yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

同姓同名                    

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 わたしが大学を卒業して最初に赴任したのは県立小野田高校である。今から70年ばかり前の昭和30年で、当時は學校の雰囲気はかなり大らかだった。 新任だから1年目はクラスの担任はなかった。独身であるし若かったので、授業とクラブ活動だけ本気でやれば良かった。その為に生徒との関係は、教え教わるといったものより、共に学び共にクラブ活動するといったような状態であったと言っても過言ではない。特にクラブ活動では陸上競技部の選手とは共に走り、硬式野球部の選手とは、フリーバッテングのピッチャーとして投げたり、外野ノックでボールを打ったりして汗を流した。翌年なって最初に受け持った1年生のクラスをそのまま持ち上がったため、この女子のクラスの者の幾人かとは今に至るまで交流がある。当時世話になった職員先生は恐らく皆亡くなっているだろう。

 6年後に今度は県立宇部高校に転勤しその年に結婚した。そしてその翌年には長男が生まれた。従って家庭と職場の両場面で生活することになった。宇部高校では最初からクラス担任と女子の軟式テニス部を受け持つことになった。部員の人数はかなりいた。問題は試合ごとに出場選手を選出しなければならないのだが、選抜に漏れた部員の態度が良くないのである。試合には全員引率するが、出場出来ない生徒はバスや汽車の中で不機嫌である。腹を立ててすねるのだ。方言で言えば「はぶてる」のである。これには聊か気分を害した。男の子にはこのような態度を見せる者はいないが、女子の扱いは難しいとつくづく思った。

 クラブ活動を離れ、肝心の授業も今考えてみて、この宇部高校の3年間はあまり印象に残って居ない。小野田高校では1年生の授業のときの事であるが、非常に良く出来る生徒がいて彼がよく質問した。即答できないので夜遅くまで調べ、次の時間に説明するといったことがしばしばあった。たった1人のためにかなり勉強させられた未熟な教員だった。この生徒はストレートで東大の数学科に入り、後に統計学で日本有数の学者になった。「栴檀は双葉より芳し」である。

 同じクラスにもう1人良く出来る生徒がいた。彼は授業中別に質問はしないが真面目に勉強していた。京大に入って西洋哲学を研究し、後に京大の教授になった。岩波書店発刊の『カント全集』の監修者にもなっているが、今は下関市長府の功山寺の住職になってる。ということは彼は禅仏教にも造詣が深いということだ。考えてみれば、出来の悪い教員にとって彼らこそ師であった。

 

 考えてみると良き生徒に恵まれるということは教師として有難いことである。ところで宇部高校の3年間で印象に残っていることはあまりない。確かに1クラス50人の大半は進学し、平均してその中の2.3人は東大・京大に入り、5人くらいは九大や広大、10名くらいが山大に入るといった進学状況だった。私が宇部高校に転勤した前年にノーベル医学賞を受賞された本庶佑氏が卒業している。

 このような進学校だったが、同じ英語科の中ではわたしが一番若く、ほとんどの教師はかなり年配だった。だから話がどうも合わない。よく覚えてゐるのは教員室が火災に遭ったくらいである。そういえば小野田高校でも火災があった。ついでに言えばこの後転勤した母校の萩高校でも火災があった。

 

 ところがここに1人の生徒がいた。彼は小野田市在住だったが、わざわざ電車に乗って宇部高校に通っていた。彼は京大の工学部に入り、卒業後新日鉄に入社した。後にアメリカのブラウン大学へ留学し、学位を取得している。どういうわけか彼だけが卒業後もずっと賀状をくれるし、又最近になって彼の趣味であるクラシック音楽、又彼の信仰などについて長々と書いた文書を送ってくれた。

 彼は今77歳で喜寿だろう。卒業後一度も会っていないが、賀状にはいつも奥さんと一緒の写真を載せているので、何だか会ったように思える。

 

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 この人物は山本という姓である。私が同姓であるからでもなかろうが、昨日差出人の記載されていない大きな封書がポストに入っていた。何だか不審物ではないかとやや不安な面持ちで封を開けて見たら、山本君からのものだと判明した。A4のコピー用紙18枚にびっしりと書いて印刷されたもので、地図も入っていた。最初に次のように書き出してあった。

 

 昨年晩秋に、お手紙を差し上げた所に、また手紙かと「山本は本当に暇人だな」と、呆れておら

 れるかも知れません。

  今回の内容は、平成29年(2017年)6月20日頃に一度まとめた姓「山本」と我が家の

  Roots(祖先)探しを昨年暮れからこの2月にかけて追加修正したものです。

 彼は続けて次のようなことを書いていた。

  人は皆、生まれた時に自動的に姓が決まっています。この姓は、人生の中で同じ姓で続く人も

 あれば、途中で変わる人もいます。そのような私の姓は「山本」です。

 「山本」は山の麓を意味する地名が姓に使用された「地形性」です。日本の国土は山地が多く、山地

 は日本の国土の75%を占めるため、「山本」あるいは「山本がついた地名」が全国各地に存在す

 るそうです。また、山の麓に住む人も多く、そこに住む人の姓として「山本」が多く用いられるよう

 になった、と説明されています。

  そのために、「山本」の姓を持つ人は、全国で105万人おり、「山本」姓は多い順で全国7位

 です。山口県では約2万9千人おり、多い順で1位です。

 

 わたしはこれまで4つの高校に勤務した。いずれの學校でも、3人以上の山本姓の教職員がいたのを覚えている。だからわたしは姓より名で呼ばれたこともある。

 山本君の文章を読んで私も同じ姓だから、彼がわざわざコピーして送ってくれたのかなと思った。所で彼がなぜ先祖探しを始めたのか、その動機を彼は書いていた。これはなかなか面白いのでこの一部を書き写してみよう。

