yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

水温(ぬる)む

昨晩は入浴後直ぐに床に入った。今朝眼が醒めたのは五時半だった。九時前に寝たから八時間半も寝たことになる。朝早いので少し肌寒いので暖房を付けた。

先月の二十八日に読んでそのままにしていた中西進の『万葉集原論』(講談社学術文庫)を、また開いて読んでみた。良い本だと思うがやや難しい。しかし興味を惹かれる内容である。次の歌が載っていた。

 

信濃なる千曲の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ(14 三四〇〇)

 

私は良い歌だと思ったので土屋文明の『萬葉集私註 七』(筑摩書房)を書棚から出して同じ歌を見てみた。元の言葉は次の漢字の羅列である。振り仮名があっても普通の者には読めないだろう。

 

信濃奈流(シナヌナル) 知(チ)具(ク)麻(マ)能(ノ)河(ヵ)伯(ハ)能(ノ) 左射禮思母(サザレシモ) 伎禰之布美弖婆(キミシフミテバ) 多麻等比呂波牟(タマトヒロハム)

 

大意は「信濃にある、千曲川のさざれ石も、君が踏んだならば、玉として拾はう。」

これは男女の恋歌と考えられるが、同じ巻の三五四二に次の歌がある。

 

 さざれ石に駒を馳させて心傷みあがもふ妹が家の邊かも

 

大意は「さざれ石の上を、駒を馳せさせて、心いたましい如く、深く吾が思う妹が家のあたりであるかな。」

 

 競馬場に砂利を敷きつめたら、日本ダービーで優勝したあの史上初の白馬でも、さぞかし駆けるのに苦労するだろう。騎乗の者は心傷めるだろう。私はこれら二つの歌の中に詠われている「さざれ石」に国歌「君が代」を思い出した。戦前は小学校に入ったら式典では必ず「君が代」を斉唱させられたので、知らないうちに覚えのだが。ところが戦後日教組による反対運動で、今でもこの国歌が学校で歌われていないのではなかろうか。大相撲や国際的な競技で優勝した時だけ、これが演奏されるようでは何とも情けない。国歌や国旗が堂々と歌われ掲揚されない国は独立国とは言えない。

 

君が代」は戦時中軍国主義を鼓吹するものとして、戦後憂き目にあったが、本来は「君」とは自分の尊敬し、または愛する人を指して、その人が何時迄も長く生きてくれるようにと願う歌だと言われている。「さざれ石の巌となりて、苔の蒸すまで」とは途方も長い年月のことである。考えて見たら実によい歌で、愛する人が何時迄も生きて居てくれと願う素朴な歌のようである。それにしても右から左へと極端に変わった。

 

 千曲川の歌に関連して、以上のような事を知った後十時になったので、久し振りに今日は吉敷(よしき)川に沿って歩いて見ようと思って出かけた。遠くの山は緑一色である。しかし浅緑から濃き緑まで濃淡ははっきりしている。樹木の違いで葉の色がこのように違うのだろう。先月中旬に友人と島根県の津和野から益田迄車で移動したとき、車窓から遠くの山々が全山ほとんど真っ白に見えたところがあった。それは「こぶし」が咲いていたからである。「北国の春」を思いだした。我が家から遠望出来る山々でも、ところどころ白く見えた。その時から少し日が経つと、今度は薄紅色に変わって見えた。これは山桜の花が開いたことの結果である。

 

しかし現在は緑一色に染まっている。ただ濃淡があるから見る目を休ませて呉れる。緑一色に塗り潰されていたら異様に感じるだろう。我が家の居間から見える空き地の桜も葉桜になった。注意してみると葉の一枚一枚も同じでは無い。 

 

我が家を出て五百メートルも歩くと川縁に達する。私は石段ではなくて、すこし手前にある鐵で出来た粗末な梯子から草地に下りた。そこは川の直ぐ側の河川敷と言った場所である。雑草が伸びるので時々除草されている。今日はやや草が伸びていて踏んで歩くと靴が丁度草に埋まる程度で、ふかふかとして歩いて居て気持ちがよかった。

 

川の水は「水温む」といったように見えたが、手を水中に浸けたわけではない。見た目に何となくそのような感じがした。陽光に照らされた水がさらさらと流れゆく時、さざ波がきらきらと輝いて見えた。今が一年で一番良い気候かも知れない。秋空の如く澄み切ってはいないが、周囲は暖かい雰囲気に包まれている。

 

向こうに二羽の鴨が泳いでいたので、カメラに撮ろうと思って少し近づいたら、羽ばたいて川面を滑るように上流へと飛んでいった。別に危害を加えるのでは無いのに、こちらの気持ちが分からないのだろう。一寸残念な気がした。

 

少し川縁を歩いて行き、斜面を上って普通の道へ出た。そしていつものように六地蔵への散歩コースまでゆっくり歩いた。途中老夫婦に会っただけで外には誰にも会わずに帰宅した。家を出るときはやや寒いかと思って着ていたジャケットを脱いで手に持ったままで帰宅した。道端に見かける草花の多くが黄色と白色だったが、その名を知らない花ばかりである。丁度一時間の散歩であった。

 

 名も知らぬ道辺に咲きし草花は黄と白とが多く目に付く

  見られても見られなくても咲き出でてまた消え失せる野辺の草花

草花は咲きていつしか消え失せど人の命も儚きものか

水温み川の流れに浮かぶ鴨我近づけばさっと飛び立つ

 

2021・4・11 記す

   

昭和の一桁

今マスコミの最大の話題は、オリンピック組織委員会委員長の森氏の発言に関する事であろう。元総理であった森氏は、以前「神国日本」の発言で、マスコミに叩かれて総理の座を下ろされた。私が子供の頃は、2月11日は紀元節といって、学校では式典があって、授業はなく式が終われば家に帰った。紅白の餅を貰ったような事もあったように記憶している。式で歌った「紀元節」の歌詞は1番だけは良く覚えている。

 

雲に聳ゆる高千穂の

高嶺(たかね)下ろしに草も木も

靡(なび)き伏しけん大御世(おおみよ)を

仰ぐ今日こそ楽しけれ

 

漱石の『小品集』に「紀元節」というのがある。「先生が白墨を取って、黒板に記元節と大きく書いた。そして出ていった。」その後の文章が面白い。

 

すると、後から三番目の机の中程にゐた子供が、席を立って先生の洋卓(テーブル)の傍へ来て、先生の使った白墨を取って、塗板(ぬりばん)に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、其の傍へ新しく紀と肉太に書いた。外の子供は笑ひもせずに驚いて見てゐた。(中略)

記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日でも、それを思ひ出すと下等な心持ちがしてならない。さうして、あれが爺むさい福田先生でなくって、皆の怖がってゐた校長先生であればよかったと思わない事なはい。

 

小さい頃からの漱石の正義感と反骨精神が垣間見られて面白い。紀元節は1872年(明治5年)に祝日として設定されたから、漱石が小学校に入る直前の事である。彼は既に此の祝日を知っていたのは間違いない。

 

戦後自由民主主義の徹底に伴い天皇制は廃され、また神国日本と言った考えは完全に否定された。森氏に関しては、私はマスコミの喧伝は度を越しているように感じた。もしマスコミの伝えるように、彼がオリンピックの精神に反する女性蔑視とか、この大会を利用して金銭欲や権力の座に汲々としているのならば、潔く辞するべきだと思う。しかしマスコミの言うように彼がそんなに悪い人だとはどうしても思われない。顔を見ても悪そうには見えない。老体を国のために捧げ、最後の御奉公をしたいという彼の言葉は満更虚偽ではなかろう。

 

私は日本が神の国だとは思わないが、戦前と戦後で歴史観がこれほど変わるとは思いもよらなかった。歴史の真相を究めることは果たして可能だろうか。特に古代日本の歴史について。歴史書は概して時の権力者にとって都合のよいように書かれてあるといわれる。中国の歴史書はほとんどがそうだろう。

 

此の度梅原猛著『隠された十字架 ―法隆寺論』を読んで、法隆寺再建の謎を知る事が出来た。その前提となる聖徳太子蘇我一族との緊密な関係、さらに蘇我一族を倒し政権の座に就いた藤原氏、そしてその結果太子の息子の山背皇子並びに、彼の一家の惨殺。その為に藤原氏は太子一家の呪いの霊を祭るために法隆寺を再建したのだと知った。我々が小学・中学で教えられたのは、聖徳太子が仏教を広め、自らの信仰を深めるために建てたとのことだった。しかし今や再建論は疑う余地がないようである。

 

さらに私はこの本を読んで、法隆寺の東側に建っている夢殿が、それこそ太子の怨霊を封ずるために、太子の等身大の木像をつくり、白布で十重二十重(とえはたえ)に包んで、一千二百年もの長きにわたって、閉じ込めていたのだと知って、当時の人間がいかに怨霊を恐れていたか、人の心がいかに弱いものかと思った。明治17年にフェノロサが日本中央政府の許可を得て強引に夢殿の扉を開き、此の太子を模して作られたという救世(ぐぜ)観音の立像の木綿を取り除いたときの驚きは、想像を絶するものであったろう。これが聖徳太子の似姿だという事は、梅原氏のこの本によって一段と真相に近づいたと言える。しかし本当にそうだとはすべての学者が承認してはいないようである。結局本当の真実は確定されたとは言えない。

 

話がそれたが、森氏の本当の気持ちは誰にも分からない。本人自身その時の状況如何によって多少揺れ動くのではなかろうか。軽い気持ちで話した言葉を取り上げて、鬼の首でも取ったかのように、誹謗中傷、相手の人格まで貶(おとし)めるような事を、今のマスコミは平気で行っている。どう考えても品がない。 他人の気持ちを忖度する事は別に悪いことではないが邪推はよくない。森氏は83歳とのことだが、今昭和の一桁で一番若い人は87歳である。彼はそれに近い年齢である。政治家や実業家というものは、死ぬまで何らかのしがらみや欲望から免れないのか。考えて見たら気の毒だ。先日もコロナの中にあって、ソフトバンクが3兆円の純利益を上げたという。孫社長はこれでは決して満足しないと嘯(うそぶ)いて居た。金を持って人間は死ねない。彼は死に臨んだらどうするのだろうか。社会福祉に貢献したら立派だ。貧乏老人の私はいらぬ心配をする。

 

先日天気が良いので自転車に乗って出かけた。目指すは山口大学の側にある文栄堂書店である。市内では岩波書店出版の本はこの書店でしか販売していない。岩波文庫でも見てみようと思って自転車を漕いだが、途中下を列車が通る橋の処に来た時、歩行道路の拡幅工事をしていて交通止めになっていた。私は自転車を降りて車道の出来るだけ歩道よりを恐る恐る歩いた。直ぐ側を車が何台も通過した。我が家から書店まで往復1里以上はあるので結構くたびれた。もうこのような遠乗りはすまいと思った。年寄りの冷や水だから。

 

