yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

紅黄緑白  

 「こうおうりょくはく」と云ったのでは何のことかわかるまい。しかし「紅黄緑白」と書いても同様だと思う。実は居間の南向きのガラス窓を通して外を見ると、塀壁と垣根に囲まれた10坪足らずの地面が目に入る。そこには4坪ばかりの野菜畑があり、豆とタマネギとチシャなどが育っている。その周囲には春の草花やミカンの木などが、春の息吹を受けて生き生きと生育している。そして目に見える色彩はこの「紅と黄と緑と白」だけである。

 今年2月ごろ畑に出てみたら、小指の先ほどもないような深紅の小さな芽が、凍土とも思えるような固くて冷たい地面から覘いていた。「今年もよく出てくれた。それにしてもあの柔らかい小さな芽が、よくもこんな凍結したような大地から出てくるとは驚きだ。自然の生命力は凄い。今年も見事な花が見られるだろう」と私は内心喜びを隠せなかった。

 最初は3つだけであったが、そのうち数日経って全部で15ほどの数になった。私は芍薬の花が10以上は見られるだろうと期待していた。成長して茎の長さが20センチばかりになった時、倒れてはいけないので丸い輪になった針金が上下に2つついた園芸用具を立てて開花を待つことにした。そのうち小さなまん丸い蕾が茎の先端に現れた。15本の芽はそれぞれ伸びて青々とした柔らかい葉を茂らしたが、肝心の蕾は僅か5個しかついていないのでいささか期待外れだった。

 いくら待ってもこの他の茎には蕾は出てこなかった。4月も下旬になって次々に蕾は膨らみ始めた。窓から見た時紅の花は目の保養になるが、このうちの1本だけ切って、他に白く咲いた名を知らない花と一緒に仏前に供えることにした。普通は店で買って来た菊を供えることにしている。菊は案外長持ちするからである。しかし今回に限り芍薬を供えた。そのうち白い花が萎れかけたので、もう一本まだ開いていない芍薬を切ってきて添えて供えた。

 

 「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という言葉を思い出して、ネットを開けてみた。

  田中康文という医者の文章が載っていた。参考までに一部書き写してみよう。

 

  芍薬はすらりと伸びた茎の先端に華麗な花を咲かせることから美しい女性が立っている姿のよう、

 牡丹は枝分かれした横向きの枝に花をつけることから美しい女性が座っているよう、百合は風を受

 けて揺れるさまから美しい女性が歩く姿のようだと表現されています。

 しかし、この言葉はもともと漢方薬の生薬の用い方を表現した言葉である。

 

  「立てば」はイライラし、気のたっている女性に対して芍薬で気を沈めます。芍薬の根を用いて、

  そのほかに血液の流れをよくしたり、痛みや筋肉のこわばりを和らげます。

  「座れば」は座ってばかりいると血液の流れが悪くなり、血液が滞ります。このような状態に対し 

  て牡丹の根の皮の部分(牡丹皮)を用いて血液の流れを改善します。

  「歩く姿」は百合の花が風でゆられているように、心身症のヒトがゆらりゆらり、フラフラと頼

  りなげに歩く姿を意味します。百合の根を用いて不安や不眠、動悸を改善します。

  これらの生薬を用いれば女性は美しく、健康になれることから転じたものと思われます。

 

 目から鱗である。私はついでに「生薬」という言葉を辞書で調べてみた。

 

 生薬(しょうやく、きぐすり)

  自然界に存在する動植物、またはその一部を用いる薬で、天然由来の医薬品の相称。漢方薬の原

 料になるために、薬種ともいわれる。

 

 ここでまた私はあることを思い出した。それは森鴎外に関する事である。鷗外がまだ少年の時、蘭医であった父からオランダ語を習う。そのときサフランという言葉が出てきて、彼は父に訊ねた。

 「お父っさん。サフラン、草の名としてありますが、どんな草ですか。」

 「花を取って干して物に色を附ける草だよ。見せて遣ろう。」

 父は薬箪笥の抽斗から、ちぢれたやうな、黒ずんだ物を出して見せた。父も生の花は見たことがなかったかも知れない。私はたまたま名ばかりでなく物が見られても、干物しか見られなかった。これが私がサフランを見た初である。

 

 鷗外の父は当時としては先端を行く蘭医であるが、それでも漢方医のように生薬を扱っていたのかと、私はこの文章を読んで思ったのである。鷗外はこの短編の最期に次のように書いている。

 

 これはサフランと云ふ草と私との歴史である。これを読んだら、いかに私のサフランに就いて知っていることが貧弱だか分かるだろう。併しどれ程疎遠な物にもたまたま行摩(ゆきずり)の袖が触れるやうに、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。

 宇宙の間で、これまでサフランサフランの生存をしてゐた。私は私の生存をしてゐた。これからも、サフランサフランの生存をして行くであらう。私は私の生存をして行くであらう。

 

 「袖振り合うも他生の縁」という言葉があるが、鷗外は何らかの接触点があればそれはそれなりに良いと言っているのではなかろうか。我々凡人はある言葉を口にしても、その真の意味を知らないことが如何に多いことか。「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」の隠れた意味を知って良かったと思う。

 次の「黄」は、塀壁の直ぐ下に咲いた小さなバラの黄色である。此のバラの花は直径3センチくらいの小さな花である。か細い茎が10本ばかりひょろひょろと伸びて、それが風にゆれてている。此の茎の先に数えてみたら5個の花が開いていて、5個の蕾が付いていた。たとえ片隅に小さく咲いていても他の草花と違って、流石に凛として小さいながらも存在感を示していた。もう開いて1週間にもなるが、枯れても萎れてもいない。

