yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

夢枕に立つ

私は一昨年から毎朝晩、法然上人の『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』を仏前で誦することにしている。それまでは『般若心経』を唱えていたが、今は専ら『一枚起請文』を読誦(どくじゅ)する。大した理由はないが、阿弥陀仏の慈悲の教えの方が私の今の気持ちにそうからだ。

 

 梅原猛氏の『法然の哀しみ』を読んでいたら面白い事が書いてあった。

流罪から京に帰って瀕死の床にあった法然を韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)と称せられる貴婦人が訪ねてきて、法然とひとときを過ごしたと云う話である。」

梅原氏は、「これは『一枚起請文』の作成に係わるたいへん大事なこと」として、上人のことを書いた『九巻伝』の文章を長々と引用して、概略次のように解説している。

 

この法然の伝記によれば、韋提希夫人は法然に「『選択集(せんじゃくしゅう)』に上人様の思想のすべてが述べられています、と仰有いましたが、『選択集』は私のような俗務に追われた女人には浩瀚(こうかん)で読みづらいので、お教えの要旨を一枚の紙に書いてください」と頼み、法然がその要請に応えて書いたのが『一枚起請文』である。そして、この話を蔭で聞いていた源智(筆者注:平重盛の孫で法然に助けられ弟子となる)が、自分にも書いてほしいと頼み、貰ったものが、今、金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)に残る『一枚起請文』である。

 

私は平成二十三年の「法然上人八百年大遠忌」の行事に京都へ行ったとき、金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)へ案内されて、そこで源智が法然に書いて貰ったという『一枚起請文』の写しを見た。これは法然が亡くなる二日前に書いたもので、平仮名、片仮名、漢字の混ざった文章で、最後に「建暦二年正月二十三日 源空 」とある。法然はこの二日後の一月二十五日に亡くなった。満年齢で八十歳だった。実は上記の『法然の哀しみ』を今月四日から読み始めて昨日の朝読み終えた。奇しくも一月二十五日である。

 

 梅原氏は先の文章の後『一枚起請文』の全文を載せて、「これは法然のつくった法然自身のみごとな教説の要約である。それは、法然の教説ばかりか法然の一生の要約であるといえる。」と書いて、「問題は、この韋提希夫人というのがだれかということである。」といって、何人かの学者の説を紹介した後、自分の考えを述べている。先にも書いたようにこれは中々面白い推察だと私は思った。

 

まず「韋提希夫人」というこの名前である。彼女は釈迦の伝記に出てくる実在の人物である。ネットを開いたら沢山載っていた。『世界大百科事典』の説明が簡潔だったのでこれを引用しよう。

 

釈迦と同時代の中インド、マガタ国ビンサーラ王の妃。生没年不詳。王子のアジャータシャトルが王を幽閉し、餓死させようとしたとき、ひそかに肌に粉をぬり、装身具に飲み物を満たして牢を訪れ王を養ったが、発覚し、自らも幽閉された。牢内からの彼女の祈りにこたえて釈迦が現れ、此の世に絶望して阿弥陀の浄土を願う妃に、阿弥陀仏や浄土を観想する方法を教える。このときの教えが『観無量寿經』であるとされる。

 

この話は『王舎城の悲劇』として有名である。王舎城はマガタ国の首都(現在のビハール州南部のラージギルはこの旧跡)で、釈迦に非常に関係のある都城で、王舎城の東北に

ある霊(りょう)鷲山(じゅせん)や、王舎城の郊外にあった竹林精舎には釈迦が長く住んで、ビンサーラ国王の供養を受け、民衆の教化を行ったことで知られて居る。太子は提婆(だいば)達(だっ)多(た)(筆者注:釈迦の従兄で始め釈迦の弟子になったが、後に背く)にそそのかされて国王を幽閉し、太子が王位についた。 

 

 釈迦が実在していた年代はいろいろ云われているが、紀元前五百年頃である。一方法然の亡くなったのは千二百十二年だから、あの韋提希夫人が実際に現れたはずはない。そうすると誰が「韋提希」と名乗って法然のもとを訪れたかと言うことになる。

 

法然に頼んで『一枚起請文』を書いて貰う前に源智が「あれはだれですか」と尋ねたら、「韋提希夫人」だと法然は答えている。梅原氏は続けて書いている。

「源智は、法然が加茂の大明神が韋提希夫人となってあらわれたと言われたと思い、その信を深くしたという。この源智の言葉以外に知る手掛かりがないが、学者はいろいろ推理をたくましくする。」こう云って三人の学者の説を簡単に紹介した後、「いずれも一理あるおもしろい説であるが、私は少し異なる見解をとる」と云って縷々説明しているが、最後に次のように書いている。

 

私はこの韋提希夫人は法然の母ではないかと思う。法然の臨終の夢に亡き母があらわれたのである。そして母は法然に専修(せんじゅ)念仏(筆者注:ひたすら念仏をとなえて、外の行を修めないこと)の教えを聞かせてくれと頼む。法然は何としても母を極楽往生させたいと思った。源智もまだ母の胎内にある時、父は一ノ谷で殺された。平家の遺児として源智を育てるのに、母はいかに苦労したことであろう。源智の母に対する思いも法然のそれと変わりなく、あるいはそれ以上であったかもしれない。私は、韋提希夫人は母なるものの化身ではないかと思う。そして法然は、その母なる人に、『選択集』に自分の教えが書かれているというが、おそらく漢文の読めなかった母には読めない。それで母に自分の教えをわかりやすく書いた『一枚起請文』を与えようとしたのであろう。『一枚起請文』は母あるいは女人一般に与え、写しを弟子源智に与えた、法然教のエッセンスであると私は思う。

 

「夢枕に立つ」という言葉がある。「死んだ母が夢枕に立った」といったような物語や、実際そういったことがあったことを耳にすることがある。法然が出家して叡山に入ったその年に、父が生前息子の法然に話したように、実際に殺害され、続いて母も亡くなっている。源智はそれ以上の悲しい父母との別れを体験して居る。だから法然だけでなく源智も、韋提希夫人が実際にあらわれたのを見たということは、実体験だと私は思うのである。

 

これは私が従兄から聞いた話であるが、彼が阿武郡の宇田郷村にいたとき、彼の家の直ぐ前に一人の漁師がいた。彼は寅年で「寅マー」と皆に呼ばれていた。彼は屈強な男で、力が並外れて強かった。

「坊ちゃん、私の腕に縄をしっかり結びつけてみなさい」

従兄が縄をしっかりと結びつけたら、寅マーはグッと力を入れて腕を曲げると大きな力瘤が出来て、縄がプツンと切れた。

今度は寅マーは孟宗竹の一尺ばかりの長さに切ったのを持ってきて、

「寅マーがこれを割って見せましょう」と云って大きな手でそれを横摑みにして力を入れたら、メリメリと太い孟宗竹にひびが入って割れた。

又従兄はこんなことも話した。或る日沢山の大きなマグロが水揚げされた。一匹が百キロ近くもあるので、二本の天秤棒を交差させて四人で運搬するのがやっとであった。ところが寅マーは一人で前後に一匹づつ、一人で二匹の大きなマグロを軽々と天秤棒で運んだ。

 

こういった力が強く気の優しい寅マーが、或る日仲間の漁師達と日本海の遠く沖まで漁に出かけたが、天候が急変して船が沈んで全員亡くなった。その後船が見つかった。その時漁師の全員が其の船の中で見つかった。荒波で船は破壊されたにもかかわらず、全員は仏となって帆柱などに括り付けられて居たのである。普通なら波に押し流されて最後は魚の餌食になるところを、見つかったのである。誰もが不思議に思った。

 

実は船が難破したその日の晩に、漁師の一人の母親が仏間で息子の無事を祈って居たとき、その母親が無意識に次のようにつぶやいたのである。その声は寅マーの声に似ていた。

「この時化(しけ)ではもう生きては帰れない。海に飛び込んだら死ぬだけだ。せめて我々の死体だけでも見つかればと思う。その為にはしっかりと帆柱にでも括り付けたら良かろう。若し儂(わし)の云うことに賛成なら、そうしてやるがどうか」

寅マーはそう言って皆を彼独特の結び方でしっかりと縛り、最後に自分自身を柱に縛り付けたのである。この事は当に「夢枕に立つ」た、と云える話と思われる。

もう七十年以上も前に聞いた話だが、これを話してくれた従兄は今九十五歳になる。彼もきっと覚えていることだろう。

                 2021・1・26 記す

 

徳佐の禅寺

台風14号が山口県を直撃するというので心配していたが、四国方面へ逸れたのでその点杞憂に終わった。したがって18日の土曜から秋晴れの好天気となった。もし台風が直撃したら心配することがあった。それは長男の嫁の父親の納骨が19日の日曜日に予定されていたからである。

 

 当日長男は下関から車で9時過ぎに帰った。9時半前に家を出て宮野にある嫁の家に10時前に着いた。思ったより早く着いた。家に着いてまず仏を拝んだ。その後直ぐに、嫁と母親と弟の3人は遺骨や供花などを抱えて、弟の運転で目的地の徳佐のお寺に向かった。私は長男と二人で彼らの車の後を追っていった。日曜日であったが時間がまだ早かったのか車の往来は少なくて順調に走ることができた。秋晴れの青空に白い雲が浮かんでおり、周囲の山々は濃淡の緑色の木々が鬱蒼と繁り、それに道の左右の田圃では、稔った稲穂が黄金色に輝き、彼岸花が真っ赤に点在している。これら五つの原色に彩られた美しい田園風景の中を我々は車を走らせることができた。行事がすべて済んで帰途についたときだが、山口から益田方面に向かう車が延々と続いているのに驚いた。これを見たとき2時間ばかりだが、我々は朝早く出発してよかったと思った。

 

 徳佐は山口市に町村合併で編入されるまでは阿武郡の中にあった。今は山口市の中でも最も北に位置している関係で、市街地に比べると普通でも2度くらい気温が低い。また山口市内よりかなり標高が高いので、特に冬季には零下5度以下になることもしばしば報じられている。そういった温度差があるためか、徳佐の米は美味しいと言われている。またリンゴやナシも特産で、多くの観光客がその季節には訪れているようである。

 

 山口から徳佐へ行くには途中長いトンネルがある。トンネルを右に見てそのまま行けば萩市に達する。我々はトンネルを通過し、行く手の右側に山口線の線路が走っている車道を進んだ。この道は比較的真っ直ぐな道である。左右には田畑があるが山が割と近くに迫り人家は非常に少ない。途中長門峡北入り口の道の駅には、駐車の車が多く見えた。コロナ感染がやや収まったのと、日曜日だからだろう、こうして多くの人出となったと思われる。しばらく行くと線路の近くに多くの車が止めてある。線路のそばに大きなカメラを据え付けたり、カメラを持った人がこれまたたくさんいた。彼らはこの日に限って走るSL蒸気機関車を撮影しようと待ち構えているのだと分かった。鉄道マニアにはこの機関車の姿とは別に、走るときの蒸気の音に異常な興味を抱く人も居ると聞く。人間は何事によらず興味や関心を持つもので、そのために時間やお金を使っても無駄だとは思わないのだろう。私の教え子にも停年退職後、全国に鳥を求めて大きなカメラを抱えて探鳥の旅を続けている者がいる。私は彼がメールで送ってくれたおかげで今まで知らない鳥の多くを知ることができた。 

 

 我々は近くに山と狭い田の見える道をしばらく走り徳佐の部落に入った。車道に沿って人家や商店などの街並みがあり、公共の建物らしきものも見えてきた。ここには「しだれ桜」の並木で有名な八幡宮がある。県指定の天然記念物で、私は家内と数回来たことがある。その時は参拝人が非常に多くて、遠くの臨時の駐車場に車を止めたことを思い出した。我々はこの参道のすぐ手前を左の折れて、徳佐の町の一番の繁華通りともいうべき道筋に入った。そうは言っても僅か100メートルばかりの長さである。突き当りに徳佐駅があった。駅の手前で右に折れさらに少し行って左に折れるなどして車を走らせた。少し行くと青々とした田圃の中の一本道に出た。山口線がこの田圃の中を通ていた。此処にも数人の鉄道マニアの姿があった。ここから見た風景は、左前方の山麓まで青々とした田圃が広がっていて、徳佐が思ったより広々とした盆地であることが分かった。久しぶりに、人家も人気も全くない場所に身を置いて私は晴れ晴れとした気分になった。

 

 この山中にこれほどの平地があるのに驚きの眼を向けているうちに、車は左側の山の麓にある小さな禅寺の前に来た。そこは駐車もできれば車を回転すこともできるほどの道幅だった。我々は車を降りて寺の前の石段を登って行った。寺の近くには一軒の人家もない静かなところだった。石段を上った処が平地になっていて、そこにあるのが遠路山口から乗りつけた曹洞宗の広福寺である。

 

 私はこの高みに立って今来た道を振り返った時、黄色の稲穂と青い草の広がる彼方に、人家が点在しているのが見え、さらにはるか向こうにかなり高い山々が連なっていて、徳佐盆地が本当に広いな、とつくづく思った。そしてここが実に静かで良い処だと思った。お寺の本堂に入りしばらくして和尚さんが出てこられ挨拶されたが、その声が小さいからというより、私が年を取って耳が遠くなったので話の内容は全く聞き取れなかった。しかし和尚さんは柔和な顔でやや猫背で、動作は緩慢だったが実に感じのいい人だった。奥さんと思われる方が出てこられて読経が終わった後お茶を提供された。そこには息子さんと思われる背のすらっとした若い坊さんの姿もあった。50日ばかり前に行われた葬儀の時には、やはりこの親子がここから山口市内の斎場に見えたのである。

 

 禅宗は浄土宗や真宗と違って本堂に仏像を安置していない。その為になんだか簡素で淋しい感じがした。本堂を出て右側に弘法大師の石像が立っていた。禅宗の寺にも弘法大師の像があるのかと思った。供養のお勤めが終わったので、寺に所属する墓地でいよいよ納骨かと思ったら、納骨は街中にある共同墓地で行うというので、また車に乗って来た道を引き返した。先に言及した八幡宮の近くにある狭い横道を入った先に、かなり広い共同墓地があった。そこにはかなりの数の墓が目に入った。駐車して少し歩いたところに嫁の家の墓地があった。かなり立派で新しいものだった。磨かれた御影石で墓一式が作られていた。その墓地を囲む低い玉垣も磨いた石で出来ていた。

 

 この度の納骨する嫁の父が停年退職して、先祖の為にこのような立派な墓を建てられたのだろう。遺族3人の後我々も焼香拝礼して、無事に本日の納骨の行事は終わった。納骨だと聞いて、息子は当然参列すべきだと考えていたが、私はコロナで親族の参列者が少ないだろうと思い、参列させてもらうことにした。また故人がたびたび山口からこの徳佐の地迄奥さんと一緒にきて畑仕事をされていたようだが、畑で取れたと言ってサツマイモや山芋など、わざわざ持ってこられた事が度々ある。私はその親切な恵み心に対して、感謝しなければという思いもあって、この度の納骨に参加させてもらった。私としては来て本当によかったと思った。

 

 行事が済んで和尚さんとちょっと言葉を交わしたが、徳佐には禅宗の寺が殆どで、真宗の寺は一つだけだと言われた。禅宗の寺は大抵街中にはなくて山麓に位置しているようである。つまり俗界を離れて修行の場としての趣がある。したがって清浄で閑静な雰囲気を保っている。このかなり年配に見える和尚さんもそうした感じを受けた。ところが歩かれるのに、杖に頼ってよぼよぼとした足取りなのに、軽トラを運転して帰って行かれたのにはいささか驚いた。足が悪くなっても運転だけは出来るということだが、やはり身体の他の機能も衰えるから、高齢者の運転は自ら気を付けなければいけない。

 

 私はこの和尚さんの雰囲気から、彼の日頃の生活を想像し、ふと良寛和尚の生涯を思い出した。我が家は法然の開いた浄土宗である。しかし しかし私は大学に入って大変お世話になった先生が禅の研究をされていたので、禅に関心を持つようになった。したがって道元良寛などのことも多少知ったのである。人間は一生の間に思いもかけない人や事との邂逅で、大きな影響を受けることがある。私は先生が亡くなられた時、それは昭和55年だったが、その後で先生が持っておられた数多くの本を頂いた。その中には道元の『正法眼蔵』をはじめとして禅関係の本が多くあった。その中にあった東郷豊治編著『良寛全集上下巻』を読んで良寛に興味を持つようになった。10数年前に東京で高校の同期会があり、それが終わって私は一人で良寛の誕生並びに終焉の地である新潟県の出雲埼へ行き、国上山の五合庵や彼の墓のある寺へも行った。こうしたことがあって、外にも良寛に関する数冊の本を讀んだ。そして私はますます良寛という人物に心を惹かれるようになった。先にも書いたように、徳佐の禅寺の和尚は何処となく良寛の雰囲気を漂わせていた。きっと若い時分永平寺か何処かの禅寺で雲水時代修行され、その後諸国を行脚された後、最後にこの鄙びた地に留まって、清貧の暮らしを送っておられるのではないかと勝手に想像した。出来たら一度ゆっくり話を聞いてみたいと思うのであった。

