yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

 転(うたた)荒涼(こうりょう)

久し振りに友人が午後2時に話しに来るというので、午後の散歩を正午前に済ませておこうと思って家を出た。今日は何時ものコースより少し遠回りをして、湯田カントリ・クラブヘの道を選んで、六地蔵のある丘に向かって歩いた。陽は射していたが風はかなり冷たかった。人影は殆どなかった。ただ一人だけオーバーを着てマフラーを巻いた年輩の女性が、一匹に黒い小さな犬を連れて歩いて居た。その歩き振りがあまりにゆっくりであるのに私は一寸不思議な感を覚えた。

 

漱石の『坊ちゃん』を読むと擬態語がやたらに目につく。いくらあるか数えてみたことがある。70回は出ていたと思う。この数は異常に多いのではあるまいか。だから『坊ちゃん』の文章が躍動感に富んでいて、多くの人に彼の作品を読み始める機会を与えるのではなかろうか。私は文章を書いてもほとんど擬態語や擬声語を使ったことがない。

 

しかし今日はこの子犬を連れた女性のあまりにもゆっくりした歩き方を、どの様に表現したものかと生まれて初めて考えてみた。「ゆるゆる」「よたよた」「そろそろ」「よろよろ」「よちよち」「とぼとぼ」と言う表現が頭に浮かんだ。女性の方は犬の歩調にあわせるかのように、「そろりそろり」と、一方子犬は「よちよち」とした感じだった。それほど異様な歩き振りに、それも犬の歩き方がそうだったから奇異に感じた。

 

最近子犬を連れて歩く人に出会う事はめっきり減った。コロナの関係だろう。それまで、犬を連れて散歩を行う人をよく見かけた。その場合、大抵連れて歩いている子犬は、脇見をしたり、立ち止まったり、あるいはさっさと前へと早く歩くといった勝手な行動をして居て、連れている人はある程度犬の気儘な行動を許した仕方で歩いている。

今日見た人には以前にも一度見かけた覚えがあるので、「犬は何歳ですか?」と尋ねたら、その女性は「今日が誕生日で、13歳です。今病気をして弱っています」と答えた。見てみると、顔も身体も一面に黒いもじゃもじゃとした毛で覆われていたが、よく見ると額のあたりの毛が抜けているようだった。確かに弱っていてやっと「よちよち」歩いて居る風だった。

 

13歳と言えば、犬にしたら決して子供ではなかろう。私は彼女と仔犬ならぬ小犬を後にして足早にすたすたと歩みを続けた。目的地の六地蔵に達したので十円銅貨を供えて拝んだ後、いつものように崩れかけたような石段を登って、山口市街が眼下に広がって見える一寸開けた墓地までやって来た。私はほとんど毎日この場所にまで上って来ると、一休みして深呼吸をすることにしている。ここは道路から10メートルばかりの高さで、山口市が山に囲まれた盆地だと言うことが一目瞭然である。遥か彼方の山並みの稜線が冬の空を背景にしてはっきり見える。その上に浮かぶ大小様々の形の白雲を見ると確かに気持ちが良い。取るにも足らぬような事だが、こうして年を取っても健康であることに感謝するのである。

 

目の前にススキが数本風になびいていた。これらのススキは昨年の秋には群がっていたが、今は殆ど枯れたのであろう姿を消している。それにしても長持ちする草だなと思った。中にはあの細い茎が2メートルにも伸びたのがあり、その先に真っ白な穂がついている。

 

ススキを漢字で「芒」とか「薄」と書くが、こうした姿から思いついた当て字のような気がする。10数年前に箱根の「ススキガハラ」へ行ったことを思いだした。ススキの群生が一望千里とまでは言わないが、見渡す限り緩やかな丘の斜面に広がり、細長い茎の先の白い穂が、風が吹くと一斉に波打つような風景は忘れ難いものであった。今日此の墓地に上り、ススキの姿を見、「ススキガハラ」の風景を思いだして、私は思わず乃木希典漢詩『金州城』を無言で吟じた。

 

山川草木転(うたた)荒涼

十里風腥(なまぐさし)新戦場

征馬前(すす)まず人語らず

金州城外斜陽に立つ

 

