yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

浮かぶ花びら  

 父は昭和57年5月1日、五月晴れの良き日に昼間急に倒れて、その夜中に 眠るがごとく我が家で亡くなった。私はその時丁度50歳だった。亡くなる数年前に父の述懐した言葉がある。

  

 「俺はこの年までよう生きたから、いつ死んでも別に哀しいとも何とも思わないが、この美しい

  自然と別れるのだけは一寸残念な気がする」

 

 その時の父は80歳ぐらいだったと思う。この言葉に関連して私はこれよりはるか 前、私が萩中学校に入ったばかりの時、やはり父が口にした言葉を思い出す。私は父に連れられて、萩市の郊外、現在松陰先生の「涙松の碑」が建っている直ぐ側にあった我が家の橙畑へ行って、畑の草刈りをしての帰り道でのことである。畑から山陰線の踏切までの一本道は大屋(おおや)畷(なわて)と呼ばれていた。畑からしばらく民家が立ち並ぶ町筋を通り抜けて「観音橋」という小さな橋を渡ると、視野が開けて左前方に指月山の美しい姿、さらにその向こうに日本海に浮かぶ島々が見える。道の両側に田圃が広がるこの道が大屋畷で、いま 考えるとなかなか良い風景だった。

 その日は夏休みも終わりに近い夕ぐれ近くであった。空にはほとんど雲もなく、指月山の背後に夕日が沈みかけていて、西の空は茜色に染まり非常に美しい光景だった。その時父と私は歩いていた。突然父は立ち止まって言った。

 

 「あの空と海の美しさはどうか。こんな景色はなかなか見られないからよう見てみい。お前はミレーの晩鐘という絵を知っとるか。フランスの田舎の百姓夫婦が一仕事終えた時、教会の鐘が鳴るのを聞いて、かれらは仕事の手を休めて、今日も無事に一日過ぎたのを、神に感謝している敬虔な姿を描いた有名な絵だ。俺は今それを思い出したが、平和な世の中で皆が労働の楽しさを覚えるような時代が来るとよい」

 

 父は県立萩中学校を大正8年に卒業して神戸にある関西学院に進学し、卒業後は大阪にあった小林毛布株式会社に勤めていたと言っていた。社長はなかなかの文化人で、与謝野晶子と付き合いがあったようなことも言っていた。しかし勤めて僅か2年して祖父の体調が悪くなったので、やむを得ず萩の我が家に帰った。祖父は大正15年に73歳で亡くなった。これより前、父は会社を急に辞めて帰郷したので、就職先がすぐには見つからなかったが、運よく萩商業に講師として勤めることが出来た。父はそのことについて次の様に話してくれた。

 

 「俺は萩のような田舎には本当は帰りたくなかった。あの当時の俺の同級生は後に皆、会社の社長などになって成功している。俺は萩に帰ってすぐには勤めるところが無かったが、萩中の時習った岩田博蔵校長が、萩商業に心配してくださって有難かった。俺は勉強は余り出来なかったが、5年生の時剣道部の主将となって京都の武徳殿へ行って試合をして優勝のメダルをもらった。岩田校長は放課後いつも剣道部の練習を見に来ておられた。柔道より剣道の方がお好きだったのだろう。お陰で俺の事をよう覚えていてくださって、俺を世話してくださったのだ。俺は岩田校長には今でも感謝している。」

 

 この岩田博蔵校長は東大で夏目漱石の教えを受けている。萩中の校長になる前、2度萩中で英語を教えている。先生は昭和4年に、萩中の校長から旧制山口高等学校(現山大文理学部)校長へと栄転された。先にも書いたように、父は萩に帰って何とか教員の職を得たが、正規の教職の免許を持たず、おまけに官立の大学を出ていないので、給料はかなり低かったようである。あの当時は今と違ってどのような学校を出たかによって給料の差があった。よく知られていることだが、漱石が東大英文科の大学院を卒業して間もなく、愛媛県立松山中学校へ行ったとき、まだ30歳にもなっていなかったが、校長よりも高い給料を取っていた。ついでに云うと先の岩田校長はこの愛媛県立松山中学校から、山口県立萩中学校の第5代校長として着任されたのである。

  以上のことは『山口県立萩高等学校百年史』を参考にして書いたのであるが、漱石の『三四郎』と『寺田寅彦全集』を読むと、明治から大正時代の中学校や高等学校の学生の様子と、父の学生時代の事を思い併せて懐かしさを覚えた。先にも書いたように父は剣道に夢中になって落第したと言った。当時は1科目でも40点未満だったり、59点以下の教科が3つ以上あれば落第である。『百年史』にある「大正初期の学年別及・落第者数」を見て驚いたのだが、1年生から5年生までの全生徒数約450人中、大正2年に61人、3年には72人も落第している。今から考えると驚くべきことである。

 寺田寅彦が旧制の第五高等学校の学生だった時の思い出を、「夏目漱石先生の追憶」と題した文章の冒頭に次のように書いている。

 

  熊本第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わった頃の事である。同県学生の内で試験を 

 「しくじったらしい」二三人の為にそれぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して所謂「点を貰

 う」為の運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸か其の一員にされてしまった。其時に夏目先生

 の英語をしくじったとふのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受

 けて居たので、もしや 落第するとそれきり其の支給を断たれる恐れがあったのである。

 

