yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

老いて病む

 山口病院が経営している老人専用施設の2人部屋に入っていた従兄の妻が、肺炎の症状があるからといって手術をしたが結局87歳で亡くなった。彼女の一生を考えると実に行動範囲の狭いもので、夫と子供たち、さらに夫の母つまり姑への献身一筋に生きた人生だったように思われる。その面では良妻賢母、今から考えたら少し時代遅れの感がするが立派な一生だった

 彼女は幼くして両親に死に別れ、医者と結婚していた伯母の下で暮らしていたようである。弟がいたが彼とは別の環境で生活して居た。その医者は萩で泌尿科医院を開業していて、長崎医専(現在の長崎大学医学部)卒の文化人でもあった。彼女も長崎出身であり、地元の高等女学校を卒業していた。そういう関係で伯母夫婦と一緒に彼女も萩に来て生活して居たのである。

 縁あって従兄と結婚した。従兄は宇部医専(現代の山口大学医学部)を出て宇部耳鼻咽喉科を開業していた。彼は主任教授の本庶氏の媒酌で彼女と結婚したのである。この本庶教授の長男がノーベル医学受賞者である。

結婚後3人の男の子と最後に女の子が1人生まれて、上2人は父親の跡を継いで耳鼻咽喉科の医師として開業し、3番目の息子は薬剤師として病院に勤め、最後の娘も耳鼻科の医者と結婚している。こうして彼らは皆それぞれ家庭を持ち健全な生活を送っている。

 

 このように子供たちが皆社会人として立派に暮らしているが、彼女は老後を楽しむという事が無かったように私は思う。それは子供の手が離れた頃姑が一緒に生活するようになり、その面倒を見なくてはならなくなった事にも関係している。彼女はこの点においても我が身を顧みず実によく仕えた。姑は決して無理を言うような人でなかったが、医者である夫の世話をする傍ら姑の面倒を見なければならないのは、次第に年を取っていく彼女にとっては、心身共にかなりの負担である。それに彼女は黙々として良く耐えたと私は思う。腰が極端に曲がり行動に不便をきたすようになっても彼女は一生懸命に生活して居た。姑は100歳の長寿を保ち、10数年前に亡くなった。姑は彼女に感謝して居た。夫も幼いときからの小児麻痺で歩行が困難だったが、彼も実によく働いた。彼は宇部の医師会長やライオンズクラブの会長として社会的にも活躍して居た。これを陰で支えていたのは実に彼女だったと言っても過言ではない。だから私は立派だと思う。現代の女性でこうした生き方をする者は稀ではなかろうか。

 こうした生き方をした従兄夫婦が、終に彼ら夫婦だけで生活ができないということで、山口市にある老人施設に入ったのは4年ばかり前だった。その彼女がとうとう亡くなった。これより十年ばかり前に黄綬褒章を授与されたとき、従兄はあまり気の進まない妻を伴って宮中へ行き、彼女を車椅子に乗せて参列したと言っていたが、それがせめてもの妻への感謝だったと思う。その妻が昨年11月末に終に帰らぬ客となったのだ。彼にとっては、片羽をもがれたように感じているだろう。実は私も昨年5月に妻を亡くし、寂しさを託っているが生活するには今のところそんなに差し支えはない。スーパーは直ぐ近くにあるし、掃除・洗濯・調理も何とかこなしているからである。ところが従兄は前にも言ったように小児麻痺で、最近は益々歩行が難しく、両手に杖を持って片足を引きずるようにして移動して居るからである。その様な状態の中において、彼は先日滑って転び大腿骨を骨折した。不幸は重なるとつくづく思う。手術をしてこれからリハビリが開始されるようだがまだその段階に到らないとか。

 

私は似たようなケースに最近出合った。実は私の友人2人が足腰を骨折したのである。その内の1人は高校の同級生で、彼は病気で1年休学しているから年齢は数えの90歳である。萩に立派な家屋敷を持っていたが数年前に手放した。彼の曾祖父は明倫館で教鞭を執っていた学者であり、祖父は日露戦争にも従軍した陸軍中将、父は憲兵大佐と言ったなかなかの家柄である。彼の上には姉が数人いて彼は最後に生まれた跡取りだが、大学の工学部を卒業して関西方面の航空機に関する会社に勤務し、その地の女性と結婚した。従って萩の屋敷を一時高校時代の友人に貸していたが、その友人も年老いたといって長門市の娘さんの近くに移った。ついでに云うと、この友人も或る日病院に検診に行ったところ、大腸ガンと診断され、即入院、手術を受けて今なお病床に臥している。

 

私は友人にその後どうしているかと思い電話したら、奥さんのはっきりした声が聞こえてきた。彼の奥さんは彼より一回り以上若い関西生まれの人である。

 

