天女の羽衣
泰之が午前中なら行けるというので、彼岸に行けなかった墓参りに行くことにする。9時前に来たので支度をして9時5分に家を出た。日曜日であるからか、萩市内に入ったら買い物にでも来たのかもしれない、他県のナンバーの車がかなり多く走っていた。朝から絶好の秋日和というよりはむしろ盛夏に近い気温であった。住職にご仏前を差し上げ、本尊を拝した後、我が家の位牌堂の清掃と言ってもわずかだが、これを済まして拝み、今度は墓へ行き清掃の後、途中で買ったハナシバを供えて拝んだ。薮蚊が多くて泰之は刺されたようである。何時もの様にそのあと須子君の墓を拝んだ。帰ろうとしたら、住職が継母の27回忌がこの15日だと言われ、「ああそうだったのか、忘れていた」と内心思った。
そういえば我々が山口市に来たのは、母が浜崎の我が家で亡くなった後である。転居したのが平成10年で、母が亡くなったのがその2年前だった。母は生前山口に移ることには別に異存はなかった。生まれ育ったのが山口だったからだ。しかし母は死ぬ数年前から認知症になり、結局我が家で最後の息を安らかに引き取った。あれから27年の歳月が流れたことになる。転居して今日までの25年の年月は、それまで騒音などで色々と苦労した日々に比べたら、結構楽しいことが多かった。中でも馬場ご夫妻と外河ご夫妻、更に萩から綿貫ご夫妻も参加されて、遠く北は北海道から長野県へ、南は鹿児島から屋久島や長崎などへと、国内の各地への旅を楽しむことが出来たからだ。しかし外河先生が先ず亡くなられ、ついで妻が旅先で急逝し、今年馬場さんが98歳の天寿を全うされた。「逝くものはかくのごときか 昼夜を舎てず」である。今夫婦共に健在なのは綿貫さん一家だけである。
墓参りを済ませ、その綿貫家を訪ねた。ご夫妻と、今や綿貫医院の院長として立派に後を継いでいる篤志さんにお会いできて良かった。同人誌『風響樹』と途中の店で買った栗を一袋お差し上げて、今日は急ぐからと言って別れた。このまま真っ直ぐに帰ろうかと思ったが、折角来たのだから村田蒲鉾店に立ち寄って、数品買って泰之に持って帰らせた。こうして念願の墓参りを無事に済ませて一安心した。今思うに行き帰り子供の姿は全く見なかった。子供と云えば綿貫先生が抱きかかえておられた3歳の子犬だけである。
午後はまた1人になった。疲れたので昨日高津夫人から頂いていた2種類の豆の種を撒くのは明日の朝にしようと思い、暫く横になって休んでいたら滋賀の姪から電話が掛かってきた。
「今月7日の朝早く新山口駅に着いて、10日の午後帰ります。なかなか日程がとれませんがご都合はどうですか」との事だった。
私としてはいつでもウエルカムである。彼女は妻の姉の娘で、妻を大変慕っていて毎年必ず来てくれていた。姉は我々が山口に移る前にガンで亡くなった。まだ還暦前だった。そして今は妻が亡くなったのだが、その後もこうして来てくれている。「里帰りのような気がします」と言ってくれて、私としても大変ありがたく思っている。
午後5時半になったので、今日は朝の散歩をしていなかったので、出かけることにした。外は日暮れ時だったがまだ夕闇ではなかった。しかし東南の空高く半月が穏やかな輝きを見せて浮かんでいた。ところが東の空から西の空にかけて大空一面に、まるで天女が淡いピンク色の薄絹の羽衣を風に翻しているような、美しい雲の素晴らしい光景が目に入った。如何なる名だたる絵描きでもこれほど雄大で美しい光景を描くことは出来ない。天然自然のこの妙なる美しさは到底筆でも描写できない。私はしばらく見入っていた。
我が家の車庫から歩いて100メートル足らずのところに小公園がある。我々がこちらに来て出来たが、当初は今の半分ぐらいの面積で、子供用の滑り台や鉄棒など、それに数本の桜の木が植えられていたが、10年ばかり前に大水が出て、あたり一面水浸しになったので、この公園に続く田圃の下を掘り起こし、そこに一時的に大量の雨水を貯水する施設が出来た。頑丈な鉄筋で出来ているので、その機構の上に土をおいて、これまでの公園と一体になるようになった。今度は小公園とはいえ一周200メートルの遊歩道が出来た。お陰でその歩道に囲まれた内側では子供たちがサッカーボールを蹴って遊んだり、老人たちがグランドゴルフを楽しんでいる姿を絶えず見かけるようになった。
こう言ったことで私もよく夕食前にこの遊歩道を歩いている。今日も先に述べたように夕焼けの空を眺めた後、この公園の中に入って歩き始めた。そこにはまだ2・3歳くらいの幼い子が3人と、その子たちの母親であろうこれまた3人の女性がいた。子供たちは母親の傍を離れたり近づいたりまたお互いを追い回したりして、「キャアキャア」と声を上げながら走っていた。母親の内の2人は乳飲み子だろう胸に抱いていた。そしてこの親たちは一定の間隔を置いて立ち話をしていた。
私がこのトラックを一周したときには彼らは皆姿を消した。太陽はすでに沈んでいたが、茜色に染まっていた西の空も今や夕闇へと変わり、あの美しいピンクの薄い裳裾のような雲の翻りも今や消えようとしていた。反面淡い光を放っていた半月は、今は煌々と夜空に輝いていた。秋の夕べは釣瓶落としに日が暮れるというが、まさにその通りである。あっと言う間にあたりは暮色に包まれた。僅か30分足らずの時間の経過に過ぎないが、これほどとは思わなかった。私はトラックを2周歩いただけである。萩では一人の子も見かけなかったが、こうして幼い子の姿を目にした事で、なんだかほのぼのとした気持ちになったのである。私は幾分満足した気分で夕闇の中を我が家へと歩き始めた。
一夜明けて今日は10月3日。夜中の2時過ぎに目が覚めてその後なかなか寝られなく、5時過ぎまでうとうととしているうちに寝たのか、目が覚めたのは7時半だった。すでに戸外の空気は10月にしてはかなり暖かい。寝間着のままに長靴を履き、3坪足らずの我が家のささやかな畑にまず先日買ってきた「花と野菜の土」を2袋撒いて土を耕し、高津夫人から頂いていたピース豆とキヌサヤの種、それに春菊と小蕪の種もあったので適当に水をやって撒いた。
10週間ばかり前にこれらの種を撒いたが全く芽が出なかったので、苗を買ってきて植えたところが、朝起きてみたら何もない。「権平が種まきゃ烏がつつく」を生まれて初めて体験した。そういったことでまた種をもらったので撒いたのである。今度は芽が出たら用心しよう。しかしその前に芽が出てくれなければどうしようもない。百姓仕事も容易ではない。こうして今日も結構忙しい一人暮らしが始まった次第である。
白露に風の吹きしく秋の野は 〈草葉に置く白露に、風が吹き渡る秋の野は、(その
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける 露がはらはらと散り乱れて、まるで)緒に繋ぎとめ
ていない玉が散りこぼれるようだ〉
午後になってたまたま目にした『小倉百人一首』のなかに、上記の文屋朝康の歌があった。このような秋の風情もそろそろやってくるだろう。
2022・10・2 記す