まだ萩市に居たとき、人に勧められて詩吟を習った事がある。そのとき此の乃木大将の『金州城』を教わった。その後山口に移って拙稿『杏林の坂道』を書き始めたとき、伯父の日露戦争の『従軍日記』に「本日ハ愉快ニテ我ガ国民ノ頭ヲハナレザル旅順口ヲ降伏セシム」と記して居るのを読み、取材を兼ねて是非現地へ行ってみようと思い、「二百三高地」の現場に立つことが出来た。

乃木希典は『爾(に)霊山(れいざん)』(」)という有名な漢詩も作っている。

 

爾霊山険なれども豈(あに)攀(よ)じ難からんや   

男子功名克艱(こっかん)を期す

鉄血山を覆(くつが)へして山形改(あらた)まる

萬人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山

 

話はもとに戻るが、「山川草木転荒涼」をこれまで何も気づかずに吟じて居た。処が初めて「転」は普通「転ぶ」と読むのに「転ぶ」の意味にしてはどうもおかしい。こう思ったので、帰宅して早速辞書を引いてみた。辞書は有り難い、疑問は直ぐに解けた。

 

 【転】➊まわる。めぐる。

❷ころぶ。ころげる。こける。

❸うつる。

❹うたた。いよいよ。ますます。

 

「転た荒涼」は、戦いが終わったばかりの金州城の外、夕陽が傾いている丘に立った時、そこには戦いの跡がまだ歴然と残って居る。この状景を目の当たりした将軍は、山や川や草木が一段と荒涼たるものに感じられたのであろう。

 

「転た寝」はどうだろうか。ごろんと寝転んでその内知らぬ間に寝入ってしまうから、両方の意味を持っているのかなと勝手に思った。私は過去何十年もの長い間、此の言葉について考えもしないで吟じていたのである。このような事は案外多いのではなかろうか。「門前の小僧習わぬお経を詠む」と言うが、意味も分からずに歌ったり喋ったりする事は結構多いのではなかろうかと反省した。

 

乃木大将は二百三高地において、また金州城の戦いで多くの部下を戦死させた。また彼自身の2人の息子の戦死という悲しい目にも会っている。この悲しい体験を通してこの2つの漢詩を作ったのだろう。それを思うと戦争の非情、痛ましさを感ずる。

 

司馬遼太郎は乃木大将を「愚将」として貶(おとし)めた本を書いている。決してそうではないという反論の文章を読んだことがある。戦略家としては児玉源太郎の方は一枚上であったかも知らないが、人間としては乃木希典という人は高潔で詩人肌の武人だったと私は思う。

 

彼が明治天皇の逝去の後、夫人と共に殉死した事は当時にあっては大きなニュースであったに違いない。漱石は『こころ』の中でこの事に言及し、鷗外は『興津弥五右衛門の遺書』という名作を直ぐに書いている。彼らはやはり乃木希典の人格に感銘を受けたからであろう。令和の今、このような事は一寸考えられない。

 

散歩から帰ってしばらくして約束通り友人が久し振りに訪ねて来た。その時彼は『朝日新聞』の紙片を1枚だけ持ってきた。私は彼が帰った後、そこの書かれてある記事を読んでみた。京大名誉教授・佐伯啓思氏の『コロナ禍見えたものは』という文章であった。佐伯氏の考えは右左にあまり偏らない中庸なものだから、彼の文章は読んで楽しい。

 

彼は最後に、「生の充実には、活動の適当なサイズがある。われわれは、物事にはすべて適当な大きさや程度があり、無限の拡大がよいわけではない、という実に当然の考えを忘れてしまった。その結果「大事なもの」を随分と失い、傷つけてきたのではなかろうか」と書いていた。

 

佐伯氏はその前に次のように書いている

「人は、より大きな欲望の充足を求めて、経済を無限に成長させようとするだろう。世界中を歩き、あらゆる情報を手に入れ、だれとでもつながり、人間の能力を超えた未知の次元にまで足を踏み込もうとする。自由、富、情報、空間、人間能力の無限の拡張が始まる。「拡大」こそが現代のキーワードとなる。」

前述の文章は彼の見る現代世界への警鐘の文章だと思う。彼はオリンピックが本来の純粋な平和の精神を忘れて、商業資本に汚染された不純なものになったとも別の処で言っていた。コロナ感染の未だ収束の見込みが立たない中でも、東京オリンピックを是が非でも実施したいのは、貪欲なる世界の大資本家達だろう。    

2021・2・9 記す