yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

太郎

萩にいるとき玄関の間に「清風徐来」という額が掲げてあった。縦が三十センチ、横が百二十センチのかなり横長のものである。私はここに書かれてある言葉もだが、筆跡がなかなか良いので、山口に移ってきても、同じように玄関の間に掲げることにした。

 

 この言葉が中国の宋の時代の偉大な詩人蘇東坡の、『前赤壁の賦』の中にあるということを父が教えてくれた。右から左へと書いてあって、最後に「丙子三月 梅屋主人之為 太郎」とある。恐らく桂は同郷の陸軍の先輩三浦梧楼に連れられて、梅屋七兵衛の羅浮亭を訪ねたとき書いたのだろう。その時彼は二十九歳であった。

 

 父は「これは日露戦争の時の総理、桂太郎が書いたものだ」と言って、自分が覚えている最初の部分を口ずさんだ。私は父が気持ちよさそうに歌っていたのを今でも思い出す。その頃は私には意味はよくは分からなかった

 

   壬戌(じんじゅつ)の秋七月既望(きぼう)、蘇子客と舟を泛(う)かべて赤壁の下に遊ぶ。清風徐(おもむ)ろに来たり、水波興らず。  酒を挙げて客に属し、名月の詩を誦し、窈窕(ようちょう)の章を歌う。少焉(しばらく)にして月は東山の上に出で、斗(と) 

  牛(ぎゅう)の間を徘徊す。白露(はくろ)江に横たわり、水光(すいこう)天に接す。一葦(いちい)の如(ゆ)く所を縦(ほし)いままにし、万頃(ばんけい)の茫

  然たるを凌(しの)ぐ。

 

 森鴎外が東大の医学部を卒業し、その後彼は陸軍の軍医になった。明治新政府はこれからの日本の国家建設の為に、諸外国から優秀な教師を最高の 待遇で招き、一方国内の若き秀才を東大でこれらの教授のもとで学ばせた。卒業時各教科で三番以内のものを官費で留学させ、帰国後はそれぞれの分野で今度は彼らに教えさせるといった制度を設けた。

 

 鷗外はドイツ人の教授とどうも気が合わなかったようで、また最終試験の前に下宿が火事になって貴重なノートが焼失したとかで、彼は三十名の同級生の中で七番で卒業した。したがって官費での留学の夢が絶たれた。彼が卒業したときの年齢は二十歳である。他の連中は一番若い者でも二十三四歳で三十歳近い人もいたようである。然し彼は陸軍に入って間もなく、今度は陸軍軍医としてドイツに派遣された。随って現地で十分に青春を謳歌している。この点明治三十年にイギリスへ行った時の漱石の留学体験とはかなり違う。

  

 今思い出したから書いておくが、鴎外が卒業した年に、山口縣厚狭(現在の山陽小野田市)の粟屋活輔という人物が東大医学部に入学した。しかし彼は病気になって一年で帰郷した。それを知って近辺の青年が粟屋氏の処へ行って教えを請い、結局彼はもう復学しないで、最初は自分の家で、後に小野田へ学び舎を建てた。「興風中学校」という校名である。それが現在の県立小野田高校の前身である。第一回の卒業生に宇部興産の第二代の社長俵田明氏がいた。私は縁あってこの学校へ大学を卒業と同時に赴任し六年間世話になった。

 

 話が逸れたが、二十歳で東大医学部を卒業とはちょっと信じられない。明治七年、十三歳では資格年齢に達しないために二歳を増して萬延元年生まれとして、鷗外は東京医学校予科に入学した。それは三年後に開成学校と併せて東京大学となり、医学校はその医学部となった。同級生三十人いて、生徒は十六七歳なのが極若く、多くは二十代だったのである。年齢を二年ごまかして十三歳で入学したとの事だが、それにしても早熟というかものすごい秀才である。授業はすべてドイツ語で行われた。彼が陸軍省からドイツへ衛生学の研究で派遣されたとき、自由にドイツ語を操りドイツの連中が驚いたようである。鷗外はこのことを『独逸日記』に書いている。

 

 鷗外がドイツ行った同じ年、即ち明治十七年三月に、日本陸軍大山巌を団長、三浦梧楼を副団長として欧州、主としてドイツの軍制の視察に行っている。この一行の中に、さきに言及した桂太郎が名を連ねている。この時から二十年後の明治三十七年に、我が国は大国ロシヤと戦い勝利した。僅か二十年の間に、陸軍は大山巌、海軍は東郷平八郎の指揮のもと堂々と強国ロシヤに勝ったから、世界の国々は日本の存在を認めたといえよう。その時の総理が桂太郎であったのである。

 

 鷗外は『独逸日記』の中には桂太郎のことは書いていなかったと思う。大山巌と三浦梧楼、さらに乃木希典のことは書いている。鷗外の直接の上司はやはり一行の中にいた橋本綱常という軍医で、彼の兄が若干二十四の年齢で「安政の大獄」で、吉田松陰らと共に処刑された橋本左内である。今から考えるとみな若くしてしっかりしている。そして国を思う気が強い。

 

 私がこの拙稿に「太郎」と題したのは、今回の自民党の総裁選挙に河野太郎が立候補しているので、もし彼が勝てば第百代の我が国の総理になることとなる。結果はどうなるかわからないが、「太郎」という名の総理大臣にどういった人がいたか調べてみた。まず十一、十三、十五代の総理に桂太郎。続いて時代が下がって九十二代の総理が麻生太郎、この二人だけである。外に太郎の上に一字ついてるものは二人いる。ついでに書くと、四十二代鈴木貫太郎と、八十二、八十三代の橋本龍太郎である。

 

 最近「太郎」という名の子供を見ない。女の子も「子」がついたのを見かけない。名前というものは時代とともに変わるのだろう。鷗外に言及したからついでに言うと、鷗外はこれからは西欧に行ってもすぐ馴染んでもらえるようにと、子供達には西洋風の読みの名前に漢字をあてて名付けている。長男は、於菟(オト)、次男は不律(フリツ)、三男は類(ルイ)、長女は茉莉(マリ)、次女は

杏奴(アンヌ)である。 

 

 「太郎」に話を戻すが、「名は体を表す」と言われている。親は我が子の将来を考えて名前をつける。「太」は「大」や「泰」にも通じて、大胆とか、気が大きいとか、安泰といった良い意味がある。 「郎」は男性の美称である。歴史上直ぐ思い浮かぶのは、八幡太郎源義家北条時宗、すなわち相模太郎である。元の大軍が我が国に攻め入った二度の「元寇」の時、時宗鎌倉幕府の執権で、文永十一年(一二七四)の時は二十三歳、次の来寇の弘安四年(一九八一)の時は三十歳であった。彼は見事に元の大群を撃退して、その三年後に三十三歳の若さで死んでいる。しかし円覚寺を建て、宋から無学祖元を招いて開山とするなど、あの年齢ではちょっと考えられないほどの傑物であった。

 

  頼山陽時宗の不屈の態度を称して「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と評したのも頷ける。

 あの時の強敵元の大軍を迎え撃ったことを歌った歌詞の最初だけ覚えている。

 

  四百余州をこぞる 十万余騎の敵

  国難ここにみる 弘安四年夏の頃

 

 今我が国は、隣国中国の一党独裁共産主義的脅威に曝されていると言われている。令和の「相模太郎」の出現を望むこと切なるものがある。若くて聡明であり、その上決断力のある総理こそ、これからの日本を正しく導いてくれる人物だといえよう。

  

                      2021・9・27 記す