yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

不思議な縁  

 10月7日の朝10時前に妻の姪が滋賀県から来てくれた。姪は妻の生存中はもとより、亡くなってからも毎年必ず来て、何かと面倒を見てくれている。私にとっては非常に有難いから、「来た」ではなくて「来てくれた」と思っている。彼女とは我々が結婚する前から不思議な繋がりというか因縁がある。それは昭和36年に私が初めて妻の家を訪ねて、すぐ近くの有帆川の土手に沿って話しながら歩いていた時、まだ3歳くらいだった妻の姉の長女であるこの幼い姪が後をついてきたのをよく覚えている。実はその時身重だった妻の姉が小野田の叔父の家に来ていたのである。

 妻は「私には兄姉弟妹が全部いるのよ」と言っていた。私の場合、母が私を産んだ年に亡くなり、兄弟姉妹は一人もいない。当時妻にはすでに結婚していたこの姉を除いて、全員がブラジルに移住していた。一家がブラジルへ渡ったのは昭和28年の事で、小学4年生の妻はただ1人残った。流石に淋しかったようである。妻は8歳も年上のこの姉を非常に慕っていて、他の兄弟姉妹が皆いなくなるのに敢えて叔父の家に留まったのは、この姉がただ1人日本にいたからである。それに妻は父のすぐ下の弟である叔父を尊敬していたし、さらにもう1つ日本に留まった理由は、体があまり丈夫ではないので、ブラジルといった全く違った環境には耐えられないと思ったからでもある。このように結婚後私に話してくれた。

 

 私は妻に先立たれていまさらながら有難く思うのは、妻が大学を2年で中退して私と結婚しようと決心してくれたことである。先にも書いたように妻は叔父を尊敬していたからブラジルへ行かなかったのだが、叔母とはあまり気が合わなかったようである。そのためにこのままいつまでも叔父夫妻の世話になりたくなかったようでもある。男女2人が結婚するということは、考えてみると偶然の結果だと思われるが、実に数多くの要因がからみ合って初めて成立するものだと、私は今斯うして1人になってよく考える。しかし結婚生活が円満に存続するか、破鏡の運命に至るか、あるいは一方が早く亡くなって独り暮らしを余儀なくされるか、こういったことは結婚する時には全く予知できないことである。私はその人の運命だと思っている。これは言い換えたら因縁である。

 今我が国は少子高齢化が進み、若い人はなかなか結婚しないから当然子供が生まれない。一方年寄りは医学の進歩で容易には死なない。そのために高齢化が急速に進行してる。これでは国の前途は心配である。この傾向は世界でも我が国はダントツだと言われている。

 

 さてここで偶然とも言える我々の結婚についてちょっと考えてみようと思う。まず妻と私との生まれ育った環境だが、これはずいぶん違ったものである。

 我が家の遠き祖先は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利藩の家来であった。したがって毛利の殿様に従って広島から長州にやってきたが、6代の時武士を辞めて商人になり、「北前船」の船主として、石川県の加賀藩と難波、現在の大阪の間を行き来して商売をしていた。そこで明治維新の前夜、曽祖父の代までは完全に商売人である。しかし曽祖父は大阪に出たが米相場で大失敗をした事からきっぱりと商売から手を引いた。祖父は大阪に出ていた時習った茶華道を萩で教えて倹しい生活をし、父はこれまた地方の商業高校の教員となり、退職後はお茶を教えて平凡な一生を送った。

