yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

孫来る

 小郡に住んでいる次男の1人娘に、1人で一度来てみんかねと言っていたのだが、それを彼女は今回初めて実行してくれた。昨日は4月7日の金曜である。1時半ごろ萩高校で教えた男性が来て1時間ばかり話をして彼は帰った。その後少しして、「今湯田のバス停に着きました」と孫が電話したので、「今から行くから待っておりなさい。出来たら常盤ホテルまで歩いて来なさい」と言ったが、孫はそのあたりの地図は不案内だと言って電話を切った。

 そこで私は腕時計を腕に当て、スマホをポケットに入れ、簡単に着替えて自転車のカギを手にして戸外に出て、自転車を引き出して我が家から急いで出かけた。歩いたら30分近くかかるので、少しでも早く行ってやろう、そうしないと不安だろうと思ってペダルを踏んだ。走行距離はバス停まで1.5キロはあるだろう。常盤ホテルを通り過ぎてバス停へやっと着いてあたりを見たが孫の姿がない。困ったなと思ったらスマホが鳴って「今常盤ホテルの前にいます」との聲である。途中見かけないので不思議だなと思いながら引き返したら、一寸見慣れないようなやや大人びた服装をしていた孫が目に入った。

 最近はコロナで往来が途絶えがちだから、私の知人や友人はもう何年も子供や孫に会っていないと言っている。私の場合、年に数回息子が孫を連れて来るから見慣れてはいるが、子供の成長は驚くほど早いから、マスクで顔を隠していたから分からなかったのかもしれない。数年会わないと見違える可能性は充分考えられる。「よう来たね、それではこれから歩いて行こう」

 こう言って、もと来た道を今度は自転車を押しながらゆっくり歩いた。朝方雨が降ったが昼からは良い天気になり、爽やかな風も吹いていて歩くのはそれほど苦ではなかった。それでも自転車を押すのはちょっときつかったので孫に代わってもらった。

 途中「もち吉」という菓子屋に寄って、「何でも好きなもの選びなさい」と言ったら、孫は遠慮がちに2袋の違った菓子と飲み物を選んだので、もう1つ添えて購入し、また歩みを続けた。やっとの思いで我が家に着いた時はもう午後4時頃だった。着くとすぐに「仏様を拝んできます」と言って仏間へ向かった。私は感心だなと思った。

 妻が亡くなってもうすぐ4年になるが、息子は来た時いつも何はさておき仏様を拝むから、見よう見まねでそうしたのだろう。「子供は親の背を見て育つ」という言葉がある。昔は大家族制で、家には普通いつも祖父母のどちらかがいた。そして父親は働きに出ているが、母親は大抵家にいた。だからそれぞれの家庭には家風があり、子供の躾がなされていた。しかし戦後此の風習は完全にと言っていいほど失われた。両親が働きに出ているので、いわゆる「鍵っ子」ということになって子供は可哀そうである。しかしこれが現在の多くの家庭の現状だろう。そこにいろいろと弊害が生ずる。

 昔と違って親は家での躾(しつけ)を放棄して、小・中学校にそれを任すようになった。これこそ家庭教育の崩壊である。そして子供の態度の良くないのを学校の責任だと言い張る親がいると聞く。実に困ったことである。こう言ったことを考えた時、直ぐ仏様を拝むと言った孫には感心した。

 孫はそれから何をするかと思ったら、すぐに春休みの宿題を始めた。横文字が見えたから英語の問題だろう。もうすぐ春休みが終わって新学期が始まる。孫は中学3年生になる。1年先にはいよいよ高等学校に入るのだ。確かに年月が早く経つ。まだ妻が生きていた時、我が家に来ると直ぐテレビにかじりついていた。それより前には、近くにある公園へ行って、遊具でいつまでも遊んで、妻が「もう遅くなるから御家に帰ろう」と言っても、「もう一回」と言っては、何回も滑り台で遊んでいたが、これも僅か数年前のことである。

 

 私は昨日、息子から孫が来る言っていたと知らせてくれたので、昼過ぎにご飯を炊いていたし、また数種類の野菜を鶏肉で煮ていた。この他に孫は魚が好きだから「鯛の粗」の煮つけを食べさせようと思っていた。ところが息子も嫁も帰りが遅くなるから迎えに来られないとの電話を受けたので、これは愚図々々出来ないと思い、食事の用意をした。鯛の粗はとても間に合いそうにないのでこれは今度来た時食べさせようと思った。折角来たのに30分ばかりしか余裕がないので、何とか食事の支度をして食べさせた。我が家の近くから市内循環バスに乗れるので、それに間に合うようにと時間表を見て算段した。結局、孫は初めて来たのだが1時間足らず帰ることとなった。

 ところがバスが10分も遅れて来たので、当初予定していた山口駅ではなくて、その手前の湯田温泉駅前のバス停で降りて駅へ行った。充分間に合って良かった。孫は新山口駅に自転車を置いていると言っていた。列車が来て乗車したのでホッと一安心した。山口駅迄行けば駅前から30分おきに2方面の路線を走るバスが出ていて、いずれも我が家の近くで停まるので余り歩かなくても良いのだ。また帰りも1キロばかり歩いて、途中スーパーへ寄って食パンを買い、そこからバスに乗ってやっと我が家に着いた時、もう日も暮れて7時をとっくに過ぎていた。電話したら孫は無事に帰っていたので安心した。両親はまだ帰っていないと言っていた。