書店に行ったついでにと思って、私は近くに住んでいる宇部高校時代の同僚を訪ねた。彼は留守だった。同じ宇部高校で同僚だった人物が山口市内に住んでいた。彼は萩高校の先輩でもあったから私はよく話に行っていた。彼は私の妻が亡くなった2日後に肺気腫で亡くなった。「昭和一桁」の90歳だった。実に良い人物だった。

 

先日訪ねたのは私より4歳ばかり若いから「昭和一桁」ではなかろう。彼は宇部高時代に私と同じ下宿にいた。山口に来て見たら姓が変わっていた。大きな地主の処へ養子に入ったのである。田畑もあるが、大学生のためのアパートを4棟も新築して、維持管理していると言っていた。数年前に奥さんに先立たれ、このスーパーの管理世話に加えて、田畑の仕事を彼一人でやっているようだから、大変だろうとつくづく思う。息子さんは県外に就職していて孫息子が2人いる。一人は東大工学部大学院を出てロボット工学を研究する会社に就職したとか云って居た。その弟は九大の農学部に入っているとか。彼には娘さんがいて秋吉のサハラパークで動物の世話をしていて、毎週一回帰って来るが結婚をしていないとも言っていた。85歳になると思うが、彼は一人で暮らしをしていて、この先如何するかと他人事ながら心配した。

 

本屋で私は階下を見て回ったが、何時もの処に岩波関係の本が一冊もないので、ここでも遂に岩波の本を取り扱わなくなったかと思い店員に尋ねたら、「すみません。2階に移動しました」と言われたので、上がってみたら従前のように陳列してあった。私はホッと安心した。見て回って一冊の本を手にした。それは中村明氏の書いた『日本の一文 30選』(岩波新書)だった。

 

私は最近気が向いたらよく駄文を書く。少しは参考になる事でもあるかなと思って購入した。この外に『向田邦子ベスト・エッセイ』(ちくま文庫)も買った。

 

 帰って向田さんのエッセイを一寸読んで見たが、ユーモアのある知的な文章には感心した。彼女は1981年の飛行機事故で亡くなった。「昭和一桁」の4年生まれで、52歳だったが本当に気の毒だ。あの時歌手の坂本九も死んで居る。私が以前ドイツへ旅したとき、酒場でツアー仲間とワインを飲んでいたら、いわゆる日本で言う「流し」が、アコーデオンを弾きながら入ってきて、坂本九の「上を向いて歩こう」を演奏した。もう40年も昔の懐かしい思い出である。

 

買ってきたもう一冊の本の著者中村氏は、早稲田大学名誉教授で「文体論」を研究している事を知った。中々面白く教えられる事が多々あった。驚いたことに彼はこれを80歳の時出版している。そして彼は今も健在だろう。昭和一桁に入らない昭和10年生まれであることも知った。面白くて教えられる本のようだから、これから読むのが楽しみである。

 

私には高校時代の友人が萩に今は2人だけ居る。数年前までは私が萩へ行くと連絡したら、必ず5人か6人は集まってくれて、喫茶店で楽しく話したものである。しかし今は車の運転を止めて萩へ行く機会も殆どなくなった。この2人の友人は、私と同じように奥さんを亡くして一人暮らしをして居る。1人は高校を卒業して郵便局に勤め、もう1人は銀行勤務だった。あの当時は今のように猫も杓子も大学進学という事はなかった。私も高校卒業後は銀行へでも入ろうかと思って居たが、伯母が父を説得してくれたお蔭で大学へ行かせて貰った。これは私にとっては運命であると言えるが、ありがたいと思っている。まあこんなことは別として、時々彼ら友人に駄文を書いて送る。そうすると喜んで読んでくれる。こうして交遊を保つ事の出来るのは、「昭和一桁」生まれの、我々3人のささやかな喜びである。

最後に私はこれまで心安く「昭和の一桁」と書いたが「桁」を改めて辞書で引いてみた。

 

【桁(けた)】

   ➊舟を並べて作った橋。浮き橋 

   ❷足かせ。罪人の足にはめ自由を奪う刑具。

   ❸着物かけ。衣桁。

   ❹㋐ソロバンの玉を貫く縦の棒。

    ㋑数の位。位取り。

 

これで納得した。「桁違い」とか「桁外れ」という言葉がある。「昭和一桁」生まれは、「昭和二桁」も後半に生まれたり「平成」生まれの人が活躍している現代においては、おとなしくしているに限る。「昭和一桁」は今や「希少価値」ならぬ「希少数(かず)」になった。森さんも引退した方が賢明だろうと、彼とは「桁違い」の私であるが、他人事(ひとごと)ながら思うのである。本人は兎も角、彼の家族のものたちはやりきれない思いだろう。

 

                   2021・2・13 記す

夏草や

午前4時に眼が覚めた。昨夜は9時過ぎに床に入ったから睡眠は充分とれている。トイレに行き居間の暖房をつけてまた横になった。しかしもう寝むれそうにない。床の中であれこれ考えているうちに時間が過ぎた。時計を見たら5時前なので起きることにした。居間は快適な温度になっていた。いつものように大佛次郎の『天皇の世紀』を読むことにした。この全10巻に及ぶ大作を読み始めたのが今年2月の朔日で、まだ5巻の前半部に達していない。活字が小さいので拡大鏡を使って少しづつ読んでいる。

 

 最近読んだところには、維新前後のことが実に数多くの資料を引用して詳しく書かれてある。いよいよ元治元年(1864)7月の禁門の変が始まろうとしている時である。同年8月には4国連合艦隊の下関砲撃、さらに第1次長州征伐出陣と続くから、私の曽祖父が生きていた頃で、当時の長州人の心境は、ひょとしたら今のウクライナ国民の心境に似ていたかも知れないと思った。曽祖父はその翌年即ち慶応元年に毛利藩の指令で鉄砲を購入するために長崎から上海迄行っている。

 

 あの時からわずか160年ばかりしか経っていないが、この間我が国は戦争に次ぐ戦争で大変だった。ところが1945年に太平洋戦争が終わって、今日までの後半の80年近くは平和であった。だから国民の多くがいわゆる平和ボケと言われている。この度のロシアによるウクライナへの侵攻は核戦争になる恐れがあるとさえ言われる。国民はこれまでの状態とは異なり、一大事が起こる可能性があると自覚して、しっかりしなくてはいけないと思う。90歳を迎え安穏に暮らしている今の自分に比べ、ウクライナには戦火に追われた老人がいると思うと、人間の運命を考えずにはおれない。

 

 『天皇の世紀』を20ページばかり読んだ後、今度は先日送って頂いた『松田佐津子 歌集』を紐どいてみた。作者は私の大学時代の恩師の令兄の娘さんである。従って先生にとっては姪にあたる。私はこの歌集を読み終えたら礼状を出そうと思っているが、その前にこの方を紹介してくださった方である作者の妹さんに電話をかけた。

 

 「私たちは4人姉妹で、長姉は亡くなりましたが、後の3人はまだ生きています。2番目の姉は東京にいます。そして3番目の姉は数年前に主人に先立たれて今一人で暮らしています。数年前にその歌集を出しました。私は娘と一緒に暮らしていまして92歳になります。お陰で何とか元気に暮らしています。わざわざお電話有難うございます。」

 

 こういった非常に丁寧な応答であった。それにしても3人の姉妹が90歳を皆優に超えておられるが元気なのには驚く。歌集を読むと、亡くなられたご主人の思い出の事が多く詠われていて、ご夫婦の仲睦まじい様子が覗われた。またお子さんやお孫さん達にも恵まれて居られるようで、珍しく幸せな一家だと思った。人間には天命というものがある。長生きはかなり遺伝子が影響すると思う。現にこの4姉妹の父親は86歳、母親は101歳の長命である。しかし人の幸せは長命だけでは決まらない。人間の一生は糾える縄の如しと言うから、いつ何が起こるか分からない。徒に長く生きても息をしているだけの人も多い。次のような歌があった。

 

   百一の母にわが古希伝ふれば「あなたがまあ」と驚きていふ

 

   七夕の笹に結びし百一の母の願ひは「お召ください」

 

   母のみ骨納むるときに背後より奥津城に入る晩夏のひかり

 

 母子の情愛の溢れる歌だと思う。この後に私の恩師について詠まれた歌があった。

 

  子なき叔父伯母みまかりて十五年御喋鸚鵡も遂に果てしと

 

 先生は昭和55年に亡くなられた。山口にまだ居られたとき鸚鵡を手に入れられて、「英語の言葉を覚えさせようとしているがなかなか覚えてくれない」と言っておられたのを思い出した。これからこの歌集をじっくり拝読しよう。私はこんなつまらない歌を詠んでみた。

 

   天命か傘寿卒寿の坂を越え白寿真近しなおも健やか 

 

 8時になったので読書を止めて神仏を拝み、外に出て我流の体操をし、木剣の素振りを33回した。別にこの数には意味はないが、いつも33回行う。これでやっと朝食である。食パンとコーヒー、それに多くの野菜を煮込んだのを温めて食事を終えた。

 

 9時過ぎになったので、仏様へのお盛物がなくなったので、散歩がてらスーパーへ行こうと思って出かけた。我が家の直ぐ近くの道路は、7時から8時ころまでは小学生の通学と通勤車が頻繁に走るから賑わうが、9時以降は閑散としている。道路に面して小公園があって幼い子を連れた親たちが何組もいて遊ばせていた。今日は「みどりの日」で親は休みか。幼い子は嬉々として遊んでいる。全く邪気がなくて本当に可愛い。

 

 散歩のコースはいくつかあるが私の好きなのは、田圃の見えるところ、清らかな水の流れる溝川の傍の道である。此処にはまだ田植えはされていない。いつものことだが散歩の途中で人に出会うことは殆どない。目的地まで約700メートルの距離。そこは低い台地で東側の斜面は墓地になっている。そしてその麓、道路からちょっと上がったところに六地蔵があり、そこから80メートルばかり離れて同じような六地蔵がまたある。私はまず一方の六地蔵を拝み、地上から10メートルばかり登って、そこが平坦になっているので深呼吸をして、そこから眼下に広がる山口市街を見下ろし、今度は丘を下りもう一か所の六地蔵を拝んで帰ることにしている。

 

 今朝はこの丘に近づいたら、青々と茂った草に半ば隠れたような1基の墓の傍に若い女性の姿が目に入った。彼女は私が近づくとそこから道路まで下りてきた。私はあのように半ば隠れたようになっている墓を参りに来たのかと思って、「お墓参りですか」と訊ねた。そうすると彼女は意外なことを言った。

 「私の祖先はこの近くに住んでいましたが、私は今は小野に住んでいます」

 「それではお茶で有名な小野ですか」

 「いいえ、山口市の大内にも小野という処があります。そこにいます。長い間此処へは来ていませんので、昔のお墓がどうなったかと思って探したのですが見つかりません。」

 彼女は言葉を継いで、「ご先祖様は許して下さるでしょう」と言った。

 私はおそらく大内の近くに新しく墓を建てているのだろうと思った。その時道の向こうから彼女の母親がやってきた。やはり墓の所在を尋ねていたが見つからなかったようである。

