yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

海上漂流 

 

 私は毎日は風呂に入らない。妻が生きている時から大体そうしている。つまり1日おきの入浴である。最近になって気が付いたことだが、前日に風呂に入らないと、真夜中の1時頃目が覚めてトイレに行きたくなる。その後床に入るがまた3時か4時頃目が覚めることがある。こうなるともうなかなか寝付けない。ところが風呂に入った日は熟睡できて、夜中に起きないで6時ころまで寝ていることがある。しかし必ずしもそうと決まってはいない。我が家の大きな浴槽にお湯を充分いれて入るのは何だか勿体ないという妻の言葉に賛同して、入浴は隔日にしていた。暑い時は毎日シワーですます。宮本武蔵は生涯風呂に入らなかったそうである。森鴎外も入浴はしないで洗面器にお湯を入れてそれで体を拭いて清潔を保っていたようである。戦場でのやり方を鷗外は励行していたのだ。ウクライナの人たちはロシヤの攻撃にさらされていて入浴どころではなかろう。

 

 私の子供の頃を思い出すが、風呂焚きをよくさせられた。深い井戸から釣瓶で水をくみ上げ、バケツに入れて少し離れたところにある風呂場の五右エ門風呂桶の中へ、両手に下げたバケツの水を入れ、また戻って汲み上げる。風呂桶一杯になるまでこの動作を何回も繰り返さなければならない。

 或る日のことだが、釣瓶が何だか重く感じられた。汲み上げたら子猫が入っていた。井戸には蓋がないので井戸枠の縁へ飛びあがった時、中へ落ちて溺れて死んだのだ。この小さな猫は、暗い深い井戸の中を下降するとき、また母親の援けを求めてしばらく水の中で手足をばたつかせながら泣き叫び、遂に溺れて死んだのだ。私はその時の情景を頭に思い浮かべ、可哀そうでたまらなかったことを今でもはっきりと思い出す。

 

 こうして浴槽に水が満たされたら、今度は風呂の焚口へいき、先ず新聞紙にマッチを摺って火をつけ、最初は木切れ、それから木小屋に積んである薪を持ってきて、火がよく回るように重ねて、火吹き竹で吹きながら火力を強くした。また庭にある大きなタブノキの枯れ葉を炭俵に一杯掃き集めて来て燃やすようなこともよくした。こうした時小さな蟻が逃げまどうのをよく目にした。このような訳で風呂焚きは今とは違って一仕事だった。当時も毎日の入浴ではなかった。今はスイッチ1つで風呂が焚けるが、洗濯にしても今と昔は大違い。この点電気冷蔵庫、洗濯機、さらに水洗トイレといった製品が出回り、生活が見違えるほど便利になった。今の若い人はこうした便利さを至極当然の如く考えているだろうが、それまでの家庭の主婦の生活は、子どもを育て、食事の支度などに加えてこうした仕事もあって本当に大変だったと思う。男女同権、職場への進出も女性が暇になった事に多く関係すると思われる。しかし男性には絶対に不可能なことを忘れてもらってはいけない。国の存亡に関わることだから。

 

 さて、今朝もこうした状態で3時過ぎに目が覚めた。床の中であれこれ考えていたが思い切って起きることにした。時計の針は4時20分を指していた。早く起きるにはやはり自分自身を励ますというか、ちょっとした気合を入れなければならない。「よし、起きて昨日の続きを読むか」と自らを励ます。

 私は昔から早起きである。もう60年も昔になるが、結婚した当時も早く起きて外に出て散歩をしたりジョッギングをしていた。妻はびっくりして自分も起きなければと思ったようだが、「まだ早いから寝ていたらいい」と言って私だけが起きていた。妻は私とは反対に夜更かしが平気というか、なかなか寝付かれない性分で、朝早く起きるのは苦手だった。しかし子供が生まれて学校へ行くようになると、仕方なく早く起きざるを得なかった。子供たちが大学へ行き家を出てからは、私より遅く起きていた。私はその当時から5時頃には起きて好きな本を読む習慣だった。しかしあれから年月が経ち、こうして年を取り1人暮らしになると、また今現在のように寒い季節だと、自ら一種の気合を入れなければ、つい無理をせずに惰眠を貪ろうという気持ちを抱くようになる。

 

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 前置きが長くなったが、実は今朝讀んだ文章に注目した。私は今月の始めから『唐木順三全集』と、『寺田寅彦全集』を出来たら全巻読もうと思い、大体5時に起きて座敷で坐って両方を1時間半づつ読んでいる。唐木氏の本は「第九巻」を拡げた。寺田全集は「第一巻」から読んでいる。これは唐木氏の文章にあったのだが、「諫早の一少女のこと」という題で次のようなことが書いてあった。彼は朝日新聞に載っていた記事を読んで胸を打たれ、国語教科書に載せてもいいほどだと書いている。私も同じように思うので紹介してみよう。

