yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

山陰の旅

 亡き妻の姪(めい)夫妻が是非墓参りをしたいと数日前に電話してきた。今月十一日の日曜日十時頃新山口駅に着くのに合わせて、下関にいる私の長男が駅に迎えに行き、我が家に一寸寄った後、私が加わり四人一緒に萩へ行った。墓参りを済ませた帰りに、松陰神社と松陰誕生地に立ち寄り、ついでに村田蒲鉾店で丁度売り出しの品があったので、それを送って貰う手続きをした。

誕生地の近くにある墓地には、松陰と父の杉百之助の墓など杉家の墓と、東行(とうぎょう)・高杉晋作の墓など、松陰と関係のある者の墓も多くある。案内並びに世話をしていた一人の老人が話かけてきた。

萩市政教分離とか言って殆ど援助しないから、自分がこうして世話をして居るが、自分が止めたら後を嗣ぐ人はいないだろう。ここにあるお墓の全てに樒(しきみ)を上げるには四十八束も必要です」と言っていた。

さらにその人は大きく拡大した写真を取りだして説明を続けた。

「あなた方は東光寺へお参りに行かれましたか。これは東光寺の墓所の写真です。三つの大事な事がこの中にありますが分かりますか? 先ずここはお寺ですが大きな鳥居があります。神仏混淆を示すものです。次ぎに毛利家の代々の殿様の墓と奥方の墓が並んでいますが、大きさは全く同じです。これは男女の差別がないことを意味します。当時としては考えられない事です。最後に沢山の石灯籠が並んでいます。これは中国の「兵馬俑(へいばよう)」の武士団のように殿様を死後も守っているということです。兵馬俑が発見される前からこのような事が毛利藩では行われて居たのです」

こう云って見せて呉れた写真には、確かにこれらの燈篭は数多くの武士たちが整然と屹立しているように見えた。我々は時間の都合で東光寺へは行かなかったが、萩市においては東光寺やこの松陰誕生地は、観光地として松陰神社と共に大切な所と思われるが、市当局は財政難で手が回らないのだろう。その日は日曜日でもあり、またコロナ感染の制限がやや緩和(かんわ)されたので、松陰神社には観光をかねた参詣者を多く見かけたが、この誕生地には見物人は少なく閑散としていた。ここに建てられている日展審査員であった長嶺武四郎氏の松陰先生と金子重輔銅像は立派であり、ここから見える萩市街の一部と、指月山を左にした日本海の景色はいつ来て見ても懐かしいものだった。

 

翌日十二日は早朝七時に家を出た。まず長門市の「元乃(もとの)隅(すみ)稲荷神社」を目指して昨日同様四人が息子の運転する車に同乗した。やや曇天で山道を通過したとき小さな雨が降ったのだろう、車のワイパーが左右に動いたが、目的地に着いたときには日本海の沖には青い空が覗いたので天気は良くなるだろうと思った。

十年ばかり前にこの地に住む友人の案内で家内と一緒に来た時には、砂利を敷いた狭い場所に車を停車して、帰りはまたもと来た道を引き返したのを覚えている。しかし今回は数十台の車が駐車できるような立派な駐車場が数カ所新設されていた。我々が車を止めた所は一番便利な場所だったので、其処には料金所が設置してあり、入口と出口が別になっているのには驚いた。

数年前に一人の外人の観光客だったと思うが、この場所が日本で十指に数えられる観光のスポットとして宣伝したと聞いた。そのお蔭で急に脚光を浴びて一躍有名になり、全国から観光客が押し寄せるようになったのである。

何がそれほどその外国人に訴えたかと考えてみると、先ず稲荷神社と言えば狐と関係する。これは彼らのように唯一の神を尊崇する一神教徒にとっては珍しい事だろう。そして稲荷神社と言えば京都の伏見稲荷にも、島根県の津和野のお稲荷さんにも、無数の真っ赤に塗った寄進の鳥居が通路に並立し、その中を潜って通るのも外国人には奇異な感じを与えたのだろう。しかもこの場所は海に面した断崖絶壁の側にあるし、前面に広がる紺碧の大海原と鳥居の朱色が非常によいコントラストをなしている。更に云えば沖に浮かぶ島々と神社の背後の丘の鬱蒼とした樹木の森からなる風景は、絵に描いたように見事なものと目に映ったのであろう。こうした風景が素晴らしい観光のスポットとして評判が高まったのだ。私は水平線上に薄らと見島が見えたので何だか嬉しかった。

