yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

笑みを誘った幼い兄弟の姿

 今日は十一月朔日。昨夜は雲一つない星空に満月が煌々と冴え渡っていた。不思議なことに十月一日、その日も満月だったが、その時から丁度一ヶ月間、一匹の雨蛙が畑に植えてある二本のオクラの葉に、殆ど毎日来てはじっと蹲っていた。この蛙と二度満月を眺めたことになる。物言わぬ小さな生き物だが、私はこの蛙を毎日見て気持ちが和んだ。

今朝目が醒めたのは四時過ぎだった。昨日漱石の絶筆となった『明暗』を読み終えて、今朝最後の「解説」を読んだ。立派な行き届いた解説で私は充分納得した。流石に漱石に私淑した小宮豊隆氏だけあって、実に良く漱石の気持ちを読み取っていると思った。

私は今年になって『漱石全集』を全巻再読しようと決めたので、この次は『第八巻』である。朝食を終え、家内の弟に「墓じまい」の件で手紙を書き、それを投函するついでに朝の散歩をした。幸いなことに朝から暖かい日差しがあって、途中セーターを脱いで手に持って歩いた。

墓地には戦死者の墓が幾つかあった。レイテ島沖の海戦で軍艦と共に戦死したことが墓の側面に刻まれているのがあった。外にルソン島で戦死したと読めるものもあった。息子の死を悼んで父親がこうして建てた墓の傍らに、その家のより大きな墓が立っていた。然し秋の彼岸に誰も墓参りしたような形跡がない。周囲に夏草が繁茂している。何とも悲しい状景だった。戦死者は皆二十歳代の若い青年である。後に残された家族、特に家の跡継ぎだと思って居た息子の死は、父親にとっては痛恨の極みであったに違いない。それが今や父親も死んでしまって、墓にお参りする者もいないのではなかろうか。戦いの悲惨さ、人生の儚さを痛感した。

戦後既に七十五年経つ。今の若者には戦争が如何に悲惨で空しいものかと言うことが実感できないのではなかろうか。世に批評家という輩が勝手な気炎を吐いている。世界各国の指導者も同然である。科学は進歩を重ね、今や核兵器の開発で、それこそ人類の破滅も絵空事ではなくなった。

 

夏草や兵どもが夢の跡    芭蕉

 

帰宅して汗ばんでいた身体を拭き、落ち着いたので『第八巻』を開いたところ、小さな新聞の切り抜きが挟まっているのに気が付いた。よく見ると私が二〇〇一年三月二十七日に『朝日新聞』に投稿した記事だった。二〇〇一年と言えば平成三年である。家内と私が萩を去ってこちらに移ったのが平成十年九月だったから、十九年前の事である。私は自分の書いた文章を読んで「ああ、あのような事があったな。あの頃は子供たちもこの団地に沢山いたなあ。」と当時を思い出した。子供たちは皆巣立ち、残った親は次第に年齢を重ね、老人は一人又一人と鬼籍に入っていく。私の妻も昨年急逝した。この記事には妻の事も書いていたのを思い出したので、書き写してみる気になった。

 

    笑みを誘った幼い兄弟の姿

 

無職 山本孝夫 (山口市 69歳)

 

   桜の若木が一本だけ植えられた、公園とは名ばかりの空き地が、我が家に隣接している。近所の子供たちがサッカーボールをけったり、ボール投げに興じたりする姿がよく見かけられる。

金網で仕切られたこちら側に、家内は春の草花を育てて楽しんでいる。ある日、いつものように外に出ていると、金網を越えてボールが飛んできて、家内の足下に落ちた。

四、五歳の男の子が可愛い顔をのぞかせて、「ボールが入った、取って」と言うと、おそらく兄であろう、少し年かさの男の子が背後から「取ってではない、取って下さいと言うのだ」と、弟をたしなめた。その子は「取って下さい」と言い直した。

家内がボールを拾って手渡してやると、幼い子はにこっと笑って「ありがとう」と礼を言った。すると年上の子が「ありがとうございました、と言うのだよ」と再度たしなめた。弟はおとなしく「ありがとうございました」と、重ねて礼を言った。

年端もいかない兄の教え、それに素直に従った幼い弟。二人の何ともいえないほほ笑ましい様子に接して、家内も「どういたしまして」と、思わず笑顔で答えた。親から子へ、兄から幼い弟へと、善きしつけが水の流れるがごとく、自然に伝えられている家庭のあることを知り、私も明るい気持ちにさせられた。

 

何と早く歳月が過ぎ去ったかと思う。あの子たちは今は一人もこの団地に住んでいない。皆高校・大学を卒業して県内外の地で就職し、又中には家庭を築いているのもいるだろう。

当時はまだ我が家の周辺には田圃があって、春には青々と早苗が育っており、蛙の合唱もよく耳にした。そして秋になると黄金の稲穂が頭を垂れていた。今はそうした光景は格段に減少した。そして田畑は宅地造成されて箱形の新しい家屋がその後に建てられている。お蔭で若い親たちの建てた家だから子供の姿は結構多く見かける。しかしこの後、十数年したらどうなるだろうか。又淋しい光景が展開するだろう。私の子供の頃は何処の家にも子供が多くいて活気に満ちていた。こちらに移り住んで二十年たらずだが、何と早く時が過ぎ去ったのかと、今更驚いて居る次第である。

令和二年十一月一日  記す