 

 昭和35年7月25日から6日にかけて九州西部、ことに長崎、熊本は未曽有の豪雨(雨量730 ミリに達したところもある)にみまわれ、900人以上の、死者、行方不明者をだした。諫早市の被害が最もひどかった。この時のことである。

 

 諫早市の小森繁太郎さんの娘、中学3年、洋子さん(15)は、25日の夜、雨のために海の中に落ち、木材につかまって、海上20キロを約12時間漂流、26日、午前9時ごろ、佐賀県の八戸灘夫さんに救助された。この時の彼女の恐ろしい思い出である。そのまま書き写してみよう。

 

 25日、午後9時半ごろ、窓ガラスを破って、泥水が流れこんできた。隣の二階へ逃げたが、まもなく家がゆれて、シュミーズ1枚着ただけで水に流された。あたりは一面、まっくら。弟の健一が「兄さん」「兄さん」と呼んでいるのがかすかに聞えた。

 気がついたときは、電柱のような丸太にしがみついていて、海に出ているのだとわかった。「父も母も弟も死んだろう。私はどうやっても生きてやるぞ。」という気持で胸がつまった。

 私は、たったひとりぼっちになったことが急にさびしくなり、校歌を歌いだした。歌っていると、どうにでもなれという気持になり、恐ろしさはなくなった。寒いのであたたかい水の中に手と足を入れ、材木にはらばいになっていた。歌を歌う元気がなくなり、眠くなり出した。眠ってはダメだと、髪を引っぱつたり、ほっぺたをたたいたりした。修学旅行の楽しい思い出で気持をまぎらしたが、父や母の顔が浮かび、だめだった。

 いつのまにか、雨も小降りになり、あたりもだんだん明るくなったが、あたりには船はなし、もうだめかと考え出した時、遠くの方に船がみえ、だんだん近づいてきた。この船に助けられないとだめだと思い、力いっぱい叫んだ。船頭さんが手をふって近づいて来るのが見えた時、私は気が遠くなりだした。

 

 唐木氏はこの後の状況と彼の感想を述べているが、最後に「私は、洋子さんは偉いと思う。中学生むきのいい教材になると思うが如何」と結んでいる。私も全く同感である。

 この記事は昭和35年のことだが、昭和50年頃、私は母校の萩高校で生徒課の係だった。その為に月に1度だったと思うが、講堂に全校生徒を集めて話をした事がある。何を話そうかと思っていた時以下の話題を耳にした。何回かこうして話したが、今でも1つだけよく覚えていることがある。これは矢張り「海上漂流」のことである。

 

 丁度その頃のことであるが、萩市に隣接している阿武郡出身の1人の青年の事である。彼は大きな石油タンカーに乗船していた。或る日の夕方、船がインド洋に差し掛かった時、誰1人いない広い甲板に出て大海原を見ていたが、何のはずみか、それとも酒でも多少飲んでいたのか、海中に落ちたのである。気が付いたときは母船は蒼海に白い航跡を残して遥か彼方に去って行く。このあたりの海には人食いサメや鱶がいるかも分からない。彼はズボンから褌を出して長く垂らした、自分の身体を大きく見せるようにした。自分よりも小さいと見たら攻撃するかれらの襲撃を恐れたからである。また彼は朝になったらきっと母船が引き返してきて自分を助けてくれると確信し、なるべく落ちた位置から離れまいと思った。彼の願いが叶って翌朝母船が引き返してきたのである。彼はあらん限りの声を上げて知らせた。監視を続けていた船員が彼の存在を見つけて、ボートを下ろして救助に向かい、彼のすぐそばまで来た時、彼はブクブクと海中に沈んだ。

 諫早の少女の言葉にもあるように、助かったと思った瞬間に緊張の糸が切れることがある。船員はこういったことを知っていたので、大急ぎで彼を助けようとしたら、彼は海上に頭をのぞかせてニッコリ笑顔を見せてこう言った。

 「褌を垂らしていたので、潜って締めなおしたのだよ」

 

 私はこの話を聞いていたので生徒諸君に話したのだ。私はこの船員も偉いと思う。ついでにもう少し関連の話を書いてみよう。

 

