yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

雑感 ― 妻逝きて五ヶ月 

今日で妻が亡くなって丁度五ヶ月になる。妻は五月二十七日の午前一時半に北九州市の門司のホテルで急死した。時の経過は早いとも又遅いとも感じられる。

昨夕いつもより遠い距離を歩いて六地蔵を拝んで帰った。そのためか出掛けにはやや肌寒く感じたが、帰宅した時には僅かに汗ばんだようだった。そこで直ぐ入浴の仕度にとりかかった。水道の蛇口を開けてスイッチを入れた。こうした後仏壇に手を合わせ、外に出て体操、木剣の素振り、庭の石地蔵を拝んで屋内に入った丁度その時、浴槽に湯が満杯になった事を知らせる合図が聞こえた。世の中は便利になったものである。

 

萩にいて小・中学生であったころ、風呂焚きをよくさせられていた。我が家の井戸はかなり深かった。釣瓶でくみ上げた井戸水を二杯バケツに注ぎ、それを五米ばかり離れた処にある風呂場まで提げて行き、そこの五右衛門風呂に一杯になるまで入れなければならない。これは子供にとっては一仕事であった。水で満杯のバケツは重くて、五右衛門風呂の縁まで持ち上げるとき水をこぼすこともよくあった。風呂釜に水が一杯になると二枚の半月形の木の風呂蓋をし、今度は風呂場の背後に廻って行って、焚き口にかがみ込み、まずマッチで火を点け、枯木など小木に燃え移し、さらに大きな木や持ち運んできた落ち葉などに燃え広がるようにするのである。

我が家の庭に樹齢二百年に達する大きなタブの木があった。それが一年中枯れ葉や時節によっては枯れ枝や新しい芽を落とすので、その掃除が登校前の私に課せられた仕事だった。特に茶席の庭にある蹲(つくばい)の小石の間に落ちた葉を拾うのは難儀だった。田舎に住んでいた従兄達が我が家に下宿していて萩中学校に通学していたが、彼らも起きると直ぐに庭の掃除や廊下の雑巾がけを済ませて後、朝食を摂り学校へ行っていた。

こういうわけで前日や夜間に大風が吹いた時など小枝や木の葉が沢山散乱しており、それをタブの木の直ぐ側の小屋に集めておくのである。それを風呂焚きの時焚き口まで運ばなければならない。ちり取りに入れて二十米ばかりの距離を何度も往き来して燃えている火を絶やさないようにしてやっと風呂焚きの仕事は終わるのである。

考えて見ると今は本当に便利になった。こういったことで当時は我が家では毎日風呂に入ることはなかった。隔日が普通であった。近所に風呂屋があり、子供の頃しばしばその風呂屋へ入りに行ったが、それこそ芋の子を洗うが如き状態だったのを良く覚えている。 

漱石の「猫」が風呂屋の情景を実に面白く語っているが、確かに銭湯は一般民衆の心身の洗濯の場であったと思われる。鴎外が一生風呂に入らずに洗面器に水を入れて身体の隅々まで綺麗にしていたと書いているが、確かに昔は毎日風呂に入るという習慣はなかったのではなかろうか。風呂焚きにはまず時間が掛かり又水も勿体ないと思っていたからではなかろうか。「湯水のように金銭を使う」という言葉があるが、「湯水」といえどもそんなに浪費は出来なかった。

話を戻そう。こうして私は昨夜ゆっくりと浴槽に浸かった後、夕食の仕度をして片付けが終わったのが八時過ぎであった。もう一度出来たら入ろうと思って浴室を閉めていたので、又裸になって心身を暖かい湯の中に沈め、今日も一日無事に終わったかと思いながら静かに暫く浸かっていた。湯から上がるともう時計の針は九時前を指している。戸締まり火の始末を全て済ませ、座敷に布団を敷いて消灯、まだ身体が温まっている状態で床に就いた。

 

