yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

望郷のバラード

萩市の南郊に位置する木間(こま)という地域に、私の友人が二十年以上前に萩焼窯を築いて、夫婦二人で棲んでいる。私は亡妻と一緒によく話しに行っていた。彼は近年眼が不自用で新聞などの活字が読めないと言っていた。耳は確かだが、その彼が親切にも長年にわたって選び買い求めたであろうCDを20枚も送ってくれた。

 

 私はお礼の電話をかける前にどれか一つを聴いて、その後にしようと思った。そこでざっと眼を通したら「天満敦子 望郷のバラード」が目に入った。私は彼女がどのような音楽家は知らないが、「敦子」が亡妻の名前と同じだから何となく選んで、二階にあるテレビで聴いてみた。このテレビにだけCDを聴く装置がついているからである。

 

私は最近階下で寝ることにしている。夜中にトイレに行く時、階段を上下するのが億劫だからだ。従って書架から本を取り出すとき以外は二階へは上がらない。カーテンも閉めたままで暗い部屋である。全くひっそり閑としている。私はこの静寂な空間の中で、どんな音楽が流れるかと半ば期待して耳を傾けた。天満(てんま)敦子(あつこ)がヴァイオリンの名手だとは知らなかった。私は音楽の善し悪しはよくは分からない。しかし食事の時よくバッハの「G線上のアリア」を聴く。昔ベートーベンの「交響曲第五番 ・運命」には感動を覚えて、ロマンロランの『ジャン・クリストフ』や『ベートーベンの生涯』などを読んだことはある。しかしここ最近は音楽を聴いて感動を覚えたことはない。わざわざ演奏会などへも足を運ぶこともしない。

 

そうした最近の状況なのだが、いまCDから流れて来た素晴らしい旋律に私は何とも言えない感動を覚えた。本当に何とも言えない哀愁を帯びた旋律が全身に沁みわたった。息詰まるような悲しさが伝わってきた。近来このような気持ちになったのは初めてである。CDの小さなケースに入っていた解説書があったので、非常に小さい活字だが読んでみた。その文章の中に、始めてこの生演奏が行われた時、「ホールの客席のあちらこちらで、啜(すす)り泣く人の姿が見られ、ハンカチーフを取り出し、そっと目頭に当てる人も何人かいる」と書いてある。何故そのような感動を覚えたのか。

 

中野 進
回 想: 天満敦子 ひと昔前

  1993年12月8日夜、横浜市青葉区東急田園都市線青葉台駅前に位置するフィリアホールの客席のあちらこちらで、啜(すす)り泣く人の姿が見られた。ハンカチーフを取り出し出し、そっと目頭に当てる人も何人かいる。

 

ステージでは天満敦子が、文字通り入魂の名演を繰り広げていた。曲は19世紀末、29歳の若さで薄幸の生涯を閉じたルーマニアの鬼才、チブリアン・ポルムベスクの作になる《望郷のバラード》である。愛国者であったポルムベスクは、オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた母国の独立運動に参加して投獄の憂き目に遭う。曲は獄中で故郷を偲び、恋人に思いを馳せながら書き上げた哀切のメロディーであり、ルーマニアでは誰知らぬもののない懐かしの名曲であるが、エクゾチシズム濃厚の故であろうか、国外では知られることは少ない、文字通りの“秘曲”であった。

 

天満敦子に《望郷のバラード》の譜面を渡し、「広く日本に」と紹介を依頼したのは、当時外務省東欧課長の職にあった少壮外交官・岡田眞樹である。岡田は十数年前、ウイーンの日本大使館在勤中、郊外のレストランで哀愁に満ちた音楽を奏でる亡命ルーマニア人楽士と出会い、感動して親交を結ぶ。イオン・ヴェレシュと名乗る亡命楽士は、8年後にスイスで再会を果たした別れぎわ、「この曲を、あなたの母国日本に紹介してくれるヴァイオリニストを探して」と、黄ばんだ1枚の楽譜を岡田に差し出した。ヴェレシュがチャウシェスク共産主義政権の圧政を逃れるべく、夜陰にまぎれて国境を越えたとき、ヴァイオリンとともに携えていた愛奏の譜面であった。

 

