一
暦の上では昨日は立春である。その二日前の朔(ついた)日(ち)に庭の紅梅が一輪だけ開いた。今日はもうそれから四日経つが、外の無数の蕾はふっくらとしては居るが、まだ開こうとしない。ちょっと不思議に思った。今日は朝から冷たい雨がしとしとと降っている。これでまた開花は延びるだろう。
「梅一輪一輪ほどの暖かさ」という句がある。確かにたった一輪の小さな花でもほのぼのとした感じを与えてくれる。当に此の一輪の花は「春の魁(さきがけ)」である。
年を取り一人になると無常感が湧く。『平家物語』を再読しようと思って書架から取り出した。
祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅(しゃら)双樹(そうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)のことわりをあらわす。
これは誰もが知っている『平家物語』冒頭の七五調の名文である。しかし「祇園精舎」とは何かと問われて、直ぐに答えることが出来る人はそう多くはいないと思う。
中村元著『仏教語大辞典』を引くと次のように説明してある。
【祇園精舎】
中インドのサーヴァティ―国にあった精舎。スダッタ長者が、釈尊とその教団のために建てた僧坊。ジェータ太子の林苑(祇樹給孤独園と漢訳)に建てられたので祇園という。多くの説法がこの地でなされた。もとは七層の建物があったというが、玄奘が七世紀に訪れたころは、既に荒廃していた。
ついでに「娑羅双樹」の説明も見てみるとこれも詳しく載っていた。
【娑羅双樹】
堅固林・鶴林とも漢訳する。娑羅はインド原産の喬木で、材質堅固。釈尊がクシナガラにおいて八十歳でニルヴァーナ(涅槃)に入った時、臥床の四辺に同一の根から生じた一双ずつ八本のシャーラの樹があって、入滅を悲しみ、一双の各一本ずつが枯れたと伝えられる。これを四枯四栄、または非枯非栄という。また釈尊の入滅とともにそれらが白く変わったともいう。
私は先の文章を読んでふと不思議に思った。それは何故「鐘の音」ではなくて「鐘の声」と書かれているかということである。普通「声」と言えば人間や動物の口から発せられる音である。それ以外の物音はみな「音」と云われる。私はネットでちょっと調べて見た。
音(おと)
音の震動によって生じた音波を、聴覚器官が感じ取ったもの。また、音波。
足音、雨音、風音、川音、靴音、羽音、物音など
基本的に人や動物以外から発せられたものは「音」になります。
風が吹きつける音がする。
どこかでお金が落ちた音が聞こえた。
雷が落ちる音が怖い。
声(こえ)
人や動物が発声器官を使って出す音。喉から口を通って出る音。
猫の鳴き声、歌声、産声、大声、小声、呼び声、涙声、鼻声、話し声、笑い声など
人や動物から発せられたものは「声」、そのうち動物から発せられたものは「鳴き声」。 彼は大きな声で叫んだ
遠くで犬が鳴いている声がする。
聞こえないので大きい声で話してください。
ただし、「声」には例外的な用法があるので注意が必要です。
「声」の例外的な用法。
風の声が聞こえる。
天の声に従う。
心の声に耳を傾ける。
上記の例文では、実際に音を発しているのは人でも動物でもないので、本来「音」を使うべきなのですが、ここでは人や動物でないものを擬人化して「声」と表現しています。擬人化・擬人法は修辞法の一つなので、このような表現は詩的な表現になりやすい。
この他にも「音」と「声」の言葉の使い分けについて書いてある。私が上記の説明で思い出した詩文一つを紹介してみよう。
山口市街を後にして防府市に通ずる長い一本筋の道がある。その先に長いトンネルがあるが、その少し手前の道を左に折れた突き当たりに禅宗の古刹、禅(ぜん)昌寺(しょうじ)がある。私は山口市へ転居してから数回この禅寺を訪れた。本堂の手前、石段を登ったところに立派な山門が建っている。その門は数本の太い柱で支えられている。門の入口の両側に立っている中央の二本の柱に、細長くて厚い板でできた聨が掲げてあり、そこに雄渾な筆跡で漢詩が書かれてある。
