yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

木瓜  

 今朝も3時に眼が覚めたのでトイレに行き、起きるにはまだ早いので床に入った。しかし中々眠れない。別に何を考えるともなくうとうとしていると枕元の電話のベルがけたたましく鳴った。受話器を手にしたが音声が聞こえない。そのうち電話の音が切れた。時計を見ると5時過ぎだった。そこで思い切って起きることにした。洗顔の後今朝は座敷ではなく居間の食卓に向かい、椅子に腰かけて何か読もうと思った。昨日久しぶりに巡回バスで街中へ出た時買った本を拡げた。私の最も好きな作家は漱石と鷗外である。この日本を代表する2人の作家の作品は気が向き次第よく読む。昔読みまた今読むと以前よりはより分かるように思える。又多くの評論家や文学者が彼らの作品について論評しているので、そういった作家論もこれまでかなり読んでみた。というわけで昨日も目に入ったので購入した。

 これは阿部公彦著『集中講義 夏目漱石 「文豪」の全身を読みあかす』という本で、NHKの教養・文化シリーズに関する中の1冊である。先ず著者がどんな人か見てみると、1966年生まれで東大を出てケンブリッジ大学で博士号取得、英米文学を教えている東大教授だと知った。所謂評論家ではないが、英文学者でその点漱石の来歴に似た点がある。本文を読んでみるとこれまで幾人もの評論を読んだが、独特な解説で非常に面白く思った。又漱石の作品を読んでみる気を起こされた。

 5回の講義から成り立っていて、第1講 『吾輩は猫である』の「胃弱」を読んだが、この作品と漱石の胃弱を関連つけて解説しているのには眼から鱗というほどだった。これを読み終えた時、あんなに早い時間に電話を掛けるのは萩のM君以外には考えられないので、7時だったが電話してみた。案の定彼だった。

 「別に用はないが5時には起きているというから電話しただけだ。俺は今朝飯を食べ始めたところだ」と言って、「それはそうと、木瓜の実が成ったがあれは花梨にちょっとに似ちょるが何か知らんか」と問うた。先日彼に我が家に出来た花梨の実を送ったからであろう。

 「萩のかっての我が家に木瓜はあったが、実は滅多に見かけなかった。そういえば漱石木瓜の事を書いていたから後で調べてみて又書いたら送ろう」

 こう言って私は一休みと思って読むのは止めて散歩に出かけた。東の空が茜色に染まり、頭上には月がまだ明るく輝き幾つかの星も瞬いているのが見えた。そこで太陽が昇るのをカメラに収めようと思って、何時もの丘陵地の墓地へ向かった。

 

 直線距離にして約400メートル。そこに六地蔵がある。10円の賽銭をあげて拝み、その前の細い道とは云えないような傾斜した土を踏み、今日はもっと丘の上まで行こうと思った。途中「所郁太郎の墓」を拝み、さらに頂へと思い切って足を運んだ。と言っても低い丘だから麓の道路から20メートルばかりの高さかも知れない。しかしまだ眼下には家々に外灯がついていて静寂そのもの。遥か彼方の東の山並みは美しい茜色に染まり、その上に拡がる空には雲1つなく、やや霞んだ感じの空色だった。この頂上に非常に立派な墓が建っていた。「中原家之墓」とあって相当広い墓の敷地である。中原中也の親戚で工学博士だった人に関係していると思った。遥か眼下の市街地を見下ろす位置にあるが、遺族の者はここまでバケツに水を汲んでの墓参りは容易ではなかろうと思った。ここでスマホで数枚の写真を撮って引き返すことにした。帰りの下りは途中まで殆ど道らしきものはなかった。道路に出て1人の中年の男性が洋犬を連れて散歩しているのに出会っただけだった。

 

 今日は11月1日。私は毎月の初めには神棚のお供えを新しく替える。小さな四角い木の盆に「み・こ・し」つまり「水・米・塩」を新たに取り換えて供え、昨日買っておいた2合瓶のお酒と榊を供え、蝋燭を灯して拝んだ。その後今度は仏壇の香炉の灰を調え、お水を替えて拝んだ。こうした事は朝晩必ず行う行為である。そして外に出て軽く体操しまた木剣も振った。その後庭に出て萩からわざわざ持ってきて大きな石の上に据えた石地蔵を拝んだ。こうして朝食前の行事を終えることになる。

 考えてみたら今こうして私自身と家族の者が皆元気でおれるのも、神様仏様、また先祖を始め多くの方々のお陰である。家に入ってネットを見たら、埼玉県に住んでいる高校時代の同級生から通信が来ていた。彼の年齢は93歳か94歳で今も元気のようだが、やはり年のせいで足が不自由になり「要介護1」とか言っていた。この点私はまだ何とか歩けるから有難い。「一眼二足」という言葉がある。今のところ非常に小さい字も眼鏡をはずしたら読める。これがいつまでも続くとは思わない。

 朝食を食べ終わり先の本を続けて読んだ。第2講『三四郎』と歩行のゆくえ」と第3講『夢十夜』と不安な眼」も新たな視点からの解説で面白かった。

 

 此処で一休みして「木瓜」のことを思い出したので早速『漱石全集』をみて見ることにした。「索引」を見ると『漱石全集』の第2巻と第12巻にあることが分かった。第2巻の短編小説集の中にある『草枕』に、木瓜の事がかなり詳しく載っていた。これは名文だなと以前印をつけていた文章だが、長くなるので肝心の個所だけ書き写してみよう。それでもかなりの長さである。

