yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

梅と百(もも)鳥(とり)

 世界は今やコロナウイルスの感染で毎日数多くの人が亡くなって居る。死者の最も多いアメリカでは、来たるべき大統領選挙での最大の論争点は、この病気への対策如何と云われている。東京都知事選でも全く同じ事が喧伝されている。この他中国の軍事力の台頭も大きな問題で、尖閣列島を中国が海軍力に物を言わせて密かに狙っているような報道もなされている。当(まさ)に我が国は内患外患、一庶民のそれも棺桶に片足どころか半身を突っ込んだような老いぼれが、いまさら心配しても始まらないのは重々承知の上だが、テレビやネットを見るとやはり気にはなる。自分のことより孫子(まごこ)の時代がこの先どうなるかと云った思いで、心を不安にさせるからだ。

 

私は先月妻の一周忌を終えた後、『漱石全集』の全巻を命のある限り読もうと心に決めて、「第一巻」の『吾輩は猫である』から読み始めた。その理由は、漱石が『猫』を初めとして文章を書き始めて圧倒的な人気を博したのが、日露戦争が終わった直後からで、その後日本が欧米列強に追いつけ追い越せと云った時代に突入して行った時、漱石は冷静にそれを見据えて絶えず国民に警醒の言葉を投げかけている。そして最後は「則天去私」の心境へと自らを高める努力を重ねている。この事を知るにつけても、今度こそはじっくり漱石を読んで何らかの示唆を得たいと思ったからである。

 

「第二巻」の『坊ちゃんを』読んだあと、『草枕』を開いたら、『坊ちゃん』とはがらりと変わった内容と文体に改めて眼を見開かされた。実は『草枕』は平成二十四年、二十六年、二十九年と既に三回読んでいる。私はこの作品に出てくる「那古井の温泉場」つまり現在の熊本県玉名郡天水町の小天の温泉宿まで数年前に二人の友と出かけて泊まった。途中にある「峠の茶屋」にも足を止めた。その時は途中の山腹にミカンがたわわに実って居る五月の良い季節だったのは記憶に新しい。

これまで数回読んでいるのに別に気にしなかった歌に今回注目した。それは「峠の茶屋の婆さん」が口ずさんだ歌である。

 

あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも

「余はこんな山里に来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきかうとは思ひがけなかった。」と漱石は書いている。

 

この歌は『万葉集』の「巻第八」に「日置(へきの)長枝娘子(ながえいらつこ)歌一首」として載っているのを私は土屋文明の『万葉集私注』で知った。大意としてこう書いてある。

 

 秋になれば、尾花の上に置く露の如く、消えさうに私は思はれることである。

 

私は移り気で一冊の本を読み出したら最後まで外には見向きもしないで読み通すことができない。妻は反対に一冊読み終えたら次の本といった態度だった。したがって私の机の周辺には何時も数冊の本が散らばっている。根気のない証拠だ。こういった訳で私は以前読んだリービ英雄著『英語で読む万葉集』(岩波新書)と、もう一冊大学の恩師に頂いた大部な書、本多平太郎著『完訳 万葉集』の英訳書を二階から持ってきて頁を繰ってみた。

 

リービ氏は長短四十九歌を選んで英訳して解説している。一方本多氏は全部の歌を訳している。かなりの労作だと言えるが、両者を比べて読むと本多氏の訳は何となく堅苦しい感じで、『万葉集』本来の伸びやかさと云うか晴朗たる感じが乏しい様な気がする。

私のような者が、このような事が言える柄ではないが、日本人が日本文を外国語例えば英語に訳すより、日本語を充分に勉強した英米人が自国語に訳す方が優れたものになるような気がする。そういった意味で、リービ氏の訳は実に上手いと思った。

 

そこで『草枕』は一時傍らに置いて『新書』を再読することにした。こんな歌が選ばれていた。

 

わが園に 梅の花散る 久方(ひさかた)の 天(あめ)より雪の 流れ来るかも  主人(あるじ)

 

「私の庭に梅の花が散る。それともはるかな遠い天空から、雪が流れて来ているのだろうか」 (大伴旅人(たびと)、巻5・八二二)

 