 私は「お幾つですか」と訊ねたら81歳だと答えた。私の年齢を言ったら2人は驚いた様子だった。

 別れるとき娘さんが「お声をかけてくださって有難うございます」と言って、道の傍に駐車していた車の方へと歩いて行った。

 

 私はそれから最初の六地蔵を拝み、何時ものように丘に上った。途中いつも目にするのは1基のささやかな墓である。私は以前この墓に刻まれている字句を読んだことがある。先の戦争で戦死した息子のために父親が建てた墓だと知った。次の言葉が墓の正面に刻んである。

 

   故海軍二等機関兵曹 勳七等功七級 原田久之墓

 

  墓の側面には次の文字が刻んであった。

 

    昭和十八年七月十二日 コロンバンガラ島沖海戦巡洋艦神通にて戦死

    原田金次次男 享年二十六才

 

 この墓の横に原田家のやや大きい墓が並んで建っている。私は殆ど毎日この前を歩いて過ぎる。   

 

今日は昼前で暑い陽射しが照り付けていた。私の歩く墓の前の1坪にも満たない地面に青草が一面に繁っているのを踏みつけて通ったが、ふとこれを刈り取って綺麗にしてあげようという気になって 帰って早速小さな鎌、実は昨年もこの草を刈るために買っていたのだが、それを取り出して錆びついていたので、よく切れるように砥石を出して念を入れて研いだ。

 

 私はコロンバンガラという地名が何処だろうかと思って、以前高価だが必要だと思って購入した大判の『世界全地図』を広げて探したら見つかった。非常に小さな南太平洋に浮かぶ島である。ニューギニア島の東の海にソロモン諸島がある。その中にブーゲンビル島とあの有名なガダルカナル島がある。この両島の間に浮かぶ小さな島で普通の地図には載っていない。

 

 この原田久という青年はこの海域の水底に艦船もろとも沈んだのである。水深が1000メートルに達する海域である。この報に接した父親の気持ちはいかばかりか。父は愛する我が子のために原田家の墓の傍にわざわざ小さな墓を建てたのである。私が萩から山口に来てもう25年になる。そしてこのコースを散歩道と決めて歩き始めて10年近くになるが、当時は墓に時々花が供えてあったと記憶する。しかし今は誰1人お詣りしたという形跡がない。

 

 一夜明けて今日は5月5日、「こどもの日」である。昔私が子供の頃は「端午の節句」には多くの家に鯉のぼりが立てられていて、青空に翻っているのをよくみかけたが今は殆ど目にしない。日の丸の旗が全く消えてしまった。そういえば私が今いる小さな団地にあるのは22軒で、正月に輪飾りを掲げている家が僅か3軒であった。世の中が変わった。戦後75年、あの戦争の事を肌身に感じた人は今では90歳以上になったのではないかと思う。

 

 今朝も早く目が覚めた。4時半だが起きてまた『天皇の世紀』を読んだ。「禁門の変」のことが詳しく書かれていて、木島又兵衛の戦死、久坂玄瑞入江九一などの割腹自殺、桂小五郎の身を乞食の姿に隠しての脱出など、毛利藩の敗北の事が書かれていた。こうして歴史書に名を残した人は僅かで、多くの名もなき兵士や、そればかりではない、京都の民家が多く焼かれて民衆はひどい目にあっている。

 

 先にも書いたように我が国は戦後長い間平和が続き、国民の多くが平和に慣れてきた。しかし今こうして平和に浮かれている陰には、先の戦いで若き命を国のために捧げた人達がいることを、このささやかな墓碑を見てあらためて思い出したのである。

 

 7時になったので神仏を拝み、昨日研いでいた鎌を手にして出かけた。休日だからか自動車も人も全くと言っていいほど見かけなかった。道路を隔てたところにある大きなスーパーの広い駐車場にも、車は数台しかないので何だか異常な風景に見えた。いつもはこの駐車場には数十台のマイカーがびっしりと並んでいるからである。私は人気の全くない閑散とした道を丘の方へと歩いて行った。先ず最初の六地蔵を拝んだ後、粗末な石段を上ってちょっとした平坦な場所に来た。東の方角遥か彼方に山口市街を取り囲む山々が連なっている。ここで私はいつものように深呼吸をし、スマホを取り出して今日は墓の方をまず写した。シダやつる草などの青草が一面に繁っている。その遥か向こうにも青葉若葉で燃え立つような山が見える。方角は南である。私は手袋をはめて鎌を手にして墓の前と後ろ側の草を刈った。前とは見違えるほどきれいになった。私はホッと一安心した。

 

    夏草やつわものどもが夢のあと

 

 時間にして僅か10分足らずの作業である。私はもう一度スマホを取り出して写真に撮った。そしてまた石段を下りて2番目の六地蔵を拝んで家に帰った。丁度8時だった。やや汗ばんだのでシャワーを浴びた後、簡単な朝食を食べた。

 

 私が中学生になったとき、初めて父に連れられて我が家の橙畑の草刈りに行ったのは今から75年以上前のことである。当時は萩市の主要産業の一つに夏ミカンの生産出荷が数えられていた。したがって我が家には1ヘクタールの畑に100本以上の木が植えてあり、それが我が家でも収入源の一部だった。父は私が手伝う年頃になるのを待っていたのだろう。家から畑までの距離は片道5キロくらい。朝早く起きて前日に研いでいた鎌を数挺手にして歩いて行った。後には自転車を利用し最後はバイクで通った。私としてはそれほど苦にはならなかった。父が喜んでくれるので、私は春休みや夏休みにはほとんど毎日、時には1人で朝5時に起きて出かけた。昼までの作業もそれほど疲れを覚えなかった。今から考えるとよく働いたが、その後程なくして夏ミカンから萩焼へと萩市の主要産業は変わっていき、更に観光へと移っていった。

 

 それにしても若くて元気なのは良いことだ。今朝たった10分足らずの作業でも何だか一仕事したという感じがした。昨日と今日では見分けがつかないが、時間と共にあらゆるものが変化する。成長するのものもあれば衰弱するものもある。今私の孫娘は中学2年生で私が畑の草刈りを始めた年頃である。この孫はソフトボール部に入り、試合に出たと言って息子がその様子を撮った動画を見せてくれた。中学・高校と当分は若くて元気な日々を送るだろう。何と言っても健康であってくれさえしたらいい。欲を言えば勉強も頑張ってくれたらたらと思う。私はあの頃は全く勉強はしなかったから。

 

 繰り返して言うが世界は平和であって欲しい。ロシアによるウクライナへの突然の侵攻、それに伴う無辜の国民の殺害といった悲惨な状況が毎日報道されている。死者の中には多くの女性や子供たちが数えられる。実に気の毒である。人類は絶えず戦ってきた。それも独裁者の無謀な我欲による。一日も早く戦争が終結し平和になることを祈らずにはおれない。

 昨日は「みどりの日」で昔は昭和天皇の誕生日であった。昭和天皇は太平洋戦争が始まった時明治天皇の御製を詠まれた。

 

 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

 

 この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議の後明治天皇が詠まれたという。それから37年後の1941年太平洋戦争が始まった。このとき昭和天皇がこの明治天皇の御製を口にして「開戦やむなし」との意思を表されたと言われているが、天皇のお気持ちはいかばかりだったかと思う。そして今又ロシアの脅威はわが国にも及ぶのではないかと怖れられている。今や平和はある程度の犠牲と充分な備えなくしては保たれない時代になったように思う。

                     2022・5・5 記す

斜陽に立つ

                  一

 

中国文学者・目加田誠氏の自伝ともいえる『夕陽限り無く好し』を、『風響樹』の同人の多田さんが、わざわざ郵送してくださったので私は一気に読んだ。私はこれを読んで、世の中にはこのような不幸な人もいるのかと思うと同時に、数多くの不幸や逆境にも耐え、それらに打ち勝って、最後は静謐な心境に達した人もいるのだなと、感銘を受けて読み終えた。

 

病気や不慮の事故、あるいは自然災害などで自ら傷つき、病の床に臥し、その上肉親を失うといった事は、確かに見聞きすることではある。しかしそういった悲惨な状況から立ち直り、最後に「自分の人生は限り無く好かった」と云える人は少ないだろう。

 

この本の一節に「わが半生-死別生別」というのがある。小学三年の時の担任で、彼を可愛がっていた先生が危篤になったので、組代表として見舞いに行き、その後間もなく先生は亡くなった。彼はその先生の事を思い、「あの時の先生の眼が忘れられなかった。先生は亡くなってどこへ行ってしまったのだろうと、夜になると星空を仰いで思い耽ったものだ。これが私の、死というものに心を動かされた最初であった」と書いている。

 

小学五年のとき、彼の祖母が八十歳で亡くなった。「私の家庭は、父がいかめしく、母はキリッとした武人の妻であったが、祖母は私をただ甘やかし、大柄で鷹揚な婆さんで、お客が来ると孫の自慢をくり返して母を困らせたらしい」と書いている。

 

私も今思うに、母は私を産んだ年に亡くなったが、祖母との生活というか思い出は忘れられない。私が覚えている頃の祖母は七十歳を越えていた。祖母は八十歳で亡くなった。誰しも孫というものは可愛いものだと思う。私の亡くなった妻も「子供たちには厳しくしたが、笑瑠(えみる)は叱らないよ」と言って、孫娘をよく可愛がっていた。

 

話が逸れたが、彼の祖母の葬儀の時、強くて大威張りで、子供にやさしい言葉をかけることもしなかった父が号泣したのに彼は感動したとも書いている。祖母が亡くなった翌年に今度は身長一八〇、体重一〇五キロもあった大男の父が結核で亡くなった。父の死後彼の母は子供五人を連れての父の実家の岩国市に帰って一軒の家を建てて生活した。

 

中学四年になったとき母が結核で床に就いた。姉は女学校を出ると懇望されて東京に嫁いだ。これから彼は長男として母の看病、妹と三人の弟の面倒を見なくてはならなかった。当時不治の病と云われていた肺結核であった母は、「最後に意識を失いつつ、薄く微笑して“世の中っておかしなものだねえ”と云い、それっきり黙ってやがて息絶えた。母はその時何を思っていたのだろう。熱い頬をぽおっと紅くそめていた。まだ年は三十六。春も浅い三月。隣の紅梅の花盛りの時だった」と述懐している。

 

もう少し目加田氏の不幸な生涯を追ってみよう。次のように述べている。

「母が死んだあと、弟妹の処置は、母が遺言したようには行かなかった。ある叔父は、私が筆写した遺言状を見て“これは病人の言ったことだ。このようには行かぬ”といって、畳の上に投げ出した。

 

いろいろ協議の結果、妹は東京の姉夫婦に預け、上の弟は小田原の叔母の家に養子にゆくことにして引き取られ、中の弟は母方の祖母の里の姓をつぐことに決まっていたから、母の実家に置き、下の弟は五歳であったが、これは私がつれて九州佐賀県の母の兄のもとにいって頼んだ。」

 