 

  木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かって曲った事がない。そんなら真直かと言うと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がって居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さへちらちら着ける。

 評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が來世に生まれ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。

  子供のうち花が咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く枝振を作って、筆架をこしらへた事がある。それへ二銭五厘の水筆を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見するのを机へ載せて楽しんだ。其の日は木瓜の筆架ばかり気にして寐た。あくる日、眼が覚めるや否や、飛び起きて、机の前に行って見ると、花は萎え葉は枯れて、白い穂丈が元の如く光って居る。あんなに奇麗なものが、どうして、かう一晩のうちに、枯れるだらうと、その時は不審の念に耐へなかった。今思ふと其時分の方が余程出世間的である。

 

 以上は『草枕』の主人公が熊本の鄙びた宿から散歩に出て、近くの丘に上り、眼下に拡がる有明海を見てごろんと寝転んだ時、木瓜の小枝が茂っていたので、在りし日を思い出しての感懐である。

 

  寐るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めていると次第に気が遠くなって、いい心持になる。又詩興が浮ぶ。寐ながら考へる。一句を得る毎に写生帖に記して行く。しばらくして出来上がった様だ。始めから読み直して見る。

 

   出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停笻而嘱目。萬象帯晴輝。聴黄鳥宛轉。

   観落英紛霏。行盡平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹渺忘是非。  

   三十我欲老。紹光猶依々。逍遥随物化。悠然對芬菲。

 

  ああ出来た、出来た。これで出来た。寐ながら木瓜を観て、世の中を忘れて居る感じがよく出来た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさへ出ればそれで結構である。

 

 これで書き写すのは止めるが、漱石がこの文章を書いたのは明治39年、40歳の時である。漢詩は明治31年、32歳の時作ったものである。此の後彼は大学を辞めて朝日新聞社に入るのだが、社の幹部が『草枕』の文章を読んで自社への入社を要請したとのことである。それにしても此処にあるように漢詩が其のまま載っている。当時の読者にはこういった漢詩が読めたのだろう。現在の読者は飛ばして読むのではなかろうか。漱石はこの他にも漢文や英文を訳なしで載せている。参考までに此の詩の訳を、これも佐古純一郎著『漱石詩集全釈』から引用しておこう。

 

  家から外へ出てみると、いろいろな思いがわいてくる。そうしたわたしの衣を春風が吹きすぎて行く。芳しい春の草は、わだちに生い茂り、人通りの少ない野の道が、霞のかなたにかすかに続いている。杖をとどめて歩を休め、じっとみつめると、あたりのものは全て晴れやかに輝いている。 

 うぐいすの美しくまろやかにさえずる鳴き声も聞こえ、散りゆく花びらのひらひらと舞う様子がに入る。  

  行けども広がる野原を行き、古寺の前の扉のところで、詩を作ってみるのである。孤独な愁いは果てしなく、ふと大空を仰ぐと群れを離れた鴻がねぐらに帰って行く。

  心の何とゆったりして奥ゆかしいことよ。果てしなくひろびろとした自然にしたっていると、人の世の善悪も忘れてしまう。わたしはもう三十歳を過ぎて老境に入ろうとしているが、春ののどかな日の光は、今も変わらずやわらかにふり注いでいる。ぶらりと、自然の中であるがままの姿に身をゆだね、ゆったりと芳しい春の息吹に相対しているのである。

 

 思わず漱石の関する文章を長々と引用したが、彼のこの詩が「三十歳を過ぎて老境に入ろうとしている」時の心境だから驚く。今現在では30歳と言えば大学出たばかりの青年だ。これでも分かるが100年前と比べたら、今は時代が大きく変わった。科学技術は異常な進歩を遂げたが、英知は後退、精神的には概して幼稚になったのかもしれない。そして大自然の恵みを忘れている。

 萩の友人が木瓜の事を思い出してくれたのでついでに書き添えておこう。実は萩にいた時、我が家の庭にも一株の木瓜があって、今でもよく覚えている。道路に面した門の低い戸を開けると、往来が前方に伸びていて、10数メートルばかり歩いた先に又大きい竹で編んだ扉があった。平素はこれを開けないでそのすぐ左側にあるこれまた狭い戸を潜って、さらに10メートルばかり行くと母屋の玄関に達するのであった。

 この戸を開けると目の前に竹垣があり、そのすぐ傍に木瓜があった。漱石が書いているように、短い枝に短い枝を斜に継いだように、ぎくしゃくと枝が多く出ていた。枝には鋭い棘があった。しかし真っ赤な小さな花は美しかった。今でも思い出すことが出来る。これが我が家の庭の最初に目に入る樹木であった。今はこの木瓜はないが樹齢300年に達する大きなタブノキだけは健在である。

 

 最後に家内が持っていた『野山の茶花 炉編』を見たら次のように書いてあった。

 

 【ボケ】・バラ科

  ボケは中国原産で、古く日本に渡来し、現在は観賞用の花木として庭園などに栽培されている。

 高さ二メートル内外の落葉低木で、茎は叢生してよく枝分かれする。

  花期は三~四月で、葉に先立って開花し、短枝の腋に数個つけるが、径二センチぐらい。色は淡紅、緋紅、白、白と紅の斑などがあって美しく、品種も多い。雄花、雌花の二種があり、果実はまれにしかつけない。和名は木瓜(もっか)が転化したもの。木瓜はマボケの漢名で、マボケをボケと思い込んだためという。

 

  漱石にこんな句がある。 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

 

2023・11・1 記す