yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

北陸路の旅

その一 

 

西田幾多郎記念哲学館

 

 

西田幾多郎鈴木大拙の記念館がいずれも北陸にあるというので、是非訪れて見たいと思っていたところ、林さんが我が家に来たときそれとなく打診したら、直ぐ行こうと云ってくれたのは有難かった。彼は地理が専門だから何処へ行っても関心があるとのこと。早速日程を決めていつものように切符と宿の手配を交通公社に頼んでくれた。

出発の日は令和元年11月26日である。旅行で一番心配なのは天候だが幸いに雨も降らず氣温もそんなに寒くない。彼は6時50分頃我が家に来てくれた。萩から我が家まで丁度1時間掛かるから、夜明け前に彼は家を出たことになる。

新山口駅を7時50分発の新幹線に乗り新大阪で乗り換え、金沢駅に予定時間の12時56分に到着した。午后1時半過ぎ、金沢駅から支線の七尾線に乗り換えて、「かほく市・宇野(うの)気(け)駅」で下車、タクシーで西田幾多郎記念哲学館へと向かう。勾配の緩やかな丘陵地を上り記念館に近づくと、鉄筋の四角い建物が見えてそれだと直ぐ分かった。大きいガラス張りの建物の上にそれより小さな四角い鉄筋コンクリートの上層部が載っていて、見た目には殺風景な構造物である。建築家・安藤忠雄の設計で「哲学の博物館」と銘打ってある。情緒を廃し、理知的で幾何学的な、この名称を象徴したような建物といった印象をまず受けた。 

訪問客は我々二人だけで外には誰もいない。四囲は北陸独特の風景であろう。空はどんよりと曇り、下方に田畑と人家が集まった街区が見え殆ど平屋か二階家、高いビルは全く無い。その向こうは低い山並みが連なっている。その日はこの季節にしてはそれほど寒くなく有難かった。もし雪でも降っていたらその山並みは冠雪で一段と寒々と見えただろう。人口は2万人ばかりの小さな集落である。このような田舎町から日本人で最初の西欧近代哲学の祖といわれる人物が生まれたのは不思議だ。

遠くまた近くに寒々とした立木が多く見受けられ、紅葉樹も有るように思えたがくっきりとは映えては見えない。蕭蕭として物寂しい風景である。人影や車の動きも全く目撃出来ない。

目にした印象はこのようだたったが、後で私は西田が故郷を懐かしく思って書いている文章を知った。それを引用してみよう。

 

「私の故郷は決して好ましい所ではない、良い景色があるのではない。賑やかな晴れ晴れしい所でもない。野も山も深き雪に鎖されて、荒れ狂う木枯の音のみ聞く、長き冬の夜は言うまでもなく、小春といわるる秋の日も鉛色の雲重く垂れて、地平線上入日の光赤暗く、」(以下略)

 

館内に入って直ぐに受付があり、山口県から来たと言ったら、「遠くからようこそお出で下さいました」と云って受付の若い感じの良い女性が笑顔で応対した。彼女は我々の話しぶりが方言丸出しで珍しいと云って笑った。鉄筋コンクリートの厚い壁で各部屋が仕切られているが一寸迷路のようになって居る。西田博士ならびに家族や弟子たちの写真、中でも若いときからの親友だった鈴木大拙、山本良吉、藤岡作太郎の写真や手紙、さらに歌などを書いた掛け物や扁額が数多く展示してある。特に彼の書は、いやみのない、飄々として、質朴というか純心で悟りの境地に達した人にして初めて可能な筆跡のように思えた。中には余りに崩した書きぶりで読めない字もあった。

どの写真にも笑顔は全く無い。鋭さの中にも暖かみのある眼差しである。丸い大きな眼鏡をかけた頭頂骨の顔が特徴的である。彼の弟子の言葉が幾つもあった。師弟が固い絆に結ばれ、お互いの人格を尊重した稀に見る関係だと分かる。よき師の下には良きで弟子が自ずから集まるものだとつくづく思う。西田の場合に似た例といえば「漱石山脈」だろう。

翌日金沢の「鈴木大拙館」でもらったパンフレットに次の文章があった。

 