その頃彼は、死ということをしきりに考えたと言っている。彼はその後友人と二人で自炊生活をしていたが、赤痢に罹り入院した。やっと退院出来たが身内の者は救いの手を差し伸べてくれないので、「ガラーンとした空き家に身を置いて、学校にも戻らず、昼は窓から外の冬景色を眺め、夜はただ一人、まじまじと思い耽り、遂にどうにもやりきれなくなって、十二月の末に、誰にもいわずに上京した。」のである。

 

天涯孤独ではないが、一家離散である。その時の彼は十六歳だから、彼の心中は想像を絶する。その後いろいろな事情があり、結局水戸高校から東大で中国文学を専攻する事になる。孤独と戦いながらもの凄く努力したと思われる。

 

これでは終わらない。水戸高校三年生の時、関東大震災に遭い、つぶれた家から這い出たが、肋膜炎と診断されて入院した。また非常に親しかった中学校時代の友人や高校時代の友人の死にも遭っている。外にも親しくして居た姉なども死んでいる。

 

私は『旧訳聖書』にある「ヨブ記」の主人公を思い出した。彼は東大を卒業して京都の三高(旧制)の教師となって結婚するが、男の子が生まれて三、四日で死ぬ。彼はそれから留学が決まって中国へ行くが、妻は赤ん坊を抱いて淋しく彼を見送った。

 

「北京に着いて間もなく冬になった。北京の冬は長い。十月の末頃から街路樹の葉は凋み、やがて風に舞って路上を転がってゆく」。そのような蕭条とした時候のある夜、彼は妻の面影を見たように感じ、その数日後に妻が結核を患っているという便りがある。

帰国して妻に会ったときは、彼女は殆ど危篤で、話も出来ぬ状態だった。妻は桜が散り青葉になる頃に死ぬ。

 

「私の若い時を考えると、まるで死の林の中を駆け抜けてきたような気がする」と書いているが、こうして読んでみて、本当にその通りだと思う。この後再婚して男の子や女の子が産まれるが、その女の子が可愛い盛りでよちよち歩きの時、自家中毒の病状を呈し、死なせてしまったと書いている。以上は彼が四十歳までに遭遇した近親の不幸である。彼は二度結婚して二度奥さんに先立たれ、子供にも二度死なれている。更に云えば彼は失明の危機にも遭遇している。右眼は失明し、左眼も満足には見えなくなっている。

 

以上長々と目加田氏の不幸な生涯の跡を辿ったが、これが全てではない。まだあるがもう止めよう。この本の一番最後に書いている素晴らしい文章を読んだから、敢えて彼の経歴をやや詳しく紹介したのである。少し長いがその最後の文章を読んでみよう。

 

私は今やもう、そのような侘しさから抜け出ねばならぬ。もう一度頭をあげて見るがいい。沈みゆく太陽のあの美しさ。空を紫金に染める夕映えの見事さはどうだ。

私は影を長く曳きながら沈む日を追って、どこまでゆくのか分からない。しかし、黄昏がひたすら迫っておればこそ、夕陽は限りなく美しい。

 

今や自分にとって、この世のわずらわしさは何もない。果てしない思いの野をただひとり歩いてゆくのだ。いつから歩いているのか分からぬ。長い長い八十年の路だった。その路では、実にさまざまな風景に遭い、さまざまな人間にも会った。皆いい人だった。私は人を愛し、人に愛され、またその人々と別れを重ねてここまできた。

 

いまや夕映えがこんなに美しい。私の周囲には和やかな薄光が漂っている。夕陽は無限に美しい。私はほれぼれとした気持ちでこの静かな風景を眺めている。黄昏がひたすら近づいて来ていることをしりながら。     

 

目加田氏はこの文章を昭和六十年五月に書いている。この後彼はまだ長命を保ち、満九十歳で亡くなっている。人間の寿命は分からない。私は数えで九十歳になった。私の場合は徒に馬齢を重ねたに過ぎないが、彼は素晴らしい業績を残している。私は彼のこのような苦難の生涯を此の度初めて知った。彼の著になる『唐詩選』(明治書院)を平成五年に、同社に勤めていた従兄を通じて手に入れ愛読してきた。今回彼の自伝を読み、生きる上での指針を示されたと感じた次第である。

 

                  二

 

私はこの拙文に「斜陽に立つ」という題を付けた。そのことを説明するために、まず次のことから話を進めよう。実は目加田氏の本の題名がその中の「第四章 夕陽限り無く好し」と同じであって、その下に唐の詩人李商隱の五言絶句が載っている。

 

向晩意不適

驅車登古原

夕陽無限好

只是近黄昏

 

私はこの詩を詳しく知ろうと思い『中国詩人選集』(岩波書店)を見てみたら、高橋和巳の訳注が見つかった。以下高橋氏の文を引用する。この詩の題は「楽遊原」とあり、次のように読み下してあった。

 

晩(くれ)に向(なんな)んとして意(こころ)適(かな)わず

車を駆(か)りて古原に登る

夕陽(せきよう) 無限に好し

只(た)だ是れ 黄昏(こうこん)に近し

 

日暮に近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。馬車を命じて郊外に出、西のかた、楽遊(らくゆう)原(げん)に私は登ってみた。陵(みささぎ)があちこちにある歴史古き高原の空はいましも夕焼けに染まり、落日は言い知れぬ光に輝いている。とはいえ、その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へと近づいてゆくのだけれども。

 

「李商隱(八一二-八五八年)が生きた時代、-それは、その広大な国土に空前の文明社会を築いた唐王朝が、建国してよりほぼ二百年、漸く疲弊して崩壊への道をたどり始めたころだった。」と高橋氏は解説の最初に書いている。

李商隱がこの詩を作った時の気持ちは、当時の晩唐の世相を反映しているように思われる。そのことはさておき、私が一寸気になったのは、詩の中にある「夕陽」を「ゆうひ」と読むべきか「せきよう」と読むべきか、いずれだろうかと思って上記の『中国詩人選集』に当たってみたのである。予想通り「せきよう」とあってホッとした。私はついでに辞書を引いてみた。そうしたら一つの知識を得た。まず『広辞苑』に載っている説明を見てみよう。

 

 せき-よう【夕陽】

  • ゆうひ。いりひ。夕日(せきじつ)。斜陽。
  • 夕暮。夕方。

 

 「夕陽」が「斜陽」とこの歳になって始めて知った。誠にお恥ずかしい次第だが、ふとあの有名な漢詩を思いだした。それは乃木希典の作詩の中でも、特別人口に膾炙している「山川草木転荒涼」で始まる七言絶句である。この詩の中に「金州城外立斜陽」の句がある。これでやっと私がこの拙稿に「斜陽に立つ」と付けた題の説明が出来たと思う。

 

先にも述べたように、私は「斜陽」を漠然と金州城外の傾斜地くらいに思って居た。もう一つ新たに知ったのは「転」である。「転た寝」とか「寝転ぶ」言って「ごろりの転がる」くらいに考えて、やはりこの詩で歌われている「転荒涼」を「石がゴロゴロと転がった荒涼たる戦場の跡」くらいに思っていたが、大きな間違いだった。ここに改めて 「金州城下作」の絶唱によって、詩人・乃木希典のその時の悲しい心境を、多少なりとも推し量る事が出来るのである。

 

        金州城下作           乃木希典      

 

山川草木転荒涼   山川草木転(うた)た荒涼

十里風腥新戦場   十里風腥(なまぐさ)し新戦場

征馬不前人不語   征(せい)馬前(ばすす)まず人語らず 

金州城外立斜陽   金州城外斜陽に立つ

 

 今更この詩の通釈を見ることもないが、私が思い違いしていた「転た」の意味は、『広辞苑』には次のようにある。

 

うたた【転た】《副詞》「うたて」と同源。

  • ある状態がずんずん進行して一層はなはだしくなるさま。
  • 程度がはなはだしく進んで、常とちがうさま。

 

これで「山川草木転荒涼」の意味がよく分かった。ところで、「征馬前まず、人語らず」と嘆じ、斜陽に立った乃木将軍の心中は、「夕陽限りなく好し」ではなく「限りなく哀し」かっただろう。しかし日露戦争の時代は、戦いが終わっても、まだ兵士も軍馬も生き残った者がいる。そこには何となく余情が感じられる。今はどうか。原爆が投下された跡には、馬ではなく戰車も兵士もその姿は勿論、山川草木も見る影もない状態になる。それこそ街も無辜(むこ)の人間も跡形もなく消えてしまう。

 

今日大学を出た優秀な連中の多くがIT産業に職を求めている。これは金になるからである。若くして億万の金持ちがおると聞くが、只金銭欲にのみ頭が向いて、人類の福祉になるどころか、人類を破滅させるような事を研究する恐れさえある。原子物理やロボット工学の研究がそうなる可能性がある。  

 

現在猖獗を極めているコロナ感染も、細菌兵器の研究にその源を発していると言われている。中国の武漢で発生して世界に蔓延した為に、これまで何万人もの人が命を落とした。まだこれは続く。三ヶ月後に迫った東京オリンピックも開催が危ぶまれているが、何とか実施するだろう。実施を主張する委員会も中止を訴える企業や団体なども、結局は金を算段しての事である。平和友好を思うものは出場する選手と観客だけのような気がする。

 

いささか考えが飛躍したかも知れないが、科学の進展も大事だが、幼少の頃からの情操教育の必要性を私は切に望むものである。

                   20210・4・10 記す   

雑詠

    

  葉も枝も隠すがごとく咲き誇る白蓮の花散り敷けるなり

 

  花散りて若葉装(よそ)える白蓮の根元に咲ける一輪の花

 

  週に二度指圧に通う道すがら種々なる花の目を楽します

 

  田圃道名もなき花に目を留めてしばし佇みじっと見つめる

 

  名も知らぬ咲き乱れたる草花の春の来るを喜ぶがごと

 

  蟻や蜘蛛たとえ小さきものなれど共に生けるを喜ばざるや

 

  ガラス越し白き花咲く豌豆に花かとまごう蝶の羽ばたく

 

  青空に一直線の飛行雲しばし消えずに残りたるかな

 

  庭の草腰を屈めて取る妻に声をかけしは三年前か

 

  探し当て庭にたたずむ老妻に無理をするなと声をかけたり

 

  コロナ禍で入院すれば老夫妻永久(とわ)の別れに口もきかれず

 

  ベランダに玄米撒けば雀らが何処からともなく飛び来るなり

  

  いびつなる固き花梨(かりん)の実なれども赤き蕾の可憐なるかな

 

  風呂上り背中拭いてと老妻は我を呼びにて裸で立てり

 

  真夜中に階段這いて老妻は寝れぬからと我を起こせり

 

  後一年共に暮らせば六十年長く思えど短くもあり

 

  妻逝きて頭に浮かぶ一言は後悔先に立たずなるなり

 

  人は皆我執(がしゅう)を去れば清らなる心を持ちし仏となれり

 

  病院で声かけ呉れし一女性高校時代に我がクラスだと

 