 これに続く文章は私にとっては興味があるがこれくらいにして、今度は『三四郎』に出てくることで父が話した事と一寸似かよったことを書いてみよう。父が剣道部の代表として京都で行われた大正6年8月の「第18回全国青年演武大会」に出場するために、竹刀と剣道具を抱えて、夜中に萩の家を出て山口までの行程を、先に述べた大屋畷から涙松を通過し、山の中の道を1人で歩いていた時、後ろから白い着物を着た女性が付いてきたので、父はなんだか気味が悪いので足を速めたら、その女性も足早に後を追ってきた。結局彼女は幽霊でもなんでもなくて、夜道の1人歩きが怖かったにで父を道連れにしたかったようだ。

 

 三四郎が熊本の高等学校を卒業して上京する時、汽車の中で1人の女性と筋向いに腰を掛けている。汽車は名古屋留まりである。『三四郎』には次のように書いてある。

 

 次の駅で汽車が留まった時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひ出した。一人では気味が悪いからと云って、頻りに頼む。三四郎も尤もだと思った。けれども、さう快く引き受ける気にもならなかった。何しろ知らない女なんだから、頗る躊躇したにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいい加減な生返事をして居た。

 

 父は生れて初めて萩を出て汽車に乗って京都へ行ったのだが、夜道で会ったその女性の事は印象に残ったのだろう。その後萩中を卒業して関西学院に入った時、新入生歓迎武道大会に出場して、上級生から剣道部に入れとしきりに勧誘されたが、勉強が出来なくなると思って断ったと言っていた。

 思わず父の事を書き進めてきたが、実は朝早く起きて『徒然草』を読んでいたら、「第二十段」に書いてある文章に目を止めた。

 

  某(なにがし)とかや言ひし世捨て人の、「この世の絆(ほだし)、持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」

 と言ひしこそ、真(まこと)に、然(さ)も覚えぬべけれ。

 

 『ちくま学芸文庫』の島内裕子氏の訳と評を読んで、私は晩年の父の生き方を又思い出した。

 

  訳 誰それとか言う世捨て人が、「この世に、絆しは何もないわが身であるが、季節と時間の推

 移に連れて、刻々と移り変わる空の名残の様子だけが心懸かりで、捨て去れない」と言ったのは、

 本当にその通りだと思われることだ。

 

  評 「空の名残」という名句が刻印された段。空の名残とは、夕暮に次第に暮れゆくれ空の変化

 を指すと考えられる。見上げる人間の心模様を映し出し、受け容れるものとして在り続け、日も月も

 星も輝き、ある時は片雲漂い、時雨降り、雪が舞う変幻多彩な空である。だから、空の名残が惜し

 いという心性には、今生きて在る生への断ち切れぬ思いがあるだろう。空の名残に託した人生の名

 残。そこにこそ。兼好は深く共鳴したのではないだろうか。

 

 私は父の亡くなった年齢を過ぎてもう91歳なった。まさかこれほど生き永らえるとは思ってもみなかった。まあこうなったら何とか健康でありたいとだけは思っている。その為に私は殆ど毎日家の周辺を最低1キロは散歩する。

 『徒然草』に「空の名残」という言葉が出ていたので、桜が散っているだろうから,名残の桜でも見に行こうと思って、6時半に家を出た。日曜日なので、人も車もその時間にはほとんど通っていなかった。我が家から歩いて500メートル行くと吉敷川がある。一級河川と表示してあるが,川幅は10メートルももない狭さで、こちらの土手から向こうの土手迄でも50メートルくらいしかない。私は全く人のいないこちらの土手の上の道を、対岸の土手に植えられた桜並木を見ながらゆっくり歩いた。花はすでに散り始めていて、水面に多くの花びらが浮かんで流れていた。

 すこし歩いたら川が完全に薄紅色に染まっているのに気が付いた。一瞬なんだろうかと思って目を凝らしたら、無数の花びらが流れないで川をすっかり覆っているのだと分かった。初めて見る光景なので私はスマホでこの珍しい光景を写真に撮った。私は「花筏」という言葉を思い出したが、今目にした桜の花びらは浮遊していないので「筏」とは言えない。私はこちらから向こうへと連なっているので、「花の懸け橋」という言葉を考えた。またこの川の流れを着物に例えて、川が美しい錦の帯を結んでいるとも想像してみた。対岸の土手には人が歩くだけの小径があって、上流に向かって非常に多くの桜が植えてある。帰りには上流の橋を渡って桜並木の下の小径を歩いた。季節にはこの桜並木は水面に美しい姿を映して、山口市では先ず「徳佐の八幡宮のしだれ桜」と「一の坂川の桜並木」、それのこの吉敷川の桜並木が絶景だと私は思っている。

 朝早く青空の下、たった一人でこの素晴らしい景色を目にしながら私は歩いた。私は平成10年に萩からここ山口市吉敷に移り住んでいる。毎年桜の時期にはこの吉敷川の土手を歩いているが、今回のように、水面に浮かぶ無数の桜の花びらの姿を見たのはは初めてである。人は注意して目を向ければ、それまで気が付かなかったものや事が自然界には無数にあるのを知る。道の辺に咲いている名も知らない草花も、よく見て見れば非常に美しいことを知ったのも、散歩の途中の事である。

 2023・4・3 記す