 一方河村家(妻の実家)は小野田市(現・山陽小野田市)で昔ながらの農家である。農家と言っても戦後の農地改革までは、田圃が8丁歩もあるかなりの豪農だったようである。維新まではいわゆる庄屋だったと思われる。従って農家と言っても自らは農作業はしないで加徴米で悠々と暮らして行けたようである。妻の祖父は隣村の厚狭に出来た塾に通って学び、後にこの塾が今ある県立小野田高校の地に「私立興風中学」として移転発展したとき、この学校で数学を教えていて、後に校長代理にもなっている。さらに父ならびに父の兄弟もこの学校で学び、父は卒業後、旧制山口高校、更に京都大学理学部を卒業している。そしてこの同じ学校で数学を教えていたこともある。戦後すぐに行われた農地改革で地主はそれまでの田圃を殆どすべて取り上げあられて、それまで実際に作業していた小作に譲り渡す結果になったので、多くの子供を養うことが出来なくなり、妻の父は政府の勧誘を信じて地球の裏側のブラジルへの移住を決断したようである。それまでは上記のように教師として割と自由な生活をしていたと思われる。妻の父はこうして田畑が殆どなくなった時、「これまで小作に働かせて悠々と暮らしていたのは、考えてみたらおかしい。こうなったのも仕方がない」と平然と言っていたと、以前妻が話したことがある。

 

 以上のような訳で、妻には教育者の血が流れている。この点わずかながら私と似た点が考えられる。だから妻は大学で教育学部を選らんだ。普通男女は結婚するまでは、概してお互いに相手の性質やものの考え方や趣味嗜好など分からないものである。

 妻には理科系の血が流れていて、物事を理詰めに考え、何事にも几帳面でかなり神経質な面があると思う。曖昧とか凡そと言ったことを嫌い、何でもきちんとしなければ気が収まらない。

 1つの例として、妻は亡くなるまでの10年以上の間、毎日「ナンプレ」という数字を並べる遊びを行っていた。最初のうち私が「そんなしょうもないことをするのは止めたらどうか」と言っても絶対に止めなかった。妻は次第に難しい問題に挑戦し、死ぬ前には超難問題を何時間もかけて解決していた。よほどこうした理詰めの作業が性に合っていたのだと思う。私なんかこんなことで時間を潰すより、好きな本を読んだ方がよほど良いと思っている。しかしこれも持って生まれた性格の違いだろう。

 そうはいっても妻には文系の血も流れていた。妻の母の父は国語の教師だったし、その祖先は神主で神道を奉じていたようである。妻の読書の仕方もやはり私と違って、1人の作家の作品を集中的に読み、これが終わったら別の作家の作品といった風であった。ところが私は同時に幾人かの作家の本を併読しているので、この点でも性格の違いがはっきりしている。私が「この本は面白いから読んでみたら」と言っても妻の嗜好にあわないのが多くあった。しかし漱石の作品だけは気に入っていたようで、それでも私が持っている岩波書店出版の『漱石全集』ではなくて、手軽な文庫本を買って皆読んでいた。この他に彼女が文庫本で読んでいたのは、宮城谷昌光著『三国志』全12巻と塩野七世が書いた『ローマ人の物語』で、これは40巻以上もの大作である。これらをこつこつ読んでいた。

 上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫)を私は今再読しているが、ここに西田が読書についての自戒の言葉を書いている。「読書の法は、読、考、書」「一書を読了せざれば他書をとらず」。妻の方が私より真面目に読書していたと言える。

 

 この他にこれは妻が亡くなって知ったことだが、『般若心経』を半紙に筆で写経していた。すべてを筆写するのに2日かけていたようである。実に几帳面な字で書いていて、数えてみたら400枚以上あったから、1年以上の間こつこつと毎夜書き続けたものである。

 私は9時頃になると眠くなるので2階の寝床に入り、そして朝は5時頃起きていた。一方妻は階下の自分の部屋で、夜遅くまで起きていて本を読んだり、こうした写経を行っていたのである。従って朝早くは起きられなかった。写経の事は亡くなって初めて知った。

 もう1つ妻の夜の作業は、『高橋3年日記』を2004年から亡くなる前日までつけていたことである。私はこの日記を今読んで在りし日の様子をうかがうことが出来て、非常に楽しんでいる。 他人の日記というものは生前には勝手に読むことは出来ないが、書いた人の死後にはよく読まれる。日記で有名なのは紀貫之の『土佐日記』をはじめとして、『更級日記』や『紫式部日記』など平安時代のものから時代が下って、『方丈記』や『奥の細道』も日記と言っても差し支えない。近年では鷗外の『独逸日記』、『小倉日記』や漱石の日記、これらの他に永井荷風の『断腸亭日乗』など有名である。私は先に述べたように妻の日記を楽しく読んでいる。私自身昭和52年から書いているが、私の場合その日その日の出来事を記載する程度だが、妻は感じたり思ったりしていることを書いているから、他人はいざ知らず私には面白く読める。