  教え子の数知れぬほど多けれど会うて分かるは幾人なるや

 

                    2022・4・15 記す    

 

光は直進する

                 一

 

四時前に目が醒めた。トイレに行き、起きるには少し早いと思ったのでまた床に入った。しかし睡眠は十分足りているのでもう眠れそうにない。床の中であれこれ考えていたが思いきって起きた。五時十分前だった。洗顔の後「さて今日から何を読もうか」と思った。

 

昨日の午前中に、それまで数日かけて読んでいた三冊の本を丁度同時に読み終えた。水上勉の『一休』と井上靖の『敦煌』、またこれを読む契機になった劉東波という若い中国人の書いた研究書、『井上靖シルクロード』の三冊である。

 

いずれも私には興味のある内容で面白かった。しかし『一休』は少し難しかった。とくに水上氏が引用している一休の漢詩が、その意味内容を分かりやすく説明していないのが度々出ていたからである。『狂雲集』や『続狂雲集』の漢詩文は、漢字を見た丈では理解できない。水上氏も専門家の教えを受けたと書いている。

 

『一休』を読んで初めて知ったのだが、彼の母は後小松天皇の侍女で一休を産んで程なくして宮中から退き、その後数年して一休は仏門に入るので母と別れている。それから彼は猛烈な修行をする。母は四十歳代で亡くなっているが、一休は母への思慕を持ち続けている。晩年になって森(しん)という盲目の女性と知り合い、老境に至までその女性と同衾している。そして彼が八十八歳で亡くなるまで、その女性を手元に置いている。

 

彼は最晩年には大徳寺管主にまでなっているが、この女性との生活を続けたということは、道元などの教えとは真逆の生き方だから、風狂の生き方と言われるのも当然だが、これも人間としてのありのままの姿で、水上氏は肯定的に書いている。

 

「一休頓知物語」に出てくるような内容とは全く違った彼の生き方は、彼の漢詩集をもっとじっくり読んでみなければ分からないように思った。それにしても七十四歳の時四十歳くらいの盲目の女性に子を産ませ、その子は死産だったが、彼は精力絶倫、彼を非難する者には真似が出来まいと水上氏は書いている。

 

「色の世界に色なき人は金仏(かなぶつ)木仏(きぶつ)石ほとけ」

 

人間の自然を否定して何処に人生があるか。煩悩を罪悪として何処に人間があるか、私はそううけとる、と最後に水上氏は結びとしていた。

一休の「辞世の詩」は次のものとあった。

 

 十年、花の下、芳盟を理(おさ)む、

一段の風流、無限の情。

惜別す枕頭児女の膝

夜深うして雲雨、三生を約す。

           

                  二

 

井上靖の『敦煌』を映画にしたのは、その昔見たから何となく内容を覚えていたが、今回小説を読んでよく分かった。歴史的事実に基づいた井上氏の想像力による作品だと知って面白かった。しかし期待した程の感銘を受けなかった。ただしかし、二十年ばかり前に妻も一緒だったが、西域ヘのツアー旅行で、敦煌莫高窟の石仏や壁画などを見学したり、一望千里の砂漠の中、ただ一筋の直線道路をバスで走ったり、砂漠の中のオアシスなど、ここに書かれている場面設定を実体験したので、井上氏の書いた内容を身近に感じた。

広辞苑』で「西夏」を引くと次のように載っている。

 

李元昊(りげんこう)が、宋代に甘粛省およびオルドス地方に建てた国。大夏と自称。都は興慶(銀川)。中心はチベット系タングート族。宋、遼、金と和平・抗争を繰り返して、最後にモンゴルに滅ぼされた。文化は中国文化・西方文化の混融したもので、仏教が栄え、独自の西夏文字を有していた。(1038~1227)

 

一〇三八年から一二二七年までの僅か二百年足らずの間に、忽然と西域の地に出現した仏王国であった西夏という国に、井上氏は格段の興味を持って関係の書籍を実によく調べて、史実に基づき、想像力を逞しうして、このようなロマン溢れる長編に書き上げたのだから感心する。彼がこれを書いて、十数年後に実地へ行ったいたというのにも驚いた。

それにしても地球上にはこのように忽然と生じて、また滅亡した国や言葉があったのだろう。西夏文字など今は僅かに記録に残っているようだが、文字や言葉の研究をしたら切りがないと思われる。日本人で語学の天才だといわている井筒俊彦氏が二十七カ国語をマスターしていたとのことだが、世界には数千語の言葉があると言うことだ。

 

一休が文明十三年(一四八一)十一月二十一日、「泊然として寐るが如く坐逝したまう」と書いてあったので、「泊」という字を辞書で調べたら、「心が静かであっさりしている」とあった。だから「淡泊」という言葉があるのを知った。「停泊」とあれば、船が岸に、あるいは人が宿に「とまる」という意味だが。ついでに「白」という字をみたら多くの言葉が載っていて、私には容易に読めないのが沢山あった。

 

白癬(しらくも) 白湯(さゆ) 白粉(おしろい) 白面(しらふ) 白(ぬ)膠(る)木(で) 白水(しろうず) 白老(しらおい) 白鑞(しろめ) 白(べ)耳(ル)義(ギー) など。

 

                三

 

以上のような訳で、今日から何を新たに読もうかと思い、井上氏の『私の自己形成史』を読むことにした。活字が小さい時には、最近は拡大鏡を利用し、さらに電気スタンドを間近に置いて読むことにして居る。所で今日不思議な現象を目にした。

 

私が使っている拡大鏡は、半円球の透明な硝子で出来たもので、直径が七センチ、したがって厚さは当然その半分である。これを本の上に置いてずらしながら読み進むのだが、蛍光灯の光が硝子の球体の一点に集中して、その箇所だけが白光りに輝くので、その輝いている所を避けて読まなければならない。

 

何気なく目をやったら、その光が白熱して見える所から、ごく細い光の線が放射状に出ているのが微かに見えた。そこで側にあった真っ黒い表紙の本を立てかけて、その光の線を一段と良く見えるようしにしてみた。そうしたら驚くことに先に云った蛍光灯の光が球状の硝子の一点に集約されて、そこが白熱したように輝き、そこから細微な光が放射されているのが一段と明瞭に見えた。数えたら三十本くらいの線だが、どれもピーンと糸を張ったように円錐を逆にしたように真っ直ぐに放射されているのに驚いた。

 

「光は直進する」と言うことは聞いてはいる。朝の陽光が雲間から射して、帯状に広がって輝いているのは良く目にする状景だが、こうした細かい光の線を初めて目にした。実に鮮明に見えたので貴重な体験だと思った次第である。この歳になっての初めての物理現象を目撃したのだが、言葉や文字にしても知らない事だらけで、少しでも知る楽しみを持つことが出来たら、これも脳の活性化になるだろうと思うのである。

 

敦煌』の中で井上氏は、城壁から身を投じた回鶻(ウイグル)の王族の女性が持っていた玉の首飾り。これを繞っての男達の争いを、密かな主材にしているが、古今を通じて珍奇な玉は人間の魂を魅了してきたと思われる。単なるガラス玉の光でさえ、見た目に不思議さを思わせるのだから、瓔珞や瑪瑙や紫水晶や金剛石などを精巧に加工した一連の玉は、それだけでも手に入れようと国を挙げての戦いが生じたというのも、あながち奇とするには当たらないかなと思うのである。

 

私は毎日散歩する。春先から初夏にかけて見知らぬ草花が道端に咲いている。非常に小さい一二数センチどころか数ミリもの小さな花でも、よく見たら造化の妙だと思われるものがある。自然と言うか神の働きは偉大だとつくづく思うのである。

 

                   2021・6・4 記す

故人無からん

 目が覚めたのは四時半だった。思い切って起きた。顔を洗いすぐ食卓について、今月初めから読んでいる唐木順三の『鷗外の精神』を広げた。その中に「他郷で故人に逢う」という言葉があった。「故人を偲ぶ」という言葉はよく耳にする。先日も長男の嫁の父親の納骨があり、遺族を含めて出席者は僅か五人であったが、在りし日の故人を偲ぶことができた。この場合の故人とは誰にもわかる亡くなった人のことである。私は試みに「故人」を『広辞苑』で調べてみた。次のように解説してあった。

  ①死んだ人。「故人を偲ぶ」

  ②ふるくからの友人。旧友。「西の方陽関を出ずれば故人無からん」

  ③古老。特に昔のことをよく知っている老人。

 

 これで先の言葉「他郷で故人に逢う」が旧友の意味だと分かる。私はここに例として挙げてある詩の一節を、どこかで見聞きしたことがあるので、ネットでまた調べてみたら、中国の詩人王維の詩の中の有名な言葉であるのを思い出した。

 

 最近の中国は共産党の一党支配で反日政策を掲げているので、どうも気に入らない。我が国と中国(昔のシナ)は長年にわたり結構友好関係を保っていた。近年になり毛沢東が政権を掌握し、天安門事件を起こしてからというもの、中国は完全に変わった。それでも今の習近平が政権を握る前はまだ中国への観光旅行は可能だったように思う。

 

 萩から山口に移ったのは平成十年だった。山口で大学時代の友人の紹介で、私より八歳年上のご主人夫妻と親しく付き合うようになった。彼らが五年ばかり前に、息子さんのおられる鎌倉へ移住されるまでは、毎年国内外の旅を一緒に楽しんだ。

 

 日記を見ると平成十二年の十月九日に友人夫妻と、この新たに知り合ったご夫妻の三家族で、中国へ行っている。福岡空港から中国の武漢まで飛行機で行き、その日は武漢のホテルに一泊し、翌日武漢の空港から西域地区、今問題になっているウイグルウルムチ迄また飛んだ。武漢といえば、今や世界的大問題になっているコロナ・ウイルス発祥地として疑われている研究所がある。「武漢は並木多く雨も多いので青青としている」と日記に書いていた。

 

 ここまで書いたら六時半になった。暑くならないうちにと思って散歩に出かけた。今日は一番長い距離を歩くことにした。毎日の散歩は、我が家から直線距離にして約五百メートルの処にある六地蔵まで行って、それを拝んで帰るのである。六地蔵が二か所にあり、八十メートルばかり離れて建っている。一方の地蔵様を拝みそこから山道をほんの少し歩いて高台に上り、はるか東方に見える市街を囲んで連なっている山々や、日によって運がよかったら美しい朝焼けの空を写真に撮って、もう一つの六地蔵を拝んで帰るのである。

 

 今朝は土師八幡宮の方迄歩いて、大回りして六地蔵に向かった。途中でふと見ると、道端に柿の葉が一枚落ちていた。スマホで写して帰宅してよく見たら、実に美しかった。日頃見過ごしている自然のこうした取るにも足らないようなものでも、このように美しい。大自然なる神はこうしたものにも造化の妙を示している。この柿の落ち葉はそのうち完全に朽ち果てて土になってしまうのだろうが、まだ生き生きとした感じである。完全には枯死していないのだ。人間も老いて死を目前にしても実に美しい人、いやむしろ崇高に見える人がいる。しかし老いてやせ衰えて醜い形骸のようになっても生きている人がどちらかというと多い。医療が発達したために、山口県でも百歳以上の人が多く居られるようだが、ただ息をしているだけの老人ではなかろうか。だとすると考えものである。先日も「敬老の日」といってお祝いの品をもらったが、死ぬまで何とか元気で健康を保ちたいと、柿の葉の美しさを見て思った。