 居間の東側にある窓ガラス越しにもバラの花が咲いているのが見える。これは野バラで、小野田の妻の生家の畑にあったのを萩の家に移植し、さらに山口へ持ってきたのだ。これは丈夫で1年の内に何回も咲く。色は薄いピンクでいくら切っても忽ち生育する。開花寸前までは綺麗だが開ききったらすぐに萎れる。それこそ老惨の体を呈するから、私はそうなったらすぐ切り取ってしまう。

 ところが先日何気なしに目を向けると、薄っすらと赤みを帯びた小さな蕾に、真っ青な物がくっついていた。目を近づけたら、2センチばかりの青虫がその蕾に食いついているではないか。私は一瞬この虫を殺そうと思ったが、「待てよ、此の青虫も生きようと努めているのだ。バラが食いつくされるのも仕方あるまい」と思ってそのままにしていた。

 数日後覘いて見たら、青虫の体半分が蕾の中に入り込んでいたのには驚いた。ところがよく見たらこの青虫の数倍も大きい青虫が違った蕾に食いついていたのには魂消た。少なくとも私の小指くらいの大きさで、それこそ真っ青な色で気持ちが悪いほどであった。私はこの青虫が蝶にでもなる姿が見えたらと思ってそのままにしていた。しかしいつの間にか両方とも姿を隠して何処を探しても見当たらなかった。この野バラの茎は見る間に伸びてその先端に蕾がつき、花を咲かすのであるが、最初は深紅の柔らかい茎だが、そのうち青色の固い茎になる。茎にはくつもの鋭い棘が出来るが、青虫は棘をまるで知らぬがごとく、柔らかな体を傷つけることなく移動している。「バラに棘あり」とは人間だけに通用する言葉かと思った。

「緑」はもちろん色々な草や木の葉の色である。濃淡の差はあるが今はいずれも青々とした色彩で目にも鮮やかに映えている。

 最後に「白」はエンドウ豆と温州ミカンの花である。数年前にこの菜園の片隅に植えたミカンの木に、数えきれないほどの白い5弁の花が木全体を覆うように付いた。近づいてみると小さなミツバチが何処からともなく集まって、しきりに花から花へと飛び移っていた。去年はこの若木に30個ばかりのミカンが生って結構美味かった。今年はもっと多く生るだろうと思っている。

 

 最後に白い花のついたエンドウ豆について書くことにしよう。

 実はこの豆の種を昨年の11月末に撒いたので、年が明けて早々と生育した。その頃我が家の近所の農家の畑を見るとまだ芽が出たばかりであった。知人に種をいくらか貰いその時、「年内に蒔かれたらいいでしょう」と言われたのでその通りにしたが少し早かった。そのために農家ほどにはよくは出来なかったが、それでもそれなりの収穫があった。日が経って茎の陰で見落とした豆が色あせて青味がなっているのがあった。全部を収穫したときは茎は生気を失って、取り除けた時は干からびてかさかさした感じだった。これなら火をつけたら簡単に燃えるのではないかと思った。その時私はある事を思い出した。正確に思い出せないので昔読んだ本を探して見てみた。

 渡辺伸一郎著『東洋語源物語』にある「煮豆燃萁」(豆を煮るに、豆がらを燃やす)である。挿絵も載っていた。その後半部を引用してみよう。

 

  『三国志』の憎まれ役は曹操(そうそう)、その子の曹丕(そうひ)が皇帝となって魏(ぎ)の文帝、帝の弟の曹植(そうち)を東阿王と

 いう。此の兄弟は仲が悪かった。文帝は弟を、やっつけたことだけで後世に名を残している。曹植

 のほうは源義経のような軍人ではなく詩人として名高かった。文帝が弟を捕えて、いよいよ処刑しよ

 うとしたがそれだけでは面白くないとあって、七歩だけ歩く間に詩を作ったら、ゆるしてやろうと

 いった。そこで曹植が作ったのを「七歩詩」といい、彼を「七歩才」という。

 

  煮豆燃豆萁 豆在釜中泣 本是同根生 相煮何太急 

  (豆を煮るに豆萁を燃やす、豆釜中に在りて泣く、本はこれ同根よりして生ずるに、相煮ること何

  ぞはなはだ急なると)―世説新語・文学

 

 次男が今回の人事異動で、宇部中央高校から下関市彦島にある下関中等教育学校へ転勤した。小郡に住んでいるので車で通うとなると、朝5時に起きて家を6時に出なければならないという。高速自動車道路を利用しても1時間は優に掛かる。ちょっとした油断で大事故になる恐れがあるので私は心配していた。

 数日前に下関にいる長男からメールがあって、弟を新下関駅から彼の学校まで車で連れて行った、と知らせてくれた。私はすぐ返事をして「それは良かった、兄弟助け合って仲良くすることが何よりも親孝行だ」と書き送った。長男は北九州の幾つかの大学の非常勤講師をしているために、交通に便利な点から下関に住んでいる。幸い駅の近くで、駅からだと次男の学校まで10キロばかりであるそうだ。そのうち彼は駅の近くに駐車場を借りると言っていた。これで私も聊か安心した。

 ここまで書いて気分転換に外に出てみた。椿の若葉は緑というよりやや茶色を帯びていて実に柔らかである。何か動いているようだから目を近づけたら、僅か1ミリ程度のピンク色の小さな蜘蛛が2匹1枚の葉の上を動いていた。動きが実に早い。別の葉にも同じような蜘蛛が走っていた。「紅」芍薬と野バラだけではなかった。 

2023・5・3 記す