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 以上は戦後のことだが、戦時中はこういったことは多くあったと思われる。昭和49年8月15日に、吉田満氏の『戦艦大和の最期』が、著者署名入り限定千部出版された。紺色の布表装の二重箱入りの立派な本である。私はぜひ手に入れたいと思って注文した。手元に届いたのは同年10月26日で、「第948番」と記してあった。私は妻が亡くなった翌年、令和2年12月9日から14日にかけて再読し、全文ではないが大部分をペンで謹写した。この中に先に述べた事に関連した文書があるので紹介してみよう。原文はカタカナで書いてあるが、平仮名で書き、仮名づかいは其のままにする。

 

     漂 流

 重油滲みてまなこ開かず 息を吐きつつこぢあけ、耳を拭い、漂うこと数分

 やうやくにして、身辺なほ娑婆の連続にして冥土に非ざるを悟る――畜生、浮き上がったか、また生きるのか――

 細雨降りしきる洋上に、重油、寒冷、機銃掃射、出血、鱶とたたかふ間近に見れば、灰色に光る波、うねり荒く、重油を纏ひ密に粘る外洋の波泥糊の如き重油層 一面の気泡 漂ふ無残の木片放歌してみづからを励ますもの 聲遠く近く 乱れて響くこの身の重さに喘ぐもの

 悶え苦しむは深傷の兵か 重油の黒一色のため、鮮血も判別し得ず哀れ発狂して沈み行くものあり 重油の吸収は生理に異常を来す 笑う如き唱聲、むしろ矯聲に近し

 動作活発に過ぐるものの瞬時に姿を没するは、その動きの標識故に、飢えたる鱶の餌食となるか力つき沈みゆく兵多し 若き兵の多くは、母を恋ふらしき断末の聲をあげ、天をつかむ雙手空しく突き上げたるまま、ずぶと姿を消す

 

 

 私は全く忘れていたが、この筆写文と併せて誰の言葉か知らないが以下の文を書き添えていた。

 「閑文字とは目前に有用ならざるものを言うにあらずして、人を動かす力なき文字をさすものなり」

 この吉田氏の文章は確かに人を動かす名文だと思う。

 

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 最後にもう1つ。これは私が本人から直接聞いたもので、先の戦争で乗艦を沈められ、比島沖の海上を漂流した人の実話である。実はすでにこれは拙著『杏林の坂道』に書いているが、それを此処にもう一度紹介しよう。

 拙著の中に出る主人公は緒方惟芳という人物で私の伯父である。彼は阿武郡宇田郷村の一介の医者であった。彼は日露戦争に従軍し、無事帰還後、広島陸軍病院に勤務しながら猛勉強して医師の資格を取った。これを聞いた当時の村長ががわざわざ広島へ行き、彼を説得して村の医療をお願いしたのである。体験談を話してくれた人物はこの医者と多少関係があった。彼はこの村で生まれ育ち、当時もそこで暮らしていたかなり年配の男性である。

 

  萩市に「串安」という看板を掲げた一杯飲み屋があった。赤銅色の顔をして年をとっても筋肉質で締まった体の70歳近い親父さんで、やや小太りでいつも白いエプロンを身に着けた彼の奥さんの2人だけで店を営んでいた。この主人は毎日自分の家の近くの日本海へ小舟を漕ぎ出ては、その日に釣ったチヌやクロアイ、あるいは アジやイカなどを、止まり木に腰を掛けた客の目の前で、手早く器用にさばいて刺身にして出してくれるので、いつ行っても常連の客足の絶えることはなかった。

 彼は使い慣れた小さな包丁を左手に持って客と話しながら、自分でもコップ酒を時々ひっかけながら、次々と酒の肴を小皿に入れて出してくれた。彼はまた非常に話し好きでもあった。或る晩私は店の暖簾を潜って店に入った時、たまたま他に客はなかった。私は彼が宇田郷村の生まれだと聞いていたので話を向けてみると、如何にも懐かしそうに次のようなことを物語ってくれた。

 

 「私はのんた、仰る通り宇田郷村(現在の阿武町宇田)の井部田の生まれで白石と言います。子供の頃、具合が悪いとき緒方先生に診てもらいに行きよりました。私が召集を受けて海軍に入った時、宇田の駅まで見送りに来られた人たちの中に先生がおられました。先生はその頃軍友会(注:在郷軍人会で、除隊した軍人で作られていた)の会長でした。私の側までお出でになられて、『お国のために頑張って来いさい。しかし決して無駄死してはいけんで。無事に帰ってくるのでや』と仰られて、私の顔をじっと慈しみの目で見られました。その時、着ておられたオーバーの中からミカンを3つほど取り出して、私の手に渡して下さいました。

  考えてみたらたかがミカン3個です。しかし私は嬉しかったですいのんた。先生が今から国のために命を投げだそうという若者に、何かしてやりたいという、そのお気持ちがひしひしと感じられたからです。今でもあのときの事は忘れることが出来ません。先生は本当に優しいお方でした」 