だが外交官として東奔西走の日々を送る岡田眞樹が、天満敦子という神に選ばれたヴァイオリン奏者の存在を知り、秘曲の演奏を依頼したのはそれからさらに数年後、1992の初夏、所は奇しくもポルムベスクとヴェレシュの母国ルーマニアの首都ブカレストであった。

《望郷のバラード》との出会いがヴァイオリスト・天満敦子の運命を一変させる。そして、忘却の淵に沈んでいた薄幸夭折の作曲家の名も、没後100年余の歳月を経て甦りを果たしたのである。

 

感動の文章である。このような数奇な運命の譜面を初めて手にした天満敦子の心境はいかばかりか。彼女はきっと心を込めて稽古して、翌年の1993年12月8日のあの忘れられない日に、入魂の名演奏をしたのである。感動しないのがむしろ不思議だったのではなかろうか。この生演奏を聴いた聴衆は生涯忘れ難い体験をしたと思う。

 

素人の私が言うのも可笑(おか)しなことだが、各種の演奏会でヴァイオリン演奏ほど楽器が重要視されることはない様な気がする。先ず楽譜がある、次に演奏者がいる、最期にヴァイオリンがものを言う。天満敦子の愛器について、この「解説書」に次のように載っていた。

 

回 想:天満敦子 ふた昔前

 

天満敦子という稀有な才能に出合ってから、もう20年に余る歳月が流れた。

「こんな凄いヴァイオリストが日本にもいたのか!」というのが、彼女の演奏を初めて耳にしたときの偽らざる印象であった。(中略)

その日彼女は、名匠アントニオ・ストラディヴァリが円熟期を前にした1680年代に製作した名器“サンライズ”を弾いていた。楽器というより“美術品”と評した方が良いような美しいヴァイオリンで、表板やネックの部分には黒檀や象牙で精緻な象嵌(ぞうがん)が施されており、その道の専門家の間には「音色と造りは最高だけれど、コンサート用としては音量不足。実用上問題あり」という評価が定着していた。“サンライズ”とは、通称“虎目”といわれている裏板の木目(もくめ)が日の出を想わせるように光り輝いているために名付けられた、名器ならではの別称である。

 

そのむしろ、繊細な鳴りをもって定評のある“サンライズ”から、いままで耳にしたことのないような強大な音量が放出され、数百人の収容能力を持ったホールの壁に谺(こだま)していた。「本当にあの楽器なのだろうか」と、私は一瞬耳を疑った。その2~3年前、私は“サンライズ”を一時借用して某有名ヴァイオリストを起用して、レコード制作をした経験があって、楽器の性格を知悉(ちしつ)しているつもりだったからである。

 

私の大学時代の恩師が、若いときからヴァイオリンを弾いていたと言っておられた。残念ながら音楽のセンスのない私はその時、世界最高のヴァイオリンが“ストラディヴァリウス製作”というものだと教えられただけである。今回改めて知ったのだが、名匠ストラデヴァリアが製作したヴァイオリンは世界に400挺ばかりあり、それらは皆“ストラデヴァリウス“と呼ばれていると言うことを。そして我が国には40挺ほどあり、高価なのは12億円以上もするとか。「猫に小判」、「豚に真珠」という言葉がある。こうした名器もそれを演奏する人があって初めてその真価が発揮される。天満敦子はまさにそうした天下の名器を如何なく活かすことの出来た稀有な才能の持ち主なのだろう。

 

最後に私は「天満敦子」という名前というより、むしろその文字を何処かで見たような気がした。「ああそうだ! 天神様の句碑の前で撮った妻の写真だ!」ということを思い出した。妻が亡くなってもうすぐ三回忌を迎える。その日まではと思って、座敷の違い棚の上に、我が家の仏壇とは別に花を飾り妻の写真を置いている。

私の曾祖父が明治の始めに、防府天満宮の境内に句碑を建てた。「天満る 薫を此処に 梅の花  佳兆」という句が刻まれている。私は妻と毎年必ずお詣りして、この句碑の所へも行っていた。その時撮った写真に「天満」の文字がはっきりと読めて、その文字だけが読めるように、妻が句碑の台石の上に腰掛けていたからである。「天満敦子」がここにいたのかと思った次第である。

                     2021・5・18 記す