 

 嫁の父もこの徳佐に生まれ、高校と大学は山口であるが、その後教員として県内各地を転勤された。徳佐に生まれた家はあったが、やはり山口市のほうが何かにつけて便利だと思われたのだろうが、郷里に田畑があるので、そのためもあって畑仕事に行き来することを考えて、山口市内でも出来るだけ郷里に近いところに新居を構え、毎週一二度奥さんと行っておられたようである。そして今最後に祖先の墳墓の地、懐かしき故郷において永遠の眠りにつかれたのである。 

 

 先にも述べたように良寛も生まれ故郷にわざわざ帰って、晩年を懐かしい友人たちに交わりながら最後の息を引き取っている。今はこのように故郷において先祖の方々のもとに帰ることがなくなった。つまり家という考えがほとんど薄れてきた。日本古来の風習が姿を消した。これは戦後のGHQの政策が大いに関係しているように思われる。もっとも田舎にあっては職が見つからないから、若者はみな都会へ出て行った。田舎で就ける職といえば、小・中学校の教員や役場とか郵便局のような職に限られている。この度の故人も、教師の道を選ばれたのもそうしたためであろう。私の友人で今萩におるのは高校の同級だった2人と、萩高校と萩商業学校に勤務したときの同僚2人のみである。同級生の1人は郵便局員でもう1人は地方の銀行マンで、共に奥さんに先立たれている。やはり何と言ってもこうした同級生やかっての勤務先の同僚は話が合っていい。私はまたふと思った。故人は先に述べた坊さんと話が合ったのではないかと。

 

 良寛漢詩と和歌をたくさん残している。彼は出雲崎で代々続く名主の家の長男として生まれたが、その職業にどうしても馴染めず、突然若くして家を出て出家の身となり、それからものすごい修行をし、ついに師匠から印可を授けられ、それからまたしばらく行脚・乞食の修行を行っている。そして最後は先に述べたように故郷に帰っている。彼の漢詩や和歌には非常に優れたものがあると言われている。漱石が最晩年に良寛の掛け軸を手に入れて非常に喜んだことなどを知ると、良寛がいかに日本人の魂の拠り所であったかが分かる。

 

 もうすぐ自由民主党の総裁選挙が行われるが、私としては日本人の心をしっかりと保ち、実行してくれる候補者が出てくれることを切に願っている。

 先に挙げた『良寛全集』を二階の書架から持って降りて開いてみた。昔読んだ漢詩で気が向いたところに小さな紙を挟んでいた。その詩と歌を此処に載せてみよう。漢詩は読み下し文である。

 

      花を看て田面庵(たのもあん)に到る 

            乞食(こつじき)

  

  桃花 霞の如く 岸を挟んで発(ひら)き         十字街頭 乞食し了る

  春江 藍の如く 天に接して流る         八幡宮辺 方(まさ)に徘徊す 

  行くゆく桃花を看 流に随って去る        児童 相見て共に相語るらく

  故人が家は水の東頭に在り。           去年の痴僧(ちそう) 今又来ると。

 

 

  世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる

 

  山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも

 

                   2021・9・21 記す

             

 

 

冬季雑感

令和4年は西暦2022年である。しかも今日は2月22日と、数字の2が並ぶ珍しい日である。もう一度書いてみると、2022.2.22となる。朝5時に目が覚めたので起きて洗顔の後、この正月から読み始めた大佛次郎著『天皇の世紀』を開いた。その第2巻の中の一項目「地熱」を読んでいたら、梅田雲濱の事が書いてあった。彼の事を知る人はそんなに多くはいないだろう。近代日本史を学んだ人なら、彼が安政の大獄で最初に逮捕され獄死したことを知っていると思う。

 

 私は彼が萩に来て、私の曽祖父のいた東田町の家に一泊したという記事を何処かで読んだ覚えがある。『天皇の世紀』を読んでいたら次のような記述があった。

 

  志士の一人、梅田雲濱は「妻は病床に臥し、子は飢えに泣く」の詩で有名だが、これはずっと古く貧しい時代か、安政の大獄で獄中に入ってからの述懐らしく、以前には雲濱は商才があったので、若狭藩の浪士だが、安政三年には長州萩の城下にいて、学問修行に来ていた筈の者が、長州物産御用掛となった。産物を藩の権力でおさえ、上方と交易する仕事で、その時分から雲濱は大阪あたりの豪農や商家と連絡があって、物産方役人と相談して、大阪に長州藩の物産販売所を設けるようにした。

  かくして、長州よりは米、塩、半紙、干魚を京畿一帯の諸国へ、上方からは呉服類、小間物、薬種、材木を長州へ送るという、長州、上方交易の取極めができたのである。

 

  私は平成10年に萩から山口に移り、定年後の生き方を模索していて、たまたま同人誌『風響樹』のメンバーになるように誘われ、そのために我が家に関連した事を『杏林の坂道』(私家版)に少し書いた。その中に曽祖父・梅屋七兵衛が毛利藩の為にイギリス人の商人から鉄砲を千挺購入したことを書いた。一介の商人であった彼が、こうした重大な要件を木戸孝允を通じて藩がどうして彼に頼んだか疑問に思っていた。この度上記の文章を読んで私なりに想像してみた。

 

 我が家は代々勤王の志が篤かったと聞いている。毛利藩がそうであるからだろうが、関ヶ原の戦いで毛利は防長二州に減封された。その時私の祖先は毛利と一緒に広島から移ってきた。過去帳を見ると、我が家の5代か6代までは武士であるが、それから曽祖父の代頃まで回船問屋をしていた。彼は幼くして両親に死に別れていて若い時から苦労をしている。時代の趨勢を見たのか彼は酒造業と藩の武具の取り扱いを始めている。

 

 雲濱が萩に来たのが安政3年で、曽祖父はその時33歳の働き盛りである。お互い尊王の志を抱いていたから意気投合したのではないかと思う。恐らく我が家で2人は熱のこもった話をしただろう。こうしたことから、恐らく雲濱の示唆もあって、萩の物産を上方へ送ったりして、聊か財をなしたのかもしれない。またそのために木戸孝允を通じて、先に述べたような鉄砲購入のことに繋がったのではないかと思う。雲濱が処刑されたのが安政5年(1859)だから鉄砲購入はそれから丁度10年後の慶応2年の事である。ついでに雲濱の事を見てみると次のように書いてある。

 

  梅田雲濱(1815~1859)

   若狭(福井県」 小浜の範士。京都で梁川星巌頼三樹三郎ら志士と交際を深め。嘉永5年(1852)ペリー来航には吉田松陰らと対策を論ず。安政3年(1856)長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をした。つねに尊王攘夷運動の中心に位置し、このために安政の大獄(1859)で、最初に捕らわれ、橋本左内頼三樹三郎吉田松陰らと刑死された。                      (『大日本百科全書』より)

 

                   

 令和4年2月23日。朝6時に眼が覚めた。昨夜9時半頃寝入ったと思うから、8時間半の睡眠時間になる。充分寝足りたのですぐ起きて、また昨日に続いて『天皇の世紀』を開いた。アメリカとの日米修好通商条約締結を促すハリスの意向を受けて、幕府としては締結に賛成で、朝廷の承諾を簡単に貰えるものと思って、遠路やってきた老中堀田正睦遠国奉行川路聖謨等の一行は、思いもかけない抵抗反対に直面し、ついに彼らはすごすごと江戸へ帰る。このことが実に綿密に数多くの手紙など例に引いて書かれていた。この本は各巻400ページ以上あり全部で10巻ある。毎日2.30ページづつ読むから今年中に読み終えたらと思っている。それにしても著者はよくこれだけのことを書いたと感心する。数ページおきに一流の日本画家と洋画家の挿絵も載っているので楽しみである。

 

 挿絵と言えば、一昨日知人の女性から手紙が来た。彼女は米寿に近い高齢だと思うが、その年齢で絵本を書こうと言われるのには感心する。手紙には次のように書かれていた。

 

  「硫黄島の奇跡」、文章をどう簡潔にまとめるか、私の力ではなかなかむづかしいのは、はじめからわかっていたことですが、とりあえず絵のイメージを作るための土台として、書いてみました。

  気の向くまま、いつ出来上がるとも知れない仕事ですが、おかげ様で、生甲斐を与えていただき感謝するばかりです。自己満足かも知れませんが、ごく身近な範囲に見ていただければという気持ちです。「命を賭ける」覚悟ももたないディレッタントの仕事におつき合い下さいというのも失礼かと存じますが。この「奇跡」のお話は、子供たちをはじめ、たくさんの方々に知ってもらいたいから  

 立ち向かうにいたったのです。なんとか納得のゆくまで追及したいと思っておりますので、どうかご助言なども厳しく承りますようお願い申し上げます。

  

 私はこの手紙をもらって感銘を受けた。先にも書いたように彼女は米寿に近いと思う。それなのにこれほどに気迫を持っておられるとは。彼女は先に『郷土平川のおはなし みんしゅうの神様 隊中様』という立派な絵本を、2015年に山口市の平川コミュニティ推進協議会から出版されている。「隊中様 」とは藤山佐熊とう青年で明治維新を成し遂げるうえで、大きな力となった奇兵隊・諸隊のひとつである振武隊の隊士の物語である。

 

 数年前、私は萩から来た友人2人と一緒に、彼女の案内を受けてこの藤山佐熊の記念の祭りに参加したことがある。彼の墓は平川地区から大道に山越えで行く途中の山腹にあった。その日は神主が来て地区の多くの人が参列して厳粛に行事が執り行われ、私にも榊をお墓に捧げるように言われた。平川地区の人は今でもこの青年を崇めていることがよく分かった。この老婦人はこのことを知って絵筆を執られたのである。人生意気に感ずというが、今回『硫黄島の奇跡』を読まれて、又ここに生甲斐を感じたと言っておられるが、90歳の老境に達した私としても、二度とない人生、如何に最期を生きるべきかと考えさせられた次第である。

 

 ここまで書いた時、小郡に住んでいる息子が、今日は天皇誕生日で休みなので来てくれて、先のご婦人が手紙と一緒に送ってくれていた機器(チップ)で、パソコンで文章が読めるようにしてくれた。A5の用紙7枚に、『硫黄島の奇跡』を熟読され、16の場面を選んで実に要領よく纏めた文章にされていた。彼女は絵が上手で、この文章に基づいて絵を描こうとしておられるのである。私としては完成が楽しみである。早速彼女にお礼の電話をして、近いうちに会って相談することにした。

 

 そういえば、昨日『硫黄島の奇跡』を出版してくれた文芸社から、もう一年契約の延長をお願いしたいと言って来たので承諾の返事をしておいた。まだ在庫本が相当数あるようだが、少しでも多くの人が読んでくれたらと思う。

 

 ついでに今日面白い事があったので書いてみよう。実は萩市に私と同姓同名の人物がいることを知ったのはもう20年ばかり前になる。彼は私より高校が1年上で、在学中は相撲部で活躍していた。私の同級生で同じ相撲部で活躍していたのがいたので、私は相撲部の練習を放課後よく見ていた。 この一年上の人物は大学を卒業後養子になって、山本家の姓を受け継いだと思う。いつぞや庭を開放して一般市民にそこに咲いている花々を見てもらっているといった新聞記事が載っていた。

 

 私は昭和39年から20年間母校に世話になり、相撲部の部長にもなっていたし、彼の事を思い出した。彼の実家と養子先についても我が家と多少関係があるので、健在かどうか一度安否を尋ねてみたいと思っていたので、今朝思い切って電話してみた。そうすると本人が出てきて、いかにも楽し気に応対してくれた。92歳になるというが声もしっかりしていて、今のところ元気だから、萩に来たらぜひ寄ってくれとのことだった。先に述べた女性といい、この先輩といい、老いてもまだ元気な人の存在を私は頼もしく、また嬉しく思うのである。

 

 ここで川路聖謨(かわじとしあきら)についてだが、彼は先に述べた幕府から派遣され、京都へ行った堀田正睦の側近の一人である。この人物の事を私が初めて知ったのは、中野好夫の文章を讀んだからだったように記憶する。話が逸れるが、この中野氏の事は今はほとんど忘れられているように思う。今から60年昔、私が大学生の頃からその後数十年間、彼の名前が新聞紙上に出ていない日はなかったと言っても過言ではない。彼は非常に優れた英文学者で東大教授だった。然し定年前に突然辞職した。その理由が尋常ではない。「東大でもらう給料では生活できない。私は給料の全部を本の購買費に当てている。それでも足りないくらいだ。だからこれからはもっぱら執筆で生活するつもりである」と、こう言った話であった。

 

 彼の娘さんが父の事を書いていたが、「父の部屋は1か月で足の踏み場もないほど本が乱雑してしまう」と。

 私はこれを聞いて夏目漱石を思い出した。漱石も当時としては日本で唯一の大学であった東大で教鞭をとり、英文学を教えていたが、突然やめて朝日新聞社に入っている。この点中野教授もまったく同様だが、彼の場合、新聞社や出版社にも入らずに筆一本で暮らすというから世間の人は驚いた。選ばれて東大に入った学生たちに教えるより、もっと多くの一般読者を対象にしたいというのだろう。彼の文章、特に多くの翻訳は実に上手いと思った。また彼は反骨精神の持ち主として政治の面でも活躍していた。

 

 中野氏は確かに翻訳、エッセイ、全集の編集などその後縦横無尽の活躍していた。そして最後はイギリスの歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の翻訳に取り組み、途中で亡くなったが、彼の息子が後を受け継いで完成している。前にも云ったが一時彼は非常に有名だったが今は知る人は少ないだろう。歴史に名を残すということは実に希少な事である。人生は毀誉褒貶、歴史上の人物について少しでもその良き点を学べば良いのではなかろうか。前にも書いたが、私は戦前に出版されている『大日本読本』をよく読む。是には我が国の歴史上有名な人が取り上げられている。青少年に我が国の歴史に現れた人物の良き点を教えることは大事だと思う。戦後から現在にかけて、文科省はこの点どうもそういった意図に欠けているような気がしてならない。日本精神の良い面を青少年に教えることが大事である。国の骨幹は教育にあるという。文科省に気骨のある立派な人がいて、もっと青少年の教育に専念してもらいたいものである。少なくとも文科省の連中は数年は現場において教員としての経験を積んで欲しい。

 

 この拙文を書き始めて今日で3日目である。今朝も6時前に目が覚めたので『天皇の世紀』を開いた。30ページばかり読んだので昨日のつづきを書いてみよう。

 川路聖謨という人物は相当優秀な人物だったようである。維新直前、諸外国が我が国に交易を求めて来たとき、それまで鎖国だった日本を如何に導くか、これは幕府にとって大問題である。朝廷を取り巻く公家は概して因循姑息。そこに大穴を開けたのが彦根藩主で大老になった井伊直弼の決断である。彼が大老になったのが44歳。その2年後に桜田門外で水戸の浪士らによって殺害された。直弼は確かに開国の必要を感じていて決断した。この点では川路と意見を同じくしていたが、彼の祖先が徳川家康の重鎮四天王のトップである。その誇りと主家への忠節の念が強く徳川幕府の持続こそ最優先と考えていたようである。我が国の将来を思う点で、川路ら開明派の主張とあまり変わらないようであるが、朝廷を無視しての通商の締結や、その後の余りにも過激で独断的な行動が保守派特に水戸藩に恨まれ、無惨な最期を遂げた。しかし直弼という人物は歴史に残る偉大な人物だったと思える。

 

 今から30年ばかり前、私がまだ萩市にいたときの或る日、卒業以来それこそ20年ぶりくらいに東京から帰省した1人の同級生に出会った。その時彼が、「これを見てくれこれ」と言って新聞紙に無造作に包んだ萩焼抹茶茶碗を見せてくれた。

 私は手に取って「なかなか良く出来ているね。誰が作ったのかね」と問うと、

 「弟が作ったのだ。弟は萩高校を中退して今では焼き物をしている」と答えた。

 このように話したことがきっかけで、私はその後この同級生の弟さんと付き合うようになった。

 平成10年に私は萩から山口に移ったが、この弟さんも萩市の最南端に位置する木間という山間部に、前から窯を作っていたが、そこに住居を建てて住むようになった。彼は奥さんと2人暮らしで、山口の我が家から車で40分ばかりで着くことのできる閑静な山間部だから、私は年に2・3回は家内と出かけ行っては楽しく話して帰っていた。

 