「お電話有難うございます。主人はたった今出かけました。実は昨年の10月末に骨折して手術をしました。2ヶ月ばかりリハビリをしてやっと家に帰って来ました。どうやら歩けるようになりましたが杖をついてでなければ歩けません」

 

奥さんの思いも掛けない言葉である。私は「帰られたらよろしく云って下さい。」と言って電話を切ろうとしたら、「主人が帰りましたら電話をするように言っておきます。どうも有り難うございます」と言って奥さんは電話を切った。

 

一昨年だったと思うが彼は1人で萩に来た。その時私は彼の家へ行って久闊を叙した。その時、「この家屋敷をもう売ろうと思うが中々業者が見つからない。見つかっても非常に安い価格を提示するから一寸考えて居る所だ。こうして此処に何日も1人で居る訳にはいかないので、俺は帰るが、代わりに女房が来て知り合いの人に相談してみると言っていた」

このような事があって結局奥さんの裁量で格安ながら手放したようである。こうして彼ら夫婦としては一段落したと思われるとき彼が骨折したのだろう。人間の一生は何が何時起こるか分からない。このようなことは誰もが体験するが、特に老いて体験すると切実さが違う。

本は若いとき読むのと、壮年期さらには老人になって読んだ場合とでは、読んだときの感じや理解度がかなり異なる。こんなことは今更言うべきことではないが、例えば漱石の『こころ』に次のような先生の言葉があった。是は漱石の考えでもある。

 

「然し人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 

また少し先でも次のような先生の言葉が出てきた。

 

「然し人間は死ぬものだからね。何んなに達者な者でも、何時死ぬか分からないものだからね」

 

先生と奥さんの会話にこうある。

 

「何うするつて、仕方がないわ、ねえあなた。老少(らうせう)不定(ふぢやう)つていふ位だから」

「壽命は分りませんね。私にも」

「是ばかりは本當に壽命ですからね。生まれた時にちゃんと極まった年数をもらって来るんだから仕方がないわ」

 

 またこんな言葉も私なる主人公の母が云っている。

 

「なにね、自分で死ぬ死ぬと云ふ人に死んだ試はないんだから安心だよ、お父さんなんぞも、死ぬ死ぬって云ひながら是から先まだ何年生きなさるか分かるまいよ、夫(それ)よりか黙ってゐる丈夫な人の方が剣呑(けんのん)さ」

 

 

漱石が『こころ』を書いたのは大正3年(1910)で彼が48歳の時である。明治43年(1910)2月に五女ひな子が生まれた。それまで漱石は子供たちに恐れられていて、あまり慕われては居ないようである。所が彼の晩年に生まれたひな子を彼は可愛がった。然しこの子は翌年に死んだ。明治43年8月に漱石は、修善寺温泉で吐血して30分間人事不省に陥り、危篤状態になった。直ちに帰郷して長与胃腸病院に入院したがその入院中に長与院長が亡くなっている。先にも述べたように明治44年11月に可愛い盛りの五女ひな子が急死した。そして今度は明治45年2月に、朝日新聞社主筆漱石を入社へと尽力した池辺三山が没した。漱石はその人柄に惚れて、東大の教職を辞して入社したのだが、その池辺三山は社内問題で退社した後突然没したのである。享年48だから今から考えるとまだ若い。

私は『漱石全集 第八巻』を書棚から出して「池辺三山」を読んで見た。友の死を悼む言葉で、此れ程の文章を私は知らない。

 

池邊君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗を流しながら藻掻いてゐる間、余は池邊君に對して何等の顧慮も心配も拂ふ事が出来なかったのは、君の朋友として、朋友にあるまじき無頓着な心持ちを抱いてゐたと云ふ點に於て、如何にも残念な気がする。余が修善寺で生死の間に迷ふ程の心細い病み方をして居た時、池邊君は例の通り長大な軀幹を東京から運んで来て、余の枕邊に坐った。さうして苦い顔をしながら、醫者に騙されて来て見たと云った。醫者に騙されたといふ彼は、固より余を騙す積で斯ういう言葉を發したのある。彼の死ぬ時には、斯いふ言葉を考へる餘地すら余に與へられなかった。枕邊に坐って黙礼する一分時さへ許されなかった。余はただ其晩の夜半に彼の死顔を一目見た丈である。

 

前にも言及したが、昨年5月の深夜、妻が倒れたという電話を受けて門司の救急病院に駆けつけた時、妻はベッドに静かに横たわっていた。声を掛けてももはや応えることは出来ない。ただ無言で安らかな死顔を見せていた。私は微かに開いていた瞼をそっと押さえた。その事が今でもありありと目に浮かぶ。

 

こうした状況下であったので、漱石は心身共に尋常ならざる状態でありながら、最後の傑作『行人』『こころ』『道草』と書き続け、終に『明暗』の途中で亡くなった。

漱石の死は大正5年12月9日である。今から考えると若いようだが当時としてはそれほどではない。人生の辛酸を充分知り尽くし、しかも今書いたような数々の不幸に見舞われている。だからこうした人生の究極たる死について彼は筆を運んでいたのだと思う。