これは長門市としては有難い宣伝になったと思う。聞くところによると一時はバスによる観光客で賑わったそうである。我々が訪れたのは平日だったし、やや薄ら寒い日であったが、それでも数台の乗用車や若い人が乗ってきたオートバイも数台駐車されていた。地元の人であろう年輩の男性が数人案内係としていたし、売店とトイレまで設置してあるのには驚いた。今はネットで何でも知る事が出来る。そのお蔭でこれまで殆ど見向きもされなかった所を有名にしたのだろう。

この後少し車を走らせて「千(せん)畳敷(じょうじき)」という所へ行き、広々とした台地の上から日本海に浮かぶ島々の風景に見入った。この辺りは風が強いのだろう、大型の風車が数基も設置してあって大きな羽翼(うよく)がゆっくり回転していた。

こうした寄り道をしたけれども、我々は予定より早く目的地の近くまで来た。ここにある「楊貴館」というホテルで食事と入浴を予定して居たが、十一時から利用可能という事で、時間がまだたっぷりあった。そこで私は「人丸神社」を思いついたので行くことを提案した。

私が継母に連れられて此の神社を初めて参拝したのは随分昔の事である。その時の印象では神殿も立派で、境内に植えられた万葉の草木とその表示板も新しかったように覚えている。今回来てみて何とも物寂しい感じを受けた。丁度郵便配達のバイクが来たので、社殿に接した家屋に住んでいる人が居られる事は分かったが、昔日の面影は全く失せていた。我々は車でこの小高い場所にある社殿の近くまで来たが、私が昔来たときは下の鳥居から急勾配の石段を登って来たと思う。境内には落葉が一面に敷かれていて掃除をした跡はなかった。聖なる神域だからその点残念な気がした。

山陰のこうした田舎は急速に人口が減り、特に若い人が住まなくなった。そのために人家はもとより神社やお寺は目に見えて参詣者は減っている。こうして寂(さび)れていくのもやむを得ないのかも知れない。

 

丁度予定の時間になったので楊貴館へ行った。その時私と妻を以前案内して呉れた友人がホテルに来てくれた。そして姪たちと息子にまで土産の蒲鉾を呉れた。彼は私が連絡したので角島まで散歩に行っていたのに、わざわざ来て呉れたのである。彼は我々が食事をする時間まで少し話した。

油谷湾は右側の奥まった所が百メートルばかり干拓されたのです。昔はずっと湾が奥まで広がっていました。今は其処に人家や海産物の加工場が建っています」

こう云ってその方向を指さして教えて呉れた。確かに我々の位置から見ても其処だけはかなりの面積が平地であった。その昔日露戦争の時、我が国の軍艦がこの油谷湾に集結したと言った事を聞いているが、天然の良港なのだろう。湾口が約四キロ、奥行き十キロ,水深四十メートルとのことだが、波静かな素晴らしい湾に見えた。その干拓地から向津具半島の先の方へと目を向けたら、緑の中に一つだけ朱色の建造物が見えた。また丘の上に大きな風車が何基も立っているのがはっきり見えた。彼はその丘の麓の朱色の建物を指さして、 

「あれは納骨堂です。あのすぐ側に安倍元首相の先祖の墓があり、毎年安倍さんは墓参り来ています」 

こんな話をして彼はホテルを後にした。食事を済ませた後入浴すれば割安になるので先に食事を摂った。油谷湾とそれを取り囲むような向津具半島の美しい景色を眼下に遠望しながら、私は「瓦蕎麦」を食べた。蕎麦の味は今一で、防府天満宮の傍らにある「兎屋」とかいう蕎麦屋の蕎麦ほどではなかったが、ここからの眺めだけは絶景であった。

姪の主人は我々と別れて出雲大社への参拝など島根への旅をすることを計画していた。彼は萩市の駅を午後二時に乗車するので、それに間に合うように時間を考えて行動することにした。その為にこのホテルを十二時十五分に出発することにして、それまで入浴することにした。

私は初めてこの温泉に入ったが、アルカリ性の湯でぬるぬるというか肌に滑らかな感じで何とも言えない気持ちの良いものであった。私は白居易の「長恨歌」の中の一節を思い出した。

 

   春寒賜浴華清池   春寒くして浴を賜う華(か)清(せい)の池

   温泉水滑洗凝脂   温泉 水滑(なめ)らかにして 凝(ぎょう)脂(し)を洗(そそ)ぐ

 

    おりしも春なお寒く、天子は彼女のために、華(か)清宮(せいきゅう)に特別の浴室をたまわった。

わきでる温泉の水はとろりとなめらか、それがなめらかにひきしまった白い肌にそそぎかかる。        

『中国詩人選集 白居易』(岩波書店

 

硝子越しに見える油谷湾の景色と相まって、この温泉での入浴は天下一品だと思った。男性の浴場の入口には「玄宗の湯」、女性の方には「楊貴妃の湯」と染めた暖簾(のれん)が掛かっていた。