 その弟さんは兄に似てなかなか文才もあり、萩焼きに関する本を2冊出版しているし、しばしば陶芸関係の雑誌にも投稿していた。ところが数年前から目が次第に見えなくなった。私は気の毒に思って手術を勧めて些少の見舞いをした。しかし手術の甲斐もなく結局ほとんど失明になった。それでも私たちは話はできるので訪ねて行っていた。

 

 或る日彼はお礼だと言って数冊の彼の愛読書を送ってくれた。私がまだ手にした事のない本ばかりだった。その中に私にとって非常に面白い本があった。私は今でもそれを時々開いてみる。これは山田風太郎著『人間臨終図鑑』上下の立派な箱入り2冊である。此の中に井伊直弼川路聖謨が載っているのではと開けてみたら、意外なことに井伊直弼が載っていなかった。この二人の事はまた書くことにするとして、私はここで強く思ったことを記しておこう。

 

    人間は偶然に生を受け、そして数々の偶然に遭遇し、最後は誰もが必然で終わる。つまり死ぬとうことである。実はここに挙げた本を贈ってくれた友人の事だが、私の妻が亡くなってからは私自身車の運転を止めたので、彼を訪ねる機会がなくなった。従って時々電話して安否を問うていたが、どうも留守電話ばかりでどうしたかと心配していた。昨年秋吉台の近くの芸術会場で音楽附き食事会があったので、一泊して翌朝一緒に参加した妻の従弟の車で彼の家へ行ってみたら、室内はカーテンで見えなくなっていて鍵もかかっていて中に入ることもできない。

 

 帰宅していろいろ当たってみたがどうしても分からない。たまたま彼の奥さんが老人施設に入っていることが分かって連絡を取ったら、奥さんはどうも痴呆の気があって要領を得ない。いよいよ困ったが手の打ちようがない。実は彼が5人兄弟で一番下の弟さんが萩高校卒業で、東京にいる事を知って電話したら本人が出てきて、「兄は今萩市にある病院に入っています。重篤で眼が見えないうえに意識も定かではない状態です」との思いもかけない返事だった。まさに植物人間の状態で生かされているのだ。私は気の毒でいたたまれなかった。

 

 彼は私より1つ若いから今89歳だと思う。また奥さんも85歳くらいだ。先にも書いたように私はこれまで何度も妻と一緒に出かけては、楽しくおしゃべりをして時を過ごしたものである。それが今はどうか。老夫婦別れて生活というよりむしろ生かされているような状態で、その上お互いがどこにいるかも恐らく知らないのではなかろうか。ただ最後の死という必然を意識もしないで待っている状態である。人間として実に気の毒な有様である。

 

 彼は鎌倉や京都で作品を展示販売した事もある。又萩焼のルーツについて研究し、自説を本にして出版もしている。そういった華やかな時もあった事を思うと、人の運命のどうしようもないことを痛感して淋しい限りである。コロナ感染の収束しない現在、私としても手の打ちようがない。ただただこの上は安らかに最期を全うしてくれと祈るだけである。          

    合掌

都鳥

 私は毎朝五時前後に起きる。目覚まし時計をセットはしないが、夜九時には床に就くので七時間は熟睡したことになる。従って睡眠時間は充分足りているから、起きたとき頭はすっきりしている。まあそうは言っても頭が回転するのは朝食迄くらいだろう。起きたら直ぐ机に向かって好きな本を読むことにしている。

 

 最近は梅原猛の『法然の哀しみ』と『平家物語』を再読している。なぜこのような本を読むかというと、妻が亡くなって人生の無常をつくづく感じるからである。法然上人が布教活動をしたのが丁度源平の確執があった頃だし、『平家物語』には無常感が漂っているからである。こうして一時間か一時間半ばかり経つと、ちょっと一休みして私は抹茶を点てて一服する事にしている。

 

その時使用する抹茶茶碗と菓子皿はいつも決まったもの使用する。茶碗は先代の玉村松月という萩焼作家の作ったもので、口径が十四センチ、高さが十センチのかなり大振りの茶碗で、私が一番気に入っているものである。此の作品は玉村氏が息子さんと一緒に私の父の所へお茶の稽古に来ておられたとき、試作品として父が貰ったもので、箱に入った正規のものではない。しかし両手の掌で包んで抱えるような、かなり大きな見事な茶碗である。肌は薄い飴色で、貫入が小さな網の目のように綺麗に入っておる。私はこの茶碗でお茶を飲むのが朝の楽しみの一つである。

 

抹茶は「又(ゆう)玄(げん)」という銘のものである。私はこれが残り少なくなると、いつも「河崎茶舗」に電話で頼んで持って来て貰うことにしている。この「又玄」はネットを見るとかなり宣伝してあった。「幽玄」という言葉はよく耳にする。これは「奥深く微妙で、容易にはかりしることのできないこと。又、味わいの深いこと。情趣に富むこと。あるいは、上品でやさしいこと。優雅なこと」と云った説明が『広辞苑』に出ている。そこで「又玄」とはどういう意味かと思って調べたら、奈良の薬師寺の123代の管主橋本凝(ぎょう)胤(いん)師が命名されて、「奥深い上にもなお奥深い道」という意味だと分かった。「又」には「また、さらにその上」という意味が確かにある。

 

玉村氏は小学校を出ただけで陶工の道を進まれ、山口県名工の一人として、県の『人間国宝』にまでなられた。彼の長男の登陽さんも萩焼作家として名を成したが、惜しいことに数年前に亡くなった。私の家内が亡くなってしばらくして、彼の奥さんと長男が「父が生前差し上げたいと言っていたものですが」と言って桐箱に入った立派な抹茶茶碗を家内の仏前に供えて下さった。これは「紅(べに)萩(はぎ)」と言って登陽さんが研究を重ねて作った赤味のある立派な茶碗である。私は恐縮した。その彼が次のような事を云ったのを私は良く覚えている。

「父は大きな手をしていました。力強かったものですから、一日に三百箇の抹茶茶碗を作ったことがあると言っていました。私なんか精々百箇作れたら上出来です」

学校での教育が小学校で終わっていても、人間はそれからの精進次第で立派になる。

 

さて今度は私が此の拙文の題とした「都鳥」について書くことにしよう。抹茶を服すには何らかの菓子を同時に口にするので、私はその時の菓子器も、先にも云ったように、いつも決まったものを使うことにしている。これは我が家に昔からあるもので、五枚一揃いになっている。いずれも手書きで鳥の素描をあしらってある。それぞれの皿は多少違った絵柄になっており、そこに「言問」という二文字が書かれてある。大きさは直径十六センチもあるから、菓子皿としてはかなり大きい物である。薄卵色で絵は黒い線で描かれている。恐らく私の曾祖父か祖父が京都で手に入れたものだろう。楽焼きかと思われる。

 

私はこれらの皿を萩から山口に移って初めて日常に使い始めた。それまでは父がお客用に使用していた。従ってそれまでは此の皿に特別関心も注意も払わなかった。しかしある日、妻に促されて注意を向けて調べて見たら、中々興味深いものだと知った。

ここまで書いたとき電話がかかってきた。肺ガンで自宅療養していた妻の弟に関してのものだった。

「大栄さんが重篤(じゅうとく)で、心臓がいつ止まってもおかしくないと医者が言われました」

彼の妻からの電話だった。私の妻と弟は仲が良くて、妻が亡くなるまでしばしば夜遅く長電話をしていた。妻は生前「昨夜も遅くなって大栄が電話してきたのよ」と朝起きてきた途端によく語っていた。

話を元に戻そう。「都鳥」についてだが、『伊勢物語』に次の歌があるのを知った。

 

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

 

菓子皿のどれにも「言問」の二字が、崩しの書体で書かれてある。この「言問」の二文字と鳥の素描でこの歌の謂われが分かった。そこで改めて『伊勢物語』を読もうと思い、昼過ぎて時刻は三時前だったが、『古典文学全集』(筑摩書房)の「王朝物語集」を開いたら載っていた。現代語訳である。

 

ここまで書いたらまた電話があって、妻の弟は遂に亡くなったと知らせてきた。諸行無常、人の命の儚さを痛切に感じた。昨年五月の妻の一周忌の法要には大坂から来て呉れたのだ。その後肺ガンだと診断され、治療に専念していたのである。思いも掛けない事になった。悲しい事だが仕方がない。これが人生というものかと思う。

 

伊勢物語』「第9段」の該当の文章だけ引用してみよう。

 

なお旅をつづけていくと、武蔵の国と下総(しもうさ)の国との境にたいそう大きな河がある。それを隅田川という。その河の岸辺に一行が集まって、旅のあとを思いやると、まあなんと限りなくも遠く来てしまったものだなあという気がして、互いに旅愁をわび合っている折しも、渡守(わたしもり)が「早く舟に乗りなさい、日も暮れてしまいますぞ」というので、乗って渡ろうとするにつけても、皆はなんとなくわびしくて、都に残してきた愛人がないわけでもないので、その人のことを思って旅愁もひとしお身にしむものだった。そうした折も折り、嘴と脚との赤い、鴫(しぎ)の大きさほどの白い鳥が、水の上に遊びながら魚を食っている。都では見られない鳥なので、誰も見知ったものはない。渡守に尋ねると、「これがあの都鳥ですよ」というのを聞いて、

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の愛人は無事でいるだろうか、どうだろうかと)

と詠んだので、舟の中の人々は一人残らず泣いてしまった。

 

これだけの背景を持った菓子皿である。それも一枚一枚が手書きであるのが良い。昔の陶工にはこのような風流というか文学的趣味を持つ者がいたのだろう。果たしていまこのような作品があるだろうか。先ず一枚一枚が手書きというのはないように思う。現在は確かに精巧で美しい絵模様の磁器だが、大抵は皆プリント印刷したものだ。

 

十数年前にイギリスの田園地帯を巡るバスツアーに参加した時、ワーズワスの住んで居たところとして有名な、イングランド北西部の「湖水地方」を一人の友人と訪れた。その時一揃いの小さな皿を目にした。それには皆同じ黄水仙の絵と彼の有名な詩がプリントしてあった。私は記念になると思って買って帰り今でも愛用しているが、やはり印刷では味気なく思うのである。しかしこれは私の好きな詩だから訳文を書いておこう。なお原詩はネットなどで見てもらうことにする。

 

 谷や小山の上の大空高く漂うている雲の様に

 一人寂しく(山地を)逍遙していた時、

忽然として私の目に入ったのは、

湖水の岸辺に、又木の下蔭に咲き乱れ、

微風に吹かれてはためき踊っている

夥しい数の黄金色の黄水仙の花だった。

          ウイリヤム・ワーズワス

           1770-1850

               (『英詩詳釋』山宮允訳)

 

原詩に比べたらそれほど良い訳とは思えない。英語の詩には二個所素敵な脚韻がある。これが訳文では出せないからだ。ワーズワスは丁度80歳で亡くなっている。当時としては長命である。私の妻と妻の弟は共に享年79だった。この文章の始めにちょっと言及した法然上人は、享年80で亡くなっている。釈迦は満80歳で亡くなっている。あの昔80歳と云えば今なら150歳くらいだろう。プラトンも同じ80歳で死んで居る。こう言った有名人の臨終の様子を、私は山田風太郎著『人間臨終図巻』で知った。参考までに名前だけ挙げてみると、次の人たちである。

 

世阿弥尾形乾山、カント、幸田露伴、ド・ゴール、永井荷風トーマス・マンなど。  

皆満年齢の80歳で死んでいる。現代は医学が進歩して、確かに長生きの人が格段に増加した。しかし病床に臥して、ただ呼吸をして居るだけで、自意識のないような老人が多い。気の毒だがこれもその人の運命だろうか。私は知らないうちに80歳をとっくに過ぎてしまった。そのうちお迎えが来るだろう。それまでは何とか元気で居たいものだと思う。後は天に任すだけである。

 

最後に萩高校の教え子で、気象庁を退職した後、探鳥を趣味として全国を旅している上野達雄君から、彼が撮影した多くの「都鳥」、つまり「ユリカモメ」の写真を送ってくれた。その中から二枚だけ載せておこう。彼はこの鳥について次のように書き送ってくれた。

 

カモメの類は、成長するに従って形態を変えるので、その分、識別が面倒になります。

ユリカモメの場合、幼羽、第一回冬羽、第一回夏羽、成長夏羽、成長冬羽の順で変化します。夏に生まれて2年で成鳥となるようです。日本へは冬鳥としてやって来るので、ほとんどの場合、冬羽しか見れません。たまに夏羽を目に出来ることがありあます。夏羽は頭が真っ黒になります。

 

 彼のお蔭で、私はこの鳥について初めて多くの事を学ぶ事が出来た。彼は雪国の新潟に住んでいるが、今年の積雪は「3年振り」の大雪だといって、雪景色の写真も送って呉れた。早く雪が解けて、彼から珍しい鳥の写真がくるのを楽しみにしている。

 

2021・1・17 記す

 

          

 

 

  

転而不動

2年前の夏のことである。2坪ばかりの我が家の狭い菜園の1か所に私はオクラを3本植えていた。朝起きて野菜に水をやろうと思って出てみたら、漏斗型にややくぼみのある大きな1枚の葉の上に、親子と思われる小さな雨蛙が3匹、炎天下にもかかわらずじっと蹲っていた。彼等はどこから来たのだろうか、お互い示し合わせて来たのだろうか、彼らは意思の疎通が可能なのだろうかと不思議に思った。というのはその日だけではなく、およそ一週間もの間、夜になると何処かへ姿を消したが、また朝になって出てみると彼らは同じ葉の上に居たり、違う葉の上にそれぞれ別れて坐って居た。

 

 この年の前年、すなわち令和元年の5月27日に家内が旅先で急逝したので、爾来私は独り暮らしを余儀なくされていた。従ってやや広い我が家の敷地内には、話し相手はもちろん猫一匹いないので、たとえ小さな生き物であるこの雨蛙でも、私には親しみを覚える存在に感じられた。私がすぐそばまで近づいてカメラを向けても、全く動かず正座したままであった。私は手で触るようなことはしなかったが、眼を近づけて彼らの様子をじっと見たりした。喉元をぴくぴく動かしているのは、呼吸しているからだろうと思った。そして目玉をこちらに向けたりしていたから、私の動きは察していたと判断した。それにしても坐った位置から微動だに姿勢を崩さない。

 

 我が家には蝶や蜂などはよく飛んで来る。雀や鳩も玄米をレンガ造りのベランダに撒いておくとやって来てついばむ。これらの生き物は一時もじっとしていない。たえずそわそわと身を動かし、私が近づいたら怖れて飛び去って行く。私としては何一つ危害を加える気はないのに、彼らは私の好意をどうも受け入れてくれないようだ。彼等は私を聖フランシスの様に思ってくれないのだ。その点この小さな雨蛙は私を信じてくれているのか、そう思うと可愛く思われる。

 

 ところが昨年は全く姿を見せなかった。オクラをそのつもりで植えたのだが駄目だった。どうしたのかと思っていたのだが、あることが原因かなと思うことがあった。実は昨年の或る日の昼前、晩春も過ぎて夏に差し掛かる時だったが、先のレンガ造りのベランダの上に50センチばかりの長さの蛇が横たわっていた。蛇は一見して毒蛇ではない。私を見たとたんにするすると這って、高さ30センチのベランダから降りて、椿と藪バラの植え込みの中へ姿を消した。私は近づいて行方を探したが土の中へ潜っていったのだろう見つからなかった。ところが夕方その蛇がまた以前と同じ場所に出ていた。前と同じように私を見るやいなや姿を消した。

 

 私としてはたとえ蛇でも、こうした小さな生き物を、快く迎え入れてやろうと言う気持ちだったから一寸残念に思った。その時ふと思った。雨蛙たちはこの蛇の存在を恐れて今年は出てこないのかなと。人間には不審の感じを抱かない蛙にとっても蛇は天敵なのだろう。お互い仲良くできないのかと思った。ということで昨年は蛙にお目にかかることなく1年が過ぎた。私としては少し寂しい気がした。

 

 年が明けて今年6月になってのことだが、今年もオクラを植えた。しかしそれまで蛙の姿はみられなかった。ところが全く思いもかけないことに、勝手口の取っ手の上に小さな雨蛙が1匹ちょこんと坐っているではないか。私は「お前はどこから来たか。よく来てくれたが、ここに居ってくれては困る」と言って逃がしてやろうと思ってそっと体にさわったら、ぴょんと跳んで私の腕に移った。私はベランダの傍の藪バラの葉の上に置いてやった。蛙はなされる儘に身を任せていた。

 

 私はその日は外に出るたびにこの蛙の存在を確めたが、その翌日は同じ場所に居たが三日目になって姿が見えなくなった。私はやや寂しい気持ちになった。

 

 「あの子蛙は一体何処へ行ったのだろうか」とあたりを探したが見つからなかった。ところがそれから1週間ばかりした朝の事である。あの子蛙が居るではないか。それも勝手口を出たところにある簡単な「流し」の片隅にピタリとひっつくようにしていた。私はカメラを取ってきてその姿を撮った。夕方になって今度は「流し」の水道の蛇口のすぐ傍に移動していた。その日はそのままその位置を変えずにいた。翌朝も同じところに居るかなと思って出てみたら姿が見えない。

