yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

温(ぬ)く温(ぬ)くnook(ぬっく )

  10月13日の木曜日、午後になって田村君から電話があった。「コロナに感染したので今日はお伺いできません」との通話である。

 これには驚いた。彼はもう2年前から隔週、今年になって毎週といっていいほど我が家に来る。彼は80歳になって非常勤の仕事を辞めてから急に体調をくずした。それまでは人一倍元気で一緒に九州1周の旅などもした。その時彼が1人で車を運転してくれた。ところがここ最近体の調子が悪く、朝の内は頭がボーとして全くものが考えられない。しかし昼からは次第に良くなる。したがって何もしないでいては益々悪くなるので、出来るだけ人と会話をすると良いので、毎週木曜日に奥さんの車の送り迎えで我が家に来る。

 彼は数日前ある集会へ行って、その時どうも感染した様だ。「喉が痛くて痰が詰まるので、医者へ行ったら感染だと言われた」とのことである。こういったわけで私としては、彼が来てもありきたりの話をするだけで、別に大したことはないが、彼にとって良いというのだから「いつ来てもいいよ。どうぞ」と言って、多少でも役に立てばと思っている。今日も県内では山口市の感染者が一番多いとテレビで報じていたが、身近にこう言ったケースがあってやはりそうかと思った。

 

 その日の前日、10時半ごろ、高津夫人が柿と茗荷が出来と言ってわざわざ持ってこられた。その時我が家の菜園に出来ている小芋を見て、根元に土を被せたらいいと言われたので、先日買ってきた「花と野菜の培養土」を2袋 使おうと思い、その前にゴム手袋をしようと思って、いつも子蛙が来ていたところにある籠の中からとって来た。 左手にまず手袋をあてがい、次に右手の指を手袋の中に差し込んだら、何か紙のようなものが詰まっている感じがした。「変だな」と思って、指を手袋から抜いて、指先の方をもって振り動かしたら、カメムシが1匹地面に落ちた。

 これでよかろうと思いもう1度指を突っ込んだら、まだ何か指先にカサカサとしたものを感じた。もう1回前と同じようにして手袋を振ったら、今度は2匹のカメムシが出てきた。誰もが知っているように、この小さな昆虫は異臭を放つ。私は指を鼻先に持って行ったら実にいやな臭いがした。

 

 これは前に書いた事だが、2年前ばかり前、我が家の後ろ側に小さな物置小屋があるが、その傍に私は此のゴム手袋に似たものを置いていた。使おうと思って指を突っ込んだら、ひやりと感じたので見てみたら小さな蛙が出てきた。「こんなところに入っていては困る」と言って、私はそこから10メートルほど離れたところにある茂みの中へ入れてやった。ところが3日後にもう1度その手袋を手にしたとき、同じ蛙が手袋の同じ指の中に入っていた。私は不思議に思うと同時に、よほどこの手袋が気に入ったのだろう。この蛙は冬眠していたのだと思って、もうそのままにしておいた。私はこの蛙にとってこの狭い空間が居心地が良いのだと思った。私はこの場所がこの蛙には「温かな片隅」、つまりホットコナーだと思った。

 

 蛙についてだが、不思議なことに去年、今年と我が家によく姿を見せた。私にとっては家内が亡くなり1人になったので、このような小さな生き物でも来れば何だか心が和む。だから「来てくれる」と言った方がより適切かも知れない。今年は6月23日に最初に姿を見せて、10月4日を最後に姿を消すまで、およそ100日の間来たり来なかったりした。そして後半にはいつも同じ場所に坐っていた。この事は前に何度も書いたが、朝早い暗いうちから来て、勝手口の下駄箱の上のビニールの籠の縁に止まり、終日そこにいて暗くなったら茂みへ帰って行くのでる。私は不思議でならなかった。

 同じ場所にじっとしているのが雨蛙の習性かもしれないと思う。しかし10月も半ばになり、ついに朝寒いから来なくなったのだ。彼はこの冬何処で過ごすのだろうか。先の蛙のように手袋を置いておこうかなとも思う。

 

 私はこの拙文の題名を『温く 温くnook 』とした。読み方が語呂合わせのようだが、この英単語の意味が「温い」ことに多少関連しているように思ったからである。

 

 英和辞典にこうある。①人里離れた所、辺鄙な場所。②(部屋などの隅、人目につかない場所。

 

 手袋をぶら下げていた場所は、先にも言ったように家の後ろの人目につかない片隅で、そこには陽が日中射していた。従って蛙にとっては絶好の隠れ場で、冬眠するには最適の場所だったと思われる。私はこの「nook」という言葉を以前使ったことがある。そのことを今思い出したので、前に書いた文章を書き写してみよう。

 それに先立って少しばかり説明すると、平成28年4月下旬に、私は京都の上加茂神社の近くにある常光院という真言宗の寺へ行った。目的は、勤王歌人として有名な太田垣蓮月に私の曽祖父が会っていて、数首の歌を書いてもらっているのを知って、ぜひ彼女の墓を訪ねてみたいと思ったからである。『広辞苑』には次のように載っている。

 

