yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

幕末のパン  

 先日97歳で亡くなった従兄の49日の法要が、萩市浄土真宗のお寺「端の坊」で行われた。是より前に案内が来たので出席の返事はしたものの、「さて、どうして行こうかな。バスとなるとバス停からかなり歩かなければならないし、おまけに早く家を出なければならない。」こうしたことを考えて、小郡に住んでいる次男に電話したら、日曜日ではあるが学校の用事があると言った。そこで下関に居る長男に電話したら、行けると言って呉れた。しかし彼にとっても下関から山口に来て萩へ行き、またその逆に帰るとなると大変だろうと思い、宇部の従兄に電話してみた。そうしたら彼は法要に出席しないで彼の長男が代理で出席すると言った。私は上記の事を伝えて、若し可能なら乗せて貰えないだろうかと言った。その日の夕方彼の長男から、「山口へ廻ってお連れします。また近づいたらご連絡します」という有難い電話を貰った。

 

 法要の前日、従兄の長男から「明日9時半にお伺いします」と電話が掛かり、法要の当日、即ち4月14日に彼は約束通り9時半直前に来てくれた。私はかって宇部高校に勤務したことがある。その時の校長大前百合雄先生が生徒集会で、次のような話をされたのを今もよく覚えている。

 

 「人間として大事なことが3つある。まず第1は人との約束を守ること。次は時間を厳守する事。

 最後の1つは交通規則を遵守すること。この3つはすこしもお金はかからないし、一見簡単に思えるが、守るのはなかなか難しい。どうか君たちはこれからこの3つのことを忘れずに、人間としてしっかり生きて行って欲しい。」

 

 私はこのことを思い出して従兄の長男は信用できると思った。もう数年も前になるが、ロシアのプーチン大統領が我が国に来て、当時の安倍首相と会談したことがある。会見の場所は山口県長門市であった。ところがプーチンは3時間以上も約束の時間に遅れて来た。これは故意に遅刻したと言われている。このような人物を相手にしては国際関係は上手くいくはずがない。今のウクライナ情勢を見ても分かるような気がする。

 

 話が逸れたが、お寺での法要並びに納骨も無事に終わった後、従兄の長男が一寸行くところがあると言うのでついて行った。其処は萩博物館の近くにある「蔵」という喫茶店だった。彼の目的は、その店で売っている「幕末のパン」を予約していたので、それを購入して帰ることだった。

 私はこの店に数回行ったことがる。しかし「幕末のパン」を売っていることは知らなかった。帰りがけに私は店主に、「幕末のパン」についての謂れを尋ねたら、「これは幕末に大賀大眉という人が小畑で作ったと聞いています」と彼は答えた。

 

 実はこのことについて私は多少知っていたので、帰宅して萩市役所発刊の『萩市史 年表』を見てみたら、次の事が記載してあった。

 

 慶応二年(一八六六)

  一・二一 木戸孝允西郷隆盛らと会議して長・薩二藩の連合の約を協定する。

  二・一二 幕府軍は四境を包囲しようとする。毛利敬親は、諸臣に討幕戦の準備を命ずる。

  六・七  幕府軍が進撃して大島口で戦いの口火が切られ、四境戦争が始まる。

  七・二  大賀幾介がパンの製造を申請する。

 

 大賀幾介とは大賀大眉の実名である。大眉は彼の号である。彼は人並み優れた大きい眉を持っていたので、そう言った号をつけていたので、この号の方が一般に通用していた。ついでに言うと、彼はかって小畑で古窯を復元して萩焼の製作もした事がある。現在「吉賀大眉美術館」とあるのは、この「大眉」の号を利用したものと考えられる。

 大賀大眉が幕末にパンを作ったことについては、萩博物館からの記事を参照して私は拙稿『梅薫る』の「第四章 三浦寛観樹と大賀大眉」の中で書いているので、最初の一部だけを此処に書いておこう。

 

 「幕末にパン作りを試みた商人」

  慶応2年長州戦争(四境戦争)の直前に兵糧用のパンの製造が許可され、藩から補助金が支給された。

 

 他にもネットに次の様な記述があった。

 

  長州藩の兵糧=幕末パン=備急餅

    萩の朝鮮通詞の家に生まれた中島治平が長崎から伝えたパンの製造法をつかって松下村塾生の大賀大眉が藩の許可を得て山口で作成、四境戦争の折、木戸孝允が石州口の諸隊のために1万個送るように依頼した手紙がある。

 

 ここで私は思い出したのが、大眉の娘が書いた手紙のことである。

  

  「父は何でも事業を組み立てることが上手で関係もよいので、何んな事でも許可が付きます。けれども自分でいつまでもやって居る人でなくて人に譲ってやらせるのが好きでした。」

 

 実は大賀大眉の姉が、私の曽祖父・梅屋七兵衛の妻で、この手紙の写しを私は持っているから、上記の事について書いたのである。

 

 ところで法要から帰りに従兄の長男が我が家にちょっと寄った時、この幕末のパンを食べさせてくれた。テニスボールよりやや大きめの丸いパンである。ちぎって食べたら、普通の食パンとは一味違って、じっくり噛みしめて食べるべき美味しいパンだと思った。

 

 なお喫茶店を出て、折角だからと言って今度は私が案内して指月城址へ行った。日本海と笠山並びに鶴江台、さらに浜崎から菊が浜の見える眺めは格別で、私は萩に居た時よくこの場所に立ったものである。夜来の雨もすっかり上がり、午後からは天気も良くなったので、五月晴れの青空の下、故郷のこの絶景を久しぶりに展望出来て、良き一日だった。

 

 ついでながら、大賀大眉の肖像画を私の父が描いている。これは現在萩博物館にあるが、ネットで簡単に見ることが出来る。確かに立派な眉の持ち主だったようだ。

 

2023・5・18 記す