渓声便是広長舌
山色豈非清浄身
私はこの漢詩を始めて目にしたときは、ただ立派な字だと思っただけで、意味を詳しく知ろうとは思わなかった。その後、宋の詩人「蘇軾」についての本を読んでいたとき、その序文にこう書いてあった。
四十三歳の蘇軾は当時の詩壇においてゆるぎない地位を獲得していたのであった。
黄州における五年間(一〇五二~一〇八四)、かれは自由を奪われた生活の中で、人生の真理についての静かな思索にふけった。それがかれの詩にそれまでとは違った色調をもたらしたのは当然であったし、狭義の詩ではないが、「赤壁の賦」二篇の名作がこの地でできたのも偶然ではない。(中略)
また思想の上では仏教への接近である。黄州に在って自ら東坡居士と号したのも、恐らく仏教信者であることの表明と解すべきであろう。
この時期の終り、元豊七年(一〇八四)に廬山(ろざん)の東林寺を訪ねたとき、かれがその長老常(じょう)総(そう)に贈った詩の、
渓声(けいせい) 便(すな)わち是(これ) 広(こう)長舌(ちょうぜつ)なり
山(さん)色(しょく) 豈(あに) 清浄(しょうじょう)の身(み)に非(あら)ざらん
の二句は、谷川の音に仏の教えを説く声を聞き、青山の色にけがれのない仏身を見ると言い、仏教に対し、単なる好奇心をこえた彼の深い関心が示されている。それは多分信仰と言ってよい性質のものであろう。 (『蘇軾 中国詩人選集二集』岩波書店)
これを読んで禅昌寺山門にあのような聨が掲げてあることが納得できた。これとは関係のないことだが、この本の注者は湯川秀樹博士の弟で漢学者の小川環樹氏である。この兄弟には外に二人の兄がいて、皆名前に「樹」がついて、非常に優れた学者である。彼らの名前は今は誰も口にしない。忘れ去られたのだろう。時の経過をつくづく感じる。その子孫は今どうなっているだろうかとふと思った。さて、この後私はもう少し「音」に関して、今度はもっと身近なことを書こうと思う。
2021・2・4 記す
昭和三十年に大学を卒業した私は、英語科の主任教授岡崎虎雄先生の御世話で県立小野田高校に就職できた。当時は教員採用試験がなかった。もしあったら私は教員になれなかったかもしれない。続いて宇部高校へ転勤し、併せて九年間この両校に勤務し、その間に結婚した。ところが父が脳溢血で倒れたので、昭和三十九年に母校の萩高校に急遽転勤した。父は一ヶ月間安静にしていたお蔭で、後遺症もなく元気になり、昭和五十七年に八十四歳で亡くなるまで私達は父の側で暮らした。その点孝行が出来たかと思う。
初めて妻を連れて帰った時、父の姉が「あんな父親の居る所へよう来てくださいました」と言ったので、妻は「よっぽどひどいお父さんかと思ったよ」と私に結婚後数年して云ったことがある。恐らく伯母としては、父が大学を出て大阪に就職し、中々帰らないので祖父母の面倒を一人で見なければいけない。したがってなかなか結婚できず、心底困った弟だと思って居たのだろう。昔は今と違って長男は出来るだけ親の面倒を見なければならなかった。この事を考えると、父は大阪の毛織物会社に勤務していたので、帰っても就職口がないので止むを得なかったとも考えられる。幸運にも父は萩中時代の恩師岩田博蔵先生の口利きで萩商業に就職出来たと言っていた。思えば親子とも恩師のお蔭である。
妻は伯母の言葉を聞いて心配したが、父は妻を我が子の如く思い、我が家に伝わる茶道(小堀遠州流)を伝授するように努めた。妻も父に好きなことを言っていた。私達が帰った当座は食事など一緒にしていたが、私は通勤、小学校や幼稚園に通っていた息子達も早く家を出て帰りも遅いので、我が家の敷地内の畑にしている狭い場所に二階家を建て、両親とは生活を別にすることにした。