私は「梅」には関心を抱いている。曾祖父が菅原道真、即ち天神様の信者でその為に梅をこよなく愛したからかも知れない。これまで幾度も言及したが、防府天満宮には梅について彼が詠んだ句碑がある。

 

天満る 薫を此処に 梅の華     佳兆

 

さて、私は旅人の歌を前に挙げた『万葉集私注』で調べてみた。是は太宰師大伴旅人が彼の館で多くの者を招いての席で歌った三十二首の中の一首だと分かった。「梅花歌三十二首并序」とまずあって、三十二の歌が出てくる。私はこの「序」が中々の名文だと思うので先ずそれを書き写してみよう。原文は全て漢字だから、土屋氏の文章を引用する。(原文は旧漢字でふりがなは片仮名だが新漢字で平仮名にする)

 

天平二年正月十三日、師老の宅に萃(あつま)る。宴会を申(の)ぶる也。時に初春令月、気淑(す)み風和ぎ、梅は鏡前の粉(よそほひ)を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみならず)曙嶺雲を移し、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫霧を結び、鳥は穀(こめおり)に封ぜられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。是に於て天を蓋(かさ)とし地を坐となし、膝を促して觴(さかずき)を飛ばし、言を一室の裏(うち)に忘れ、襟を煙霞の外に開く。淡然として自ら放(ほしいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ずば、何を以て情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を記す、古今夫何ぞ異ならむや。宜しく園の梅を賦し、聊か短詠を成すべし。

 

この「序」は山上憶良が書いたものと推定されている。全体の意味はさておき、最後に「詩に落梅の篇を記す」とあって三十二首どの歌も「梅」を詠じている。その中に私の気にいったのがもう一首あった。

 

原文を参考までに書いてみよう。

 

烏(う)梅(め)能波奈(のはな)伊麻佐加利奈利(いまさかりなり)毛々(もも)等(ど)利(り)能(の)己恵能古保志枳(こえのこほしき)波流岐多流良斯(はるきたるらし)

 

「梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし」

(梅の花が今や盛りである。多くの鳥の声の恋しく思われる春が来るであろう)

 

土屋文明氏は私がここに挙げた二首を好意的に評していた。私がこの歌を読んでいて「百鳥」という言葉にはたと気づいた。実は妻が亡くなったのと、この「百鳥」は関係があるからである。妻は高校時代の仲の良い友達数名と毎年宿泊を伴う旅行を楽しんでいた。最近は足腰の痛みがひどくて前年は遂に不参加だった。

「今年は近い所だし、昨年休んだから今年はどうしても行こう」

こう云って出かけたのが終の別れになったのだが、以前こんなことを言っていた。

「私たちの集まりに何か名称を付けるというので、私が『百鳥』と云ったら皆が賛成したのよ」と。

 「女性は皆よく喋る。とくに君は話好きだから、皆と一緒にぺちゃくちゃ鳥のようにおしゃべりを楽しむに相応しい名称だな」

こういった冗談を飛ばした。そして昨年五月二十七日、門司のホテルで、妻は夜遅くまで語り合って、会がお開きになった後、二人部屋のシャワー室に入った直後に倒れて、息を引き取ったようである。人間の命は儚いものである。また死はいつやって来るか分からない。

 

天平二年と云えば西暦七百三十年の昔である。大伴旅人はその翌年に六十七歳で亡くなっている。

 

 あをによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 

この歌に詠われているよう、当時の奈良の京は確かに良かったと思う。旅人は任満ちて帰京して直ぐ亡くなっているが、太宰府においてもこの集(つど)いから想像できるように、彼は結構人生を楽しんだような気がする。

 この拙文の始めに戻るが、全世界が本当に平和になることがあるだろうか。科学がいくら進歩しても、人間に我欲が存する限り、真の平和は中々訪れそうにない。

漱石は最後に作った漢詩でこう述べている。

 

眞蹤(しんしよう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我あらんや

蓋天蓋地 是れ無心

 

「森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分は何とかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

(佐古純一郎著『漱石詩集全釈』)仰賦してn多雨材、

 

聊か道草を食うたので、また『草枕』を読むことにしよう。『万葉集』には「草枕」と詠った歌が数多くある。漱石はこの小説の題名を、『万葉集』を読んでいて思いついたのかも知れない。

2020・6・18 記す