 

 さて、話しを最初に戻して、姪は10月7日の朝9時過ぎに来て10日の夕方6時過ぎに帰った。この間食事はもとより洗濯、更に洗面台にあった化粧品など妻が使っていたものを整理して、非常にきれいにしてくれた。全く見違えるようになり大変有難かった。先にも述べたように、私には兄弟がいないが、父の姉と妹には息子や娘がいるから、彼等は私にとっては従兄弟や従妹たちで、お互い若くて元気なうちはよく行き来して話していた。しかし皆年をとり、また亡くなったりして今はあまり交流がない。ところが妻の直ぐ上の姉と弟がその後日本に帰って結婚し子供が出来たので、私にとって甥や姪になる彼等とはお陰で親しくしている。

 バートランド・ラッセルが「幸福とは?」と問われて、「幸福には3つの事柄がある。第1は健康。第2は良き人間関係。最後は何でもいい、生きる目的があること。」と云っている。

 確かに健康第一である。病院や老人施設で、病床に臥して介護されながらただ命をつないでいるのでは意味がない。しかし先にも書いたように多くの老人がこのような状態にあるのではなかろうか。

 私は今年2月25日で満90歳になった。長く生きたものである。今のところ何とか独り暮らしを続けているが、この度のように姪が来てくれるのは有難い。またメールや電話で萩に居る高校時代の友人や、かっての同僚たちと交信出来るのも嬉しいことである。妻が亡くなってこうしたことをつくづく感ずるようになった。それこそ小さな蛙1匹が来てくれても元気を与えられるのである。

 実は去年も来たが、今年6月23日にはじめて雨蛙が一匹姿を見せて、10月4日まで断続的に我が家の勝手口を出たところに来て終日居たのである。彼は朝早く来て、夜暗くなってもなかなか帰らないことがあった。私は「よう来てくれた」と言葉をかけ、夜暗くなったら「そろそろ帰れよ」と言って外灯の灯を消したのであるが、もちろん無言の状態で蹲っている。ところが一度だけ不思議なことがあった。

 それは最後に姿を見せた10月4日の昼前だった。出かけようと思い、何時もの様に靴を履いて屈み、「ちょっと出かけて来るから待っとれよ」と言った途端、こちら向きに坐っていたこの小さな蛙が、小さな目を動かし、左右の手を交互に3回ばかり上げて、口まで開いたのである。これには驚いた。これまで一度もこのような様子を見たことがないからである。まるで意志が通じたような仕草であった。世の中には人間には到底分からない不思議なことがあると思ったのである。此の蛙の動作は単に偶然の事であろうが、それにしても100日間もの長きにわたり初めての事である。こうした事は又となかろうが、来てくれたことは私に元気をくれたことは間違いない。

 

 実は今日10月11日の事であるが、近くに酒類を売る店がある。その傍に郵便ポストがあるので、私は散歩がてらにそこまで行って帰るのに、約500メートルの距離をよく歩く。その店の主人は80歳だと言っていたが、町内の世話などをして気さくな人だから、私は手紙などを投函した後、主人と立ち話を時々する。彼はこんな事を話してくれた。

「平川に八幡宮があります。私は最近お参りに行きました。お宮の前に狛犬があります。よく見ますと阿吽2基の狛犬の内、阿の方の狛犬は口を開けていますが、その口の中に雨蛙が坐っていました。ところがもう1基の吽の狛犬は口を閉ざしていますが、その耳の中に別の雨蛙が入っていました。私は先生が書かれた『子蛙日記』を読まして貰いましたので、それを思い出して写真に撮りました。」

