yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

最初の記憶

 戦前までは中学校の教師の家では、書生として遠隔地から来た学生をよく下宿させていた。学校には寄宿舎はあったが、そこに入るのを嫌うというか、上下関係の厳しい環境に適さない者にとって、今でいう適当な下宿屋が萩にはなかったので、そういった学生を学校の教師は預かることがあった。 

我が家にもそういった意味で学生の面倒を見ていて、二人ばかりの学生が居たようである。とは言っても私自身はそのことを直接知っているわけではない。

実は今から二十年ばかり前、萩から山口に居を移した時、樋口さんと云う方と話をする機会があった。彼は私の従兄の児玉さんと萩商業が同期だった。そのような関係で児玉さんが私を樋口さんに紹介してくれた。

樋口さんは萩近郷ではなくて小郡の出身であった。家が商売をしているために、萩商業を選んだのである。当時まだ防府にも宇部にも県立の商業学校はなかったからである。そして前述のような事情で我が家に下宿して居たのだ。

彼は萩商業を卒業後さらに歯科医の免許を取得して千葉県で開業して、結構上手くいって小金も貯めたような口ぶりだった。私が会ったときはもう歯科医は止めて山口市に土地を買い求め、隠居生活を楽しんでいた。時々山口から自家用車を運転して、萩の海岸へ磯釣りに出かけていると言っていた。

ある日彼は山口市内の温泉宿に私を招いてくれて私は彼とその宿に一泊した。その時彼はこんな話をした。

「先生は奥さんが亡くなられた後、座敷で一生懸命観音様の繪を画いておられた。何枚も画いて、『おい、樋口君、どれが一番よく画けていると思うか?』と問われましたよ」

私は此の事を初めて知った。今私は妻が亡くなった後、父が画いた中でただ一つ残っている観音菩薩を描いた掛け物を、床の間に掛けている。私は妻が亡くなる前までは、四季折々に応じた掛け物を取りだしては掛け替えて居たが、今もずっと同じ軸を掛けている。どうも外の軸を掛ける気がしないからである。

私の母は私を産んで九ヶ月後に二十五歳で亡くなった。父との結婚生活は非常に短いものであった。当時は殆どの結婚は見合い結婚である。従ってお互い同士あまり知らない状態で一緒になる。お互いの個性とういか意地が出ない状態で結ばれる。しかし結婚生活が長く続くうちにお互いが個性を発揮して摩擦が生ずることが往々にして起こるのではなかろうか。 

漱石の最晩年の名作『明暗』を読んでいたら、次の文章があった。

 

男が女を得て成佛する通りに、女も男を得て成佛する。然しそれは結婚前の善男善女に限られた眞理である。一度(ひとたび)夫婦関係が成立するや否や、眞理は急に寝返りを打って、 

今迄とは正反對の事實を我々の眼の前に突き付ける。即ち男は女から離れなければ成佛出来なくなる。女も男から離れなければ成佛し悪(にく)くなる。今迄の牽引力が忽ち反撥力に變化する。さうして、昔から云ひ習はして来た通り、男はやっぱり男同士、女は何うしても女同士といふ諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の實を擧げるのは、やがて来(きた)るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。・・・

 

漱石の作品を読み、また彼の伝記などを見てみると、漱石の夫婦関係は陰陽和合とはどうも言えなくて、微妙なものであったと思われる。「成佛」と彼は書いているが、これは「死んで佛に成る」のではなくて、「煩悩を断じて悟りを開く」ことを意味するのだが、「結婚前の善男善女に限られた真理」と云って居るように確かに極めて稀なケースであろう。

漱石は数えの五十歳で亡くなっている。そして彼は死ぬ前には「成佛」していたと私は思う。最晩年の彼の「漢詩」を読むとその様に窺われる。結局漱石は彼なりに悟りの境地に達したのではなかろうか。それも「男は男同士」というのではなく、自然との合一という意味のような気が私にはする。

 

話が逸れてしまったが、私の父は妻に死なれて後添えを貰った。つまり私にとって継母が来たのは私が小学四年の時だったと思う。父は私の実母のことは殆ど口にしなかったが、早く死に別れたので恐らく良い印象を抱いていたのではなかろうか。晩年よく言っていたのは次の言葉だった。

「俺は何時死んでもどうとも思わない。別に悲しみも惜しいと思うこともない。ただこの美しい自然と別れるのが何とも淋しい気がする」

よくこのように言っていた父は、お茶を好み、死ぬ前の日まで、翌日のお茶の稽古の準備していたのだが、急に具合が悪くなってその日の夜中に急死した。以前から動脈瘤の爆弾を抱えていてそれが破裂したため、どう仕様もなかったのである。安らかに眠るが如く我が家で亡くなった。享年八十四の良い往生だった。

 

またまた脱線したが、先に述べた樋口さんは以前私にこんな事も言った。

「山本さん。私はあんたがお母さんを亡くしたので、不憫に思ってよく住吉神社の裏から下りて砂浜へ連れて行き、また色々な事を教えて上げたよ。まだ小学校に上がる前で。アイウエオなど教えたら貴方は良く覚えたよ。」

