yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

かえる

 6月23日にはじめて姿を見せた子蛙が、その後断続的に我が家に来た。8月16日、盆が終わった時これで最期かと思っていたら、10日ぶりに又いつもの定位置である下駄箱のビニール製の籠の縁に止まっていた。何を思ってか2か月以上にわたって、我が家の勝手口を出た直ぐの所に来たのであろうか。実に不思議である。
 私はこれまでこの子蛙を見たら「よく来てくれた。また来いよ」と声をかけることにしていた。彼が最期に姿を再び見せたのは8月26日である。朝6時になったので散歩に出かけようとして、何気なしに蛙がいつも蹲っている籠に目を向けたら、今や半ば諦めていた子蛙がいたので、「よう帰って来たな、何処へ行っていたのか」と思わず声をかけた。私はその時思わず「よく来たな」ではなくて「よく帰ってきた」と言葉をかけた。その日は夜の7時半までその位置にじっとしていた。そして私の目の前で、レンガ造りのベランダの端に座っていたが、少ししてぴょんと跳び下りて叢の中に姿を消した。
 今日は8月27日である。4時頃目が覚めたので、「蛙は帰ってくるかな」と思いながらベッドに横たわっていた時、「蛙帰る」と言えば語呂合わせになるなと思い、また「蛙の幼生が卵から孵る」といった言葉などふと思いついて、同じ「かえる」と言ってもいろいろな意味があり、それらに相当する漢字があることに気が付いて、それこそ生まれて初めて「かえる」を辞書で調べてみた。

 ただ「かえる」と言っただけでは判然としないが、漢字で書けば意味が一目瞭然となる。その漢字だが大きく分けて2つある。
 
 替・換・代
  1 事物を互いに入れちがわさせる。
  2 事物の状態・質をそれまでと異なったものにする。
 反・返・帰る・還
  1 事物・事柄の位置・順序・状態などが入れ違いになる。
  2 事物・事柄がもとの所・状態・人などへもどる。
  3 時の経過やある種の操作によって今までと違った状態・性質になる。
 
 ざっとこのように『広辞苑』に説明してある。
 今朝は蛙はもう帰って来ない。しかし久しぶりに帰って来た蛙の事を思って、「帰・還」という意味に限定して、思いつくままに古今東西に現れた文献について書いてみることにする。

 『聖書』の「創世記」3:19に次の文章がある。

 なんじは顔に汗して食物を食い、ついに土に帰らん。そはそのなかよりなんじは取られたればなり。なんじは塵なれば塵に帰るべきなり。

 「死んだら土にかえる」というのは、「元の土に還元する」意味だろうが、「帰る」の意味を含めて、「土にかえる」のである。

 我々日本人は上記の創世記の言葉をそれほど真剣にとらえないかもしれない。蛇の誘惑にあって、エバが禁断の実を食べた後、アダムもそれを食べてエデンの園から追放されたのは有名な話だが、「人類はその後労働と死を免れなくなる。神は破戒の罪に、直ちに死をもって報いようとはしない。いくばくかの時を人間に与える。それゆえに古代イスラエル人は、苦しみの人生をも、神の賜与えるとして甘受したのである。」と『英語名句辞典』に解説してある。
  
 『聖書』の製作年代はモーセ以前から第1世紀まで、およそ1500年以上にわたり、取材範囲がきわめて広い。『聖書』は15世紀間のイスラエル文学をほとんど網羅し、歴史的記録・詩集・預言書・説教集、また世界詩史である、と言われている。一方中国にも数多くの文学者が古い昔から輩出している。
 私が好きな詩句に陶淵明(365~427)の「帰去来辞」がある。彼がこの作品を制作したのは西暦405年である。わが国が百済新羅を征服したのが391年と歴史書にあるが、今の日韓関係を考えると本当にそんなことがあったのかと誰しも思うだろう。
 「帰去来(ききょらいの)辞(じ)」はあの有名な「帰りなんいざ田園 将(まさ)に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ帰らざる」で始まるが、私は「飲酒 二十首並びに序」の中の「其の五」の漢詩が好きである。

  盧を結びて人境に在り
  而も車馬の喧しきなし
  君に問う 何ぞ能く爾るやと
  心遠ければ地も自ずから偏なり
  菊を采る 東籬の下
  悠然として南山を見る
  山気 日夕に佳く
  飛鳥 相い与に還る
  此の中に真意有り
  弁ぜんと欲して已に言を忘る

