yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

ボーリング

                                          

 バレーボールくらいの大きさの球を転がす競技「ボーリング」を英語で書けばbowlingだが、同じ発音のボーリングをboringと綴ると全く違うことを意味する。これは山岳や地面などを掘削することである。前者はボウリングとも綴っている。私は今前者の遊びについて書いてみよう。

 

 5月7日は日曜日で、長く続いた連休の最期の日であった。私は一度でいいから孫娘とボーリングをしたいと思い、次男にそのことを言っていたら来てくれた。朝から雨が激しく降っていて、今日は来ないだろうと思っていたが1時半ごろ孫と一緒に来た。私はすぐ準備し戸締りを終えて彼の車に乗って出かけた。我が家から1キロばかりの所にあったボーリング場は営業停止なので、小郡の遊技場へと車を走らせた。

 この競技場は食品スーパーに隣接している。その日は連休の最後でしかも日曜日のためか、激しい降雨にもかかわらず駐車場は満杯だった。やっとの思い出で車を駐めて遊技場へ入ってみると、ここも満員で客待ち状態だった。折角来たのだから多少待つことを覚悟して申し込んだ。ところが待つこと約2時間、これにはいささかくたびれたが、遂に競技のレーンが空いたとの知らせで、我々3人は準備してその場に臨んだ。

 

 各自ボールを選び所定の靴に履き替え、先ず次男、続いて孫、そして私は3番目に競技を始めた。私はそれこそ20年ぶりにこのボールを抱いたことになる。ずっしりと思った以上の重量を感じた。まずボールの中にある3つの穴に、親指、中指、薬指を差し込み、残りの指と一緒にボールを抱くようにして、ゆっくり前進して最後に右手だけでボールを持って、前方の9本の徳利状の棒柱、すなわちピンに向かって投げた。緩やかな斜面をボールは転がり何本かを倒したが1度に全部ということは出来なかった。したがって今度は戻って来たボールを又手にして2度目の投球をしたが1本だけ残った。

 上手な人は最初の投球で全部倒す。たとえ失敗しても2度目には残ったピンを完全に倒す。息子はかなり上手だが孫は私と同程度だった。この重い球を投げる時、若い連中はかなり勢いをつけて走って、右腕を大きく後ろに振って投げる。上手な人が投げた球は初めは直線に進むが最終段階でカーブして中央のピンに強く当たるのであるが、下手が投げると最初手から離れたボールが床に接した時大きな音がしてゴロゴロと音を立てて転がる。こうしたことで室内全体にある24のレーンのたとえ半分が殆ど同時に使われていても、競技場内は人声なども加わってもの凄い喧騒に包まれる。こうした状況下に1日中いや1年中働いている従業員は大変だろうと思った。およそ閑寂な境地とは真逆の有様だ。こうした運動競技で一番静かに行われるのは弓道だと思う。弓道は暇つぶしを意味するスポーツではないからだろう。

 

 競技は1人3回で、1回ごとに上手な人は10度だけ投げてすむが、私のよな素人は20度近く投げることになる。私は2回で終えた。それでも40度投げたことになる。日ごろ使わない右腿の筋肉が少し痛く感じたからである。したがって私の分を孫が消化してくれた。長い時間待ったが念願の競技が出来て私は満足した。私の無聊を慰めるために、わざわざ雨の中を来て一緒遊んでくれた息子と孫には感謝の気持ちで一杯だった。多くの競技者の中で、まさか90歳を越えた老人は他にはいなかっただろう。

 「年寄りの冷水」という言葉がある。私はこれを思い、帰ると直ぐに入浴し風呂から上がると、腿にサロンパスを貼って、夕食を食べ終わると早めに床に入った。8時過ぎたばかりだったが、一晩寝て翌朝目が覚めたのは4時半だった。1度もその間起きなかった。運動して疲れていたからとも思う。目が覚めた時は腿の痛みはすっかりといっていいほどよくなっていた。私は5時になったので起き上がり、何時もの様に座敷に行って坐って、数日前から読み続けている宮井一郎著『評伝 夏目漱石』を開いた。この本は私にとっては非常に興味を引くので平均して2・3時間は讀む。