 こう言って店の主人はスマホに撮った2匹の蛙の写真を見せてくれた。2匹とも真っ青な可愛い姿でちょこんと坐っていた。

 ネットで調べたら雨蛙は人間によくなついて家でも飼うことが出来るとある。たとえ小さな生き物でもこうして人間と共生できるということは良いことである。ウクライナへのロシア軍の侵攻、北朝鮮のミサイル発射といった、相互不信の人間世界は実に忌々しき問題である。これを思うと小さな蛙でもこうして身近に来てくれるのは有難いし嬉しいことである。もう今年は来ないだろう。来年もまたその季節になって姿を見せてくれたらと思うのである。

 私がここ山口市の吉敷に来て25年の歳月が経った。来た当初はあたりがすべて水田だったが、今は宅地造成されて次々に新しい家が建っている。我が家の直ぐ近くには小公園も出来、そこには一周200メートルの遊歩道もある。したがって私は夕方などそこで2・3週1人で歩いたりする。有難いことに、新しく家を建てる人は皆若い人だから、幼い子供をよくこの公園に連れてきて遊ぼせている。私はこうした若い親子の姿を見るのが大好きであある。これも思いかけない有難い縁だと云えよう。

                         

                 

 

 

 

         2022・10・11 記す

 

 ここで私にとって不思議というか、それまでと違って何となく運が開けたと思われる事を1つ書いてみよう。父が亡くなったのは昭和57年5月1日である。父はその前日つまり4月30日まで元気にしていた。私は自分の日記に以下のようなことを書いていた。

 泰之が萩高に入り4月28日から3日間の秋吉台の集団合宿へ行った。帰って来た時、父が廊下で倒れていた。直ぐ学校まで知らせに来たので、私は女生徒の面接を直ぐに打ち切って帰宅した。父を縁側からゆっくり寝かせたままで中の間へ移動させたが、裸で小便を流した状態だった。意識はあるし腹部に痛みがあるようなので、動かさないで居た。夜の8時にようやく寝床に移動させ、綿貫先生に診察を頼んだ。先生は打撲か何かでしょうと言われる。こう言われるので私は安心してその場を去った。私はその時多少風邪気味だった。妻は明径中学校の新旧役員会とかで夜出かけた。

 夜中の3時に母が「おじいちゃんが大変」と言って呼びに来た。直ぐに駆けつけてみると、顔は土色で手がいやに冷たい。綿貫先生に電話して来られた時にはすでに死んでいた。いつ息を引き取ったか判明せず、先生も呆気にとられた感じだった。人間の壽命の如何に計り難きを知った。父はかねてより動脈瑠に異常があるが、もう良い年齢だから敢えて手術はしないと言っていた。したがってこの動脈瑠が次第に悪化し、徐々に潮が引くがごとく血液が体内に流れ出たのが死因と考えられる。そう言えば妻もこの時から37年後の令和元年5月27日に、同じ動脈瑠の破裂で亡くなったと診断された。

 満84歳の人生だったがもう少し長生きしたかったろう。父は翌日のお茶の稽古の準備をしていて倒れたのだ。3日の朝8時に霊巌寺の住職に来てもらい、西の浜の火葬場へ行く。そして父は小さな壺の中の灰になった。その日は五月晴れで、火葬場を出たところで、緑滴る指月山を背景に親戚の者一同の写った写真は今も思いで深いものである。

 

  墓地である化野(あだしの)の露が消えることもなく、火葬場の鳥辺山(とりべやま)に煙が立ち去ることもなく、人間に死というものがなかったなら、「もののあわれ」を感じる心もなくなってしまうだろう。この世の中は、定めがないからこそ、素晴らしいのだ。 

(島内裕子校訂・訳『徒然草』)

 

 兼好法師は14世紀に活躍しているが、私はこの古典を時々読み返す。日本人にとってこれと『方丈記』は最もしっくりと味わうことのできる古典だと思う。日記を見るまでもなく次の事は今も覚えている。 

 そしてその日11時半から俊光寺で葬儀を行った。本堂に這入れないほど多くの会葬者が来られ、多くの方は外で参列して下さった。今からちょうど40年前、私が50歳になった時である。

 