 

 朝食を終えて続きを書こうとしていたら、電話が鳴った。受話器をとると、萩市に住んでいる高校の同級生だった。

「パソコンの具合が悪かったがやっと直ったので、貴方(あんた)が送ってくれた文章を読んでいる。同じ年齢でしかも同級生が書いたものだから、親しみが持ってて、内容に同感出来るものが多くあって非常に嬉しい。これまで送ってもらったのも繰り返し読んで楽しんでいる」と言ってくれた。

 

 友人は長年寝たきりだった奥さんの面倒をよく見たが、三年ばかり前に奥さんに先立たれ今は一人で生活している。すぐ近くに娘さんがいる様だが、彼女は仕事で多忙だから食事などは自分で作っている。「昨日病院へ行って膀胱ガンの検査をしてもらったが、数値はあまりくよくないようだ。腎臓が悪いから塩分を徹底的に控えて、散歩などをするように言われた。一本八千円もする注射を打たれた。保険でもこれだけの高い注射だから、実費なら八万円もするらしい」とも話してくれた。

 

 私としても同じ年に妻が亡くなり、独り暮らしになって他に何もすることがないので、こうして時々駄文を書いて友人に送っている。萩市にはもう一人同じような境遇の高校時代の同級生がいる。彼もこの駄文を読んでくれているから、お互い励ましあって生きている。

 さて王維の詩について書いてみよう。読み下し文で書く。

 

   元二(げんじ)の安西(あんせい)に使(つかい)するを送る

 

  渭城の朝雨 軽塵を浥し

  客舎 青青 柳色新たなり

  君に勧む更に尽くせ一杯の酒

  西のかた陽関を出ずれ故人無からん

 

 今ここで私は一つの面白い試みを行ってみよう。実は戦後、韓国では漢字を排して「ハングル」だけにした。そのために国民特に若い人の読解力が甚だしく衰えたといわれている。我が国においても当用漢字の採用でやはり若い人たちは難しい漢字で書かれた文章を読めなくなっている。例えばここに挙げた詩を全部ひらがなで書いたら、果たしてその意味が正しく分かるだろうか。

 

  いじょうのちょううけいじんをうるおし

  きゃくしゃせいせいしんりょくあらたなり

  きみにすすむさらにつくせいっぱいのさけ

  にしのかたようかんをいずればこじんなからん

 

 今このひらがなだけの文章から元の漢字で書かれた詩を再現できるだろうか。

 吉川幸次郎氏はこの詩の解説で次のように言っている。実に行き届いた優れた解説だから書き写してみよう。

 

 王維が一方また、やさしい、こまかな神経のもちぬしでもあったことは、この有名な感傷の詩が 示している。題に元二というのは、人名。元という苗字で、兄弟の順は次郎である友人。それが当時の前線地帯である安西都護府、すなわちいまの新疆省のトルファンへ、官命で主張するのを、見おくった詩である。

 

 「渭城の朝雨は軽塵を浥し」。渭城は、長安の北の郊外、渭水をむこうへ渡ったところにある。西方へ旅立つ旅人は、そこまで親戚故旧に見おくられ、別れの酒をくむ。いま元二の旅立つ朝は、雨であった。しずかにふる春雨に、街道すじの砂ほこり、それももともと「軽塵」であって、かあいらしく舞い上がっていた砂ほこりも、雨にしめって、おさまった。そうして、旅館の前の柳のなみ木の、雨に洗われて、ふしぎに新鮮な、青青とした色。「客舎青青柳色新」。

 

 ここで柳が持ち出されたのは、特別な意味がある。柳は別離につきものの植物。旅立つ人には、柳の一枝をたおって、はなむけとする。それが当時のならわしであった。もうすぐその枝をたおるであろうところの柳が、雨にぬれつつ青青とけむっている。何か人の心を沈静に新鮮にする風景。元来この別離は非常に悲しいものではない。安西はいかにも東トルキスタンの遠いところである。しかし天下は太平であり、唐の国威は、そのへんまでも充分にのびている。官命を奉じての出張といえば、名誉でさへあったであろう。ヨーロッパにゆく人を見送る朝の波止場が、雨に濡れているとすれば、情景はある程度似かよっているかも知れない。

 

 やがて、今ならば、出帆の銅鑼が鳴る。千年まえの旅行は、今のようにきびしく、出発の時刻を規定していなかったであろうが、しかし時刻はだんだん出発へと近づいて行く。テープが投げられるのも、もうすぐ。いや柳の枝が折られるのも、もうすぐ。どうです、いいじゃありませんか、もう一杯おほしなさい。「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」。

 

 「西のかた陽関を出づれば故人無からん」。故人とは親しい友人の意。陽関というのは中国本部の西のはて甘粛省から、新疆省へはいるところにある関所。陽関から向こう、今でたとえればホンコンからむこうには、こんなに気やすく酒ののめる人間は、いないんですよ。さあもう一杯のみましょう。

 別離の哀愁は、やはり詩の最後にいたって高まる。この詩は、唐の時代、ひろく送別の歌として、一般の人人に愛唱されたが、その際、「西のかた陽関を出づれば故人無からん」という結びの句は、三度くりかえして歌われるのがならわしであり、そのために「陽関三畳」と名づけられたという。一度歌うだけでは、別離の感情がもりつくせないのであろう。

           (吉川幸次郎三好達治著『新唐詩選』岩波新書)           

 我々がウルムチから今度は列車やバスでトルファン、さらに敦煌西安へと東に向かって帰国の途に就いたのであるが、何と言っても中国は広い。行けども行けども広漠たる砂漠の中の一本道。しかし今から思えば懐かしい旅路であった。ウルムチの市場で羊の串焼き肉を食べたが、今は現地の人たちの生活はどうなっているだろうか。旅を続けて更に東に向かったところに陽関の関所の跡があった。玉門関という有名なもう一つの関所がある。此処から七十キロ隔たって南にあるから陽関と呼ばれているとの事だった。この陽関の高台からアルタイ山脈を越えて次のオアシス迄の距離は四百キロもあるとか。ここで中国人の通訳が原語で王維の先に挙げた詩を吟じた。中国語はさっぱり分からない。しかしなんだか感傷の思いを込めた詩の意味する雰囲気が感じられたように思う。日記にこの詩を書き写していた。

 

 中国は幾多の王朝が起こったり亡びたりの興亡の歴史を繰り返している。共産思想で統一を図ろうとしている今の政府が、果たして安定的なものとなるかは疑わしい。ウイグル人を束縛し彼らの言語を禁じているようだが、「国語は国家」という言葉がある。その民族の言葉を抹殺するのは大きな犯罪行為のように思われる。各国民・各民族が先祖伝来のそれまで使って来た固有の言語を尊重することが、真の平和につながると私は思う。その意味において我が国の小・中学校でも、もっと日本語である国語をしっかりと教えなければいけない。韓国のようになっては国が亡びる。中国も新しい簡易文字の普及の為に、若い世代は長く受け継がれた文化を理解できなくなるだろう。口語が廃ればその国の精神・伝統も亡くなる。

                  2021・9・23 記す 

 

 

          

転居始末記

 

昭和三十九年四月、私は県立宇部高校に三カ年勤めただけで母校の萩高校に転勤した。それより少し前に父が脳卒中で突然倒れたので、一人息子の私としては帰らざるを得なかった。その後父は家で静かに臥ていたが、左半身麻痺に罹り手足が動かず、ものも言えなくなった。しかし一カ月ばかり安静していたので幸いにも回復した。その後元気になった昭和五十七年まで生きて満八十四歳で亡くなった。今、私は父の年齢を超えて八十五歳になった。

 

此の事より数年前、今から数えたらかれこれ四十年くらい前になるが、ある日突然我が住まいが騒音の襲撃を受け、それからは一日としてそれから免れる事が出来ず、従ってその事が終始念頭を離れなかった。

 

私の住む区域は萩市内でも、浜崎と云って海に近く、特に私の町内には水産物加工などを生業(なりわい)とし、またそこで働く人が多く、純粋の民家は比較的少なかった。水産加工といえば、蒲鉾や竹輪などの加工をはじめ、いりこ干しなどを行う。昔は砂浜に筵(むしろ)を敷いて天日干しをしていたが、その後室内で大型の扇風機による乾燥に代わった。そうなると雨天であろうと夜中であろうと問題ない。一年中扇風機を稼働さすことが可能となる。それに伴う騒音は経験したものではないと分からない。市当局に訴えても規制内の音量だと云って、私の言い分をどうしても取り上げてくれない。業者も死活問題なので結局我々は、一方的不利な状況下で、泣き寝入りの状態を続けざるを得なかった。

 

私の家は道路に面して門があり、その門を潜って細い路地を十メートルばかり行った所に中間の門扉があった。普通は閉めたままで、その左手にある小さなもう一つの潜り戸を入ると、目の前がパット大きく開けたように芝生のある庭が広がった。先ず目に入るのはタブの大樹である。樹齢二百年を超すと思われるタブの木が、四方八方に太い枝葉を伸ばし庭の一部を覆っていた。しかし今はその大枝八本が無残にも切断され、拡げた傘をすぼめた様な格好になっている。

 

門がまえの中に木を書くと「閑」という字になる。私はこの字が好きである。「閑静」「閑居」「閑人」という成句があり、悠々自適の境地を彷彿させるからである。曽祖父、祖父,父と三代に亘ってここに住み、お茶を嗜んできたのも、喧騒で活動的な街中にあっても門を一歩入れば、大きな木のある閑静な環境に身を置く事が出来たからだと思う。

 

先に述べた中間の潜り戸を通って庭を左手に見ながらさらに十メートルばかり進むと玄関に達する。家は明治の初期に建てられた平屋で、今は「梅屋七兵衛旧宅」として保存されるようになった。茶室が二部屋あった。私はこの茶室で生まれたと聞かされてきた。騒音に悩まされるまでは「車馬の喧(かまびす)しきなし」の清閑な場所であった。ついでに書くと、祖父が建てた茶室の庵号は「閑楽庵」という。

 

「人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過ごすを楽しびとす。」と兼好法師は言っている。私の祖父が『徒然草』を愛読していたとは思はないが、閑を楽しむ精神は持っていたと思う。

 

