yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

紅白の梅

 文庫本『硫黄島の奇跡―白骨遺体に巻かれたゲートル』が50冊郵送されてきた。著者だけにといって出版期日の1ヶ月前の配本は、出版社からのサービスのようだ。早速入院中の正道兄に1冊持って行き、残りの19冊は診療中だったが正彦君に手渡した。また幡典兄に渡してくれと云って仕事帰りの龍太郎君に10冊ほど託した。2時間ばかりして宇部に住む彼から電話が掛かってきた。

「芳一兄ちゃんが生き返ってきたようで非常に嬉しい」

彼にははっきりとした思い出があるからだろう。

玉砕した従兄は腹違いの弟や妹をよく可愛がった。一番年の近い正道とは一回り違う。彼が31歳で亡くなったとき正道は19歳、幡典は17歳だったからはっきり兄を記憶しているのだろう。

さてこの次ぎに誰に贈ろうかと考え、先ず表紙に利用した硫黄島と海鳥の写真を快く提供してくれた上野君に2冊、さらに何時も心のこもったメールをもらう姫路の金沢氏と神戸の尾端氏にそれぞれ1冊づつ送ることにした。そこで、細長く切った用紙に「謹呈 山本孝夫」と墨書し、本を寸法がぴったりのビニール袋に入れた。「謹呈」の紙を本に挟むべきだったが、忘れたのでビニール袋の上にテープで貼って、郵便局で購入したレターパックに収めた。そしてこれらの包みを近くのポストまで持って行き投函した。

 

2時過ぎで陽気な日差しなので、投函後何時もの散歩道を歩くことにした。多々良造園の敷地内に、丈の高い白梅の古木が見事に咲き誇っていた。梅の古木は一見した所、木肌に皺が寄って如何にも年老いて枯れた感じに思える。しかし毎年寒い冬になると小さな蕾が芽吹き、多くの外の花々に先駆けて、無数の小さな花がその古木一面に咲きほころび、そのために周辺がパッと輝いてくる。寒空に凜と咲く梅の花は、何と云っても生きる勇気と希望を与えてくれる。

私は一寸立ち止まって見上げていると、2羽のメジロが飛んできて、さも忙しげに花から花へと移動して花をつつき始めた。一時もじっとしていないで、枝から枝へ、花から花へと移動する、だから一瞬姿が見えなくなるときがある。彼らは僅かな蜜でも吸っているのだろうか。花びらがひらひらと散り落ちた。私はしばらく見ていたが、ふと探鳥について話してくれた上野君の事を思いだした。

彼は「機関砲」を意味する「キャノン」の大きくて重いカメラを抱えて、じっと鳥の動きを注視し、シャッターチャンスを待つと云っていたが、一時もじっとしていない小鳥の撮影が如何に忍耐と注意を必要とするものかが、この僅か数分の佇まいからでも想像でき、探鳥と簡単に云っても、生やさしいものではないとつくづく思った。

 

少し行くとまた白梅が道の側に咲いていた。数日前にはちらほらと咲いていたのが一気に咲いて満開の体である。この梅はややお青みを帯びていて一段と美しく見えた。道の突き当たりの丘の麓から少し坂道を上った所に「六地蔵」がある。そこへ行くまでの50メートルばかり手前からでも、真ん中の大きい仏像とその左右の小さな六体の仏がはっきり目に入る。中でも中央の仏には真っ赤な「涎掛け」が掛けてあり、その色鮮やかなのが遠くからでもよく見える。

私は何時も1年玉か5円玉を用意してお供えする。拝んだ後さらに石段を数段登って行くとセメントを敷き詰めたやや広い墓地に達する。そこは丘の傾斜地だが一帯が古くからの墓地なので、古い自然石や新しい御影石で出来た立派な墓石などが、やや雑然と数多く見られる。

ここからの眺めが非常に良いので、最近はいつもここまで上ってまず深呼吸をした後、直ぐ麓の多々良造園の敷地から次第に目を遠くへと移動させ、眼下に広がる市街、さらにその遙か向こうの盆地を囲む周辺の山々の連なりに目をやることにしている。この私が立って居る場所は、市街地の位置から恐らく20メートルの高下差があるのではないかと思う。だから眺めが良い。晴天の日は勿論だが、曇り日でも一瞬俗界を離れた気持ちになって爽快の感を抱く。おまけにここに来るまでめったに人には出会わない。今日は大きな茶褐色の犬を連れた女性にだけ出合って軽く会釈した。

この髙処から今度は下り坂で、道路まで下りていく直前にもう一箇所「六地蔵」が並んでいる。私はまたポケットから小銭を取り出してお供えをして拝む。これで自ら決めている日課を終えたことになるのである。これら二箇所の六地蔵は100メートルも離れてはいない距離にある。

 

帰りの最短距離は、そのまま我が家に真っ直ぐに向かう約500メートルの道を辿れば良いのだが、大抵回り道をして帰ることにしている。従って丘の麓に沿ったやや細い道を今日も歩いた。そうすると今度は紅梅が道の側の家から赤々と咲いているのが見えた。我が家の庭にあるのは薄桃色の梅だが、目にしたのは真っ赤であった。紅白いずれにしても今を盛りに咲き誇っているようだったが、我が家のはまだやっと枝の先、陽の良く当たる処が咲き始めた程度である。

今日は天気も良いし別に用もないとので、ゴルフ場の入口まで脚を伸ばした。途中また白梅が目に入った。梅の外にいま咲き誇っているのは真っ赤な椿である。椿は花びらが散らずに塊として落花するので、時が経って茶褐色に変色したその残骸が地面に落ちているのは見た目には好くない。その点梅は風が吹いていても風情がある。今日は強風に舞う花吹雪は見られず、歩いて汗ばむほどであった。

 

帰って「只今」と勝手口のガラス戸を開けても誰もいない。座敷の違い棚に置いてある亡き妻の遺影に向かって「今帰ったぞ」と云っただけである。昼食を最近は抜きにして居るので、小粒の納豆を皿に移し、畑に出て「ひともじ」を数本取ってきて小さく刻み、納豆と一緒によくかき混ぜて食べただけである。その後机に向かいしばらく読書した。少し倦いたので先ほど散歩して見た事でも少し書いてみようかとペンを走らせたが、ふと外に目を向けたら、窓際に置いている赤いカーネーションがややうなだれているのが気になった。

明日新しいのを買って取り替えよう。いやひょっとしたら明日は日曜だから、また長男の嫁が花を持って来てくれるかも知れない。それまで待ってみるかと思うことにした。

ところがトイレに立って戻ったら電話が鳴っている。受話器を手に取ったら「後三十分ばかりして行きたいとお思いますが良いでしょうか」という彼女の声である。これには驚いた。待つほどもなく百合や菊やカーネーションを大きな紙に包んだ一抱えの花束と、各種の野菜の入った袋を持ってきてくれた。彼女は小学校に勤務して日頃多忙を極めているのに、何時もこうして気に掛けてくれる。ただ感謝有るのみである。

2020・2・1 記す