何故ここを「楊貴館」というかと言えば、向津具半島の先にその昔、楊貴妃安禄山の難を逃れて流れ着いたと言う伝説があり、それこそ「楊貴妃の墓」が今も実在しているからに違いない。今其処には中国から贈られたとう真っ白な大理石の大きな楊貴妃の像が建っている。

私はネットでこの事について見てみた。長門市のホームページに次のように載っていた。

 

    楊貴妃伝説

 

油谷の向(むか)津具(つく)の二尊院というお寺に2冊の古文書が残されています。これは今から約230年前(1766年)当時の二尊院福林坊55世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたものです。

日本では奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に空(うつ)艫(ろ)舟(ぶね)が流れ着いたげな。舟の中にはな、長い漂流でやつれていたがたいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びない近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました」と涙ながらに言ったそうな。

息も絶え絶えの楊貴妃を里人は手厚く看護したがの、その甲斐ものう間もなく息を引き取られたげな。そこで里人たちは、西の海が見える久津の丘の上にねんごろに葬ったそうな。それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられておる五輪の塔でのう。

  いつとなく、「楊貴妃の墓に参ると願い事が成就する」というのでの、多くの人が参詣するようになったと申しますいの。

一方、玄宗皇帝は楊貴妃への恋慕(れんぼ)の情断ち難く。悶々(もんもん)として悲しみの日々を過ごしていましたが、ある夜不思議な夢を見ました。

 「私は日本に流れ着きました。土地の人々から優しくしてもらいましたが、私の体は弱り切っており、とうとうこの世の者でなくなりました。天上と人間界とに別れてはいても、いつの日かきっとお会い出来る時が参りましょう。」

  夢の中の楊貴妃の言葉に、玄宗皇帝は白馬将軍陳安(ちんあん)を日本に遣(つか)わし、楊貴妃の霊を弔うために秘蔵の霊仏阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)と釈迦(しゃか)如来(にょらい)の2体の仏様と十三重(じゅうさんじゅう)の大宝塔を持たせました。

日本に着いた陳安は、楊貴妃の漂流地を探し歩きましたが、何処の浜か、何処の浦かどうしても分からないので、京都の清涼寺へ預けて帰国いたしました。

  やがて清涼寺には、この預けられた仏様を拝みにお参りする人々が日増しに多くなりました。そうこうするうちに、朝廷は楊貴妃の墓が長門の国、久津の天請(てんしょう)寺(じ)にあることを知り、二尊仏を移すように命じました。

ところが清涼寺では霊験あらたかな仏様を手放したくないので、このまま京都に置いておくように嘆願いたしました。困った朝廷は仏工の名手、天(あま)照(てらす)春日(かすが)に命じ、そっくりの2体の仏様を造らせました。

そして1体ずつを2つの寺で分け合って安置させたということです。阿弥陀如来と釈迦如来を本尊としたので「二尊院と名乗り、天下太平・五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)の祈願怠りなく奉るべし」との勅命を賜ったと申します。

 

 なお、この向津具半島の先端の川尻岬の附近にある大浦という所に、毛利藩直属の海女の集団があり、潜水漁法でサザエやアワビなどを捕っていた。従って気位が高かったとのことである。

  

ホテルを十二時十五分に出立して萩に向かった。萩市内に着いた時まだ三十分ばかり余裕があるのでどこかで一休みしようと思い、私がよく行っていた「藍場川」という喫茶店を案内した。

萩市阿武川の流が最後に松本川と橋本川に分けれて、其処が三角州になりその中に街が形成されている。この一方の松本川の水を引いて生活用水として利用した小川が「藍場川で、戦後この流れ沿って遊歩道が整備され、鯉なども飼育されて観光客の誘致の一助になった。この清らかな流れに沿った一個所に、日露戦争の時に総理大臣だった桂太郎の旧宅がある。我々が訪れたのは、この流を上手く取り入れた立派な庭が見える「藍場川」という喫茶店である。珈琲とケーキを注文して二日間の足早の旅の最後の時間を寛ぐ事が出来た。

茶店を経営している女性に一寸話しかけたら、彼女の父親の弟で私のよく知っている人が、つい最近大動脈瘤の手術をした。十三時間の手術だったと言っていた。この男性は私より二学年先輩で萩高校に一緒に勤めていたから良く知っていた。日頃非常に元気だと聞いていたから大変驚いた。人間いつ何が起こるか分からないものだとつくづく思った。

丁度よい時間になったので東萩駅へ行き、駅前で姪の主人と別れて我々三人は無事帰路についた。天候に恵まれたよい旅だったと言える。

2020・10・15 記す