yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

花梨に憶う    

 萩市在住で今も親しくしている高校時代の同期生は2人しかいない。私が萩から山口に移る前には10数人いたが次々と亡くなった。此の2人は奥さんに先立たれて私と同じ様ように1人で暮らしている。そのうちの1人が電話を掛けてきて、「花梨を植木鉢に植えているが、枝が良く伸びるのでその都度切っていた。ところが今年小さな実が2つなった。花梨酒を作ってみようと思うが何か知っているか」と問うた。彼は多くの種類の草花や木を植木鉢で育てていて、毎日水をやるのが日課だと言っていた。 

 我が家に大きくなった花梨の木があって毎年いくつもの実がなる。時々それで花梨酒を造るので簡単な手筈を言って答えた。このことがきっかけで、私はこの我が家に植えている花梨について、忘れがたい事に思いを馳せた。早速その時のことを確認するために、一冊のアルバムを書棚から取り出して見た。このアルバムは長野市在住の中村信という人が、編集して『北信濃の旅』と命名して、私と妻が案内された各地の写真とその説明、さらに旅行の細かい日程など実に几帳面に書いて送ってくれたものである。

 私が生まれ育った萩市にあった家は、住吉神社から目と鼻の先、海岸近くに今もあって、復元されて市の管理下に置かれている。私はかっての我が家の敷地内、母屋の側にささやかな住居を建て、私は学校へ通い妻は家で家事に携わっていた。ところがそれから数年後のある日の朝、水産加工を生業とする隣家から乾燥機による騒音が突然聞こえてきた。到底耐え難い音と振動であるので、隣家へは勿論市当局へも訴えたが、準工業地域で規制内ということで、私と妻は止むを得ず市内の城下街にある青木周弼旧宅に居を移した。

 此の旧宅は安政4年に建てられたのでかなり古いものであった。畳を張り替えたり、戸障子の具合を修正したりと、かなりの費用を要して住むことにしたが、何といっても500坪に及ぶ敷地内にあるこの家は静かであって、騒音を逃れることが出来た点では申し分のない環境だった。我々は結局この家の管理人という名目で8年間世話になった。ここが緒方洪庵と並び称される名医の青木周弼、その息子で明治天皇御典医だったが不慮の死を遂げた青木研蔵、又その養子で山縣有朋の内閣の時外務大臣だった青木周蔵といった人物が一時生活していた家だと知ったこと、さらに言えばこの周蔵がドイツ公使だった時、森鴎外がドイツに留学して、早々に彼に会った時の事など書いているが、私には思いもかけない勉強になった思い出の家である。

 

 晩秋のある日、私が勝手口から門の方へ行こうとしたら、そこに1人の男性が立っていて門の内外をじっと見ていた。この門はかなり立派で観光客はよくこの前で写真を撮ったりしている。私は思わず声をかけた。そうするとその人はこう言った。

 「私は長野市役所に勤めています。下関で建築会議がありましたので、折角の機会だと思い、城下町の長府をまず見て今度は萩市に来たのです」

 こう言われたので、「それでは家の中をご案内しましょう。どうぞお入りになって御覧になってください」こう言って私は初対面の人を屋内に案内した。実はその当時は屋内へは観光客が入れないようになっていたので、そのこともあって、私と家内はこの家の管理人として入っていたのである。

 こうしたことがあって、それから2か月くらいして大きなリンゴ箱が届いた。私は「中村信」という名を知らないし、長野県からといっても全く心当たりがないので、一体誰がこの大きなリンゴ箱を送ってくれたのかと不審に思った。妻と話しているうちに、ふとあの時案内した人かなと思って電話したら、彼だと分かった。これが縁で中村氏との親交が今に至るまで続いている。