私の妻は、結婚前に来た時のことが忘れられないのか、「東萩駅から松本橋を渡り市街地の寺町まで来たら、その先に指月山が見えて、城下町萩の雰囲気を感じられる処へ連れて行ってもらえると思っていたのに、寺町を過ぎた途端に浜崎の魚臭い町内に入ったので、一体何処へ連れて行かれるのかと不安でたまらなかった」、と当時を思い出してはときどき口にする。私はそこで生まれ育ったので別にどうとも思わないが、彼女はそれまで周囲が田圃の家で暮らしてきたので、非常に心配したのだろう。萩市と云えば古都とまでは云わないが、白壁の土塀に囲まれた武家屋敷、そこに栽培された夏ミカンのある静かな佇まいの城下町を誰しも連想する。しかし活動的な商業地も市中には当然ある。私の家はそういった活動的な街中にあったが、「一歩門を潜ると閑静な別世界に入った様だ」と、初めて訪れる人は異口同音に、このような感想を漏らしていた。家内もそれでホッとしたようだ。

 

父が昭和五十七年に亡くなった事は前に述べた。その前日の晝過ぎまで元気だったが、その年高校に入ったばかりの次男が学校から帰った時、縁側に倒れていた父を見つけた。父は翌日のお茶の稽古の準備をしていたのである。急に具合が悪くなって縁側から座敷に身を移してもらい、そこで寝ていたが夜中に急死した。「ピンピン・コロリ」は、誰もが願う死に方だが、家族のものにとっては少しあっけなく思えた。父の死因は長年体内に抱えていた動脈瘤が破裂したためだと思われる。

 

私と妻は父が生きている間はなるべく側に居る覚悟で騒音に堪えていたのであるが、父の死後しばらくして、ある日のこと、突然妻が軽い記憶喪失の症状を見せたので、直ぐ診断を仰いだ。それまでにも急に耳に激痛が走るという前兆はあった。一日中騒音に悩まされて神経に異常をきたしたと思われる。

 

何時も思うのであるが、沖縄や岩国など、米軍空軍基地に住む住民の悩みが如何に深刻なものかは、こうしたささやかな体験からしても察する事が出来る。しばらくの間妻は自分の姉が住んでいる滋賀県に移って養生することにした。こうなると事は深刻である。住み慣れた我が家があるのに、市内に適当な場所、つまり騒音の無い家を探し求めねばならない。偶々城下町の一偶にある青木周(しゅう)弼(すけ)旧宅が見つかった。それまで住んで居られた郷土史家の田中助一先生御夫妻が、高齢のためにこの広い屋敷を出て行かれ、それに際して代わりになる適当な管理人を探して居られると云う事を聞き、話がうまくまとまったという訳だ。父の死後、母屋の方に住んでいた母はそのままいて、母の妹が一緒に住んでくれることになり、私と妻は安心して我が家を一時出ていくことが出来た。

 

私は母校に丁度二十年間世話になり、昭和五十九年から県立萩商業に転勤していた。従って青木周弼の家からは学校まで歩いても五分とかからないので、この事は非常に助かった。しかし何と言っても有難かったのは閑静な環境である。

市内には観光の名所がいくつもある。ここ青木周弼の旧宅もその中の一つで、先隣の木戸孝允の生家と並んで、多くの観光客が訪れる。私と妻がこの家の管理人として入居した当時は、観光客は家の門を入った地点までしか入ることは出来なかった。

 

『図説 日本の町並み』(第一法規)に次のような記述がある。

 

呉服町・南古萩地区は、「萩城下町」としてその一部の約四・五ヘクタールが国の史跡に指定された。これは全国で最初の町並みとしての保存策がとられたものとして注目される。

地区全体として藩政時代の建物は三四棟あり、道路総長との比率ももっとも高い地区となっている。藩政末期に活躍した著名な人たちの家としては、青木周弼旧宅・木戸孝允旧居(江戸屋横丁)、高杉晋作旧宅(菊屋横丁)があげられる。(中略) 

武家地の特色は、比較的ゆったりとした敷地を持ち、主屋が奥まったところに建つことにある。道路からみえるのは、門と塀、そしてまれには主屋の屋根であるために,町並み景観としては、散漫で物足りない印象を与える。しかし、ともすれば住環境の悪化しがちな現代都市の中で、萩の旧武家地はまことに魅力的である。

 

「まことに魅力的な旧武家地」に移住できたのは、その静かなことにおいては申し分のない有難い処であった。しかし観光客として外部から覗き見るのと、実際に住むのとではかなりの隔たりがある。萩市文化財となっているこの旧宅は、安政四年に建てられているので、そこで生活してみて色々と不便な点があった。

 

最近建てられる住宅では、便利さを最優先していると考えられる。昔の武家住宅は格式ばって居ると云うか、玄関や座敷(客間)、またそこから見える庭などに外見には十分な配慮がなされているが、家人が生活する場所はかなり不便であるように見受けられた。私たちは先ず昔のトイレ、つまり雪隠(せっちん)や厠(かわや)と呼ぶにふさわしい便所の臭気、さらに糞尿の汲み取りに悩まされた。西日の射しこむこの昔ながらの便所に入ると、私は、誰が詠ったか忘れたが、「敷島の大和心を人問はば西日に臭う雪隠の中」の狂歌を思わずにはおれなかった。

 

これ以上に臭気に悩まされたのは、便所の汲み取りであった。月に一度くらいの割合で,衛生車がやって来るが、早朝のことが多くて朝食時に重なると、いくら戸障子を閉(た)て切っても、隙間の多い障子や襖の間から臭気は遠慮なく家中に充満する。汲み取りが終われば今度は反対に戸障子を開け拡げて室内の臭気を放出させなければいけない。臭いついでに言えば、衛生車に頼むのを待たずに汲み取りをしなければならなくなった時は、畑の一部を掘り起こして、用意してあった肥担(こえ)桶(たご)と柄杓で作業をしなければならなかった。私が子供のころは何処の家でもこうした作業は普通であったから、作業自体はそれほど苦にはならないが、やはり臭気の問題である。水洗便所が普及した時に、このような作業は時代遅れも甚だしいと感じながらいつも行っていた。二番目は風呂である。隙間風が通る浴室には五右衛門風呂が据えてあり、お湯は電気で沸かすようにはなっていたが、これも今から思えば我慢すべきものであった。さらにもう一つ。モダンなキッチンとはとても言えない狭くて不便な昔ながらの台所であった。しかしこうした不便をかこつことはあっても、騒音被害を免れたことは何よりも有難く、我々は感謝して住むことにした。

 

旧宅は、道路から一段高く石段を上った処に厳めしい門が建っていて、その両側に塀が続いている。間口四〇メートル、奥行きも同じく四〇メートルもある五百坪の広い敷地で、主屋の南側に庭があり、北側には主屋に接するように堂々たる土蔵が建っていた。

門に接して向かって右側に昔の仲間部屋がある。一度その中に入ったことがあるが、入った途端に、十数匹の蚤が足にとりついてきたのには驚いた。このような事も今となっては懐かしい出である。

 

室内の詳しい間取りを詳述する事は止めるが、私にとって感慨深く思えたのは、幕末、緒方洪庵と並び称される蘭学者で医師であった青木周弼と研蔵の兄弟、さらに研蔵の養子となり、後に外交官として活躍した青木周蔵たちが、勉学に勤しんだと思われる玄関の隣室である書斎で、私はこれらの英傑たちを思いながら八年もの歳月を送ったことになる。学校から帰ると私はこの書斎に入り、ガラス窓越しに庭を見ながら机に向かうのを常とした。冬から春にかけて紅白の梅が咲き、椿も大きな花を開いて目を楽しませてくれた。また梅の季節になると、毎日何処からともなく鶯が飛んできて耳を楽しませてくれた。周弼は梅をこよなく愛していたようで,屋敷内に十数本の梅の木が植えてあった。このような恵まれた環境は、多少の不便を相殺するのに十分であった。

 

私はこの家に住むことにより、青木周弼、研蔵、周蔵の三人の存在を初めて知った。森鴎外がドイツのベルリンに着いたのは明治十七年十月十一日である。彼は到着早々の十三日に青木公使を訪ねている。『獨逸日記』に次の記述がある。

 

この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして、鬚多き人なり。(中略)公使のいわく衛生学を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らく難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。欧州人の思想はいかに、その生活はいかにか、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといわれぬ。

 

この日記の一部を、私は拙著『杏林の坂道』にも引用したが、鷗外が青木公使に出会い、そのときの印象が強かったのか、彼はそれから四半世紀後の明治四十二年に、『大発見』という短編の中で、次の様に書いている。

 

「君は何をしに来た。」

「衛生學を修めて来いといふことでござります。」

「なに衛生學だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄を挟

 んで歩いてゐて、人の前で鼻糞をほじる國民に衛生も何もあるものか。まあ、學問は大概にして、ちっと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」

「はい。」

 僕は一汗かいて引き下った。

  

鷗外にとって何が「大発見」だったのか、もう少し読んでみよう。

 

僕は三年が間に、獨逸のあらゆる階級の人に交わった。・・・併し此三年の間に鼻糞をほじるものには一度も出逢はなかった。・・・果せるかな、欧羅巴人は鼻糞をばほじらないのである。 

 

 鷗外はある日、当時有名だったヰイドという独逸人作家の作品を読んでいて「大発見」をしたのである。

 

「彼はをりをり何物かを鼻の中より取り出してゐる。さてその取り出した結果を試験する為に、鼻の穴の中に一ぱい生い茂っている白い毛を戦(そよ)がせて、彼は空気を通過させて見てゐる。」

 

この文章を紹介して、鷗外は次のように締め括っている。一種ふざけた文章だが面白い。

 

欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早何人と雖、抹殺することは出来ないであらう。前(さき)の伯林駐箚(ちゅうさつ)大日本帝国特命全権公使子爵S.A.閣下よ。僕は謹んで閣下に報告する。欧羅巴人も鼻糞をほじりますよ。 

 

S.A.閣下とは言うまでもなく、青木周蔵のローマ字書きのイニシャルである。

いささか脱線したから、話を元に戻そう。

 

この青木家の後を継ぐべき周蔵は医者にならずに、外交官として枢要な地位にあり、独逸人女性と結婚したために萩へは帰っていない。従ってこの由緒ある家が廃屋になるのを見かねて、萩中学校の教師であった安藤紀一先生が購入されて住まれたのである。安藤先生は国漢の教師とし非常に実力があり、また郷土史家としても第一人者であった。岩波書店が『吉田松陰全集』を刊行するに当たり、編集者として先ず先生に白羽の矢を立てたことでも先生の学者としての実力が証明される。

 

この出版事業と安藤先生との関係について、平成十八年の『史市萩』に今井東吾氏(筆者注:今井氏の岳父の父が安藤先生)が寄稿された文章を引用させてもらう。編集者は先生の外に広瀬豊、玖村敏雄でいずれも松陰研究の権威であった。

 

祖父はその時六十八才で、京都で隠棲生活中でしたが、萩に帰った祖父から広瀬委員は、次の様な書面を受け取っています。

「私にも依頼申し来り候処、もはや老朽無能、諸君子と同列に立ちて動く事は出来兼候処と自覚候へども、残齢余喘の未だ竭きざるに及んで此の盛事を見、且つ依頼を受くる以上は,根気の有らん限り老朽相応の努力致度、・・・一生の思い出に貢献致すべく決意致候。・・・」(昭和七年七月二十日)