 鈴木先生は、その相好から所作や言動までが、無心で屈託がなく、あだかも飄々茫々として抑えどころのない水上の胡廬子(瓢箪)の如くであった。応対も極めて無造作で隔意がなく、黙っていてぎこちなさを覚えず、語って抵抗を感じない。・・・西田先生は、鈴木先生とはいささか趣を異にし、風貌も、強度の近眼鏡の奥には、炯々たる眼光が鋭くきらめき、鼻穴太く、唇吻は一文字に大きく結び、顱頂は尖り、額は高く、双肩稜稜と聳え立ち、黙々兀座した威容はあたかも羅漢のようで、相対して、言わねば強い威圧感を感じ、言えば竹篦返しをくらい、語黙ともに打たれ、まさに寸鉄人を殺す底のものがあった。              (久松真一大拙と寸心」より)

 

これは二人に間近に接した弟子の見聞だが、大拙は西田についてこう語っている。同じパンフレットに書いてあった。

 

 彼を一言で評すると「誠実」でつきる。彼には詐りとか飾りとかいうものは不思議になかった。自分などは人前に出ると何かにつけて本来の自己の上に何かを付け加えたがるものである。が、西田君はどこへ出しても同じ人間であった、余計に見せようともなければ、割引しても出さなかった。田舎老爺のような素朴な姿でー内外共にーそのままであった。 

 

しかし次のようにも評している。

 

 元来が冷静のみに出来た性格の持主なら、只管に意力で推し進むことができたかも知れぬが、西田は頗る情に厚い暖かな心を持っていた。この情と相戦いながら思想の糸をたぐって、次から次へとそれを発展させて行く彼の心情には、普通の人間以上の何物かを彼は持っていたと考えなくてはならぬ。事実をいうと、この暖かい心が動いていたればこそ、彼の智も意も絶えざる燃料の補給を得たのだと、予は信じている。彼の論理には何かしら血が通っている。          (「わが友西田幾多郎」より)

     

一階と二階の展示室を見た後、エレベーターで五階の展望室へ昇った。ガラス越しに見えたのは先に述べた風景の一段と広々とした眺望であった。

また一階に下りて別の一室に入ったら、そこには書架が室内一杯にあって、主に哲学や宗教関係の書籍が数千冊ぎっしりと並んでいた。西田についての研究書も数多く見受けられた。室の奥に小さな閲覧室があり、テーブルと椅子が数脚あって、若い学生らしき女性が一人で漫画本を読んでいた。ここにあるのだから、恐らく哲学の漫画本だろう。邪魔をしたと思って私は早々にその場を離れた。

タクシーが来るまでまだ充分時間があるので館外に出て、西田幾多郎の書斎である「骨(こつ)清(せい)窟(くつ)」をガラス窓越しに覗いて見た。大きな木の机と椅子が目に入ったが、何もかも色あせていて、およそ華やかさとは縁遠い寥寥とした感じだった。

 

この書斎は京都にあった西田の家の一部で、これだけが移築され国の登録有形文化財として保存されている。受付で貰ったパンフレットに次のように書いてあった。

 

一九二二(大正十一年)西田幾多郎は、初めて自分の家を持つことになった。西田が保証人をしていた京大生・三井高公の父であり、三井財閥創立社・慈善事業家であった三井八郎右衛門高棟の好意によって、新築・贈与されたのである。

家の間取りは、近代日本家屋の典型的なものであった。例えば、各部屋が廊下で分けられ、別の部屋を通ることなく目的の部屋に入ることが出来た。また、玄関の横には洋風の応接間が置かれ、来訪者は家族の居住空間に入ることなく、家の主人に面談することができた。西田は、この応接間を自らの書斎とし、その南側にテラスを設け、庭を眺めることができるようにした。現存するこの書斎は、その家の一部である。

 

風は飛泉を撹(みだ)して冷声を送り

前峰月上がりて竹窓明らかなり

老来殊に山中の好きなるを覚ゆ

死して巌(がん)根(こん)に在れば骨もまた清し

 

西田はこの洋風の書斎に、室町時代の禅僧・寂室のこの句から「骨清窟」と号をつけている。ここで西田は、独り思索を重ね、次々に論文を執筆していた。

 

旅から帰って上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫)を読みなおしてみたら「骨清窟」について書いてあった。私は西田が書斎に此の庵号を付けた意味が良く分かった。少し長いが引用してみよう。

 

