yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

朔日

 今日は3月1日である。電子辞書で「ついたち」と引いてみたら「朔日」という字が出てきた。何故これを「ついたち」と読むのだろうかと思った。月の始めの日で「月が立つ」、「月立」つまり「つきたち」が「ついたち」となったと言われている。問題は「朔」の字である。漢和辞典を見てみたら「ひと月が終わって、暦の最初にもどった日。陰暦で月の第一日のこと。」とあった。

 私はこれ以上詮索しないで、すぐに「八朔」を思い浮かべた。今でこそ店頭には国内外の各種の果物が山と積まれているが、戦時中から戦後にかけて萩に住んでいた者にとっては、果物と言えば夏ミカンと柿ぐらいのもので、我々は夏ミカンを橙と言っていた。この橙より早く収穫していたのが八朔で、これは橙より酸味が少なく味がややさっぱりして、橙が庶民的と言えばこれは貴族的だと言える同種類の柑橘だった。

 先にも述べたように、この八朔は今はそれほど注目されていないようだが、私にとっては思い出深き果物である。私が萩中学に入学したのは昭和19年である。その翌年に終戦を迎え、私は高校から大学に行かせてもらった。私の小学校時代の遊び友達で、中学校へ入った者はほとんどいなかったのが当時の実情である。

 萩市の三角州を囲む一方の川である橋本川を越えて、山口市への道をしばらく行った所に大屋という部落がある。この部落を通り過ぎて山道に入ったところに、松陰先生の有名な「涙松の碑」がある。

 安政6年(1859)5月14日、松陰東送の命が下ると、あの有名な言葉「至誠にして動かざる者未だ之れ有らざるなり」を書き残し、同月25日に籠に乗せられて大屋のこの地に来た時、もはや二度と見ることが出来ないであろう故郷を振り返って詠んだ歌が、「涙松」である。

 

 帰らじと思ひさだめし 旅なればひとしほぬるる涙松かな

 

 山口へ通ずるこの道、この歌碑が立っているすぐ下に我が家の橙畑があった。そこには八朔も数本植えてあったので、私は父に命じられて正月前に収穫してきた。年の暮れの寒い時期に我が家から畑まで片道5キロの道を自転車を漕いで畑へ行き、10数個摘って帰るのであるが、これらは正月の「初釜」のお茶の稽古に使用するといって容易に口に入らなかった。今から考えると、たかが八朔であるが、結構高価で貴重な果物だったように思う。

 

 話が逸れたが、私は毎月の始めの日、つまり朔日に月に一度の室内の掃除をすることにしている。

今朝も目覚まし時計に起こされて5時に目を覚まし、洗顔の後座敷に入って、掃除をするにはまだ早いので、昨日からの続きで大森曹玄著『書と禅』を開いた。私が持っているのは1974年の初版本だが、いつ入手したか覚えていない、大学時代の恩師にもらったのかも知れない。著者は直心影流の剣道の達人で、しかも禅僧である。1978年から1982年までの間、花園大学の学長にもなっている。彼は平成6年に満90歳で亡くなっている。この本は題名にあるように「書と禅」について書かれたもので、昔一度読んでいるがすっかり忘れているので、今回改めて読む気になった。次のような文章があった。なかなかいい文章だから書き写してみよう。

 

  昭和三十七年も終わろうとする寒い日に、東京博物館の小講堂で震えながら聞いた文化財研究所長、田中一松さんの講演を思い出す。

  田中さんらは、ヨーロッパで四ヵ所、水墨画の展覧会を開いたが、その前に、当時パリにいた三、四十人の日本人画家が、作品展を催したそうである。それを見たフランスの美術評論家が、水墨画展にきて、田中さんに次のような感想をもらしたという。

 「かれらの画は、みんな美しく立派だった。けれども、それらの画はみな一様に、日本人は不在だった。そこにあるものは未熟なマチスだったり、ピカソのイミテーションだった。かって、こんなにもすぐれた水墨画を描いていた日本人が、今はいったいどうしたというのだろうか」と。