 その時、電話口で中村氏は「2年後の冬季長野オリンピックの主会場であるエム・ウエーブの建設に自分も関与しているので、案内するからぜひ来てください」と誘ってくれたが、その時は母が認知症で臥せていたし、数日でも家を離れることはとても無理だったので断った。そして1999年即ち平成11年に彼の招きに応じることが出来たのである。

 

 たった一度遭ったことから端を発し、今日に至るまで数回彼に会い今日に至っている。妻が亡くなったのが2019年5月27日だったが、数日後に、「長野の中村です。今新山口の駅に来ています。これからお伺いしようと思いますがいいでしょうか。」こう言って彼は数十分後に我が家に来た。仏前にお供え物をして挨拶されたので、「折角遠路お出でになったのですから、どうぞごゆっくりしてください」と言ったら、「いやタクシーを玄関前に待たしてています。これから直ぐ帰ります」

 私はこの言葉に生涯忘れることが出来ない感銘を受けた。それまで私も家内も中村氏の好意には感謝の言葉もない程であるが、このことで私は中村氏の真の人間性を知った。まさに名は体を表すというか、信の人だとつくづく思った。

 実はその年の晩秋、私はかっての同僚と3人でまた長野県を訪れた。その時も中村氏は実によく世話をしてくれて、同僚の2人は感激したと口々に言っていた。人生における出会いの不思議さ有難さをつくづく思うのである。

 

 私と妻が長野県松代市の旧横田家住宅の庭で、花梨の実が多くついていた見事な古木を目にした忘れがたい年月日を、このアルバムで正確に確かめたのである。中村氏が撮ってくれた写真を見ると、妻が片手を伸ばして大きな花梨の実に触っていて、その傍で私が見ている様子が写っていた。そこで妻が日記に何か具体的に書いているかと調べたら、妻の日記は2004年からつけ始めていて記載がない。そこで私の日記を見ると、平成11年(1999)9月28日(火曜日)天気は快晴。以下次のように書いていた。

 

  八時半中村氏迎えに来る。善光寺に参る。宏大な造りなり。東山魁夷美術館見物。雨宮渡趾で頼山陽詩碑、佐久間象山演砲詩碑、正村寺で松井須磨子歌碑(カチューシャ)を見て、佐久間象山神社に参る。高義亭の二階で高杉晋作久坂玄瑞の対談したところに坐って往時を偲ぶ。横田喜三郎、 正俊両最高裁長官の旧宅(茅葺家屋・文化財)を見て、駅前中華料理店で中華料理を馳走になる。予定通り無事十時帰宅。

 

 なおついでに言うと、中村氏は我々が帰った後、わざわざあの有名な頼山陽詩碑(鞭聲粛々夜渡河)と佐久間象山演砲詩碑の拓本を送ってくれた。大きな和紙に石摺りした見事なものである。此の両人の達筆には目を見張るものがある。

 さて、ここで私が初めて目にした花梨についての思い出を少し書いてみよう。私はひょっとしたらこの旧横田家のことがネットに出ているのではないかと見てみた。そうすると次のような記事と写真が載っていた。

 

 『旧横田家住宅』

  秀才を多く生んだ旧松代藩士横田家、旧横田家は禄高150石の中級武士で郡奉行をつとめた家。

 最後の甚五右衛門は表御用人。横田家から出た秀雄は大審院長、その子正俊は最高裁長官。秀雄の弟謙次郎(小松)は鉄道大臣、姉の和田英は『富岡日記』の著者として有名になるなど、秀才を多く生んだ家。

 

 私はついでに『富岡日記』をやはりネットで見たら、「明治時代、世界遺産の富岡製紙工場で創業当初に女工として働き、製糸場の様子を記した有名な日記。」と載っていた。なお私の日記に「横田喜三郎」と書いているが、この旧横田家の人物とは姻戚関係がないようだ。