 「はてな、何処へ行ったんだろう」と思いながら、キュウリとトマトでも採ろうかと思って、その「流し」のところに置いてある小さな籠を持ち上げたら、そこに蛙は隠れるようにして坐っていた。

「お前はこんなところに居たのか」と言って私は野菜を採った後、前と同じところに籠を置いた。

 

 また1日経った。蛙はおそらく同じ籠の傍に身を隠しているのだろうと思って外に出て見たら、また姿が見えない。

はてな、今度はどこへ行ったのだらうか」と思いながら、朝の散歩に出かけようと思い。靴箱から革靴を取り出してすぐ傍の柱に掛けていた長い靴ベラを手にしたところ、この靴ベラの背後に身を隠すようににして、木の柱にぺたりと雨蛙は上向きの状態でくっついているではないか。私はこれにはいささか驚いた。というには柱は垂直に立っている。その柱に蛙はピタッとくっついているからだ。この不自然な状態で蛙はその日1日中同じ姿勢を保っていた。私は靴ベラを違う場所に掛けて蛙を刺激しないようにした。

 

 そして今日である。今日は令和4年7月25日。一寸雨模様で朝起きると読書をしたので、朝食を終えた後、気分転換に一寸勝手口から外に出た。蛙が柱のところにまだいるかと思って見たところ見当たはらない。またどこかに行ったのだろうと思い、もうあまり気にしないでいた。しかしやはりどこかにいてくれたらと思いながら何気なしに見ると、靴箱の傍に置いてある黄色い如雨露の中に何かが入っているのが目についた。如雨露は深さが20センチばかりあって、私はよくこれで野菜に水をやる。何が入っているかと覗いてみたら、綺麗な模様の蝶が1羽横たわっていた。ところがよく見たらあの子蛙が蝶に向き合うようにちょこんと 坐っているではないか。

「お前はこんなところに隠れていたのか。それにしてもどうして這入って来たか」と問いかけるようにして、私はまたカメラを持ってきて写した。

 

 数年前にこんなことがあった。家内が死んだ年だったと思うが、家の後の小屋の傍にゴム手袋を置いていた。殆ど使わないで暫くそこに置いていたのだが、ある日それを手に取って指を入れたとたんに何か冷やりと感じた。よく見たら1つの指の中に蛙が冬眠していたのだ。これには驚いた。こんなところに隠れて冬を越したかと思うと、蛙の生態というか逞しさに感心した。私は蛙をそのままにして違うゴム手袋を使用した。

 このことを思い、今目の前にいる子蛙も遂に如雨露の中という安住の場所を発見してやれやれと思っているのではないかと。と同時に私は次のようなことを思った。

 

 この子蛙は体長僅か4センチ足らずである。薄緑色の肌に黒くて細短い線が不規則についている。見かけはこうした小さな生き物だが、その行動は先にもちょっと書いたように小さいながら泰然自若としている。時々居場所を移すが、新たな場所に身を移すと暫くの間、時には一昼夜以上、そこに身を置きじっと坐って動かない。私は以前市内の禅寺へ行って坐禅をした事がある。10年間毎週の日曜日の早朝に出かけて行き、本堂において40分ばかり坐禅の真似事をしたが、僅か40分でも心を静めることは出来なかった。これに比べたらこの取るにも足らない子蛙の静止した姿は見上げたものである。蛙と言葉を交わすことができら、彼は何と云うだろうか。

 「貴方は落ち着きがありませんね。もう少しじっとしていてはどうですか。私が折角ここは良いと思って坐っていると、貴方は私の邪魔をしますね。今度こそこの如雨露は私にとって最適の場所と思いますので、もう邪魔をしないでください。お願いします」とでも云うように思ったので、出来たらこのままにしておこう、それにしても蝶はこの中に飛んで入ってよう出なかったのだろう。

 

 私は先ほど夕方の散歩をしてきた。見ると蛙は如雨露の底にじっとしてた。梅雨はもう上がったが、座敷にはこの季節になったら毎年掛けることにしている掛け軸をまだそのままにしている。以前にも紹介したことのある三浦梧楼(号は観樹)の軸である。「五言絶句」の漢詩である。次の様に2行に書いてある。私はこの枯淡とも言うべき筆跡が気に入っている。

 

 鬱々黄梅雨 鳴蛙呼友頻 素門人雖遠

 松竹自為隣        観樹 印

 

 三浦梧楼は萩の人で、高杉晋作奇兵隊の一員となり、後に出世して学習院院長にもなった。しかし朝鮮の公使だった時、韓国王妃の殺害の容疑で結局陸軍中将で退役した。これは明治28年のことである。現在とは違い、当時の国民感情を知る上で面白く思うので一寸このことに言及しよう。

 歴史的事件やそれに関係した人物について正しく評価することは難しい。何事にも毀誉褒貶はつきものである。現に安倍元総理に関して国民の多くが感ずることではなかろうか。

 明治28年11月14日、漱石が子規に与えた手紙がある。漱石は次のように書いている。

 

 小生近頃の出来事で尤もありがたきは王妃の殺害と濱茂の拘引に御座候。

 

十川信介著『夏目漱石』(岩波新書)に以下のような記述がある。

 

  彼は政治的事件には表だった関心を示していないが、この書簡では日清戦争のきっかけになった韓国王妃で、日本勢力よりもロシア・清国を頼った閔妃の暗殺事件と、東京市水道鉄管納入で不正を働いた浜茂らの拘引に快哉を唱えている。

 

 私はこのことを我が家で随分昔に聞いたことを覚えている。三浦梧楼は捕らえられたが刑務所での待遇はよかったと。それというのも韓国がロシアと手を結びロシアが朝鮮半島へ出てきたら、日本としては死活問題になるからだ。三浦はこの事件後軍籍を離れたようだが、それまでも山縣有朋と意見が合わなかったようである。その後政界で隠然たる力を持っていたとある。

 

 彼の『観樹将軍回顧録』に、彼がまだ晋作の下に居た時、戦闘や訓練がない時は『資治通鑑』を静かに読んでいた。そこへ1人の粗暴な隊員が来て読書の邪魔をした。この隊員は何度も邪魔をするので、三浦は堪忍袋の緒が切れて、その隊員を切り殺し、自分も責任を取って切腹しようとしたら、高杉晋作が三浦の行為を是として許してくれたとある。三  浦をこのことがあって晋作に非常に恩を感じていたようである。 

 

 私は三浦がこのように学問にも目を向けていたことを知って、やはり名を成す人物は違うなと思った。彼が乃木大将より前に、若くして学習院の院長になったのも、明治天皇が三浦を認められて任命されたのだと思う。これも以前に書いたことだが、大山巌が団長、三浦梧楼が副団長となって、明治の初年にわが国の陸軍上層部が欧州の軍事視察に行ったとき、森鷗外が独逸に留学していた。鷗外は早速数人の上官に挨拶に行った。その時の印象を『獨逸日記』に次のように記している。

 

  明治十七年十月十九日。三浦中将の旅宿を訪ふ。色白く鬚少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏(筆者注:鷗外の直接の上司で軍医総監 橋本左内の弟)の語を告げて、制度上の事を知る機会或は少なからむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、みらるるものとぞいはれぬ。

 

 三浦梧楼が「儒林中の人の如くなりき」と書き記されていることからも、彼は単なる軍人ではなくかなりの人物だったと思われる。私はこの言葉を知って中国の「竹林の七賢」と漱石の『草枕』に書かれてある王維の『竹里館』の詩を思い出した。ひょっとしたら漱石もこういった心境を夢見ていたのではないかと思う。

 

  独坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 明月来相照

 

 独り坐す幽篁の裏、弾琴また長嘯す。 深林人知らず。明月来たりて相照らす

 

  奥深い竹林の中の館にひとり坐って、琴を弾き、また声を長く引いて、心ゆくままに歌うたう。

 この深林の楽しみを人は知らず、名月が来て私を照らしているばかり。

               (目加田誠著『唐詩選』新釈漢文大系 明治書院より)

 

 実は三浦梧楼は私の曾祖母の従兄である。従って私の祖父にとって三浦は叔父にあたる。祖父は三浦に何度か会っていて、或る時この掛け軸を書いてもらったのだ、と私は父から聞いている。

 ついでにこの漢詩の意味を汲んでみよう。

 

  鬱陶しい雨が降り続いている。梅の実が今では時季を過ぎて中には地面に落ちて黄色くなっているのもある。しきりに蛙が鳴いているが友を呼んでいるのだろう。我が家には粗末な門があるが人里離れての 一軒家である。訪ねて来る人は殆どない。しかし家の周辺の松林や竹林だけがせめてもの隣人と云うところだ。

 

 話しをもとに戻そう。1週間ばかり前、雨がひどく降って青田も休耕田も水浸しになった。私は傘をさして田圃道を歩ていたら、それこそ蛙の大合唱だった。その後は日和続き。あれほどの数の蛙は一体どこへ行ったのか。1匹の姿さえ見かけない。これを思うと我が家に来てくれた蛙は有難い。何時までも如雨露の中にいてくれと思うのである。

 しかし夜になって如雨露の中を覗いてみたら、また姿をくらましていた。神出鬼没とまでは云わないが、まさに「蛙の忍者」だなと思い、私は勝手口の戸を閉めて寝室へと向かった。

 

 又一日が過ぎた。その日は終日姿を見せないなと思い、一体子蛙はどこへ行ったのかと不思議に思いながらも少し寂しく感じた。遂に彼は何処かへ行ってしまったのだろうと諦めて、勝手口の戸締りをしようと行ってみると、靴箱の上に置いてある小さな籠の縁にちょこんと座っているではないか。ああまだいてくれたのかと思い、「よう来たな。どこへ行っていたか」と話しかけ、9時になったのでもう1度勝手口の所へ行き、ちょっと外を見てみたらまた彼は姿を消していた。夜になって何処かねぐらを探して去ったのだろうと思って私は寝室へ向かった。

 

 そして一晩ぐっすり寝て今朝目が覚めたのは6時前。少し寝すぎたと思い、散歩に出かけようとして靴を履こうと思って靴箱に目をやると、驚いたことに、子蛙が2足ある靴の内の1つの靴の上にちょこんと座っていた。私はもう一方の靴を履いて出かけることにした。その時私は加賀の千代の「朝顔に釣瓶とられて」の句を思い出した。

 

 子蛙に散歩の靴を取られけり

 子蛙に靴を取られて思案かな

 出てみれば子蛙先に靴履けり

 靴の中ここで坐禅か青蛙

 子蛙よ今日の居場所か靴の中

 

 最期にこの駄文の題名について書いておこう。「転而不動」は「転じて動かず」と読める。意味は容易に分ると思うが、実は私はここに述べた蛙が、頻繁にではないが、転々と場所を変え、その新しい場所を見つけたら、しばらくは動くことなくじっと蹲っていることに感心したので、何時もそわそわしているわが身を顧みて、反省の気持ちでこの言葉を考えたのである。

 私はこの駄文を昨日の朝から書き始めた。休んでは書き足してやっと終えた。その間好きな本を数冊あれこれと少し読み、同時にネットでニュースなども見たりした。これからもわかるように私は1冊の本を最後まで読みとおして、次の本を手にするということがない。子蛙の様に終日じっと坐っておれない自分を顧みて忸怩たる思いである。

 

 もう少し蛙について書き足すと。今日は7月30日土曜日である。台風の接近で奄美地方や九州の南と四国にかけて大雨に見舞われたそうだが、一方関東から中国地域までは35度を超える猛暑日が続いている。さてこの蛙だが、夜になるとどこへ行くのか姿を見せなかったが、今朝私が散歩に出かけようとして見てみたら、ちょこんと靴箱の上にある籠の縁にこちらを向いてじっとしていた。朝の5時半だったから散歩には適した気温だった。それにしてもまたこうして来てくれたので私は嬉しかったので、「よく来てくれた」と言葉をかけて出かけたのである。この子蛙が果たしていつまでこうした行動を繰り返すか分からないが、出来るだけ長く来てくれるようにと願っている。まあしかしそろそろ「蛙談議』はこの辺で止めることにしよう。

 最期に、前述のとおり私はあれこれと好きな本を併読している。先ず毎日必ず1時間以上かけて読んでいる本は、大佛次郎著『天皇の世紀』全10巻(朝日新聞社)である。今「第7巻」の途中。

他の本はこれより短時間に少しづつ読む。

 

 トーマス・マン著『魔の山』これは電子書籍で夜寝床で読んでいる。

 上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』(岩波書店) 

 オイゲン・へリゲル著 魚住孝至訳『弓と禅』(角川ソフィア文庫

 『陶淵明 中国詩人選集』(岩波書店)これは3回目

 中川新一著『東方的』(講談社学術文庫

 『日本人物の歴史 新政の演出』(小学館

 十川信介著『夏目漱石』(岩波新書

 長与善郎著『三絶』(講談社)等である。

 なお、『三絶』とは西田幾多郎鈴木大拙幸田露伴の三人で、いずれも長与氏が直接教えを受けて感銘を受けた偉人で、彼等は皆文化勲章を受章している。

                    2022.7・30 記す 

              

 

望郷のバラード

萩市の南郊に位置する木間(こま)という地域に、私の友人が二十年以上前に萩焼窯を築いて、夫婦二人で棲んでいる。私は亡妻と一緒によく話しに行っていた。彼は近年眼が不自用で新聞などの活字が読めないと言っていた。耳は確かだが、その彼が親切にも長年にわたって選び買い求めたであろうCDを20枚も送ってくれた。

 

 私はお礼の電話をかける前にどれか一つを聴いて、その後にしようと思った。そこでざっと眼を通したら「天満敦子 望郷のバラード」が目に入った。私は彼女がどのような音楽家は知らないが、「敦子」が亡妻の名前と同じだから何となく選んで、二階にあるテレビで聴いてみた。このテレビにだけCDを聴く装置がついているからである。

 

私は最近階下で寝ることにしている。夜中にトイレに行く時、階段を上下するのが億劫だからだ。従って書架から本を取り出すとき以外は二階へは上がらない。カーテンも閉めたままで暗い部屋である。全くひっそり閑としている。私はこの静寂な空間の中で、どんな音楽が流れるかと半ば期待して耳を傾けた。天満(てんま)敦子(あつこ)がヴァイオリンの名手だとは知らなかった。私は音楽の善し悪しはよくは分からない。しかし食事の時よくバッハの「G線上のアリア」を聴く。昔ベートーベンの「交響曲第五番 ・運命」には感動を覚えて、ロマンロランの『ジャン・クリストフ』や『ベートーベンの生涯』などを読んだことはある。しかしここ最近は音楽を聴いて感動を覚えたことはない。わざわざ演奏会などへも足を運ぶこともしない。

 

そうした最近の状況なのだが、いまCDから流れて来た素晴らしい旋律に私は何とも言えない感動を覚えた。本当に何とも言えない哀愁を帯びた旋律が全身に沁みわたった。息詰まるような悲しさが伝わってきた。近来このような気持ちになったのは初めてである。CDの小さなケースに入っていた解説書があったので、非常に小さい活字だが読んでみた。その文章の中に、始めてこの生演奏が行われた時、「ホールの客席のあちらこちらで、啜(すす)り泣く人の姿が見られ、ハンカチーフを取り出し、そっと目頭に当てる人も何人かいる」と書いてある。何故そのような感動を覚えたのか。

 

中野 進
回 想: 天満敦子 ひと昔前

  1993年12月8日夜、横浜市青葉区東急田園都市線青葉台駅前に位置するフィリアホールの客席のあちらこちらで、啜(すす)り泣く人の姿が見られた。ハンカチーフを取り出し出し、そっと目頭に当てる人も何人かいる。

 

ステージでは天満敦子が、文字通り入魂の名演を繰り広げていた。曲は19世紀末、29歳の若さで薄幸の生涯を閉じたルーマニアの鬼才、チブリアン・ポルムベスクの作になる《望郷のバラード》である。愛国者であったポルムベスクは、オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた母国の独立運動に参加して投獄の憂き目に遭う。曲は獄中で故郷を偲び、恋人に思いを馳せながら書き上げた哀切のメロディーであり、ルーマニアでは誰知らぬもののない懐かしの名曲であるが、エクゾチシズム濃厚の故であろうか、国外では知られることは少ない、文字通りの“秘曲”であった。

 

