yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

垂(たるみ)  

 ネットを見て知ったのだが、前駐中国大使の垂秀夫氏の回顧録が『文芸春秋』の二月号に掲載されているのというので、久しぶりにこの月刊誌を購入して読んでみた。

 見出しには「時には習近平にアテンドし、時には「スパイ」と警戒され、そして時には外交部へ抗議に怒鳴り込む・・・「中国が最も恐れる男」と呼ばれた前大使による第一級の回顧録」と前書きされていて、大きい見出しは「駐中国大使、かく戦えり」とあった。

 

 最近のマスコミにはカタカナが多すぎる。上記の文中の「アテンド」で先ず我々老人は行き詰る。これは「接待すること。世話すること」と辞書にある。だから垂大使は習近平の世話なり接待をしたことになる。

 「敵陣でも言うべきことを言う」という小見出しに、中国の外交部の女性報道官で、「戦狼外交官」として著名な華春瑩次官補が、「台湾統治時代、日本軍国主義が多くの台湾民衆を殺害した」などと言ってきたので、こう反論しました。

 「日本政府で私ほど台湾問題に詳しい者はいないので、いい加減なことは言わないでほしい。当時の台湾統治と軍国主義は関係ない。日清戦争後の下関条約の結果として、清国からの割譲という正式な手続きにのっとって台湾を統治しなのである」

 これに対し、華氏は言葉に窮したのか、日本は十九世紀末から軍国主義を採っていたという説もあると述べましたが、私から「そんな新説を受け入れるはずはないだろう」と言い返しました。

 おそらくこの時で懲りたのでしょう。華氏が部長の代理で出てくることはありませんでした。大使在任中は、いわば敵陣にいるわけですから、理不尽な目に遭うことが多々ありました。それでも、国益に基づいて、中国に対して言うべきことはハッキリと言う。それだけは常に心掛けてきました。

 

 私はこれだけの文を読んだだけでも、垂氏が実に清く正しい、男らしく立派な人物だと思った。そしてこういう人に接することが出来たら良いなとも思った。これに続けて彼の略歴が載っていた。

 

  中国が最も恐れる男。

  そう呼ばれてきた外交官が垂秀夫氏(62)である。2020年9月から駐中国大使を務め、昨  

 年12月に外務省を退官した。  

  1961年、大阪府に生れ、京都大学法学部を卒業後、85年に外務省入省。南京大学に留学し、

 中国語研修組の(チャイナスクール)として外交官のキャリアをスタートさせた。初めて北京に赴

 任したのは、天安門事件が発生した89年。以来北京駐在は4度にわたった。他の勤務地も香港、

 台湾といった中華圏ばかりで、キャリア外交官としては異例の経歴を誇る。其の交友関係は中国共

 産党の中枢に加え、民主派‣改革派の知識人や民権派弁護士にまで及び、中国の裁判所で「スパイ要

 員と認定されたこともある。

  私生活では写真撮影をこよなく愛し、写真コンテストで400回以上入賞。環境大臣賞も受賞し

 たプロ級の腕前を持つ。

  中国の表と裏を知り尽くした異能の外交官が語り尽くす新連載。

 

 もうこれ以上の引用は止めるが、このような優れた外交官にはまだそのまま職についていて欲しいが、私はまだ我が国の外交に希望が持てると感じた。これはネットで知ったのだが彼は大学時代ラグビー部で活躍している。まさに文武両道といえる。ラグビーは試合が終われば「ノーサイド」と言って、勝ち負けを忘れて相手側とお互い抱き合う様子をよく見るが、政治もこうありたいものである。

 私が萩高校に勤務していた時、クラスに1人の男子生徒がいた。彼もラグビー部に所属していて、学業成績も優秀だった。彼の父は萩の測候所に勤務しておられたので、帰宅時間は決まっていなかったのだろう。そのために、彼が高校3年生の時彼の母が亡くなられ、彼は早く起きて2人の弟の弁当など世話を焼いて学校に来ていた。このことを私は後になって知った。ところで彼は高校を卒業後九州大学の理学部に入り、大学院を出た後気象庁に入った。やはり父親の血をひいていたからだと思う。その後彼は同じ萩高校の同級生の女性と結婚した。彼女も良く出来ていていて、九大の英文科を出て活水大学などに勤務していた。

 彼にはさらに垂大使と似ている点がある。彼の名前は上野達雄というのだが、今新潟県に居住しているがそれまで国内各地に転勤していたようである。実は彼の趣味は垂氏と同じ写真撮影である。それも撮影の對象が鳥である。彼は時間の許す限り、北は北海道から南は沖縄の八重山列島まで、大きなカメラを提げて探鳥の旅を続けている。

 私の家内が亡くなってもうすぐ満5年になるが、その頃から彼は毎月珍しい鳥の写真を送ってくれて、詳しく説明や感想文を送ってくれている。令和2年に私が上梓した文庫本『硫黄島の奇跡』の表紙の写真は、彼が硫黄島の近くから撮ったものである。

 彼にはこの他にもう一つ趣味がある。それは42.195キロの長距離を走るフルマラソンである。彼は今72歳になると思うが、これまでに198回このフルマラソンに参加したと言っていた。これは誰でも容易にできる事ではない。

 垂前中国大使の記事を読み、思わずかっての教え子の事を思い出したのである。

 

 ここでもう一つ、ふと思い出したことがあるのでついでに書いてみよう。

「たるみ」といえば普通「垂水」と書く。『万葉集』巻 第八にある志貴皇子の歌は私の好きな歌である。

  石(いは)ばしる垂水の上のさわらびの萌(も)え出づる春になりにけるかも

 

 ついでにもう一つ思いついたこと。それは「鼻たれ」「糞たれ」「小便たれ」といった言葉にある「たれ」が、同じ「垂れ」ではないかと思い、『広辞苑』で調べたら次のように書いてあった。

 (名詞の下につけて)人を悪く言う意を表す語。「はな―小僧」「くそ―」「ばか―」

 

 尚上記の志貴皇子の歌については、「いはばしる」は「垂水」の枕詞で垂水は地名という解釈もあるようだが、私は平凡に滝から流れ落ちる水の上の巌。ここに蕨が萌出て、春になったことを知らせる爽やかな歌くらいに思っている。

 

 原文は凡て漢字である。ちょっと書いてみよう。

 

 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春爾 成来鴨

 

 万葉時代に初めて、当時の人の口語言語が文字化されたのかなと思うのである。

 2024・1・25 記す