  書でも絵でも、技巧の必要なことはいうまでもないが、しかし、それだけが芸術の要素ではない。 技巧以上に人間そのもの―雪堂翁(注:有名な書家)のいわゆる人間の「本源より発するもの」がより重要である。(中略)

  失礼な言葉を許してもらい、率直に言わして頂くなら、この頃の展覧会には、何と人間不在の作品の多いことか。そこにあるものは幾つかの流派が陳列されているだけであって、作者の固有名詞

 はあってもなくてもいいようなものが多い。バーナード・ショーの有名な言葉を借用するならば、それは「一番二番と呼ぶのが適当で、一人二人と呼べるような代物ではない」とでもいうべきだろうか。 

 

 今読んでいるこの『書と禅』の扉の数ページに、王義之の「蘭亭序」の冒頭の部分や、弘法大師空海の「風信帖」の冒頭の部分が載っているが、小さな写真版に過ぎないが実に良い字だと思う。実物はさぞかし素晴らしいだろう。結局何を書き描き、また行っても、その人の人間性が自ずから投射されるとなると、我々凡人には容易には手の届かない境地だと思う。

 丁度7時になったので読書を止めて掃除に取り掛かった。先ず電気掃除機で上下階の掃き掃除をした。その後モップで板敷や階段の拭き掃除を終えたら7時50分を過ぎていた。先月私は掃除を終えて朝風呂に入ったのを思い出したので、今朝もこの後、先ず溜まっていた洗濯物を洗濯機に入れて朝風呂に入った。いつも思うことだが、自分の家に温泉が湧いていつでも入浴出来たらさぞかし好かろうと。風呂から上がって神棚のお供え「ミコシ」つまり「水と米と塩」を新たに取り替え、榊の水も新たにして拝み、今度は仏間へ行って、花と御水を替えて、正面に坐って線香を立て、何時もの様に、先ず『般若心経』と法然の『一枚起請文』を読誦し、祖先並びに多くの世話になった故人の名前を口にして拝んだ。こうしたことを私は毎日朝夕行った後で食事を摂ることにしている。

 先月25日に私は満91歳の誕生を迎えた。よく生きてきたものだと思う。今後こうした掃除などを幾日続けられるか分からない。私はこのところほとんど毎朝『唐木順三全集』を読んでいる。昨日やっと読み終えたのは「無常」という文章だった。何分にも難しいので再読三読しなければならないと思ったが、分からないなりにやはり古典は読むべきだ、とこの歳になって痛感するが聊か手遅れ。それでも出来るだけ読もうと思う。

 今朝はよく晴れていたが午後から降り出した。洗濯は乾燥機を兼ねているので完全に仕上がっていたので、朝食後に畳んで始末した。こうして毎日平凡な日々が過ぎていく。昨夜床の中で菊池寛の『大衆明治史』を息子が操作してくれた電子書籍で少し読んだが、日清戦争が終わった直後、先ずロシヤ、 ついでドイツとフランスによる「遼東半島三国干渉」の事が書いてあった。現在のウクライナ問題を思うにつけ、当時の日本政府の当局者たちが如何に苦慮したかが良く分かる。この本はGHQによって没収されていたようだが、良い本と思うので、多くの国民が読んで歴史の真相を学ぶべきだと思った。世界の歴史を見るとなかなか正義は通じない。備えあれば憂いなしで、やはり国民はある程度の我慢をしてでも、国を守るための軍備が必要だと思う。

 愚劣な娯楽番組や、行き過ぎた金と関係するスポーツなどに国民の多くが熱狂しているが、自然災害以上に恐ろしいのが、建前だけの共産主義で、実質的には少数の独裁者による国々の動きである。私なんか先が見えているが、今の若い者たちの時代がどうなるか心配だ。世界が真の平和になることを願わずにはおれない。

2023・3・1 記す