天満敦子に《望郷のバラード》の譜面を渡し、「広く日本に」と紹介を依頼したのは、当時外務省東欧課長の職にあった少壮外交官・岡田眞樹である。岡田は十数年前、ウイーンの日本大使館在勤中、郊外のレストランで哀愁に満ちた音楽を奏でる亡命ルーマニア人楽士と出会い、感動して親交を結ぶ。イオン・ヴェレシュと名乗る亡命楽士は、8年後にスイスで再会を果たした別れぎわ、「この曲を、あなたの母国日本に紹介してくれるヴァイオリニストを探して」と、黄ばんだ1枚の楽譜を岡田に差し出した。ヴェレシュがチャウシェスク共産主義政権の圧政を逃れるべく、夜陰にまぎれて国境を越えたとき、ヴァイオリンとともに携えていた愛奏の譜面であった。

 

だが外交官として東奔西走の日々を送る岡田眞樹が、天満敦子という神に選ばれたヴァイオリン奏者の存在を知り、秘曲の演奏を依頼したのはそれからさらに数年後、1992の初夏、所は奇しくもポルムベスクとヴェレシュの母国ルーマニアの首都ブカレストであった。

《望郷のバラード》との出会いがヴァイオリスト・天満敦子の運命を一変させる。そして、忘却の淵に沈んでいた薄幸夭折の作曲家の名も、没後100年余の歳月を経て甦りを果たしたのである。

 

感動の文章である。このような数奇な運命の譜面を初めて手にした天満敦子の心境はいかばかりか。彼女はきっと心を込めて稽古して、翌年の1993年12月8日のあの忘れられない日に、入魂の名演奏をしたのである。感動しないのがむしろ不思議だったのではなかろうか。この生演奏を聴いた聴衆は生涯忘れ難い体験をしたと思う。

 

素人の私が言うのも可笑(おか)しなことだが、各種の演奏会でヴァイオリン演奏ほど楽器が重要視されることはない様な気がする。先ず楽譜がある、次に演奏者がいる、最期にヴァイオリンがものを言う。天満敦子の愛器について、この「解説書」に次のように載っていた。

 

回 想:天満敦子 ふた昔前

 

天満敦子という稀有な才能に出合ってから、もう20年に余る歳月が流れた。

「こんな凄いヴァイオリストが日本にもいたのか!」というのが、彼女の演奏を初めて耳にしたときの偽らざる印象であった。(中略)

その日彼女は、名匠アントニオ・ストラディヴァリが円熟期を前にした1680年代に製作した名器“サンライズ”を弾いていた。楽器というより“美術品”と評した方が良いような美しいヴァイオリンで、表板やネックの部分には黒檀や象牙で精緻な象嵌(ぞうがん)が施されており、その道の専門家の間には「音色と造りは最高だけれど、コンサート用としては音量不足。実用上問題あり」という評価が定着していた。“サンライズ”とは、通称“虎目”といわれている裏板の木目(もくめ)が日の出を想わせるように光り輝いているために名付けられた、名器ならではの別称である。

 

そのむしろ、繊細な鳴りをもって定評のある“サンライズ”から、いままで耳にしたことのないような強大な音量が放出され、数百人の収容能力を持ったホールの壁に谺(こだま)していた。「本当にあの楽器なのだろうか」と、私は一瞬耳を疑った。その2~3年前、私は“サンライズ”を一時借用して某有名ヴァイオリストを起用して、レコード制作をした経験があって、楽器の性格を知悉(ちしつ)しているつもりだったからである。

 

私の大学時代の恩師が、若いときからヴァイオリンを弾いていたと言っておられた。残念ながら音楽のセンスのない私はその時、世界最高のヴァイオリンが“ストラディヴァリウス製作”というものだと教えられただけである。今回改めて知ったのだが、名匠ストラデヴァリアが製作したヴァイオリンは世界に400挺ばかりあり、それらは皆“ストラデヴァリウス“と呼ばれていると言うことを。そして我が国には40挺ほどあり、高価なのは12億円以上もするとか。「猫に小判」、「豚に真珠」という言葉がある。こうした名器もそれを演奏する人があって初めてその真価が発揮される。天満敦子はまさにそうした天下の名器を如何なく活かすことの出来た稀有な才能の持ち主なのだろう。

 

最後に私は「天満敦子」という名前というより、むしろその文字を何処かで見たような気がした。「ああそうだ! 天神様の句碑の前で撮った妻の写真だ!」ということを思い出した。妻が亡くなってもうすぐ三回忌を迎える。その日まではと思って、座敷の違い棚の上に、我が家の仏壇とは別に花を飾り妻の写真を置いている。

私の曾祖父が明治の始めに、防府天満宮の境内に句碑を建てた。「天満る 薫を此処に 梅の花  佳兆」という句が刻まれている。私は妻と毎年必ずお詣りして、この句碑の所へも行っていた。その時撮った写真に「天満」の文字がはっきりと読めて、その文字だけが読めるように、妻が句碑の台石の上に腰掛けていたからである。「天満敦子」がここにいたのかと思った次第である。

                     2021・5・18 記す

                       

三つの大切な事

「健康な身体」、「健全な精神」、「賢明な頭脳」。私はこれまで生きてきて、この三つがバランスよくとれた人は幸せだと思う。人は生まれたら普通両親に育てられる。ところが生まれて間もなく片親または両親との死別という事もある。これはその人の運命だろう。「艱難汝を玉にする」と言う言葉がある。いわゆる世に出て成功した人には、こういう不幸を若くして背負った人が結構多くいる。しかしそのような人にはどことなく明るさに欠けた面があるように思う。そうなるかならないかは本人の自覚と努力の問題である。しかしそれは仕方のないことだとも言える。

 

小・中学校に入るまで、さらに成人式を迎えるまで両親の愛情に恵まれたものは幸せである。概して親というものは、我が身を犠牲にしても我が子のためを思ってくれるからである。まず親は子供の健康を考える。と同時に素直で健全な心を持つようにと常日頃から子供に教える。問題は知能つまり勉強だが、これは本人の自覚によることが多い。小学時代から勉強が好きな子は少ない。何と云っても遊ぶことが子供の本能なのだから。

 

最近の傾向として、勉強さえ出来たら良いと言った考えが強く、小学校に入る前から勉強塾に入れて、子供から遊びを奪う愚かな親が見うけられるのではなかろうか。そうして勉強だけは何とか良くでき、一流大学に入ったまでは良いとして、それからどうなるか。先に云ったバランスに欠けているので、まともな社会生活が出来ず、不幸な人生を送るということになりかねない。そうなると親の責任は免れない。

 

小さいときから勉強が好きで黙っていても勉強を一人でする子は珍しい。このような子がいたら、普通の親は喜ぶが、その為に心身の発育が阻害され、病気にでもなったら元も子もない。勉強が早くから好きか、遅くなってし出すかは人による。大事な事は、親として子供にやる気が出るように、そっと見守って、その様に仕向けることである。「出藍の誉れ」とか「鳶が鷹を産む」というのはまあ例外だろう。親が自らの子供時代を顧みてみたらよい。自分より少しは立派な人間に育つように暖かく見守ることが、子供の幸せを願う親の生き方だと私は思う。親自身が賢明になることが子育てで一番大事だ。二度とない人生である。出来るだけ健康で、健全な精神を持って、物知りになるより本当の意味で賢くなる事だ。そして年を取っても何か良い趣味を持ち、多くの事に興味を抱き、前向きに楽しく暮らし、最後は安らかな死を迎えるようになれたら、生まれて来た甲斐があるのだと私は思って居る。  

 

これはあくまでも私の考えだから、他人はどう思うか知らない。数えの90歳まで何とか生きてきた。自分でもよく生きたと思う。顧みて半ば反省しながらも、私のこれまでの人生はよかったと思う。「生老病死 四苦八苦」これが人生である。何もないと言うことは絶対に無い。こうした人生の苦難にいかに対処し乗り切るか。それには始めに書いた「三つの大事な事」が必要である。

 

私は自ら省みて何とかよかった人生だったと思うのは、まず健康だからだ。一人暮らしも差し支えなく行っている。これも息子や嫁達が気を配っているお蔭である。考えて見たら友人知人はほとんどと言えるほど鬼籍に入っている。私の人生も先が見えている。こうしてこの歳まで生きてこられたのは、偏にこれまで世話になった数多く人のお蔭である。 

 

私は実母が私を産んだその年に25歳の若さで死んだ。私は母の愛というものが実感できない。継母には心から感謝するが、なにかしら違いがあるような気がする。それは私には分からない。実母が早く亡くなったからだ。しかしあの世から私を見守って呉れていると私は強く信じている。生きて行くには「自力」で努力しなければいけないが、目に見えない「他力」とうものによって、大きく影響されるとつくづく思うのである。子供や孫達はこれからの人生を幸せであってくれたらと切に願うのである。亡き妻もきっとあの世から見守って居てくれるだろう。

                2021・2・14 記す

帯状疱疹(ヘルペス)

ウイルスは昔はビールスと言っていた。調べてみると次のように説明してある。

 「遺伝情報を荷う核酸(DNAまたはRNA)とそれを囲む蛋白殻(カプシド)からなる微粒子。大きさは20~300ナノメートル。それぞれのウイルスに特異な宿主細胞に寄生し、その蛋白合成の エネルギーを利用して増殖し、それに伴い細胞障害・細胞増殖あるいは宿主生物に種々の疾病を起こす。」断食をしたら治るともいわれている。

 

 1ナノメートルは100億分の1メートルとあるからその大きさは想像できない。今全世界でコロナ感染が蔓延し、次々に変異株が生じていつ収束するかその兆しさえ見えない状態である。これも当然ウイルスで、私はコロナにはまだ罹っていないが、先週の金曜日に鍼灸の治療を受けたとき、首筋と肩の周辺以外に、腰の周りが少し痛く感じたので其処にも鍼を打ってもらった。ところが自転車で帰って午後の暖かい日差しの下で散歩に出かけて予定の3分の1も歩かない時、急に右脚に力が入らず痛みを感じたので直ぐに引き返した。その後痛みが増してきたので横になってじっとしていたが痛みは増すばかり。これはどうしたことかと思いながら、そのうち収まるだろうと思いながらその日は何とか過ごした。土、日と連休で医者へも行けずに日曜を迎えた。

 

  1月9日、日曜日の朝長男から電話がかかってきた。大学時代の恩師が亡くなられてその墓地を訊いたが不明だと言った。私は「お前が早く論文を纏め上げて研究書として早く出版しないから、こうして恩人が亡くなられるのだ」と注意した。そのついでに私の体の痛みを訴えたらすぐ医者に診てもらうが良いというので、休日だったが小郡に住む次男に連絡したら、彼がよく知っているクリニックが休日の当番医だと分かり、迎えに来てくれて連れて行ってくれた。医者は一目見るなり帯状疱疹ですと判定して飲み薬5日分と、痛み止めの頓服薬を処方してくれた。このウイルスは潜伏していて体力が弱ると頭をもたげるようである。實に厄介な奴だ。

 

 実はその前日の土曜日に入浴した際、何知らず右手で体の右下半身を触ったらブツブツしたものを感じて、「ひょっとしたらヘルペスじゃないかな。どうりでチクチク痛む」ととっさに思った。ヘルペスつまり帯状疱疹の痛みは今から24年も前になるが、真夏の暑い盛りに、萩から山口への転居を決めて妻と二人で片づけをしていた時、書画骨董のガラクタの整理で非常に頭を痛め、その為に或る日わき腹に赤いぶつぶつが線状に出来た。痛くてたまらないのですぐ医者に診てもらいヘルペスの診断され、私は初めてこの病気を知った。服薬してこれは数日で収まった。このことをすっかり忘れていたのである。今その時のことが鮮明によみがえってきた。もっと早く処置していたらこれほどにはななかったものと、「喉もと過ぎれば」と後悔している。

 

 亡き妻の従弟が我が家から500メートルばかり隔てたマンションに一人住まいしている。彼の妻も昨年1月3日に病院で亡くなった。腎不全という病気だった。娘さんが2人いて長女は東京に、次女はアメリカ人と結婚して、はるか遠くのアメリカの東海岸にあるフィラデルフィアに住んでいる。アメリカ独立宣言の行われた由緒ある地である。アメリカは日本とちがいコロナ感染はけた違いに多い。フィラデルフィアも同じで容易には近づけない状態である。その様な状況下にもかかわらず、娘さんはトンボ返りで帰国した。葬儀には間に合わなかったがここに親子の情を見ることができる。日本はお陰でそれほどでない。彼に電話したら何かあれば手伝うと言ってくれた。こんなに有難いことはない。困った時の人助けというが、今こうして不自由な身になって人の親切をつくづく思う。早速今日は買い物に行ってくれたし、この土曜日には小郡のクリニックへ連れて行くと言ってくれた。感謝あるのみである。

 

 ここで鍼治療の事も思い出した。もう十年ばかり前になるが、首筋が凝って困ったので鍼灸医院へ行った。事情を話して首に鍼を打ってくれたのはいいが、そのあと猛烈に痛み出して、横にもなれず、ものも言えず、夜は座った状態で寝た。寝たと言ってもほとんど寝れなかったのが実情である。今回も腰がちょっと痛むので鍼を打ったのが逆効果だったかと思う。鍼灸師は鍼を打てば却って痛みが増すということを知っているかどうかだ。ここで私は医者とか教師とかの立場を考えた。

 

 患者に治療を施したり、生徒を教育する際、ただ徒に強く罰したり、薬を処方してもそれが本当に効果があるかどうかはなかなか難しい。その為に今は体罰を厳禁しているが、相手によれば体罰が効き目があるともいえる。本当に優れた医者や教師は相手を見て適切に対処するのだと思う。鷗外の作品に『カズイスチカ』というのがある。鷗外は医者であった父親が、患者を診てこの患者は明日死ぬとか、もう少しすれば回復すると言って、実際にそのようだったと書いている。こうしたのが名医なのだろう。私のかかった鍼灸師はその点まだその域にまで達していないのでは、と痛い目に遭って思った。

それにしても二度あることは三度、これからもっと気を付けよう。

「愚かなる者は何時まで経っても同じことを繰り返す。」ということか。

 

 ひどい痛みはかなりとれたが、まだ絶えず意識している。何かにつけそのことを意識するということは、それに捕われているということで、健全とは言えない。心身ともに何ものにも拘束されない人は、めったに存在しないだろう。その境地を目指して宗教家などは厳しい修行をするのだろう。痛みを一つの試練として前向きに対処すべきだと思うが、凡人には至難の事である。気分転換につまらない歌を数首作ってみた。

 

  ヘルペスに罹りし前にわき腹がチクチク痛むこれぞ前兆

 

  何事も前兆ありと思うなり気づく気づかぬ賢愚の違い

 

  先見の明とは人のよく言えど実行してこそ真の先見

 

  見過ごして痛い目に遭い金使い馬鹿の骨頂極まれり

 

  世の中に佳き言の葉の多くあり「温故知新」もその一つなり

 

  ヘルペスの痛み知らしむいまさらに神経痛に悩める妻を

 

  心から同情するは至難なり自ら病みて他人(ひと)の痛むを

 

  釈迦の説く生老病死の道のりを痛み少なく歩まんものを

 

  生あれば必ず死あると知るけれど苦痛少なき死をば望まん

 

  何事も無意識なるが最善と病みて始めて思うことなり

                         

                   2022・1・18 記す

太郎

萩にいるとき玄関の間に「清風徐来」という額が掲げてあった。縦が三十センチ、横が百二十センチのかなり横長のものである。私はここに書かれてある言葉もだが、筆跡がなかなか良いので、山口に移ってきても、同じように玄関の間に掲げることにした。

 

 この言葉が中国の宋の時代の偉大な詩人蘇東坡の、『前赤壁の賦』の中にあるということを父が教えてくれた。右から左へと書いてあって、最後に「丙子三月 梅屋主人之為 太郎」とある。恐らく桂は同郷の陸軍の先輩三浦梧楼に連れられて、梅屋七兵衛の羅浮亭を訪ねたとき書いたのだろう。その時彼は二十九歳であった。

 

 父は「これは日露戦争の時の総理、桂太郎が書いたものだ」と言って、自分が覚えている最初の部分を口ずさんだ。私は父が気持ちよさそうに歌っていたのを今でも思い出す。その頃は私には意味はよくは分からなかった

 

   壬戌(じんじゅつ)の秋七月既望(きぼう)、蘇子客と舟を泛(う)かべて赤壁の下に遊ぶ。清風徐(おもむ)ろに来たり、水波興らず。  酒を挙げて客に属し、名月の詩を誦し、窈窕(ようちょう)の章を歌う。少焉(しばらく)にして月は東山の上に出で、斗(と) 

  牛(ぎゅう)の間を徘徊す。白露(はくろ)江に横たわり、水光(すいこう)天に接す。一葦(いちい)の如(ゆ)く所を縦(ほし)いままにし、万頃(ばんけい)の茫

  然たるを凌(しの)ぐ。

 