 私の日記にも書いていたように、中村氏に案内された旅の最終日、それも殆ど最期に旧横田家に行ったとき、立派な茅葺の家とそこの庭にあった花梨の木の見事さに私は思わず息をのんだ。太くて大きな幹から枝分かれしたこれまた大きい枝が横に長く伸びていて、全体が実に立派な貫禄のある姿をしていた。まだ沢山葉のある枝先に鈴なりになった花梨の実の数々。妻も私も生れて初めて見る花梨の木でる。薄緑の色をした堅くて光沢のある実、それはリンゴやナシと同じくらいの大きさであるが、左右対称の均整の取れた果実ではないが、不思議に人を惹きつける形をしていた。床の置物にしてもいいような姿である。

 旅から帰ってその時の印象が忘れられなかったので、我が家を建てた時の石光造園に頼んでこの花梨の苗木を、居間からガラス越しに見えるところに植えてもらったのである。その時から20年数年になる。今年も春に小さくて可愛いピンク色の花が咲き、今は梢近くに10数個の実がついている。これもネットで見ると以下のように説明してあった。

 

  春に咲く薄紅色の花や、香りのよい大きな果実、個性のある幹肌を愛でられる庭木。語呂合わせに「金は貸すが借りない」つまり「カリン」の縁起を担ぎ、長野県の北地域で商売繁盛に良いとされて植えてある。

  樹皮は剥がれ落ちて独特の幹肌となるが花は5弁で可憐である。果実はナシ状で晩秋に黄色に熟れてよい香りがする。果実酒や砂糖漬けにし咳止めに効果がある。

 

 萩の友人の電話でこうした事を思い出し、台所の下の棚から果実酒に漬けたガラス瓶を出してみた。すっかり忘れていたが2022・10・22と蓋にマジックで書いてある。丁度1年前に私が一連の作業でこの花梨の果実酒を作っていたのだが、すっかり忘れていた。輪切りにしてさらに4ッつくらいの大きさにした花梨の実が多く浮かんでいた。そして澄み切っていた液体が琥珀色に変わっていた。私は小さな盃に数滴注ぎ、氷のかけらを入れて口に持って行った。何とも言えない良い香りが鼻を突き、えも言えぬほどの軽やかな酔い心地にさせてくれた。時々晩酌に飲むビールや酒、又焼酎の湯割りとは違って、ほんの数滴でも何とも云えないほろ酔い加減にさせてくれるような感じだった。

 私は「養命酒」を何十年にもわたって愛飲して来た。これが健康の基だと今も信じている。この薬用の酒と花梨酒は実によく似た琥珀の色である。養命酒は年々値段が上がって来た。これからは花梨酒でもってその代りにしても良いなと思わないでもない。これで又一つ楽しみが出来た。

 実は先日、西洋朝顔が、苗を植えて殆ど5カ月ぶりにはじめて空色の見事な花を咲かせ、作日は道路側に15の開花。今朝起きて数えてみたら20、壁の内側に10、合計して丁度30も花を咲かせていた。私は実に気分が良かった。やはり自然の草木に関するものは心を楽しませてくれる。昨年は雨蛙が3カ月もの長い間、勝手口の所へよく来てくれて有難かったが、今年はまた違った楽しみが得られ、一人暮らしもそれなりに救いがあるものだと思うのである。最後に私は昔の中国の有名な故事を思い出した。「塞翁馬」である。「人間万事塞翁が馬」とも言われているが、『広辞苑』にこう説明してある。

 

 [淮南子(人間訓)]塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならずに命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測できない事のたとえ。

                           2023・10・18 記す

 

  西洋の梨によく似た花梨の実かぶりついても歯も立てられず

 

  青空をバックに映える花梨の実堅く艶々輝きにけり

 

  花梨なる小さき花の実となれば青入道の石頭かな

 

 

  花梨酒の猪口一杯の香りかな

 

  鮫皮の樹肌に咲ける花梨かな

 

  つるつると禿頭なる花梨の実

 

  花梨酒の琥珀の色に輝けり

 

  花梨酒のせめて芳香嗅いでみよ