 ここにも「相い与(とも)に還る」とある。時代がずっと下って私が子供の頃の童歌を思い出した。
  
  夕焼け小焼けで日が暮れて
  山のお寺の鐘がなる
  おててつないでみなかえろう
  からすといっしょにかえりましょう

  子供がかえったあとからは
  まるい大きなお月さま
  小鳥が夢を見るころは 
  空にはきらきら金の星

 この詩の作者は中村紅雨(1897~1972)である。こういった情景は今では殆ど見られなくなった。特に不夜城とも言うべき大都会では、「大きなお月さま」や「きらきら金の星」は見ることができないだろう。
 これより少し前に有名なドイツの詩人カール・ブッセ(1872~1916)が 「山のあなた」という詩を書いた。これを訳した上田敏(1874~1916)の「山のあなたの空遠く」で始まる名訳は今でも愛唱されている。この2人は殆ど同時代に活躍し、共に40歳前半に帰らぬ人となっている。この詩にも「帰る」の言葉がある。

  山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいふ 
  噫、われひとと尋めゆきて
  涙さしぐみ、かへりきぬ
  山のあなたになほ遠く
 「幸」住むと人のいふ

 萩市の三角州の外、南の郊外に大屋という地区がある。大屋の部落を過ぎて少し行くとやや坂道になる。その坂道の左側は山が迫っており、反対側の低い平坦地は明治の初期までは梅林であった。実はその梅林は私の曽祖父が嘉永4年に作ったもので、幾多の文人墨客が遊んでいる。松陰も松本村からここまで来られたことがあると聞いている。山の麓には私がまだ高校生時代には大きな松の木が空高く聳えているのが数本あった。
 松陰が唐丸籠に乗せられてこの地迄来た時、あの有名な歌を詠んでいる。今そこには「涙松の遺趾」として立派な石碑が建てられてある。

  帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな
 
 今この歌を読んでつくづく松陰の悲しい心境が偲ばれる。もう二度と父母の下へ帰ることができないと松陰は思っていただろう。そう思うと、ここからはもう萩の町が見えないと言われる「涙松」が、一段と涙で濡れる思いである、と親孝行の松陰は悲しい思いをしたに違いないなかろう。
 松陰の有名な歌に次の一首がある。

  親思ふ心にまさる親ごころ けふのおとずれ何ときくらむ
 
 「桜井の訣別」の歌を昔歌わされた覚えがある。落合直文が明治36年に作詞したものである。私が小学生の時の唱歌で今でもかつがつ歌詞を覚えている。

  青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒とめて世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に散るは涙かはた露か

  正成涙を打ち払い我が子正行呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん彼方の浦にて討ち死にせん
  汝はここまで来つれどもとくとく帰れ故郷へ

 こうして正行は母の下へと帰って行った。正成が兵庫の湊川で戦死したのは1336年である。その10年後に正行は四条畷の戦いで若くして散った。彼の生年は不明だが、恐らく20歳をそう出てはいなかったと考えられる。彼は死ぬ前に奈良は吉野の如意輪寺の扉に、鏃で一首の歌を刻んだ。松陰の「かえらじと」と同じ言葉で始まっている。

  かえらじとかねて思へば梓弓 なき數に入る名をぞとどむる

 私は先年このこの歌を刻んだ扉を実際に見た。もうかなり年月が経っていて読みにくくなっていたが、弱冠20歳を過ぎたばかりの青年が、これほどの歌を詠み、しかも「なき数」つまりこれから「死んだ人の仲間」に入る部下たちの名前を刻んで、悠然と死地に赴いたと知ると、実に考え深いものがあった。

 四条畷(なわて)という言葉で思い出したが、「畷」は「田の間の道・畦道」の意味である。私は県立萩中学校に昭和19年に入学した。年齢は13歳であった。その時から父は先に言及した大屋の涙松の直ぐそばにある我が家の梅林、当時は橙畑で約1町歩(1ヘクタール)あったが、そこへ春夏の長期の休みになると私を連れて行き、草刈りを手伝わせた。私が大学に入った頃からは私だけ1人で、朝5時ころ起きて前日に研いでいた鎌を持って、自転車で毎日通った。
 我が家から萩駅まで4キロばかりの距離である。萩駅の前から左に行き、踏切りを過ぎると大屋の部落までは左右はすべて田圃であった。この距離は1キロ以上はある。今は立派な自動車道路が出来ているが当時は舗装もしていない畦道で、此処を「大屋畷」と言っていた。私は毎日夜明けの爽やかな空気を吸いながら、人気のない萩の街中を自転車を走らせ、畑に着くと小屋で着替えをした後、広い畑で黙々と鎌を両手に草を薙ぎ倒していった。
 一番厄介なのは「ヤブタオシ」と俗に言っていた蔓草で、これが私より背丈の高い成木に覆いかぶさっていると、日光も通風も遮断して橙の葉が枯れ落ちて最期には橙の木が枯れてしまう。この蔓草を全部除去するのはかなり手間がかかる。おまけにこのヤブタオシの陰にアシナガバチが大きな巣を作っていることがある。それを知らずに作業して私は1度に5か所も刺されたことがある。まるで身体に火が付いたような痛みを感じた。今から思えば青春の一齣である。薮蚊には始終う刺された。お陰で今は案外抵抗力がついている。しかしこうしたことがあったが、当時はそれほど苦にも思わなかった。今なら1時間も堪えられないだろう。
 