こうして今朝を迎えたのである。障子戸を通して外の明るさが薄らと感じられた。起き上がって電灯を付けて見たら丁度五時であった。夜中に一度もトイレに起きることなくこの時間まで熟睡出来たのは入浴のお陰だろう。しかし一寸寝過ぎたと思った。直ぐ着替えをし洗顔の後僅かに読み残していたNHKのテキスト『善の研究』を読み終えた。

私はこれまでこういった哲学書的な堅い本を殆ど読んだことがない。しかし此の度こういった本を読む気になったのは妻の死が契機になったと思う。

 

昼過ぎに萩の林祥彦さんから、四時頃子供たちを駅まで送るついでに一寸寄って合わせ柿を上げるとの電話がかかった。それまでにと思い、ゴミを廃棄物処理場へ持って行くついでに文栄堂へ行った。この書店でしか岩波書店の本を販売していないからである。そこで私は『西田幾多郎歌集』『善の研究』と鈴木大拙の『日本的霊性』の文庫本三冊を買った。

四時前に林さんが見え、「急ぐから直ぐ失礼する」と言ったが、私は「そう言わないで、一寸話したいことがある」と云って引き留めた。

実は、話すことと言えば、十一月に入って北陸への旅の提案である。このところ西田幾多郎鈴木大拙に関する本を読み。出来たら二人の記念館を訪れたく思ったからである。此の事を話すと彼は直ぐ賛同して呉れた。一人でもと思っていたので大変有難かった。

林さんも奥さんに先立たれて一人暮らしをしている。彼は「妻の七回忌の法要を昨日済ませ、子供たちを駅まで送ってきた」と言った。考えてみたら不思議な因縁というか、六年前の十月二十六日に彼が合わせ柿を持ってきてくれたその日、彼の奥さんが乗って居られた単車に脇見運転の軽トラが正面衝突して奥さんは即死された。運命とは言え実に気の毒なことであった。それから彼は田圃の中の一軒家での一人暮らしである。  

林さんが帰りかけたとき、幸世から電話が掛かり、四時半頃寄ってもいいか、との事。勿論大丈夫、何時でもウエルカムである。その内幸世が来てくれた。三週間前に来たときと同じく、妻への立派な花を持ってきて早速花瓶に入れて供えてくれた。

彼女は小学校の校長で日曜もない程忙しいのに、こうして気にかけて来てくれて本当に有難い。感謝有るのみである。

夕飯を済ませ片付けをしていたとき泰之からメールが入った。笑瑠が英語暗唱スピーチで昨年同様「特別賞」を貰ったと云うことである。出場者五十人ばかりの中で五番以内に入ったのだからよく頑張ったと思う。ついでに言うと、幸世が帰りかけた時、萩高校で担任をしていたときの女生徒から、「来年同窓会をしますから是非出席して下さい」と電話してきた。妻が亡くなって丁度五ヶ月経ったこの日に色々と良いことがあった。                

(2019・10・27)

 

今朝目が醒めたのは二時過ぎだった。五時間熟睡したのだから大丈夫だと思って起き上がった。

高校時代の同級生で萩にいて何とか元気なのは堀誠一君と村木滋君の二人だけである。ところが村木君の奥さんは数年前に、堀君の奥さんは今年私の妻が亡くなる数ヶ月前に亡くなられた。従って我々三人はいずれも一人暮らしを余儀なくされている。先に書いた林さんの奥さんは不慮の死とは云え悲運としか言い様がない。このように私の友人達は皆妻に先立たれている。何とか生きているが皆八十歳を過ぎ、同級生は皆九十歳に手の届く老齢だから何時死んでも不思議ではない。 

さてこう言った事を考えて、私は妻の四十九日の法要を無事に済ませた数日後、何か良い本はなかろうかと思って県立図書館を訪れた。二階の奥まったところにある書架を見て回っていた時、『老子道徳経』というハードカバーの立派な本が目に入った。この本は井筒俊彦という世界的な碩学がイランのテヘラン大学で、その国の学者と協同で研究しながら井筒氏は英語で、その学者はアラビア語で出版したものである。さらにその英文を京都大学の先生が日本語に訳したものである。