我が家があった所は萩市内の浜崎地区である。この地区は藩政時代商業の中心地で、非常に活気のある所だった。萩市の中心部は松本川と橋本川に挟まれて出来た三角州より成り立っているが、浜崎地区はこの松本川の河口近くにあって海に近いので、私の子供時代には川の岸壁に、遠洋漁業のかなり大きい船や小さな漁船が多く係留されていた。河口近くには魚市場や製氷所があり、水産加工業など漁業関係の職業に就いている人が多かった。又子供も非常に多くいて、私は小学生の頃、対岸の鶴江まで川を横切って泳いだりして、この河口付近でよく遊んだものである。今ここは水泳禁止区域になっている。過疎化した現代とは隔世の感がある。
これも妻が後に言った言葉であるが、「萩と言えば城下町で静かな所だと思って居たのに、大きなお寺の側を通って浜崎新丁の町筋に入った時、魚の匂いがして大変不安だったよ。しかし家の門を潜って庭と大きなタブの木を見たときホッとしたよ」と。
さて、そろそろ「音」に話を移さなければいけないが、その前に私が生まれ育った家について少し触れておこう。その家は、私の祖母の生まれた山縣家という商家の敷地内にあった鎮守堂を改修して、住み家にしたものだと聞いている。祖母は山縣家の直系で最後の存在である。山縣家は一時栄えて毛利藩に相当の融資をしたが、維新でご破算になってその後衰滅したようである。伊能忠敬が萩へ来た時山縣家に宿泊していたから、当時はかなりの豪商だったのだろう。「栄枯盛衰世の習い」と言うが、身近にもこうした例がある。それにしても伊能忠敬は五十歳になってから家督を譲り、江戸に出て西洋暦法・測図法を学び全国を測量して地図を作成したのだから、人間の生き方として、実に素晴らしい生き方だとつくづく思う。
私の曾祖父は維新前後、毛利藩の武具商としてイギリスの船で上海にまで行き、鉄砲を買い求めるなど、かなり活躍していた。その後大阪に出て商売をしていたが、米相場で大失敗をし、すべての財を失った。大阪にいるとき小堀遠州流の師匠に出合い、その流派を萩へ紹介している。曾祖父はそれから人生の無常を感じ、金儲けが嫌になったのか、きっぱりと商売を止めて、この浜崎の旧山縣家の一郭に茶席を設け、静かに余生を過ごしたと思われる。したがって祖父は曾祖父の死後、この場所で茶華道を教えて細々と暮らしていたのである。
先にも書いたように浜崎地区は人数も多く活気のある所であったが、我が家は町筋から細長い往来を通って玄関に達する「ウナギの寝床」のような恰好の場所で、町筋の騒音は聞こえてこなかった。我が家はこの細い通路を二十メートルばかり進んで奥に入った所に、大きなタブの木(推定樹齢三百年)の生えている、少しばかり開けた庭と粗末な古い家から成り立っていた。家の中には茶席が二つあった。私は小学下学年の頃までは身体が弱く、よくその一つである三畳の茶席で寝ていたのを覚えている。
私は陶淵明の詩の最初の二句を読んだとき、何だか懐かしさを覚えて、この詩が非常に好きになった。
盧(ろ)を結んで人境(じんきょう)に在り
而(し)かも車馬の喧(かまびす)しきなし
君に問う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心遠ければ地自(お)のずから偏(へん)なり
菊を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)
悠然として南山(なんざん)を見る
山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥(ひちょう) 相(あ)い与(とも)に還(かえ)る
此の中(うち)に真意(しんい)有り
弁(べん)ぜんと欲して已(すで)に言(げん)を忘る
先にも書いたように畑を潰して小さな二階建の家を建て、私と妻と二人の息子の四人で生活していたのだが、それから僅か五年ばかりした或る日の朝、猛烈な音に目を覚まされた。それは異常な騒音だった。その音の出所は直ぐ隣の橙畑からのものだと分かった。