このような話を私は始めて耳にした。全く思いも掛けない事だった。それから少しして彼は私に立派な置き時計をくれた。今もそれは我が家の座敷の違い棚の上で、時を知らせてくれている。その後数年して彼は山口市で亡くなった。八十歳を少し過ぎた位だったと思う。身寄りが少ないとかで、彼の葬儀に参列して貰いたいと奥さんに言われた。彼女とはその後は接しては居ない。

このようなことは自分では記憶も意識しないが、私は確かに彼の世話になったのだ。こうした体験は誰にもあることだろう。人は誰も一人では生きていけない。特に幼いときは多くの人の世話になるが、そのことを記憶していないことが多いのではなかろうか。私が覚えていることで最も古いことを思い出して見ると、次のことである。

その前になぜ今更このような事を書くかというと、漱石の作品を読むと必ず女中が出てくる。漱石は教師をしているときは書生を家に置いて面倒を見ていた。また一家を構えた後は必ず女中を置いていた。今で言うお手伝いさんで、我が家にもその様な若いお手伝いさんが居て、誰もが「姉(ねえ)や」と呼んでいた。此の姉やについての思い出が私にとっては一番古い事である。

 

古い写真帳に一枚の名刺の大きさの写真が貼ってある。この写真に小学に上がる前だと思うが夏の服装をして白い帽子をかぶった私が立っていて、その側に着物姿の若い女性が椅子に畏まって座ったものである。この女性が姉やである。彼女は私の事を「坊ちゃん」と呼んでいたが、この写真を見た父や母は「まるで、姉やの方が、弟かなんかを従えているようだね」と笑っていた。

この写真については全く憶えがないが、私は幼いとき体が弱くてよく病院へ行っていた。その時、姉やがついてきてくれた。その時の帰りにでも写真屋へ行って撮ったのだろう。その時かどうかは知らないが、少し大回りして本屋へ寄って一冊の絵本を買って呉れた。当時萩には「伊藤写真館」というのが一番有名だった。また本屋は「しらがね」と「藤川」の二店しかなかった。何れの本屋で買ったかは覚えていないが、その本の中に、トラックが暴走して人々が逃げ惑う繪があった。私は人々が慌てふためいて逃げる様子を見て、心配した事を覚えている。またこんな事もあった。

 

彼女は山陰本線東萩駅から三つ目の木与という駅で降りた処、当時でも人口の非常に少ない半農半漁の寒村の出身だった。彼女は私を随分可愛がってくれていたと思う。或る日父の許可を得て私を自分の実家へ連れて行ってくれた。その時の事を私は鮮明に覚えている。彼女の家は松林に囲まれた所にあって、家のすぐ裏の松林の向こうにはきれいな砂浜が広がり、日本海から吹き寄せる潮風、また打ち寄せる白い波を、私はその後萩から宇田へ列車で通る度に懐かしく思い出した。此処を「宇久の浜」言っていたように記憶している。何か謂われがあるような名称である。

 

我は海の子 白波の 騒ぐ磯辺の 松原に

煙棚引く 苫屋こそ 我が懐かしき 住み家なり

 

この文部省唱歌がぴったり合うような家だった。家に入ると板敷きには茶褐色の澀紙が敷いてあって、艶があって何だかごわごわした感じだった。そのとき私へのご馳走といって、うどんを食べさせてくれた。簡単な器具を使って、先ずうどん粉をよく捏ねて、其の器具の中に押し込んで、それに付属した取っ手を回すと、捏ねたうどん粉が平たくなって出て来た。今度はそれをまた入れると細い紐状に成って出て来た。私は初めてこのようなものを見たからだろう、今でもその時の情景が頭に浮かぶほどである。その後大きな茶碗で食べたろうがその記憶はない。

その日か翌日だったか、近くの小川へ行って、シジミ貝か小魚を捕りに連れて行ってくれた。その時山陰線の列車がすぐ側を通過した。見上げるとその時列車のデッキから父が手を振る姿がはっきり見えた。父は木与駅の隣の駅である宇田へ行っての帰りで、我々がその時分居るのではなかろうかと予想してデッキに立っていたのだと思う。

宇田には父の姉が嫁いでいて、私にとっては伯母であるが、その主人は病院を経営していた。宇田はこれまた木与に優るとも劣らない寒村で、宇田郷村と言っていた。私は長期の休みには必ず伯母の家へ行っていた。このことに関しては、伯父や伯母を始めとして従兄たちや看護婦さんの事を、私家版の『杏林の坂道』と、この度出版した『硫黄島の奇跡―白骨遺体に巻かれたゲートル』で書いた。しかし今考えて見ると、宇田へしばしば行って従兄達と遊び回った記憶よりこの木与での記憶の方が古い。

彼女の名前を正確には知らない。「小田」だったかと思う。彼女は当時二十歳前だったのではなかろうか。私が中学校に入った時にはもういなかった。その後彼女は現在の北九州市小倉にお嫁に行ってそこから手紙を寄こしている。このように、私は今や鬼籍に入って居るであろう多くの人の御世話になってこの年まで生きてきたと思うと、何とも不思議な縁というか、懐かしく思うと同時に、感謝の念を心ひそかに抱くのである。

                     

2020・3・13 記す