井筒氏は慶應大学の学生の時既にアラビア語をマスターしたそうで、彼は語学の天才で生涯に三十カ国語を読み書きでき、特に英独仏の三カ国語は完璧だったと言われている。

スコットランドの学者が「井筒氏の書いた英文は英語の『聖書』とシエイクスピアの全作品を三十年も四十年も真剣に勉強して初めて書けるような素晴らしい文章です」と言っているのを聞いたことがあるが、出来たらこの『老子道徳経』の原文を読んでみたいものだ。

さて、私はこの和訳の『老子道徳経』を何とか読んでみた。これまで『論語』は幾種類かを読んでいるが『老子』は初めてである。孔子の教えは人が此の世に於いて如何に正しく生きるべきかという道徳的な事を説いているが、老子無為自然な生き方を教えていて孔子の教えに反するような考え方があって、実に惹かれる点があり、こうした生き方が出来たらさぞかし精神的に自由だと思った。しかし人は普通何かと社会生活で束縛を受けて無為自然な生き方が出来ないのが現実である。

私はこの本を読んだ後、著者の井筒氏の事をもっと知りたいと思って、若松英輔という若い評論家の書いた『井筒俊彦 叡智の哲学』というこれまた立派な本を図書館で借りて読んでみた。これは一段と難しくて半知半解であったが、井筒氏が如何に優れた学者でありまた人格者であるかと云うことだけは分かった。

もう数年も前になるが、私は井筒氏の書いた『マホメット』と『イスラーム文化』を買っていて、読んだことさえ忘れていたので、今回書棚から取りだして読んでみてやはり良い本だと知った。今後彼の主著である『意識と本質』や『神秘哲学』など読めるようになれたらと思う。これに関連して井筒氏が師と仰ぐ西田幾多郎鈴木大拙の事も知りたい。その為に上述のように、行くことが出来る間に、彼らの記念館を訪ねてみたいという気になったのである。

西田幾多郎が日本人として最初の哲学書を書いたのは生まれながらの素質もあるが、何と云っても度重なる家庭的な不幸が主な原因だと思う。若くして最愛の姉、日露の戦いで戦死した愛すべき弟、妻の病気そして死、二十三歳で亡くなった掛け替えのない長男の死、さらに幼い娘達の死。此れ程の不幸は珍しい。彼はこの悲しみを乗り越え、彼独自の愛と知という哲学を打ち立てたと言われている。

私は昔『旧訳聖書』の「ヨブ記」を読んで、ヨブには男子七人と女子三人がいたが皆亡くなった、こうした神の試練に遭ったが彼は神を信じていたと書いてあったのを思いだした。西田も同じような試練に遭い、彼は遂に哲学と宗教の合一という考えに達したのだろう。私の祖父も先妻の児が男女合わせて六人いたが殆ど皆若い時病死か事故死であった。だから祖父は本当に人間愛を知り、絶対に人を悪く言わず、死ぬときは子供たちに「南無阿弥陀仏」と唱えて呉と言って死を迎えたと聞いている。

現在は医学の進歩のお陰で寿命が格段に延びた。その為に死のうにも死ねないと言う悲惨な状況すら生じている。従って死という厳粛さに立ち至ることがなくなり、人間の死ということを真剣に考えなくなった。だから神仏を考える事が無くなったのではなかろうか。此の事は果たして幸せだろうか。人は必ず死ぬ。一生の間に、目に見えない広大な神仏の力を感ずる事が出来た人は、たとい現世で一見不幸に見えても、真の幸せを得たと云えるのかも知れない。

 

仰ぎ見る偉大な人の足跡を 辿る旅路に出でたきものぞ

(2019・10・28)