 太田垣蓮月

   江戸末期の女流歌人。名は誠(のぶ)。京都の人。夫の死後、尼となって蓮月と称す。

  陶器を製し自詠の歌を付けて世に賞美され。東山に高潔な生涯を送った。歌風は優美繊細。

  歌集「海人の刈藻」。(1791~1875)   

 

「蓮月のお墓は何処にありますか?」 

「門を出て右手に少し行かれたら、登り段があります。そこを登って行かれたら大きな桜の木があります。その桜の木の下にあります」

小さなカウンターの様な窓越しに若い女性は教えてくれた。暑いのに遠路わざわざ訪ねたというのに淡々と事務的に応対するだけだった。しかし考えてみれば全く人気のない境内。それはこちらの勝手で、彼女にしたら又物好きが来たといった程度にしか思はなかったのだろう。

  境内に止めていたタクシーの運転手にもう少し待っていてくれと言って、私は教えられたほうへ歩いて行った。石段を上ってまっすぐに進んだ所に桜の大きな老木があった。

はるばると訪ねて来た墓であるが、それは全く予期に反したものであった。桜の木の根もとにあって、慎ましくこじんまりと、また巨樹の懐に抱かれているかのように、安らかに位置していたからである。しかしこれこそ蓮月に相応しい終焉の地だと思った。私は英語の「nook」という単語を思い出した。まさしくここは「引っ込んだ場所」で、彼女の永遠の「隠れ場所」なのである。

大田垣蓮月墓」の文字がはっきり読み取れた。「鉄斎の筆をそのまま刻んだ、なんの飾りもない、つつましいお墓である」と杉本秀太郎氏は書いているが、「蓮」と「墓」の草冠だけが、普通に見る字形ではなかった。

 側に立つと、見下ろすような小ささで、時が経っており、僅かに赤茶けた色肌の楕円形の自然石の墓である。それは小さな台石の上に座っており、素朴な字体の碑銘がくっきりと刻まれていた。墓前には一束の新鮮な草花が手向けてあった。私は手を合わせた後、カメラを取り出して写した。カメラで覗いてみると、巨木の片隅にあって一段と小さく思えた。

 

 もう少し関連したことを書いてみよう。「陽だまり」という言葉がある。これは「日光のよく射して暖かい場所」のことである。

 

 蛙が来なくなった日の朝、私は家の周囲の飛び石伝いに家の後ろにある茶席の庭へと廻ってみた。そうしたら隣との垣根の下に何か動くものが見えた。そこには苔が生えていて、大きな石と石燈篭、それに2本ほど木が植えてあって、丁度朝日が射していて正に「陽だまり」の場所になっていた。よく見ると、やや灰色がかった黒猫が1匹寝ていたのだ。ところがその傍で、走り回っている黒い毛に白い線の入った子猫が3匹もいたのには驚いた。彼らはこのnookを格好の遊び場所として一時来たのだ。それから翌日も来ていたがその後は姿を見せなかった。この点蛙とは違うなと思った。

 

 「陽だまり」に似た言葉で、「日盛り」という言葉がある。

 種田山頭火の句に「日盛りのお地蔵様の顔がにこにこ」というのがある。私がこの句を知ったのは、父が晩年、山頭火の句が気に入ったのか、何枚かの和紙に数句づつ筆で書いて、それを和綴じの冊子とし、表紙に紅葉を散らして薄い紅色の染料を吹き付け、葉を除けた後が白く残るようにした。

 

 父の死んだ後、母はいつもこれを開いては読んでいた。母はそれから10年ばかりして認知症になったが、この冊子は何時も手元に置いていた。或る日知人が見舞いに来た時、一寸読みにくい字で書いてあるこの山頭火の句を母がすらすらと読むので、「奥さんは少しも変ってはおられませんよ」と言ったことがある。来られた人には容易には読めない字で書いてあった句を、母が読んだからであろうが、母はいつも読んでいたから空に覚えていただけの事だ。その中に、先にあげた山頭火の有名な句があったのだ。

 

  日盛りのお地蔵様の顔がにこにこ

 

 私は母が亡くなった時、父が自ら作ったものだから遺しておこうと思ったが、妻が「おばあちゃんが手元に置いていつも開けては読んでいたのだから、お棺に入れてあげたら」と言うので、それもそうだと思い、妻の言うとおりにした。母はあの世においてもこの句集を愛読していることだろう。

 

 最後にこれは初めて知ったのだが、先に私は「ホットコーナー」という言葉を用いた。これを私は「暖かい片隅」くらいの意味で用いたのだが、辞書を引いたら野球用語であると知った。次のように定義してあった。

 

  野球で、三塁のこと。強く速い打球が飛んでくるところからいう。

 

 戦後、特に最近はカタカナ言葉が氾濫して、我々年寄りは全くついていけない。テレビや新聞雑誌などにはこうした言葉がふんだんに出てくる。従って日本語といっても、発話者と聴者の間で、意思が正確に伝わっているか疑問に思える。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」ではなかろうか。美しい日本語を顧みないで、無味乾燥ともいえるようなカタカナをこのように使うのは考えものである。

 

                    2022・10・15 記す