 ついでに当時を思い出して書くと、この大屋の部落からと、更にその奥にある河内という部落から、私と同じ年に県立萩中学に入った同級生が7人もいた。今ではこれらの地区には子供の姿が全く見受けられないことを思うと、彼らは皆椿西小学校の卒業だが、あの小さい学校からこれほど多くの同級生が入学したのには驚く。しかしあれからもう75年経っている。7人の同級生は皆帰らぬ人となっている。戦後になり名称が 変わって県立萩高等学校となったが、卒業した後間もなく死んだのがこの7人の中に3人もいた。
 
 「帰依」とか「帰命」という言葉がある。この場合の「帰」は普通に言う「帰る」ではなくて、「たよる」「たのむ」「よりすがる」の意味だと知った。「すぐれたものに帰依する」とか「信じてよりすがる」ことだと『仏教語大辞典』に載っていた。大いに参考になる言葉である。
 
「死を視ること帰するが如し」という言葉がある。死に臨んでもまるで我が家に帰るが如く泰然自若であるという意味である。

 私はこの親指の先程の小さな蛙が、朝の6時前から夕方の7時過ぎまで、まったく身動き一つせず、水も飲まず何一つ食べないで、こうして同じ場所に坐っているのを見て、人間よりも賢いような気がする。人間は最初に引用した『聖書』に書かれている禁断の実を食べたことから知恵がついたと言われるが、それは結局人類の破滅に繋がる智慧ではなかったか。このことを勿論知ることはなかろうが、この子蛙は泰然自若として毎日を送っておる。命尽きるまでこうした状態を続けるとしたら、この子蛙の生き方の方が人間よりも一段と優れているような気がしないでもない。
                         
                           2022・8・27 記す

 

 金魚の糞の如くまた続けて書くことにする。これは勿論あの体長3センチばかりの子蛙が又帰って来たからである。朝6時に私は目を覚まし洗顔の後、「ひょっとしてあの蛙がまた来ているかもしれない」。こう思いながら夜明けの空を見ようと、勝手口のガラス戸を開けて、彼がいつも止まっているビニールの籠を見た。半信半疑の気持であったが、私の期待通り彼は何時もの姿勢で、ちょこんと黙り込んで坐っているではないか。私は「よう帰って来た」と思わず声をかけた。

 多くの人は私の言動を馬鹿ではないかと思うだろう。しかし誰が何と言おうと私にとってこの子蛙の存在は元気を与えてくれる。なんだかお互いに無言の意思の疎通があるように思えるのである。

 硫黄島の洞穴の中で、衣服にとりついた虱をそっと手に取って、目の前に這わせて一時の慰みを得た、と私の従兄が家族への手紙の中に書いている。人間1人になると、神の作ったすべての生き物もわが同胞と思うようになるのではなかろうか。独房の中で長い年月暮らした囚人が、たまたま其処へ入ってきた一匹の小さな蜘蛛や蟻を見て、生きる喜びを感じたといった手記を読んだことがある。

 この従兄は終戦の年、今から77年前の3月、アメリカ軍の硫黄島への侵攻・占拠の後、自爆して若き命を国に捧げ、ついに帰らぬ人となった。同じ昭和20年隔離病舎へ行って患者を診ていた彼の父は、硫黄島の惨劇を知りながら、息子の生還を一縷の頼みとして待った居たのであるが、この父も9月に突然倒れ、3日後に息を引き取った。こうして父子共に今は帰らぬ人となった。私はこのことを『硫黄島の奇跡』と題して書いた。この文章を読まれた山口市在住の88歳の女性が、自ら文章を上手に要約され、その上絵を自分で描いて、この度『絵本 硫黄島の奇跡』と題して出版された。私としては非常に有難かった。
 
 今ウクライナではロシア軍の突然の侵攻から半年になる。人間はどうしてこんなに争いを続けるのだろうか。多くの人が毎日死んでいく。中には非戦闘員の無辜の市民や子供も多く含まれていると報じられている。中国も虎視眈々と台湾を狙っているようである。大きく言えば自由民主主義と共産独裁主義との争いかもしれないが、いずれの主義主張も理想の政策を実施できない。これが現実である。そこに両者の妥協と協調があってこそ、何とか世界平和が保たれるのではないかと愚考する。
 世の中の変動をまるで「我関せず焉」とばかりに沈思黙考を続けている蛙の方が、争いを好む人間より賢明かもしれない。            
                        2022・8・28 記す