 父が亡くなった数年前の或る日、水産加工を生業としている隣家が、そこの畑に水産物の乾燥施設を建てた。我が家の直ぐ側で、おまけに出入口がこちらに開いている。我が家は準工業地帯に位置していたので、こういった騒音はある程度許容の範囲だった。従って昼間は騒音を響かせ、夜間も多少音量を減じても振動は伝わって来た。それでなくとも音に敏感な妻は多大の悪影響を受け、神経に異常をきたすまでになった。その為治療にあちらこちらと行っていたが効果はなかった。父はよく「何時までも悪い事は続くものではない。そのうちまた良くなる」と言っていたが、もはや妻の状態は限界に達していた。父と母の住んでいる母屋は、我々が住んでいた家が防音の役目をしている位置にあったので、それほどこの騒音を気にしなくて済んでいたのだ。

 私は日中は学校へ行っていたが妻は我が家にいたので、朝から晩までこの騒音に悩まされていたことになる。それでなくとも敏感な神経の持ち主だから、今から考えると可哀そうだったと思う。

    夏休みなど終日我が家にいてつくづく妻の苦しみを私も実感できた。暑いので海から吹いて来る風を二階に取り入れようとしたら、一段と騒音が耳に聞こえる、かといって窓を閉めていたら暑くてたまらない。そのために二階にクーラーを取り付けた。

 他にもこんなことがあった。夜の絶間ない微振動に堪えられなく、騒音の震源地から最も遠くにある母屋の茶席へ、妻と一緒に布団を抱えて移動してみたが、途中が庭なので音を遮るものがなく、仕方なくまた泣く泣く我が家に帰った。そのうち今度は水産加工とは反対側から、洗濯工場の蒸気の大きな音が聞こえてきだした。左右いずれからも騒音に責められ悩まされたのである。

 

 父が亡くなり、葬儀も無事に済んだ後、主人を亡くしていた母の妹が母と一緒に住んでくれるというので、我々は遂に萩市内の何処かに住むべき場所を探すことにした。運よく萩市内の城下町の一郭にある「青木周弼旧宅」に住むことが出来た。ここにはそれまで耳鼻科医としてよりも、郷土史家として有名な田中助一先生ご夫妻が住んでおられた。この旧宅は萩市の所有になっていたが、先生は見るに見かねて、ご夫妻でここに入られ、自らお金をかけて大規模の修理をされ、管理人として入っておられたのである。しかしお年を召されてもう住めないので、誰か適当な人を探しておられたのである。

 丁度そのような時だったし、私は先生を父を通して知っていたので、管理人として入ることが出来た。

このような訳で我々は騒音を免れることが出来た。ここにおいて私は幸運の第一歩を踏み出したと言える。この旧宅は500坪もある敷地で、家屋敷と立派な土蔵もあり、周囲には橙の木や梅や椿の木なども多く植えられていて、何より閑静なのが有難かった。しかし唯一不便なのは汲み取り式の便所で、この他にキッチンや風呂等は昔の儘であった。また隙間風が入り、おまけに大きな蜘蛛やムカデやヤモリなどがしょっちゅう出てきた。

 このために我々はここの管理人として入ることが出来たが、生活面では聊か不便であった。しかし私はこの家に来たお陰で、青木周弼・研蔵兄弟と研蔵の婿養子の青木周蔵、更に周蔵がドイツ公使であった時、ドイツに留学していた森鴎外が当時のことを書いた『独逸日記』を読んで、彼らのことを知ることが出来、非常に勉強になったのはこれまた良き因縁だったと思う。

 

 こうして私と妻は8年の間ここに住むことが出来、私は萩商業へ一段と近い処から通うことが出来た。今はこの「青木周弼旧宅」は解体され、昔通りに復元されて立派になり、観光客も家の中まで入って見学できるようになった。我々が8年後に又我が家に戻らなくてはならなかったのは、市長が代わってこの旧宅を観光客のために全部開放するということになったからである。そのために又騒音の止まない我が家に戻った。それより前に母は認知症になっていたので、私は生れ育った家を手放して市内の何処かに新居を見つけようと決心したのである。一難去ってまた一難と云えよう。人の世には有為転変がある。我々の人生にも大なり小なりそういったことがその後あった。

  2022・10・13 記す