 森鴎外が東大の医学部を卒業し、その後彼は陸軍の軍医になった。明治新政府はこれからの日本の国家建設の為に、諸外国から優秀な教師を最高の 待遇で招き、一方国内の若き秀才を東大でこれらの教授のもとで学ばせた。卒業時各教科で三番以内のものを官費で留学させ、帰国後はそれぞれの分野で今度は彼らに教えさせるといった制度を設けた。

 

 鷗外はドイツ人の教授とどうも気が合わなかったようで、また最終試験の前に下宿が火事になって貴重なノートが焼失したとかで、彼は三十名の同級生の中で七番で卒業した。したがって官費での留学の夢が絶たれた。彼が卒業したときの年齢は二十歳である。他の連中は一番若い者でも二十三四歳で三十歳近い人もいたようである。然し彼は陸軍に入って間もなく、今度は陸軍軍医としてドイツに派遣された。随って現地で十分に青春を謳歌している。この点明治三十年にイギリスへ行った時の漱石の留学体験とはかなり違う。

  

 今思い出したから書いておくが、鴎外が卒業した年に、山口縣厚狭(現在の山陽小野田市)の粟屋活輔という人物が東大医学部に入学した。しかし彼は病気になって一年で帰郷した。それを知って近辺の青年が粟屋氏の処へ行って教えを請い、結局彼はもう復学しないで、最初は自分の家で、後に小野田へ学び舎を建てた。「興風中学校」という校名である。それが現在の県立小野田高校の前身である。第一回の卒業生に宇部興産の第二代の社長俵田明氏がいた。私は縁あってこの学校へ大学を卒業と同時に赴任し六年間世話になった。

 

 話が逸れたが、二十歳で東大医学部を卒業とはちょっと信じられない。明治七年、十三歳では資格年齢に達しないために二歳を増して萬延元年生まれとして、鷗外は東京医学校予科に入学した。それは三年後に開成学校と併せて東京大学となり、医学校はその医学部となった。同級生三十人いて、生徒は十六七歳なのが極若く、多くは二十代だったのである。年齢を二年ごまかして十三歳で入学したとの事だが、それにしても早熟というかものすごい秀才である。授業はすべてドイツ語で行われた。彼が陸軍省からドイツへ衛生学の研究で派遣されたとき、自由にドイツ語を操りドイツの連中が驚いたようである。鷗外はこのことを『独逸日記』に書いている。

 

 鷗外がドイツ行った同じ年、即ち明治十七年三月に、日本陸軍大山巌を団長、三浦梧楼を副団長として欧州、主としてドイツの軍制の視察に行っている。この一行の中に、さきに言及した桂太郎が名を連ねている。この時から二十年後の明治三十七年に、我が国は大国ロシヤと戦い勝利した。僅か二十年の間に、陸軍は大山巌、海軍は東郷平八郎の指揮のもと堂々と強国ロシヤに勝ったから、世界の国々は日本の存在を認めたといえよう。その時の総理が桂太郎であったのである。

 

 鷗外は『独逸日記』の中には桂太郎のことは書いていなかったと思う。大山巌と三浦梧楼、さらに乃木希典のことは書いている。鷗外の直接の上司はやはり一行の中にいた橋本綱常という軍医で、彼の兄が若干二十四の年齢で「安政の大獄」で、吉田松陰らと共に処刑された橋本左内である。今から考えるとみな若くしてしっかりしている。そして国を思う気が強い。

 

 私がこの拙稿に「太郎」と題したのは、今回の自民党の総裁選挙に河野太郎が立候補しているので、もし彼が勝てば第百代の我が国の総理になることとなる。結果はどうなるかわからないが、「太郎」という名の総理大臣にどういった人がいたか調べてみた。まず十一、十三、十五代の総理に桂太郎。続いて時代が下がって九十二代の総理が麻生太郎、この二人だけである。外に太郎の上に一字ついてるものは二人いる。ついでに書くと、四十二代鈴木貫太郎と、八十二、八十三代の橋本龍太郎である。

 

 最近「太郎」という名の子供を見ない。女の子も「子」がついたのを見かけない。名前というものは時代とともに変わるのだろう。鷗外に言及したからついでに言うと、鷗外はこれからは西欧に行ってもすぐ馴染んでもらえるようにと、子供達には西洋風の読みの名前に漢字をあてて名付けている。長男は、於菟(オト)、次男は不律(フリツ)、三男は類(ルイ)、長女は茉莉(マリ)、次女は

杏奴(アンヌ)である。 

 

 「太郎」に話を戻すが、「名は体を表す」と言われている。親は我が子の将来を考えて名前をつける。「太」は「大」や「泰」にも通じて、大胆とか、気が大きいとか、安泰といった良い意味がある。 「郎」は男性の美称である。歴史上直ぐ思い浮かぶのは、八幡太郎源義家北条時宗、すなわち相模太郎である。元の大軍が我が国に攻め入った二度の「元寇」の時、時宗鎌倉幕府の執権で、文永十一年(一二七四)の時は二十三歳、次の来寇の弘安四年(一九八一)の時は三十歳であった。彼は見事に元の大群を撃退して、その三年後に三十三歳の若さで死んでいる。しかし円覚寺を建て、宋から無学祖元を招いて開山とするなど、あの年齢ではちょっと考えられないほどの傑物であった。

 

  頼山陽時宗の不屈の態度を称して「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と評したのも頷ける。

 あの時の強敵元の大軍を迎え撃ったことを歌った歌詞の最初だけ覚えている。

 

  四百余州をこぞる 十万余騎の敵

  国難ここにみる 弘安四年夏の頃

 

 今我が国は、隣国中国の一党独裁共産主義的脅威に曝されていると言われている。令和の「相模太郎」の出現を望むこと切なるものがある。若くて聡明であり、その上決断力のある総理こそ、これからの日本を正しく導いてくれる人物だといえよう。

  

                      2021・9・27 記す

太田道潅

豆が好きな者は「小忠実(こまめ)に元気よく動き回る」と言う言葉を耳にしたことがある。そう言えば父は豆が大好きで、八十四歳で死ぬ前の日まで元気にして居た。私も父に似て豆が好きで、今のところ年の割には元気に行動している。豆を食べれば元気になれるというわけでもあるまいが、私は昨年十一月にスナック豆やエンドウ豆、さらに莢(さや)豆の三種類の種を買ってきて、我が家のささやかな菜園に蒔いた。年が明け三月に入って急に成育し始めたのでビニール竹を立ててネットを張った。お蔭ですくすくと延びて白い花がまるで小さな蝶のように一面に咲いた。

 

これにやや遅れて豆の傍にある山吹の花が、豆の白い花と競うが如く咲き乱れ、まるで泡雪が降り注いだように白一色になった。従って豆と山吹の葉の緑と花の白の二色に菜園全体は染まっている。

 

しかし豆の花が中々実にならない。花は咲いても実にならないのでは困った事である。私は心配していたら、知人の奥さんが訪ねて来て、「大丈夫、花が咲けば必ず実になります」と保証されたので一寸安心した。何故このような心配をしたかというと、先日我が家から歩いて片道五百メートルばかりのところで、毎日朝の七時から野菜や花などを、山陰側の山地からトラックで運んできて、店を開いている人物が、「今年は豆の花が早く付いてどうも実がなりにくいようです」と言ったからである。果たしてどちらが本当かもう少し見守る事にしよう。

 

私は山口に来る前詩吟を習ったことがある。貴船という先生が岩国からだったと思うが来て指導された。私は生来音楽が苦手で声もよくないから、少しも上達しなかったが、詩吟の文句には気に入ったのが幾つかあった。その中でも特に良い詩だと思ったものの一つは、太田道潅の「山吹伝説」の漢詩である。

 

弧鞍衝雨叩茅茨    弧(こ)鞍(あん)雨を衝(つ)いて 茅(ぼう)茨(し)を叩く

少女為遺花一枝    少女為に遺る 花一枝(いっし)

少女不言花不語    少女は言わず 花語らず

英雄心緒亂如絲    英雄の心緒(しんちょ)乱れて 糸の如し

 

詩の意味は、太田道潅が武蔵野に狩りに出た折り、にわか雨にあい、家来達とはぐれてしまった。おりよく茅(かや)葺(ぶ)きの家があり、蓑を借りたいと頼んだが、出て来た少女が無言のまま、山吹の一枝を差し出した。 

 

少女は何も言わず、花も語らない。道潅は意味が分からず、怪訝(けげん)に思ったまま立ち去った。城に帰った後、「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」という古歌があるということを教えられ、己の無学を恥じ、その後彼は大いに学んだ、という有名な話しがある。

 

私が以前習って吟じたときは、「少女為に捧ぐ」で、また「将軍の心緒」であった。また「少女為に捧ぐ 花一枝」の後に先の和歌を挿入して吟ずるように習った。だからこの詩の意味がよく分かった。「みのひとつだになきぞ悲しき」の中には、山吹には「実がない」と言うことを踏まえて、我が家は貧しくて貸すことのできる「蓑がない」という意味で、山吹の一枝を黙って差し出した少女の、何とも云えない切なくも悲しい気持ちを私はその時知って、この少女が今はうらぶれた生活をしているが、教養豊かな清楚な感じの若い女性だろうと想像して、この詩が気に入り、今でも時々口ずさむことがある。

 

我が家の狭い菜園の片隅に咲いている山吹の花は、七重八重ではなくて、四枚の花瓣があるだけである。それでも咲き乱れている。また豆の花もよく付いたが、果たして豆の花が実になるかと心配して、ふとこの太田道潅の漢詩を思い浮かべたのである。

ところで、今考えると不思議な符合とも言えることがあった。実は今年二月に入って、長野市に住む知人から立派な桐箱に入った酒が贈られてきた。中を開けると布切れに包まれ、太文字で「道潅」と書いたラベルの貼られた一升瓶が出てきた。そこには一枚の由緒書きも入って居た。これを読むと、道潅から六代目の孫が幕府の内命を受けて近江の草津に移住し、さらにその子孫が江戸末期に草津で酒造業を始めたと書いてあった。この外に次のような説明文があった。私はこれによって太田道潅が文武に非常に優れた人物だと知った。

 

江戸城 築城の祖  太田道潅

 

太田道潅は、関東管領方、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老として、二十四歳の若さで江戸城を築城しました。乱世の関東を鎮撫する為の拠点として建てられた城は、地形や勢力図を考え尽くした立地に加えて、当時の常識を覆した、画期的で独創的な設計によって、後世まで守り伝えられる名城となりました。

城は皇居となり、江戸が現在の東京という大都市に発展しえたのも、道潅という偉大な開祖がいたからに他なりません。

また次のような記述もあった。

 

寛正六年(1465)道潅が上洛したとき、御土御門帝の勅使に武蔵野の風景を問われた時、道潅は次の和歌を献じた。

 

露をかぬかたもありけり夕立の 

そらよりひろきむさしのの原

 

  わが庵は松ばらつづき海ちかく

ふじの高根を軒端にぞ見る

  

としふれど我まだしらぬ都鳥

     すみだがはらに宿はあれども

 

これら三首の歌について調べて見ると、道潅が教養の持ち主だったと分かる。

一首目の「露をかぬ」とは、雨粒を置かない、つまり雨が降っていない。すなわち夕立が降っても、その降っている空より広くて雨の降っていない原が武蔵野にはあります。こう云って当時は田舎であった関東の広々とした風景を歌で説明した。

 

二首目は、文句なく関東の雄大で美しい風景を自慢げに語ったものである。この歌は確かに良い歌だと思う。先の由緒書きにも、明治神宮名誉宮司従二位甘露寺受長の書が載っている。

 

三首目は道潅も一寸遠慮して、自分が都を知らない関東の田舎武士だが、隅田川周辺も住むに適した処ですと、言っているのだろう。「都鳥」と言えば『古今和歌集』にある在原業平の有名な歌がある。

 

名にしおはばいざ言(こと)問(と)はむ都鳥

我が思ふ人はありやなしやと

 

この歌は業平がはるばると都を離れて関東の隅田川まで来て、都がたいそう恋しく思われたちょうどその時、白い鳥で嘴と脚が赤いのが河辺で遊んでいた。業平は船の船頭に尋ねたら「都鳥」と答えたので、この歌を詠んだのである。歌の意味は、「都という名を持っているのなら、都のことを知っているだろうから訊くのだが、都鳥よ、我が恋い慕う人は今都で無事に過ごしているかどうか」

 

なお、「都鳥」は「ユリカモメ」だと探鳥を趣味としている萩高時代の教え子が教えて呉れた。問題は道潅が彼の歌の中に隅田川と都鳥を詠み込んでいるから、彼は当然『古今和歌集』を読んでこの業平の歌も当然知っていたと思われる。

 

最後に私は山田風太郎の『人間臨終図鑑』を読んで道潅の最後の様子を知った。道潅はパンフレットにも書いてあるように関東管領扇谷(おうぎがやつ)の参謀として戦にも長けた名将だった。だから管領は道潅を目の上の瘤としていた。そして遂に道潅を自邸に招き浴室で刺殺した。道潅は絶命する前にこんな歌を口ずさんだと云われている。

 

「きのうまで、まくめうしうを、いれおきし、へなむしぶくろ、いまやぶれけむ」

 

まくめうしうは、「莫妄想」、へなむしぶくろは「へまむしぶくろ」、この場合、煩悩を包んだ肉体、と云う意味であろう。と山田氏は書いてある。

このように悲惨とも云える最後であったが、彼はその時五十四歳であった。死に際して口ずさんだ歌を見ると、彼は文武に秀でていて、なおかつ人生に達観した、実に立派な日本人だった思われる。このような死に方をしたが、今にいたるまで子孫が面々と続き繁栄していることは、以て瞑すべきことであろう。

                     2021・4・4 記す

閑日随感  

                     

荷風の『断腸亭日乗』を読むと、簡潔で実に上手い文章が目につく。とてもこのような名文は書けないが、真似して筆を執ってみる、と言っても実際はパソコンのキーを叩くのである。

 

 昨日二時五十分の新幹線で家内は神戸へ向かった。家内にとっては愛娘(まなむすめ)の如き姉の長女からの招きに応じて出掛けたのである。新山口駅まで車で送った。それから大袈裟に言えば数日間の独居である。自由な一人身の生活が楽しめればと、半ば解放感。

 

 七月十六日。 昨夜九時半に床に就く。「カントの時計」の如く正確ではないが、最近は一時から三時の間によく目が覚める。今日は丁度三時であった。トイレに行ってまたベッドに横臥したが、眠れそうにないので、読みかけていた渡部昇一の『知的余生の方法』(新潮新書)を読むことにする。彼は『知的生活の方法』というよく売れた本を書いて三十四年経ったいま、丁度八十歳でこの本を書いたとある。

 

「知的余生のための肉体について」という小項目で、彼はこれまで九十五歳まで生きようと提唱してきた。その為には「肉体的基盤」が必要であると言い、一例として漢字学者白川静氏との対談で「先生は毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩する事が「健康の秘訣」だとおっしゃった」と書いている。

 

 このように提唱した渡部氏であるが、昨年だったか転んで肋骨を折り、それが原因で体調を崩し、今年八十七歳で急逝した。さぞかし残念だったと思う。やはり人間は天命に任す以外にはないようだ。

 

 この文庫本を読み終えたら時計の針は四時半を指していた。今更寝るわけにはいかないのでまた階下に降りて、気持ちをすっきりさせようと思い、風呂場でシャワーを浴びた。

 二階は寝室兼書斎である。渡部氏も書いているが

「夫婦生活にとって重要になってくるのは、年を重ねれば重ねるほど、夫婦それぞれの空間が必要になってくる。そのために、なるべくなら広い家に住む。そして、顔を合わせる機会を少なくする。その方が、お互いに不平、不満が少なく、またそれを聞かずにすむ。より快適に生活できると思う。」

 

我が家も早寝早起きの自分と、全く逆の宵張りの家内とでは生活のリズムが違うので、階上と階下と、各自別の部屋を常の居場所にしてすでに数年経っている。

 

さて、身体を洗ってすっきりしたので、机に向かうことにした。私は坐り机の方が落ち着くので、いつものように座布団の上に腰を下ろした。そして森鴎外の『北條霞亭』と注釈書の二冊を机上に置き読み始めた。今現在、鴎外のこの伝記を読む人は恐らく非常に少ないと思う。私は彼の書いた名作『渋江抽斎』は数回読んだ。続いて『伊澤蘭軒』を読もうとしたが、難しい上にどうも面白くないので途中で止めていた。しかし数年後改めて意を決して何とか読み終えた。鴎外の伝記三部作で残るのは『北條霞亭』だけである。今年六月二日にこの伝記を読み始めてすでに一月半になる。まことに遅々として進まずであるが、とにかく今度こそは読み終えよう。識者の中には此の作品を最高傑作と言っているのもいるから。今日読んだ個所に華岡青洲の事が載っていた。