 

私もこの年になって妻や多くの友人知人の病や死に遭遇して、「老いて病む」という事をこれまで以上に考えるようになった。話をもとに戻そう。

電話を掛けて1週間ばかりした時、先の友人から封書が来た。黒の万年筆で書いたと思われる文字は大体判読出来た。次のような内容だった。

 

 前略の書き出しで失礼させて頂きます。過日家内から、「山本先生が電話が欲しいです」

と伝えられましたが、私は70才後半頃から、年毎に難聴がひどくなっていますので、電話では貴兄の言葉が聞き取れないので、駄文に託させていただきます。

先ずは私の近況を御知らせさせて頂きます。昨年の10月下旬、自宅から30分ほどはなれたスーパーの路上で転んで(私の不注意で)多くの方々の好意で救急車で病院へ

腰骨が折れていたので手術され、医療のルールで2ヶ月間のリハビリをへて12月下旬にようやく自宅に帰って次第です。

2ヶ月間はリハビリはしてもらえるし、薬もいただける結構なことですが、例えば、トイレに行くときはナースコールでナースにつきそって頂かねばならぬ等々、私にとって戸惑いの毎日で疲れました。

 

続けて二枚目の便箋に、

 

正月に餅を喰べて気分的に元気になりましたが、惚けがひどくなり、日時や時間等々・・忘れるので、何から何まで女房の世話になっているような恥ずかしい毎日です。年を取ってからでも健康な貴兄がうらやましくも思われますが、奥様に先立たれ・・・色々とご苦労なことと拝察します。

私は90才、お互いに長生きでお年寄りだから、我慢して頑張るしかないですね。惚けているので、何を書いてるか解らなくなりましたので、この辺りで失礼します。お許し下さい。                         合掌

 令和2年1月18日

 

手紙はこれで終わりと思って状袋に収めた。数日して読み直そうと思い、状袋から出したら三枚目があるのに気が付いた。私もいささか惚けていると思った。

 

追伸: 3~5年位前から私は右眼が見えなくなっています。

カレイオウハン病とかで・・・

手術をした結果が失明でした。

    難聴で目が不自由になったので本も読めません。

    風響樹(注:私が送った同人誌)は10冊以上ありますが、

もう本は読めませんので送らないで下さい。

以上

 

私は迂闊だった。この追伸に気が付かずに、直ぐ返事を出した。恐らく彼は、「もう本が読めない」と云ったのにと、感情を害すのではないかと思い、早速断りの電話を掛けた。奥さんが出られて代わろうと云われたが、「近況を伝える手紙を出しましたが、本が読めないとのこと、失礼しました」と云ったら「私が代わって主人に読んでやります」との返事にホッとした。

誰も皆年を取り、次第に機能が衰えていく。淋しくも悲しい事だが、これが全ての人の辿るべき道かとつくづく思うのである。

私は彼の手紙を、特に追伸を読んで身につまされる思いをした。生老病死、言葉というものは環境によって意味が深まる。

 

此処に云う友人は、高校で同級生だった者の弟である。彼は萩焼作家であると共に、兄に似て文筆家でもあった。萩焼の由来に関する事をよく調べて2冊の小説を書いた。彼は萩市の郊外で、はるか南に位置する「木間(こま)」という山間部に窯を築いて、作品の制作にあたっていた。われわれが山口市に移るとその直後くらいに、彼ら夫婦もそこに新居を構えたのである。われわれは萩に居るときからの付き合いだったので、私と妻は閑静な生活をしている彼らを訪ねて、年に数回はしばしの歓談を楽しんだものである。所が彼は最近眼がよく見えないようになったと語った。新聞も読めないし、萩へ行くには奥さんの手引きを必要とする。こういった悲しい言葉を電話で伝えてきたのである。

彼は私より1つだけ年下であるから、87歳で誰が何と云っても老人である。しかし彼は中々達観して居た。

 

「まあこの年まで生かしてもらったんですから、充分です。目が不自由になりましたが、是まで此の目をよう使いましたから仕方有りません。活字は読めませんが、ラジオは聴けますから、また手探りでも家に居れば何処に何があるか分かりますからそれほど差し支えはしません。家内には迷惑を掛けますが何とか生きていきます。出来たらまたお出かけくださいませ」

 

彼はこのように云って、少しも悲観の色を示さなかった。流石に覚悟が出来ていると感心した。

最後に少しは楽しい事を考えよう。私は今のところまだ何とか本が読める。つくづく有難い事だと思う。前にも書いたが、漱石の最晩年の作品が、今になってどうやら本當に面白く感じられる。その為にも惚けないようにしなければならない。後は運に任すのみか。

2020・1・25日 記す