yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

好意と義務

 散歩から帰って見たら、室内のインターホンが来客のあったことを知らせて赤く点滅していた。誰が来たのかなと思い、インターホンを操作したら、道路を隔てて直ぐ前のアパートに住んで居られる中野さんの奥さんの姿が映っていた。何か用事でもあるのかと思って、出ていって今度はこちらが「ピンポン」と鳴らすと奥さんが出てこられた。

「ケーキを買って主人と食べたのです。残りの一つですが差し上げようと思って。一寸待って下さい」と云って小さな白い紙箱を手にして来られた。

「有難うございます。ところで野菜が少しありますが食べられませんか?」

「まあ嬉しい、頂きますわ」

「それではどうぞ」

こう云って私は奥さんを我が家へ案内した。ケーキの入った紙箱を室内に先ず置くと、私は竹で編んだ小さな籠と鋏を手にして彼女を二坪足らずの小さな菜園へ案内した。小蕪とサニーレタスと春菊を私は作っている。それらを少しづつ引き抜いて多少泥の付いたままだが籠一杯入れて彼女に渡した。

「まあ良くできていますね」

「肥料もこれといってやりませんが、何とか出来ました。無農薬ですから大丈夫です。私一人になりましたから、たったこれだけでも食べきれません」

 

こう云って別れると、私は家に入って早速お湯を沸かして紅茶を淹れた。そして貰った紙箱を開けて見たら、菱形に切ったチョコレートケーキが一個入っていた。このような洋菓子は普通口にすることはない。わざわざ買って食べる事は勿論ない。一口口に入れると微かなチョコレートの匂いが口中に広がり、大変美味しく味わう事が出来た。

私はふと思った。ああ今日はバレンタインDAYである。奥さんはご主人にケーキを買ってあげられたのだ。そうして私の一人暮らしを思ってわざわざ届けようとされたのだと。そう思うと私は非常に有難かった。たかが一個のケーキ、されど一個のケーキである。

 

妻がまだ生きていた時、彼女は良くこの奥さんと立ち話をして居た。そして帰ると、

「中野さんの奥さんは感じの良い方だね。ご主人は一寸挨拶されるだけですが、奥さんはけっこう話し好きですよ」

妻自身が誰とでも良く話をして居たから気が合ったのだろう。近所にこうした良き隣人がいる事は何と云っても有りがたい。

 

今朝早く目が醒めた。時計を見たらまだ三時十五分である。しかし昨晩は眠いので九時前に床に就いたので、睡眠時間は充分足りたと思って起きることにした。洗顔の後先日来読んでいる漱石の『思ひ出す事など』を読んでいたら漢詩が書いてあった。私は自分では全く作ることは出来ないが漢詩を読むのは好きである。昭和三十四年に岩波書店から発刊された『中国詩人選集』と同じく昭和三十八年発刊の『中国詩人選第二集』も買い求めた。全部は読んでいないが時に応じて手にする。良寛の書いたものでも漢詩が一番気に入っている。非常に浩瀚な目加田 誠著『新釈漢文大系 唐詩選』を今も机の上に置いている。そう言ったわけで漱石漢詩が『思ひ出す事など』に載っているので、私はこの巻の最後にある吉川幸次郎博士の「漢詩文注」と佐古純一郎著『漱石詩集全釈』の二つを参考にしながら読んでいる。今朝読んだのは次の漢詩である。

 

秋風鳴萬木 山雨撼高樓 

病骨稜如剣 一燈青欲愁

 

 秋風 万木を鳴らし 山雨 高楼を撼(ゆ)るがす

病骨 稜として剣の如く 一灯 青くして愁(うれ)えんと欲す   

(『漱石詩集全釈』より)

此の詩の前に漱石は次の文章を書いている。

 

余は此気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり瞳に映る室(へや)の天井を眺めた。さうして黒い布で包んだ電気燈の球と、其黒い布の織目(おりめ)から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。

 

白い着物を着た女は漱石が重態だから雇われて付き添っている看護婦のことである。漱石としては脚を一寸動かしただけでも痛みを感じていたような状態だった。彼は此の文章を書いた直ぐ後にこの漢詩を載せている。ところがその次の「二十三」の冒頭にある文章を読んで、私は漱石の大吐血後の心境の変化を知った。

 

余は好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分を甚だぎこちなく感じた。

人が自分に対して相応の義務を尽くして呉れるのは無論有難い。けれども義務と は仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。従って義務の結果に浴する自分は、有難いと思ひながらも、義務を果たした先方に向かって、感謝の念を起こし悪(にく)い。夫(それ)が好意となると、相手の所作が一挙一動悉(ことごと)く自分を目的に働いてくるので、活物(いきもの)の自分に其(その)一挙一動が悉く応(こた)へる。其所に互いを繋ぐ暖かい糸があって、機械的な世を頼母しく思はせる。電車に乗って一區を瞬く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情け深い。

 

漱石が病床に臥していた時、関東や東海に大水が出ていた。電話も一時不通の状態だった。従って電車の運行もままならないといった時、遠く仙台や京都から見舞いに駆けつけたり、鹿児島から見舞いの手紙を寄越してくれた多くの知人や弟子がいた。今とは交通事情が全く違う。彼らと派遣されてきた白い女の看護婦の義務的な行動は、漱石の目には違って見えたのである。人一倍神経の鋭敏な漱石の気持ちが良く出ている。

 

私が今住んでいる近くに天理教支部がある。別に宣伝ではないと思うが、時々『天理教山口支部』と書かれた小さな紙切れのようなパンフレットがポストに入れてある。これまでに私は同じ物を二度手にした。  

「ありがとう より どうぞ」、そして続けて、「ありがとう」は人から何らかの好意を受けて、感謝の気持ちを述べたものである。それに引き替え、「どうぞ」は人への親切・好意である」、といったような説明がしてあった。確かに、「有難う」とは、誰でもよく言うが、「どうぞ」と人に親切にすることは少ない。

漱石は数々の好意を受けて、「有難う」とは思ったであろうが「どうぞ」と云うまでには到っていないのではなかろうか。もっとも病床に臥していたのでは無理だが。

漱石は先の文章に続けてこう書いている。

 

  義務さへ素直に尽して呉れる人のない世の中に、又自分の義務さへ碌に尽しもしない世の中に、斯んな贅沢を並べるのは過分である。さうとは知りながら余は好意の干乾びた社会に存在する自分を切にぎこちなく感じた。

 

漱石はこのように感じながら、徐々に医者や看護婦の義務的な好意の中に好意を感じ出して、「病人は彼らのもたらす一點の好意によって、急に生きて来るからである。余は當時さう解釈して獨りで嬉しかった。さう解釈された医師や看護婦も嬉しからうと思ふ。」と書いている。最後にまた漢詩を添えている。是も良い詩だと私は思った。

今は何はさておき、経済優先、金、金の世知辛い世間だと思われる。私はこの「二十三」節を初めて読んだが、考えさせられる良い文章だと思った。

2020・2・15 記す