紀州華岡の事などくわしく申来候。春秋病人夥敷集り候節治療を見候ヘば益有之候由,當今の華陀神醫なるよし」

注釈書にこうある。

「華陀 三国の魏の名医。養生の術に暁り、方薬に精しく医術を以って著わる。曹操が頭痛に苦しみ、陀を召して針せしめたところ、手に随って快癒した。のち召せども至らぬため操の害するところとなる。(「後漢書」方術伝)

華岡青洲と言えば有吉佐和子の小説で有名で、その映画『華岡青洲の妻』を思い出す。

注釈書を参考にしながら十頁ばかり読む。六時になったので降りて洗濯ものを洗濯機に入れて作動する。それから先ず神棚の「さかき」の水を替えて拝み、次に仏壇の花の水を替える。見ると先日供えた「桔梗」の紫の花だけが少し傷んでいたので庭に出て同じ紫色の一枝を剪って挿し替える。白い花の中にあって一本だけの紫色は目立って美しい。

 

その後、今度は玄関の戸を開けて瓦敷きの「たたき」で何時ものように、我流の体操をし、庭に下りてそこに安置してある石地蔵に向かって手を合わす。こうした神仏への祈りは私の朝夕の習慣的行為である。

 

さて、実は先日来運動不足を感じていたので、今朝はそれこそ一人身、勝手な時間が有るので、また先に読んだ白川博士の事を思い出して、近くにある「土師(はじ)八幡宮」の参拝を兼ねて、すこし散歩を試みることにした。

 

六時半に家を出た。五百メートルばかり行くと、神社の入り口にさしかかる。路のすぐ側の鳥居を潜ると、そこからは坂道で石段が続いている。数えながら石段を登ったら百歩で石段は尽き、そこからはごく緩やかな勾配の道を百五十歩で神社正面に達した。神域は杉の木に囲まれた丘陵地でまことに静寂。鶯が一声啼いた。頂上にこじんまりとしたお社がある。しかしこの神社はこのあたりの氏神で、季節ごとの祭礼には参詣者は少なくない。

 

反対側にある裏の参道を降りて廻り道で帰路につくことにした。往きも帰りも殆ど人影を見ない。途中ついこの間まで田圃だったところが、宅地造成されていたのには驚いた。山口市でもまだ住宅の需要があるのだろう。聞くところによれば、数十年前に出来た住宅地は段々と空き家が増えていると言う。しかしこうした市の中心部から少し離れた所には結構新しい家が建てられている。だがこうして建てられた家もやがて子供が独立したら、同じ憂き目を見るだろう。つまり子育てを済ませ、定年退職した人たちの老後の住処となるのは目に見えている。地方創生の謳い文句は良いがわが国の前途はどうも明るくない。

 

我が家のすぐ近く、歩いて一分のところにスーパーが出来たのは有難かった。一寸立ち寄って納豆、豆腐、ヤクルトの三品を仕入れて来た。こうして我が家に着いたのは七時十分、朝の新鮮な大気の中の散歩は、久しぶりに気分爽快であった。

帰りついて、猫の額程の菜園だが、胡瓜とトマトがよく出来ているので、胡瓜三本取って路を隔てた向かいのアパートの奥さんに差し上げたら、「この前は美味しかったです」と言って喜んで受け取って貰えた。丁度洗濯ものが出来上がっていたので、座敷の縁側に乾した。こうしてひと汗かいたのでもう一度シャワーを浴び、一人食卓についた。

 

断腸亭日乗』 大正十二年に、荷風は次のように記している。

 

七月十六日 雨やまず、書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。

七月十七日 曇りて蒸暑し、終日伊澤蘭軒の伝を読む。晩食の後丸の内の劇場に往き女優と談笑す。帰宅の後再び蘭軒の伝を読み暁三時に至る。雨中早くも鶏鳴を聴く。

七月十八日 今日も終日蘭軒の伝を読む。

 

 流石に名文だと思う。

                    平成二十九年七月十六日 記

                            

日随感

 今日も朝早く三時に目が覚める。トイレに行き安楽椅子に腰をおろして昨夜から読み続きの『パスカルのパンセ抄』(飛鳥新書)を手にとってみる。肯綮に中る寸鉄人を殺すような文句が幾らでも出てくる。一例をあげると、

 

人から、あの人は数学者であるとか説教家であるとか雄弁家であるとか言われるようではいけない。むしろ、あの人はオネットム(まっとうな人間)と言われるようでなければならない。わたしが欲しいと思うには、この普遍的な美質だけだ。もし、ある人を見て、その人の著作を思いだすようでは、それは悪い徴候である。(断章35)

 

まっとうな人間になるのは難しい。こんなのを「素心の人」とでも云うのだろうか。あるいは、「無位の真人」とでもいうのだろうか。もう一例あげて見よう。

 

好奇心とは、じつは虚栄心にほかならない。たいていの場合、人が何かを知りたいと思うのは、あとでそのことを誰かに話したいと感じているからなのだ。さもなければ、人は航海などしないだろう。もし、それについて何も話さず、ただ見るという楽しみだけで満足し、そのことを人に伝えるという希望がまったくないのだったとしたら。(断章151)  

 

 痛い処を突かれた感じだ。

 

 一時間ばかり読み、すこし眠気が生じたので消灯してベッドに臥す。再度目覚めて時計をみると丁度六時。洗顔の後机について何時ものように『北條霞亭』を七時まで読む。「楠公墓は摂津國武庫郡坂本村(今神戸市)」とあった。霞亭が神邊(今福山市)から故郷の伊勢に帰省したのは安政四年二月のことである。途中楠公の墓に詣でたのであろう。試みに年表を見ると、私の曽祖父は安政五年(1822)に生まれている。

 

 今日は讀書が捗らない。階下して神仏を拝む。仏前の香炉に線香の残滓がたまったので灰をきれいにしようと思う。先ず灰を金網の器に移して線香の残滓だけ捨て、今度は普通の容器に入れ替えて少量の水を注ぐ。水を注ぎ過ぎるとベトベトになり、灰を足さなければならなくなる。少なすぎてもいけない。丁度適量の僅かの水を入れて混ぜ、再び金網の器でよく濾して香炉に入れるのである。たったこれだけの事でも神経を使う。

 もう三十年以上前になるが、父が正月の初釜の茶事に際し、炉の灰を取り出して霧吹きで適当に湿らしていたのを思い出す。今から思うとかなり気を使って行っていたのだろう。 

 

またいつものように、玄関を出て軽く体操をし、庭の地蔵様を拝む。胡瓜の成育が早い。今日もまた大きいのが三本ぶら下がっていた。これをもぎ取り隣の奥さんにあげることにした。「この前頂いたのは美味しかったです」と言われたので、貰って頂き嬉しかった。この隣人の家と我が家の間にちょっとした広場がある。子供たちの遊び場になっていて、ボールがよく我が家の庭に入る。そのたびに玄関のベルを鳴らして「ボールが中に入ったので取っていいでしょうか」と言う。

 

近所の子供の躾は実に良い。中にはまたベルを鳴らして「有りました。有難うございました」と云うのもいる。近頃中国籍の艦船がわが国の排他的水域内に侵入し、傍若無人の振る舞いを恣にしていることを思い出す。

 

ところで、ふと見るとこの遊び場に青草が一面に繁っている。これまでは見てもそのままにしていたが、今日は子供たちのためにもと思い、除草をする気になった。家内は今日四時に帰ると電話したので、どうせ朝食は一人。食事は一仕事した後にしようと思い、手袋をはめて草取りに取りかかった。思ったより草の根が地面にしっかりと張っているので、容易に抜けないいので、引き返して鍬を持って来て除草を再開した。こうしてもなかなか「やねこい」雑草である。三十分ばかり汗を流した後、一まず止めることにした。全体の五分の一程度の除草だ。また、明朝でもやることにする。ふと見る数匹の蚊が両脛にとまっている。叩いたら血がにじんだ。痩せた脛から血を吸うのに苦労しただろうと苦笑い。私は若い時夏ミカン畑で蚊や蚋と戦ったので免疫が出来ているのか殆ど影響を受けない。全く痒くも痛くもない。

 

家に入り直ぐシャワーで汗を流した。其の後食事にしたが、当分の間じわじわと汗がふき出た。食後新聞を見ると日野原重明氏が105歳で亡くなられた記事が載っていた。氏の講演を一度山口で聴いた事があるが、其時は100歳前だったと思う。非常に元気で数年後のスケジュールまで詰まって居る。来年はジョン万次郎の記念祭とかでアメリカへ行くとか何とか云って居られた。新聞には山口市出身とあったが、たしか萩市出身だったと思う。女優の田中絹代下関市出身と言われているが、聞くところによると幼い時に萩から下関に連れて行かれたそうだ。当時の事を知っているという老人がそう話したと、また聞きした覚えがある。こんなことは別に大したことではないが事実は案外伝わらないものだ。

 

                    平成二十九年七月十九日 記

               

冬日偶感

 

二月も半ばになるというのに、荊妻は先月末からの風邪が完治しないので、代わりに行って呉れないかという。何処へ行くかといえば鍼灸院である。毎月第二火曜日に予約してあるから突然休むのは悪いと云う。私は以前両腕が突然上がらなくなったので鍼を打って貰ったことがある。結果が良かったので、あの時を思い出し、お安い御用だと云って早速出かけた。

 

事情を話すと何のわだかまりもなく、ベッドに仰向けの姿勢を取るように言われた。初めて会って一年以上になるが、先生はあの時の感じそのままであった。まさしく童顔そのもの、とてもこの鍼灸の技を長く施して来たようには見えないが、十年以上になると云う。この道にも毎年学会が開かれるので努めて参加し、新知識を習得すると云う研究熱心で、その為に結婚しても子供は作らないと奥さんに云ったと云うから半端ではない。したがって信頼に足る鍼灸士で評判がいい。

 

仰向けになって首筋から足先まで鍼と灸を、同じように今度はうつ伏になって施術してもらった。先生は何時もにこやかな笑顔を絶やさず、それに加えて実によくしゃべる人でもある。別に気にはならないし、聞いて居て役立つ事もある。たとえば、「わたしは開業以来一度も風邪を引いた事がありません。寒気(さむけ)がして身体がぞくぞくすると感じたら、肩甲骨と肩甲骨の間にカイロを貼ります。それから毎日「明治のR-1」を飲みます。市販のヤクルト、あれは殆ど効果がありません。直接家庭に配達される方ならまだ良いです。しかしこれはガンに効くと言われていて風邪の予防にはなりません。風邪の菌は熱に弱いので身体を暖かく保つのが肝心です。お医者で注射してもらってもそれは対処療法に過ぎなく根本的治療とは言えません」と、いささか我田引水的な話もする。

 

治療を終え、帰りに早速「明治R-1」をコープで買って帰った。

久しぶりに鍼灸を施行してもらって何だか気分が良い。私はこんな時、何気なくパソコンを開いて、何年前の今日はどうだったかと思って画面を見る事がある。パソコンにはその時その時撮った写真が何千枚と収録されてある。デジカメのお陰で、膨大な量の写真のみならず文書が収蔵出来て便利な世の中になったものだとつくづく思う。被写体としてはやはり孫が一番多い。生まれて後、我が家に来るたびにその成長の姿をカメラに撮ったからである。

 

さて、今日と同じ二月十三日に撮ったものはなかろうかとパソコンを見てみると、六年前の丁度同じ日のハワイの風景が出て来た。

 

時の経つのは早い。あれは家内の弟の長男が結婚式をハワイの教会ですると云うので、ハワイ観光も兼ねて出掛けたのである。たった六年前であるが、もう海外旅行はとても出来ないと家内は云うし、私も同様な気持ちである。

 

年を取ると歳月の流れは確かに早く感じられる。そして身体の老化、気力の減退を痛感する。僅か六年前であるが、あのときは未だ元気だった。収録してある写真を繰っていると、巨木の下で男女の児童が遊びに興じているのが目に入った。樹齢数百年、樹幹が三抱えも四抱えもある大きな樹、それに太くて長い枝が四方八方に伸び、鬱蒼と緑葉が茂り、それはさながら巨大な濃緑の傘の様である。それも柄が太くて短い巨大な笠で、燦々さんたる陽光を浴びて広々とした平地に点在しているから見事である。テレビで「この木何の木」と言って放映されたものに違いない。

 

自然の雄大な風景は眼を楽しませてくれる。この一本の巨木の木陰で、先に述べたように、可愛い兄妹の遊び戯れる情景を思い出した。この楽しい風景写真を二人の女性に転送してみた。早速返事が来た。それは対照的な返信だったので、一つの物事に対して人様ざまに心は動くものだと思い面白く感じた。

一人は次の様に書いている。

 

ハワイにこの様な広々とした、緑豊かな散策の場所があるのですね。感動いたしました。可愛い子供の姿もあり、何か映画のシーンを見ている様な素敵な映像でございますね。

最近先生からお送り頂きましたお写真を携帯電話の待受画面にも入れさせて頂き、毎日とても楽しみが増えました。(後略)

 

もう一人の所感は、

 

 ワイの巨木、素晴らしいですね。木の下で手を取り合って遊んでいる子供達の穏やかな雰囲気と相まって、手を拡げた様な枝と緑の葉との調和が見事です。地面に描く影が一層形態を引き締めていると思います。芸術的作品だと感心しています。

 

 さすがにこの女性は絵心があるのでこう言った表現だが、ここまでは両者ほぼ似たような感想だと思う。後者の言葉はさらに続く。

 

 我々も17年前、ハワイ旅行をした時の写真を取り出し、懐かしみました。夕陽の沈む海、船からのホエールウヲチング、フラの鑑賞、コナコーヒ農園での買い物、ホテルでの数々等、思い出に浸りました。二人共若かったです。写真を見ると海外旅行に20数回出掛けています。楽しい人生でした。有難い事です。これからも、楽しい毎日を送りたいと思います。

 

 送った写真から、却って自分たち夫婦の楽しかった思い出を聞かされた感じで、折角のこちらの気持ちが何だか薄らいだように思えた。こうした反応は特に女性にはよくあることで、「私もそれを見たよ。そこへは行ったこともあるわよ」と口にする人によく出会う。男性にしても同じかもしれない。これは別に悪気ではないが多くの人にありがちな、自分でも気が付かない「見せびらかし」とでもいう、一種の自己顕示欲、あるいは負けず嫌いの現れの様な気がしないでもない。

 

十七年前と云っても、彼女は当時すでにかなりの年齢。今なお健在だから驚くが、この気持ちの若さが元気、健康の基かも知れないとも思った。

 

世の中には生まれた地で育ち、結婚しそしてその地で死を迎える人もいる。彼是十年ばかり前のことであるが、医者であった伯父の事を調べるために、日本海岸の宇田郷村(現在の山口県阿武郡宇田)へ行った時、二人の老婆に出会った。彼女たちは野良仕事を終えて帰る途中だった。一人がこう云った。

 

「私はのんた、小学校のとき、草刈り鎌で薬指を切って、緒方先生に指を縫うてもらいましたいの。痛くて涙がでましたが、先生が痛くても泣くなよ、治ったら金魚を買ってやるから、と言われましたいの。先生は大柄の人で優しい立派な御方でした。私はそれから小学校だけは出ましたが、ここの村の者と結婚しまして今八十を過ぎました。主人は戦争で死にましたが、私はこれまで一度も村の外へ出たことがございません。」

 

こうした生涯を送る者もおる。海外旅行を二十数回したという女性とは何と運命の違いかと思わずにはおれない。

 

先に感想文を紹介した方の女性は、私より丁度二十歳若い。彼女の母親は若くして離婚、彼女と姉娘を女手一人で育て、姉の方は結婚して別居、妹の彼女の方が結婚後も母親の面倒を見ていた。彼女の主人が定年前に亡くなったので母と幼い娘を連れて広島から山口に移って暮らし始めた。そのうち母親が病気になり、病院を転々と変わりながら入院を続け、その間彼女は毎日介護に当たっていた。入院生活は数年に及んだが、一日として介護を欠かしたことがないという。実に親孝行な人だと感心している。そうして数年前に母は八十四歳で息を引き取った。彼女は恐らく海外旅行の機会はあったにしても乏しかったであろう。

 何故こうしたことを詳述したかというと、人生には不思議な縁があると感じるからである。

 実はこの母親は私が故郷の萩にいたとき、小学校へ上がる前、よく遊んでくれていた。我が家のまん前に彼女の家があって、私たちはしばしば往ったり来たりして遊んでいたのである。小学校に入ると「男女七歳にして席を同じうせず」の訓を守り、殆ど見かけることもなく、言葉を交わさなくなった。もっとも彼女は私より四歳ばかり上だった点もある。

 

 ところが私が就職して宇部にいた時偶然出会った。それからまた何年かたって広島で再会した。その時、先に述べたような事、つまり娘さんの主人の亡くなる前だったと思う。そのため娘さんの主人が勤務していた銀行の社宅を立ち退かなければならず、彼女一家は山口に居を移したので、我々はまた昔の交際を再会した様な次第である。彼女にはすでに結婚して子供もいる長男夫婦がいるが、随分と年が離れて出来た娘さんがいて、この女の子は大学受験を目の前にして頑張っている。塾に通うゆとりもないが国立大学を目指している様だから、私としては陰ながら健闘を祈っている。