 骨と言えば、西田は京都での住まいの書斎に「骨清窟」と名前をつけていました。これには出所があります。近江永源寺の寂室(1290~1367)という禅僧の詩に「老来殊に覚ゆ山中の好きことを。死して巌根に在れば骨も也(また)清し」という句があり、西田はこの句を愛していました。「也」の字を抜いて「骨清窟」。このように自分の書斎や住まいに名をつけることは伝統的に禅僧や文人などがしてきたことですが、おもしろいことです。因みに、大拙は「也風流庵」と名づけています。これは「風流ならざるところ、也(また)風流」という禅語から来ています。骨清窟と也風流庵、いかにも西田と大拙のそれぞれの風格です。

西田が「死して巌根に在れば・・・」の句を斎号につけたのも、さきほどの「我死なば故郷の山に埋もれて昔語りし友を夢みむ」の歌もまだ四十歳そこそこです。若いときからすでに死ということを真剣に考えたとうことでしょう。生きることはどう死ぬかと一つのことだということがはっきり気持ちの上にあるのです。宗教的な道を歩む場合にはことにそうです。「死して巌根に在れば骨も也清し」は「死して巌根に在らば骨も也清し」という読み方もあります。「在らば」というと、仮定、あるいは将来自分が死んで骨だけになったならば、その時には、というように先の話になりますが、私は「死して巌根に在れば骨も也清し」と読みたいと思います。こうして生きているこの現在、自分の骨が巌の根っこにゴロンとしている、それが見えている。あらゆるものが削ぎおとされて骨だけ、それが清しということです。西田もそう感じて受け取ったのだと思います。同じ屋根の下で「子は右に母は左に床をなべ春は来れども起つ様もなし」と、そのように詠いながらも、「骨清窟」で「かの椅子によりて物かく此床に入りて又ふす日毎夜毎に」と生きてきた西田の骨が、この世のゆかりの三つの場所に休らっています。

 

昭和二十(一九四五)年六月七日、寸心居士・西田幾多郎は亡くなりました。

 

この記念館でもらったパンフレットを読んで、この書斎がなぜ移築されたか分かった。それにしても息子の保証人にこれだけのものを進呈するとは、三井氏も西田幾多郎なる人物によほど惚れ込んだのだろう。

各展示室に小さなやや厚い紙が置いてあって、それに西田の言葉が印刷してあった。自由に取ってもいいようなので数枚貰って帰った。表に大きい字で彼の有名な言葉が印刷してあり、その裏面にその言葉を含んだより詳しい文章が載っていた。

 

人間というものは時の上にあるのだ

過去というものがあって

私というものがあるのだ

過去が現存しているということが

またその人の未来を構成しているのだ 

 

西田幾多郞から親友・山本良吉への手紙(昭和2年2月9日付)

 

御手紙誠に難有拝見した 何十年目にしてはじめて君に逢った様な心持ちがする 

君には毎年一回位は逢っているが此手紙は真に旧知に逢った様な心地がする 人間

というものは時の上にあるのだ 過去というものがあって私というものがあるのだ

過去が現存しているということがその人の未来を構成しているのだ 七八年前家内

が突然倒れた時私は実に此感を深くした 自分の過去というものを構成して居る重

要な要素が一時になくなると共に自分の未来というものもなくなった様に思われた

喜ぶべきものがあっても共に喜ぶものもない悲しむべきものがあっても共に悲しむも

のもない・・・

                     『新版 西田幾多郎全集 第20巻』

 

*山本良吉は四高学生時代からの旧友です。幾多郎がこの手紙を書いた二年前には、

病気で五年余り床に臥していた妻寿美が亡くなっています。まだ深い悲しみの中にい

た幾多郎は、山本からの手紙を受けて過去を追懐し、最後に「我死なば故郷の山に埋

もれて昔語りし友を夢みむ」という自作の歌を記しています。

 

西田は若くして生涯の友とも云うべき親友に恵まれている。家庭的には悲運の連続だが、友人や弟子に関しては、彼は幸運に恵まれていたと私は思った。

私には、生涯の友と云うべき学生時代からの親友はいないが、良き伴侶はいた。その妻が急逝し、やはり寂しさ・侘しさは覆うべくないが、これから僅かに残された余命を何とか前向きに生きなければと思う昨今である。

 

タクシーが予定の時間に来たので受付の女性に分かれを告げて記念館を後にした。近ければもう一度初夏の良き日に再訪し、心ゆくまで思索の道などを散策したいと思うような静かで眺望のきく丘陵地であった。

(2019・12・13)