 こう言って俎板の側に置いてあるコップ酒を一口ぐいと飲むと、白石さんは話を続けた。

 「私は生まれが漁師でありますから海軍を志願しました。こまい時から海は私の遊び場のようなものでありますからのんた、少々海が荒れてもへっともありやしません。軍艦に乗っていてシンガポール沖で魚雷にやられ海に放り出されました。それがのんた、幸い怪我が軽かったから良かったので、なるべく体力を消耗しないようにと、暫く波間に漂っておりましたいの。そこへ味方の駆逐艦が来て助けてくれました。それで一時除隊になって宇田へ帰って先生にご報告しますと、先生は非常に喜んでくださいました。その後また召集でやはり同じような目に遭って、その時も無事に助かりました」

 こう言って白石さんは考え深げに言葉を続けた。

 「人間の一生は全く運でありますのんた。戦が終わって帰還しました時には先生は亡くなっておられました。それから一時他所へ出て働きました。停年になって仕事を辞めて宇田へ帰り、毎日朝のうちに海へ出て潜ったり、一本釣りで捕った魚を萩へ持って来ましてのんた、こうして皆さんに食べてもらっているのでございます。私なんか本当に運が良かったです。先生が『無事に帰って来いよ』と仰られましたが、先生のご長男は硫黄島で戦死なさったそうで、さぞかし哀しかったことでありましょうのんた」

 こう言って赤銅色の顔をした白石さんは、包丁の手を休めることなく語るのであった。あの戦いで彼は2度も南太平洋の海に投げ出され、何時間も海上を漂流されであろうが無事に救助された。幸運というべきか奇跡とも言うべきか。私が白石さんに最後に会ったのは平成4・5年で、もう20年以上も前になる。彼は今はかっての戦友たちと、あの世で楽しく語らっていることであろう。

 以上は皆海上を漂流したが運よく救助された話である。ここでもう1つ今度は戦死者の事を書いてみよう。

 

 私は山口市吉敷というところに住んでいる。私は殆ど毎日散歩に出かけて1キロばかり歩くことにしている。散歩コースは幾つかあるが、我が家を出て自動車道路を横断し、スーパーの横を西北に向かい、低い丘の麓迄行くコースをよく選ぶ。その丘の麓に六地蔵が立っている。私はこれを拝んでそこから細い山道を約50歩ばかり登る。そこに立派な墓が2基ある。我が家からここまでの距離はほぼ500メートルである。この丘陵地の東向きの斜面は墓地になっている。整然とした墓地ではないがかなり古い墓もあれば新しいものも沢山並んでいる。

 私はこの道路から10メートルばかりの高みに来ると、いつも東の方を向いて、遠くの山並みや、眼下に広がる市街地、さらに空を仰いで雲を見たりして一休みする。此処は草の生えないセメント張りで、これら2基の墓の前を過ぎて、境界とおぼしきレンガの仕切りを跨ぐとまた大小2つの墓がある。此処は草地で夏ともなればシダなどで覆われる。数年前のことだが、私は何気なしに小さいほうの墓石を見た。墓の正面と側面に次の言葉が彫ってあった。

 

  故海軍二等機関兵曹勲七等攻七級 原田久之墓

  昭和十八年七月十二日コロンバンカラ島沖海戦で

  巡洋艦神通にて戦死 原田金次次男 享年二十六

 

 私はこの墓の前を通り、麓へと降りて行くが、そこにもまた別の六地蔵が立っている。これも拝んで我が家に帰ると丁度1キロの行程になる。私はその日、家に帰ってコロンバンカラ島がどこにあるかを調べたが普通の地図には載っていないので、『講談社タイムズ世界全地図』を広げて探した。そうしたらこの島が、南太平洋のソロモン諸島の中のブーゲンビル島の近くにある、ごく小さな島だということやっと分かった。この若い海の戦士は、日本から遥か遠く離れた南太平洋での戦いで戦死したのである。彼は恐らく海上を漂ったのであろう、そして力尽きて海底に沈んだのであろう。これを思うと、本当に気の毒でならなかった。しかし彼の父親の哀しい気持ちはいかばかりであったかと思う。父親はせめてもの思いにと、我が家の墓の側にこの墓を建ててやったのだ。墓には手向けの花を見かけることはほとんどない。春から夏になると蔓草に一面覆われてしまう。私はこれまで鎌を研いで行き、草刈りを数回した。この墓の前を通るときは、いつも何だか申し訳ないような気持になり、少し頭を下げて足早に通り過ぎるのである。 

 2023・2・10 記す