 以上の様ようないきさつで、同じ一枚の写真を見ても、この二人の女性の場合、それまでの環境や体験から、受け取り方は対蹠的だと言える。

 

 最後にもう少し別の面から一つの事に対しての人間の対処の仕方を見てみよう。

 私は正月以来森鴎外に関する本を読むことにして居る。これは高橋義孝氏の論評である。

 題名は『ヴィタとプシヒェ、或は鴎外と漱石』である。

 

 森鴎外夏目漱石とに共通であったものがたった一つある、クサンチッペである。それ以外の点では、両家は全く対蹠的であった。

 

 書き出しが人の意表を突いて面白い。クサンチッペとは悪妻で有名なソクラテスの妻である。私が取りあげて見ようと思うのは、鴎外と漱石の博士問題に関する態度である。高橋氏はこう書いている。少し長いが引用してみる。

 

 執中興が深いのは、博士號授受の問題である。明治四十一年七月五日、鷗外は日記にこう誌してゐる。「新聞紙予文學博士たるべしと傳ふ。井上通泰賀状を寄す。」翌六日にはかうある。「博士會の書記瀬戸虎記といふもの族籍位階勲等功級を問ひおこす。直ちに答へ遣る。」さて我々はこの「直ちに」に注意しなければならぬ。なぜなら戸籍抄本めいた鷗外の日記文章の中では、一箇の「直ちに」は決してありふれた「直ちに」ではないからである。そこには殆ど「待ってゐた」といわぬばかりの気配が感ぜられる。鴎外はこの三文字に「平素実力を養って置いて、折もあったら立身出世をしようといふ志」の傳ってゐた森家の子であることをはっきりと証拠立ててゐる。漱石の博士號拒絶にも、一種の「待ってゐた」の気配がある。

 

 なぜなら漱石は、まだ博士になるともならぬとも解らぬうちから、英国留学中の一書簡にかういふことを書いている。「先達御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった博士になるとはだれが申した博士なんかは馬鹿々々敷博士なんかを難有る様ではだめだ御前はおれの女房だから其位な見識は持って居らなくてはいけないよ。」(中略)

「先達晩翠が年始状をよこしてまだ教授にならんか云ふから『人間も教授や博士を名誉と思ふ様では駄目だね。(中略)漱石は乞食になっても漱石だ・・・』(明治三十九年)、「百年の後の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし。余は吾文を以って百代の後に傳へんと欲する野心家なり。」(明治三十九年)又、『虞美人艸』には、「―人の娘は玩具ぢやないぜ。博士の称號と小夜と引替にされて堪るものか。考えてみるがいい。如何なる貧乏人の娘でも活物だよ。私から云ヘば大事な娘だ。人一人殺して博士になる気かと小野に聞いてくれ。」とある。いづれ漱石に博士問題の起こった明治四十四年以前の言葉であるから、漱石がどれほど博士號授与を待ち構ヘてゐたか―鴎外とは正反対の意味で待ち焦れてゐたかが解る。文部省の學位記を受けた彼は、心中に「待ってゐた」と叫んだに相違ない。これは鴎外と同断であったであらう。ただその後表裏相反するのである。公人と私人と、それぞれ面目躍如たるものがある。

 

 長々と引用したが、一つの事実を表面的に見るだけではなく、その深層にまで探求の眼光を照らす事はなかなか容易ではない。高橋氏の見解も一つの見方として面白い。

 今、アメリカでは新大統領トランプが登場し、政治評論家がさまざまな予想を立て、臆惻を恣(ほしいまま)にしている感がある。視聴者としてはいずれを選ぶか難しい時代になった。

 

                       2017年2月16日

如何に生きるか

今月二日の朝六時頃、長男から電話がかかり、彼の妻の父親が病院で急死されたとのことだった。父親は半月前から心臓疾患で入院治療中だったが、そろそろ自宅療養に切り換えるくらいに快方に向かって居られたそうである。それが突然亡くなられたとのことで、今コロナの感染で家族は病院へ見舞いに行けない状態だから、本人も家族も、特にご夫人はさぞかし心残りであったと思われる。

 

故人は長い間教職に就いていて、最後は山口市内の小学校の校長を歴任されていた。元来山口市から島根県の津和野町へ向かう途中にある徳佐という町の出身で、そこに彼の生家もあり田畑もあって、毎週老夫婦が車を運転して農作業に行っておられ、時々薩摩芋や山芋が出来たと言いってわざわざ持参されていた。

 

実に誠実な人物で、どちらかというと寡黙であった。葬儀の時故人の長男の挨拶で知ったのだが、県内の小学校を転々として、その為に八回も転居したとか。囲碁が趣味で日本棋院の五段か六段の腕前だったようである。退職後蛍の繁殖などにも係わられたことがあり、また写真の趣味もあったが、自分を撮した写真がないので、葬儀場に飾ってあったのは随分若い校長時代のものを持ってきたとのことであった。

 

故人は昭和十二年三月生まれだから私より五歳年下である。しかし満年齢が八十四歳だから、男性の平均年齢を過ぎている。先日もテレビで報じていたが、女性は八十七歳で世界一、男性は八十一歳で世界第二位だとか。長寿国が果たしてそのまま喜ばしきことかどうかは考えものである。病院で寝た切りでほとんど自意識もない老人も多くその中に含まれているだろうから。

 

それにしても近年急に身内の者の死が重なった。特に妻が亡くなってまだ二年を少し過ぎただけのこの短い間に、彼女の弟や叔父をはじめとして私の親戚や友人など七人にも達する。哀しくも淋しい事である。人生の無常迅速なることを痛感する。

 

葬儀に参列して思うのだが、今では完全に葬儀関係の業者が萬事行ってくれるのは良いが、かなりの出費を要する。今回の葬儀への参列者はコロナの関係で、家族の者と我々親族の僅か七人であったが、スタッフは確か八人もいた。昔は近所の者が集まって世話をしていた。故人をよく知っている人々による感謝を込めた奉仕だったが、今は故人とは何の関係もない業者による完全なビジネスである。

 

昭和二十年と言えばもう七十五年の昔になる。この終戦の年九月に、田舎の医者であった私の伯父が、その時流行っていた伝染病の病人を隔離していた病舎へ往診に行った時、その場で急逝した。私はその葬儀には参列しなかったが、隣の町にある火葬場へと遺体を大八車に載せて去り行くのを、ほとんど全ての村人が村境まで見送っていた。その時私も葬送の人たちの中にいた。この後父が私に向かって、「緒方の義兄(にい)様(さま)が如何に村人に慕われていたかと言うことが良く分かった。義兄様は本当に立派な人だった、俺は本当に感銘を受けた。」と述懐したのを覚えている。

 

こうした心のこもった状景こそ、本当に死者を弔う態度のような気がする。私の父が亡くなったのは昭和五十七年であったが、その時も知人や近所の人が多く来て色々と手助けして下さった。確かに今は何もかもが便利で一見スムーズに行われているが、そこに果たして人間の情というものが入っているだろうか。その内介護も看護もさらに死体の処置までロボットがするようになるのではなかろうか。ロボット工学の進展には目覚ましいものがある。近いうちにマイカーは完全に自動運転になって、乗っているだけで目的地に安全に連れて行って呉れるようになるとか。物資の配達などもドローンによって為されるかも知れない。戦後新幹線のお蔭で旅行は非常に便利になった。その昔の「東海道膝栗毛」などといった旅の道中での旅情の楽しみは消え失せた。

 

芭蕉の『奥の細道』といった旅の良さを味わう人はほとんどいなくなった。便利さに慣れれば最早昔の人情味のある良き面は取り戻せない。人間には理智と情感の二つの面がある。それがバランス良く保たれたのが生きる上で一番良いように私は思う。

 

情感には自然との繋がりが多分に考えられる。維新前アメリカを初めとした欧米諸国が開国を迫り、我が国はこうした国々の実情を知って、東洋の中でも一番早く攘夷から開国へと国策を切り換えて、欧米の科学知識や制度の導入を決めた。そのために多数の学者や技術者を非常な高額で迎え入れ、彼等から教えを受けた最優秀な弟子達が欧米に出かけて現地で勉強して帰り、新しい日本の建設に貢献した。そのお蔭で我が国は遅ればせながら開化したのである。しかしこうして外見的には開化して独立国としての体裁を保ったが、漱石に言わせたら「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である。内発的とは内から自然に出て発展するという意味で丁度花が開くようにおのずから蕾が破れて花瓣が外に向かうのを言い、外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指す」といった事を述べている。

 

漱石の云う通りかも知れないが、こうして日本は明治の初頭に東洋では最初に急に目覚めて進歩発展してきた。そして日清日露の戦いに勝利し、更に太平洋戦争へと歩んできたが、ここで戦いに負けた。だが今一度立ち直って科学立国として今日に至った。この先どうなるか予断を許さない。

 

私は全くの理系音痴だから勝手な事を思うが、人間の一生は長くても精々百年。この間を如何に過ごすか、これは大きな問題である。しかし多くの人は老齢に達すると、唯漫然と日を送り年を過ごして、気がついたときには死が目の前に迫って居る。先にも云ったように、是からは人間に代わってロボットが大いに活躍するだろう。たしかにロボットは計算はもとより、人間に代わって多くの事が出来ても、『万葉集』や『古今和歌集』などの詩をはじめとして、数多くの文学作品などの鑑賞、あるいは美しい自然を楽しむのに、ロボットの手を借りるということは到底無理だろう。

 

世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり

大伴旅人

春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下(した)照(で)る道に出で立つ少女(おとめ)        大伴家持

明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日(けふ)は人こそ悲しかりけれ

紀貫之

 

世の人、相会ふ時、暫くも黙止(もだ)する事なし。必ず、言葉あり。その事を聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説(ふせつ)、人の是非、自他の為に、失多く、得少し。これを語る時、互いの心に、無益の事なりといふ事を知らず。     (『徒然草』第百六十四段)

 

文章というものは、読む人の年齢や境遇、立場で心に響く度合いが異なる。次の有名な文章を今改めて読んで感慨一入である。

 

生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、猶、定まれる序(つい)で有り。死期(しご)は、序でを待たず。死は前よりしも来たらず、予(かね)て、後ろに迫れり。人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急なざるに、覚えずして来る。沖の干潟、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。              (『徒然草』第百五十五段)

 

こういった詩や文をロボットに代わって鑑賞して貰うわけにはいかない。やはり自分で味わう以外に方法はない。その為には常日頃からこういった歌に慣れ親しむことが大事である。理科系一辺倒ではなく情感を養うことも大事だと思う。戦後の教育はとかく理数系の科目を重んじた。勿論これは非常に大事だが、人間としての思いやりや責任感、さらに愛する者の為に身命を捧げるといったことは、やはり文学的な科目を通してのみ学ぶ事が出来る。マルクス主義的左翼思想や極端な市場第一主義が戦後喧伝されてきた。その為に金儲けが何より大事とばかり利己的に成り、他者を思うといった本当の意味での人間の美しい生き方を家庭でも学校でもじっくり教えなくなった。世界の全ての国々がもっとこうした真の人間性に目覚めたらこの世界は平和になると思う。

 

私は一人になって、歌や文章に表わされた日本人の心を、すこしでも知る事が出来たらと、最近つくづく思うようになった。その為に遅ればせながら唐木順三氏の『日本人の心の歴史』という優れた研究論攷を読むことにした。お蔭で知らない事を多く教えられた。毎朝五時前後に起きてこの本を午前中読んでいる。その間に朝の散歩に出かけるし、帰って食事をし、また掃除・洗濯などの家事をする。こうして何とか一人暮らしを無事に送れるのも、先祖や親戚や先生方、また多くの友人知人、中でも大学を中退してまで来てくれて、苦楽を共にした今は亡き妻のお蔭だと感謝している。

 

考えて見たらここまでよく生きた。自分でも不思議に思う。多くの友人知人は鬼籍に入った。たとえ百歳まで生き長らえたとしても後十年の命。そこまではとても無理だろう。せめて日々感謝しながら、残りの人生を送ることが出来たらと思う。

                     2021・8・6 記す 

             

 

   

寒日偶感

                

 正月末からの風邪はほぼ治った感じである。夜中に目が覚め時計を見ると二時過ぎ。階下のトイレへ行く。昨晩とろろ汁掛け飯を丼一杯食べた。水分を多く撮ったので夜中に目が覚めたのであろう。もう一休みと思い寝床に入る。

 

 またしばらくしてトイレへ行きたくなる。時計の針は四時半を指しているので思い切って起きる。昨日から読み始めた『青春の激情と挫折 森鴎外」』を開く。これは森鴎外評伝第一巻で、鷗外が陸軍軍医としてドイツへ留学した時の事が『独逸日記』を参考に書いてある。私はこの本をこれで四回読むことになる。筆者は吉野俊彦という元日銀の幹部職員で、彼は帰宅後日銀の業務関係の仕事を夜中まで行い、それから鷗外の研究に没頭するのが楽しみだと述べている。

 

そうして出来たのがこの本で、全部で六巻ある。鷗外が陸軍というサラリーマン生活の傍ら、帰宅後夜中に起きて執筆や翻訳に専念したことに共感し、同じような道を選んだと著者は云っている。彼は「愛敬」という言葉で鷗外を讃えている。

 

吉野氏はこの鷗外の評伝より前に『森鴎外私論・正続』二巻を昭和四十七年に発刊している。私はこれを従弟に頼んで東京の古本屋から手に入れた。そして早速読み始めたことを覚えている。「昭和五十五年一月七日夜十時読了 窓外寒し」と巻末に記している。また平成七年四月八日朝 再度読了」と並べて記している。

 

今回はこの『森鴎外私論』ではなくて、上記六巻を読むことにした。なぜこれを読む気になったかと云うと、私は吉野氏同様鷗外の生き方に共感を覚えるからである。しかし私の場合ただ読むだけである。本の内容については他日記す機会もあろう。

 

一時間ばかり読んで階下に降りて洗濯物を纏めて洗濯機に放り込みスイッチを入れる。それから食洗機の中の食器類を食器棚に片付ける。こうして気分転換の後、また机に向う。今度は昨日県立図書館で借りてきた五木寛之の『新老人の思想』という文庫本を読む。

 

後期高齢者世代には、三つの難関が待ちかまえている。

一つは病気である。八十歳になったら、八つの病気を持っていると覚悟すべきだといわれる。

二つ目は介護をうけるという問題だ。人はどこかで体が不自由になり、他人の介護を必要とするようになる。

三つ目は経済的保障である。年金があるから大丈夫だろう、と安心していいのだろうか。子供や孫がいるから心配しない、という甘えも通用するかどうか。

 

五木氏はこのようなことも書いている。彼は私と同年齢だから今は八十五歳。

 

私は現在八十一歳である。堂々たる老人だが、今後の道のりはきびしい。現在、八

十五歳以降の老人の三分の一ちかくが認知症になる傾向があるという。九十代ではおよそ六割、百歳だと九割以上が認知症になるそうだからおそろしい。つまり長寿の先は、とんでもない世界が待ち受けていることを覚悟しなければならないのである。

 

 私はこの本を読んで生きることの意味を改めて考えた。昔は人生五十年で五十歳を過ぎれば老人、七十歳はそれこそ古来稀の年齢だった。しかし今は違う。老老介護という言葉は無かった。延命治療、透析、人工呼吸、胃瘻などみな新しい言葉である。これを思うと如何に老後を過ごし、死を迎えるかは切実な問題である。

 

五木氏の云っていることに合点はしたが、少し読み飽きたので、久しぶりに硯箱をとりだし、墨を静かに擦りはじめた。実は先日の『毎日新聞』に李白の詩「峨眉山月歌」の書が載っていた。この詩は以前詩吟を少し習った時覚えたもので、それを思い出し、またこの詩を書いた書家の丹羽海鶴(1864-19311)の筆勢が見事だったので、色紙に書いて見ようと思った迄である。

 

眉山月半輪秋

影入平羗江水流

夜発清渓向三峡

思君不見下渝州

 

この詩は『唐詩選』にも載っている。「思君」の「君」は、表面は月をさしているけれども、何か作者の胸に忘れえぬ面影があったのではないか、と注にあるが、前途に夢を抱いた李白の旅立ち、長江を下るときの景況を述べた詩と云うことで、鷗外も若き日欧州への旅立ちにあたり、似た感慨を胸にしたのではなかろうか。

 

書き終えて階下に降り、硯と筆を洗い、硯箱に仕舞うと、朝食までの一仕事を終えた気持ちになる。家内は今日町内婦人会の仕事があるといって八時前に起きてきた。                       

                       平成二十九年二月八日記