 2時間ばかり読み、神仏を拝み朝食を食べた後、上記の文章を書いたのである。その後横になってボーリングの事から人間の遊びについて、それも球を転がしたり蹴ったり投げたりすることについて考えていた時、ふと昔読んだワシントン・アービングというアメリカの初期の作家が書いた有名な作品『スケッチ・ブック』に、「九球戯」について確か書かれていたと思い出した。そこで2階へ上がって書棚を探したらその本があった。ページを繰って見たら載っているではないか。私は試みにネットを開けてみたら次の様な説明があったので紹介しよう。

 

 【概要】 アーヴィングがオランダ人移民の伝説を基として書き上げたものであり、「主人公にとってはいくらも経っていないのに、世間ではいつの間にか長い時が過ぎ去っていた」という基本的筋の類似性から、「アメリカ版浦島太郎」というべきもので、「西洋浦島」とも呼ばれている。

  日本で初めて完全な形で翻訳したのは森鴎外である。そこで私は『鷗外全集』第一巻を見てみた。「新浦島」の題名で鷗外がドイツ語から重訳しているのを確めることが出来た。此の物語について、なかなか良い要約がネットに載っているからこれも引用しよう。

  

  アメリカ独立戦争から間もない時代。ニューヨーク州に住む呑気者の樵(きこり)リップ・ヴァン・ウインクルは 口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川キャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬を連れて猟に出かけたが、深い森の奥の方へ入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいるのは見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと山奥の広場の様な場所にたどり着いた。そこでは不思議な男達が九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。リップは彼らにまじって愉快に酒盛りを始めたが、やがて酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまった。

  その後、リップは目醒め、山から迷わずに下りることができたが、しかし、奇妙なことに町はすっかり様変わりしてしまっていた。親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立国になっていた。そして、妻はと言えばすでに亡くなっており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年月が過ぎ去ってしまっているのであった。

 

 私は随分前に辞書を引きながら此の「リップ・ヴァン・ウインクル」の文章だけは讀んでいた。此の度久しぶりに本を開いてみて、いくつもの単語に赤い線を鉛筆で引いている。鷗外の訳も讀んでいたがすっかり忘れていた。物語の内容は今ここに書いてあるのを知ってそうだったかと改めて知ったのである。そこで鷗外の訳を参照しながら英語の原文を再読してみた。鷗外は「九柱戯」の言葉が出ている個所を次のように訳している。前後の文章を少し短縮して書くと以下のようになる。

 

  岩の裂け目を通してみると、ここは一つの岩窟です。その形は劇場の桟敷に似て居て、その周囲は急な崖です。(中略)岩窟に這入ると、また驚くべきものが目に触れました。窟の中央の窪んだ處にに奇妙な風采の人物が寄って尖柱戯(向こうに立ててある尖った木の柱を、こちらから木の丸を転がして倒す戯)をして居る。

 

 さらに10数行後に、また九柱戯の事が出ている。一部新漢字で書く。

 

  殊にリップの目に可笑しく見えたのは、此人々が眞に楽しんで居るに違いないのに、皆真面目な顔をして、さも秘密らしく黙って居ることです。ですからリップが今迄見た内でこれが一番沈んだ會でした。この場所の静かなのを時々破るものは、丸の音計りです、投げ出される度に、山傳ひに谺響を喚起す、鳴渡る雷の様な丸の音計りです。

 

「丸」とはもちろんボールのことだが、競技をしている連中が皆真剣に静かに行い、ボールの転がる音だけが岩窟の壁に反響して雷のような大きな音を立てていたというのに、私は昨日のボーリング場を思い出して不思議な気がした。鷗外は此の音を「谺」(こだま)と「響」の2字で上手く訳出している。なおネットを見るとこの球を転がしてピンを倒す競技は今から5000年前のエジプトの時代からあるとか。またオランダではピンは9本だがドイツで宗教改革を行ったマルチン・ルッターが10本にしたと書いてあった。

 

 私は「リップ・ヴァン・ウインクル」の話に関連して、小学校で習った「浦島太郎」の唱歌を思い出してネットを見てみた。1番と2番までは覚えていたがそのほかははっきりとは歌えなかった。