 

  私がアメリカに留学した時(1975年~1977年)、テレビ視聴率が51,1%となったテ

 レビ・ドラマ「Roots]がありました。このテレビ・ドラマは「アフリカ大陸から奴隷としてアメリ

 カに連れて来られた黒人少年の成長とその半生。およびその子孫の数奇な運命を辿ることによって、

 血と汗と涙に彩られてきたアフリカ系アメリカ人達の歴史を生々しく描いたドラマです。私はこのド

 ラマを見て、自分のルーツを探してみたい、と考えるようになりました。

 

 事の発端が以上であるが、彼はそれから彼の祖先の住んでおられた場所、そこは彼が今住んでいる小野田市から北へ行った所にある中国山脈の麓の吉部という地であるが、そこを度々訪れるなどして遂に先祖を探り当てたいきさつを縷々、実に詳しく書いている。

 わたしの家内の出生地が小野田であり、先祖の墓も小野田高校の近くの丘の上にあったので、山本君が先祖のルーツを探しに行った道筋の一部を車で通ったので懐かしい地名を思い出した。

 ここで何気なく思ったのだが、ルーツは英語でrootsと綴り祖先の意味である。これはrootの複数形で、単数形は根とか根本の意味だから関係がある。彼が先祖の住居地を訪ねて辿った道筋のことを、普通ルートといういう。ところが辞書で見たらrootとは違って、これはrouteで語源はフランス語とあった、此の齢になって初めて知った。

 彼の委細をきわめた先祖探しの記述は、先にも言ったように実に長いもので、彼が理知的な頭の持ち主で、実証的に綿密に書いているのに感心した。一読した後、彼の先祖探しになった動機と言っていたテレビ・ドラマ「Roots」について全く知らなかったので、ユーチューブを見てみたら断片的にその映画を見ることが出来た。わたしは思わず釘付けにされた。アフリカからの奴隷として連れてこられた人たちの悲惨な実体が、実に生々しく注視できないほどの迫力で映し出されていた。わたしはここでまた過去の事を思い出した。

 それは「密林の聖者シュヴァィツアー博士」のことである。わたしが教員になった頃、このシュヴァイツアー博士の事が世界的に喧伝されていたが、ある時期になって突如として影を潜めた。わたしは博士の著作集を買い求めて読んだりしたし、彼の写真集を今も書架においている。今思うに、白人がアフリカで黒人を酷い目に合せたので、博士はその償いとして、アフリカの奥地に病院を建て、彼ら黒人の救済に当たられたのである。その様な献身的行為に対して博士はノーベル賞を授与された。その際博士は「白人は兄であり、黒人は弟で、お互い兄弟仲良くしよう」という精神に基づいての奉仕作業だった。それが人類平等の精神に反するとして、以前のように博士の事は云われなくなった。ひょっとしたらこのテレビ・ドラマがそのきっかけになったのではないかと思う。

アメリカの南北戦争について『広辞苑』に次のように説明してある。

 

 アメリカ合衆国の南北両地域に起こった内戦、19世紀前半、奴隷制大農園が基盤の南部と産業社会への途上の北部とが並存していたが、西部の新領土への奴隷制拡大をめぐり対立が深化。1860年共和党リンカーン大統領が当選すると南部諸州が翌年合衆国から離脱、アメリカ連合(南部連合)を結成して北軍を攻撃。以後65年に南軍が降伏するまで戦乱は4年間続く。北部の勝利で合衆国の統一が維持され、奴隷制度廃止も達成された。

 

 以上の様に書いてはあるが、実情は中々綺麗さっぱりと拭い去られていない。このような人種差別や宗教問題が原因で、今なお世界各地で戦乱が生じている。一時世界的に有名であった映画『風と共に去りぬ』は今は殆ど上映されないようである。

 話しを元に戻して、あのテレビ・ドラマで、一人の黒人青年が手足を縛られ、親がつけた自分の呼び名を、白人がかってにつけた名前に言い換えるようにと鞭打たれる場面があった。彼はついに息絶え絶えになって、親につけて貰った自分の名前を遂に言わなくなるのだが、山本君が先祖探しを決心したのは、ひょっとしたらこの場面を見たからではないかと思った。

 

 わたしは昨日歯科医に行って順番を待っていたら、その内看護婦さんが「山本さん」と言って呼びに来た。ところがわたしより先に来ていて、長椅子に座り、両手を組んで背中を屈めていた老人が、私と同時に立ち上がった。「山本タカオさんですね」と尋ねるので、私は「はい」と言って立ち上がると、その老人も同様に立ち上がろうとした。その時看護婦さんは「それでは、生年月日は」と訊いたので、私は「昭和7年2月25日です」と答えた。一方の老人は「昭和13年」と云った段階で、私の方が呼び出されたのと判った。実は私が前もって予約していたので、遅く行ったがわたしの方が早く治療されることになった。何だかその老人に対して気の毒な気がしたが私は治療室に入った。

 わたしが今住んでいる地区は山口市内でもまだ田畑が宅地造営されていて、歯科医院へ行く途中でも3軒の家が建造中であった。又近くの小公園では子供たちが寒風に中元気に遊んでいた。これを見ると元気がもらえるような気がした。以上何だか訳の分からないまとまりのない文章を書いたが、いつも思う事は人種や宗教の差別がなく、世の中が無事平安になることである。

2024・2・15 記す