 それから「鯛の粗」を煮て、これを唯一の酒の肴にして小さな盃で酒を2杯飲んだ。考えてみると日中4キロばかり歩いたがそう疲れも覚えず、食事の後入浴し終えた時はもう9時を少し過ぎていた。私はいつも9時に床に就くので直ぐベッドに横になった。あとは白河夜船である。

 

 今朝目が覚めて時計を見ると、4時20分だった。多少早いがもう寝られそうにないので床を出て、何時もの様に座敷へ行って本を読んだ。最近は『徒然草』と漱石の『こころ』を讀んでいる。漱石がこの作品を書いたのが大正3年4月から同年8月までの4か月間で、 この中に明治天皇崩御と乃木大将夫妻の自刃が載っているから、今から112年前の大学出の息子と彼の先生並びに親の事が書かれてある。当時の大学と言えば東京大学1校しかないから、卒業生は今から考えたら超エリートでる。父親の息子への小言にこうある。

 

 「そりゃ僅かの間の事だろうから、何うにか都合してやらう。其代り永くは不可いよ。相当の地位を得獨立しなくっちや。元来學校を出た以上、出たあくる日から他の世話に何ぞなるもんじゃないんだから。今の若いものは、金を使ふ道だけ心得てゐて、金を取る方は全く考へてゐないやうだね」

 「昔の親は子に食わせて貰ったのに、今の親は子に食はれる丈だ」

 

 戦後雨後の筍の如く多くの大学が出来た。そしてどこの家庭でも親は子供を大学に入れようとした結果と考えられるが、共稼ぎの家庭が目立つ。しかし今も昔も大学を出ても良い職に就けるのはわずかである。一時、景気が良い時があったが、今は全くの不景気である。これから大学を出ただけでは駄目だと言われている。こう言うこともあってか、今我が国は少子化社会で、一方私のような高齢者の増える時代となった。このような事を考えた時、私は孫が大学を出たころには社会はどうなっているかと思う。まあ何とか頑張ってくれたらと思うのである。

 しかし何といっても健康第一である。今ソフトボール部に入っているというが、これから自覚して運動と勉強の両立を計ってくれとひそかに願っている。

 昨日駅で別れる際に「健康に気を付けて、しかり頑張りなさいよ」と言ったら、「はい。頑張ります」と言って呉れたので嬉しかった。

 

 私は最近寝しなに木田元編『一日一文 英知のことば』(岩波文庫)をよく開いてみる。この文庫本の帯に次のように書いたある。

  学生時代に詩や小説に読みふけり思想書を読みあさった人たちも、社会に出ると日々の仕事に追われて本などのぞく暇もなくなり、通勤電車のなかでスポーツ新聞や週刊誌に眼を通すのが精いっぱい、ということになるものらしい。

  だが、それではあまり淋しすぎはしないか。せめて一日に数行でもいい、心を洗われるような文章なり詩歌にふれて、豊かな気持ちで生きてもらいたい。

 

  昨日即ち4月7日の「一日一文」を見たら法然上人の『一枚起請文」の一部が載っていた。

 

  念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じして、智者のふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし。

 

 法然は浄土宗の開祖だが生れたのが1123年4月7日で、亡くなったのが1212年1月25日だから、誕生の月日ということで選ばれたのであろう。実は妻が亡くなってから、私は毎日朝晩、此の『一枚起請文』と『般若心経』だけは仏前で唱えることを心掛けてきた。だからここに出ている文章がすぐわかった。

 4月8日を見たら驚いたことにブッダの言葉が載っていた。ブッダの説明として、こう書いてあった。

 

 仏教の開祖。ゴータマ・シッダールタ。インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥの王子だったが、生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行。35歳のとき、ブッダガヤ―の菩提樹下に悟りを得て、ブッダ(覚者)となった。その教説は仏典の形で伝えられる。生没年には諸説なる。ここには前463年4月8日に生れ、前383年2月15日に亡くなったとある。

 ブッダのことば(スッタニパータ)のほんの一部が載っていた。

 

  いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛な者でも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

 

  法然と釈迦は2人とも丁度80年の生涯であった。今から考えたら百歳を越えるほどの長命である。私はこの文庫本で2月25日を見てみたら蓮如の言葉があった。この日は私が生まれた日だからちょっと見てみたのである。

 

 一生すぎやすし。いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。

 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはち二つのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属集まりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

 

 蓮如も85歳の長命である。色々と苦しい中にあっても、かれらは心の平安を保っていたからこそ長寿を全う出来たのだと思う。こうした偉大な先人の事を思い、私も何とかあやかって、心静かに生きるように努力しなければと思うのである。

 昨日と言い、今日と言い、何だか良い日であるように思えた。

2023・4・8 記す