 

  昔々浦島は

  助けた亀に連れられて

  竜宮城へ来て見れば 

  絵にもかけない美しさ

 

  乙姫様のご馳走に

  鯛や平目魚の舞踊り

  ただ珍しく面白く

  月日の経つのも夢の中

 

  遊びにあきて気が付いて

  お暇乞いもそこそこに

  帰る途中の楽しみは

  土産に貰った玉手箱

 

  帰ってみればこは如何に

  元居た家も村もなく

  路に行きあう人々は

  顔も知らない者ばかり

 

  心細さに蓋とれば

  開けて悔しき玉手箱

  中からぱっと白烟

  たちまち太郎はお爺さん

 

 『リップ・ヴァン・ウインクル』は此の浦島太郎の物語と実によく似て居る。私はさらにこれに似たものを思い出した。これは陶淵明の『桃花源記』という有名な漢詩である。私はこれは浦島太郎の基となった作品ではないかと思った。以下のような内容である。

 

 昔武陵に住む1人の漁師が川を遡って行くと迷ってしまい、両岸に桃の花咲く林にまでやってくる。花が芳香を放っていてひらひらと散っている。水源近くに達した時山に小さな洞窟が開いている。彼は船を放置してこの空洞に這入っていくと突然眼界が開けて、外の世界と隔絶した穏やかな村落が目に入る。正に桃源郷である。村人たちが近寄ってきて彼を家に招じ親切にもてなす。髪が黄色くなった老人や髪を垂らした子供たちがいて、彼らは秦の時代に逃げ隠れて平和な生活を営んでいると言う。だから外部の者に自分たちの事を決して話してはいけないという。数日後彼は此の平和な村を去って自分の土地に帰る。役人にこのことを告げ再度行こうとするがどうしても行く路が見つからない。

 

 これは浦島太郎の物語やリップ・ヴァン・ウインクルの説話に似たものである。陶淵明東晋の時代の詩人である。西暦365年に生れ427年に亡くなっている。彼は恐らくと伝え聞いた上記の事を有名な詩『桃花源紀』にしたのだろう。私はここに平和に暮らしていた村人達が秦の時代(~前206)からこの桃源郷に隠れ住んでいて、その後の時代の変化を知らないと言っていること。そしてもう1つは老人の髪が白髪ではなくて黄色といわれていることから、彼らはユダヤ 系の難民ではないかと思った。最近の研究では秦の始皇帝ユダヤ人だろうと言われているからだ。ボーリングをした事から話しがとんだところまで発展したが、お陰でこういったことを連想出来て面白かった。

 

 陶淵明といえば有名な詩『飲酒』がある。『桃花源記』といい彼はこうした境地に憧れていたのだろう。

  盧を結んで人境に在り

  而も車馬の喧し無し

  君に問う 何ぞ能く爾るやと

  心遠ければ地自ら偏なり

  菊を東籬の下に采り

  悠然として南山を見る

  山気日夕に佳く

  飛鳥相与に還る

  此の中に真意有り

  弁ぜんと欲すれば已に言を忘る

                  (『石川忠久著『漢詩への招待』文春文庫)

 

 最後に球についてだが、ボーリングをはじめとして人間が楽しむスポーツには玉や球を使用するものが数多くある。小さいものとしてはパチンコ、そして卓球、ゴルフ、テニス、野球、バレー、バスケット等かなりの数だ。実は此の玉や球を完全な球体に作る事が非常に難しいということを聞いたことがある。話してくれたのは私が萩高校で教えた男性で、彼は良く出来て東大の工学部大学院に進み、卒業後わが国の有名なベアリングの製作会社に入り、アメリカの大学まで行って研究して会社の役員に迄なった。今は停年退職したようだが、如何に完璧な球体を作るかということは至難の事ですと言っていたのを今思い出した。彼が作っていたのは精巧な機械に使用するこれまた精巧なベアリングである。確かに精巧なベアリングがなかったら、機械工業は停止してしまうだろう。

                             

                           2023・5・10 記す