで山口まで来て弔問してくれたのである。

「折角来られたのですから山口に一泊されては如何ですか」

「いや、タクシーを待たせております。直ぐまた長野へ帰ります。」

私はこの言葉を聞いて、何とも言えない信義の厚い、人情の深い人だと改めて思い、心から礼を述べて彼の帰るのを見送った。

信州長野に生まれ、「信」と云う名を持った中村信氏は、まさしく「名は体を表す」という言葉を実感させる人だ。

 

私はじっくり読もうと思う本は、朝早く起きて朝食の仕度を始めるまでの時間をあてている。大体朝の五時から八時前までである。今朝も西谷啓治氏の『寒山詩』を読んでいたら、次ぎに様な文章があった。

 

 梁の武帝は、達磨大師を見たが見ず、逢ったが遇はなかったと嘆いてゐる。本當に遇う事は本當に見ることであり、本當に見ることは本當に遇うことである。つまり、「まみえる」ことである。これは佛祖の場合だが、人間の場合でも、どんなに多くの人に逢っても、人に遇うことは稀である。(後略)

(『寒山詩』 西谷啓治 筑摩書房

 

西谷氏は西田幾多郎に本當に遇ったのだと私は考える。彼は文字通り西田氏に「まみえ」て、彼の後を継いで京大教授として優れた業績を残したのだ。

しかし多くの人は、徒に年を重ねて老齢を迎える。私の場合も同様に九十年近い歳月が夢の様に過ぎ去った。この間、多くの人に遇いまた別れたが、記憶に残り懐かしく思い出すことにできる人は少ない。その数少ない人の中に中村さんのような人が数えられる。こうした人にめぐり遇えたということは、取るにも足らない人生においても、実に有難い事だとつくづく思うのである。 

 (2020・1・5 記す)