とその心情を伝えています。

 

以上のことは、吉田松陰全集月報七号(昭和十年九月)の「嗚呼安藤紀一翁逝く」と題する、広瀬委員の弔文中に記されています。又同じ月報に、「安藤先生の面影」と題する弔文を寄せられた玖村委員は、「全集の総ページは約六〇〇〇、その中の半数近いく原稿は先生の手になったものである。その苦労は文字通り辛酸を嘗め、心血をそそがれたもの。」と述べておられます。

 

先生は全集刊行事業の完結(昭和十一年四月)を見ることなく前年の七月に亡くなっておられる。さぞ心残りだったでしょう。このような立派な教育者・郷土史家であった安藤先生が、先にも述べたように青木周弼旧宅を購入して保存に努められたのです。

 

その後管理人となられた田中助一先生も『青木周弼伝』という浩瀚な伝記を書いておられる。このような先生方の後に、青木家とは縁もゆかりもない、私のような浅学非才な者が入るには、全くふさわしくないと自ら思っていた。敢えて何らかのつながりを探してみると、私の祖父と安藤先生との間には親交があり、父は中学時代に先生の教えを受けている。其の事についてちょっと触れて見よう。

 

本稿の冒頭に掲げた写真は山田亦介(号は公章)の書である。今私の手元にあるが、生前父が私に次の様に語った。

「先生はいつも学校の事以外で家に来られ茶室で父(友一郎)と話しておられたので、おれは同席した事はないが、ある日お帰りになるとき玄関まで送って出ると、そこに当時掛けてあった山田亦介の書いた額を読んで聞かされた。」

 この文章は漢文体で、水戸藩主景山公が「茶対」という題で書かれたものを松陰先生の兵学の師山田亦介が書き写したものである。今それを取りだして読んで見ると、

 

「或人問フ、子、茶法ヲ学ブカト、吾答ヘテ曰ク、未ダシト、嘗テ之ヲ聞ク、

其味ヤ苦ニシテ甘、其噐ヤ麁ニシテ清、其室ヤ撲ニシテ閑、其庭ヤ隘ニシテ

幽、其交ヤ睦ニシテ礼、屡会シテ費サズ、能ク楽ンデ奢ラズ、此ノ如キノミ、

其ノ之ニ反スル者ハ吾ノ知ラザル所ナリ。 景山」

 

さて、教育者・郷土史家として著名な安藤先生がこの青木周弼の旧宅を購入され、その後萩市がここを購入して市の文化財として保存する事になったのであるが、管理人として田中助一先生ご夫妻が入られたのである。その時は家屋が相当破損していたようで、雨漏りなどもひどくて、田中先生はかなりの自費でもって修理されたと聞いている。引き続いて私どもが住むようになった時も、畳や戸障子の修理や新たに水道を引くなど思わぬ経費を要した。しかし管理費を払う必要がなかったので助かった。広い畑と周囲の溝の除草などは当然のこととして行っていた。

 

さて、ここで意外な事件が生じたことを記してみよう。私の先祖が毛利の移封に伴って広島から萩の地に移り住んで三百五十年。その間北前船の持主として一時活躍したらしいが、祖父の代からは鳴かず飛ばずの貧乏暮らしをして来た。しかしいずれにしても先祖代々暮らしてきた故郷を去ると云う事は、私にとっては一大決心を要した。後髪を引かれる思いであったが背に腹はかえられぬ。思い切って転居しことは、今ではそれでよかったと思って居る。しかし故郷を離れてもその地で起こる事には関心がないとは言えない。

 

昨年平成二十四年三月二十九日の朝日新聞の朝刊に、「旧渡辺蒿蔵邸公開へ」という大きな見出しが出ていた。その下に小さな見出しで「松下村塾生・造船界の草分け」とあり、蒿蔵の写真と彼の邸の一部が色刷りで載っていた。新聞には次の様に紹介されていた。

 

吉田松陰に学んだ松下村塾生で、東洋一とうたわれた立神第1ドックを長崎市に完成させた渡辺蒿蔵(こうぞう)(1843~1939)の萩市江向にある旧居宅の改修が終わった。江戸時代の武家屋敷風で、大きな庭園や茶室を備えており、4月1日から一般公開される。

 

武家屋敷風、萩市が改修」と云う小見出しに次ぐ記事を少し引用してみると、

 

渡辺は15歳で松下村塾に入った。藩命で米国に留学し、さらに英国へ渡ってロンドン大学に学び、グラスゴーで造船技術を習得。帰国後工部省に入り、1883年には日本最大の木造船小菅丸を造り、官営長崎造船局(現三菱重工業長崎造船所)初代局長となった。日本造船界の草分け的存在といわれる。

 

旧居宅は渡辺が明治中期に建てた。主家や茶室、土蔵、江戸期の武家屋敷の遺構とみられる長屋門の4棟で延べ床面積は計役20平方㍍。娘の死後、空き家になっていたが、千葉県浦安市に住むひ孫が2004年、市に建物と土地の一部を寄付した。

 

この記事を見て私は是非この家を見てみたいと思っていた。それには一つの訳がある。

前述の如く、父が僅か半日の患いで亡くなったのは昭和五十七年五月一日であった。八十四歳まで生きたから長寿を保ったといえるだろうが、私にとっては父に関する事や父が考えていたことなど聞く機会がなくなり、やはり残念であった。その父が生前、渡辺蒿蔵についてこんなことを話したことがある。

 

「渡辺蒿蔵という人は偉い人じゃった。この人は松陰先生の最後の弟子で、イギリスやアメリカで造船の技術を学ばれて、帰国されると長崎の造船所の初代の所長になられたのじゃが、そこが官営から民営になった途端に、『俺は民間人の下で頭を下げては働かん』といって萩へ帰って来られたのじゃ。その時は未だ四十歳台じゃったというから驚く。四十歳台と云えば未だ働き盛りだ。それから渡辺さんは九十七歳まで生き、悠々自適の生涯を送られた。あんな人はめったに居らん。当時萩で渡辺さんほど英語が話せる人は誰もおらなかった。あの家の座敷の下には大きな甕がなんぼも埋められてあった。それは能の稽古をそこでされるとき足踏みをした時響が良いからだと聞いておる」

 

このような具体的な事を父が昔話したのを覚えているが、その時はなぜこのように詳しいことを知っているか、別に不審に思わず聞いていたが、父が亡くなって数日してこんなことがあった。

 

父の妹夫婦が萩市に住んでいて、父の死後毎日焼香に来ていた。葬儀が終わって二三日後父の妹、つまり叔母から電話がかかってきた。家内が受話器を取ると、

「今拝んで帰ったところじゃがの、仏壇に八百(やお)と書いてある香典があったが、八百とは誰かの?」と、叔母は訊ねた。

「あれは私の父の弟で、私の叔父に当たる人の養子先の苗字です。そこが八百という家です。叔父は戦死しましたが、叔母は叔父が亡くなった後も親しくして下さって居ります。それで先日も香典を送って下さったのです」

「ああ、それかの」

こういってその時は電話での質疑応答は簡単に終わった。

それから数日後、叔母の家を訪ねた時こんなやりとりがあったと、帰宅した家内が私に語った内容は私には初耳だった。

「あの時仏壇に八百と書いた香典があるのを見てびっくりしたいの。道々主人と話しながら帰ったのじゃが、実は、これは今初めて話すが、孝夫(筆者)のお母さんが亡くなって数年して、兄様が渡辺八百という人と結婚されたが、どういういきさつかは知らんがしばらくして別れられた。私はてっきりその八百さんが来られたとばっかり思ったもので帰って直ぐ電話したのでのじゃいの。八百さんは、兄様が亡くなったと云う事を耳にして、わざわざ拝みに来られて、渡辺と書かないで八百と書かれたと思うて、何だか女心が感じられたものじゃから、電話をかけて訊いてみたのじゃいの。まあこれで謎が解けた」

 

父には二つ年上の姉と、十一歳も年の離れた妹がいる。勿論今は三人共鬼籍に入っているが、父の結婚歴についてはその時まで私は全く知らなかった。私の実母は私を産んで九カ月後に二十五歳で亡くなった。継母が来たのは私が十歳の時である。父がその間に渡辺蒿蔵の末娘と結婚していたのである。この事を父はもとより父の姉の伯母も妹の叔母も私に秘していたのである。八十八歳まで生きた継母もこの事は知らなかったようである。灯台下暗しであるが、父の友人などは当然知っていたと思われる。

 

前述のように平成十年に私どもは山口市に転居したが、その前年に継母が亡くなった。それからしばらくして父の姉の息子、つまり私の従兄がこんな写真があったと云って一枚の結婚式の写真を送って来た。見ると父と花嫁姿の女性、この外に父の姉である伯母夫妻と父の妹である叔母、さらによく見ると私の祖母の側に四.五歳くらいの男の子が立っている。まぎれもなく私の子供時代の写真ではないか。私はびっくりすると同時に、これこそ叔母が話した父の結婚を裏付ける証拠だと思った。

 

その写真にはさらに浴衣姿のかなり老齢の翁と恐らくその妻だと思える姿も写っている。実は此の老人こそ渡辺蒿蔵に違いないと思ったもののまだ確信が持てなかったが、「旧渡辺蒿蔵邸」を訪れたとき、室内に掲載してあった晩年の写真が、私の手にした写真と全く同じ様子だったので、積年の謎が解けたと云うものである。しかし父がなぜ結婚早々に別れたかの謎は永遠に解くことは出来ない。

 

これはあくまでも想像の域を出ないが、ひょっとしたら私は蒿蔵翁の膝に抱かれたかもしれないし、頭を撫でて貰ったかもしれない。父が離婚しないでそのままでいたら、私は渡邉蒿蔵翁を義理の祖父として持った事になる。翁は昭和十四年に九十七歳で亡くなっているので、この写真は亡くなる数年前のものと思われる。若き日の精悍な容貌とは全く異なる好々爺のそれである。

  

平成29年9月14日記

 

 

犬を連れて

 

    

                   一

二日前の朝の散歩の途中、真っ白い小さな二匹の犬を連れている女性を見かけた。通り過ぎかけたが振り向いて、「可愛い犬ですね。何歳ですか?写真を撮らせてもらえませんか?」と話しかけたら、愛想よく、「三歳です。どうぞ」と言って応じてくれたので、持参のスマホで犬を中心に撮って、「ありがとう」と言ってその場を去った。

 

帰ってパソコンの操作をしたところ、動画になっていて二匹の内の一匹が動き回っていて、絶えず私の方に近づこうとしていて、彼女がそれをなだめる様子が写っていた。出し抜けに話しかけたこともあって、詳しく犬のことを訊かなかったが、ひょっとしたら落ち着きのないのは、雄だったかも知れない。

 

私は電子機器の扱いは苦手である。幸いに次男がこういったことに知識があって、十数年前彼がイギリスに留学するに当たり、電話連絡では大変だからと言ってパソコンを買ってくれた。その後今度はスマホを買ってくれて、その操作を教えて呉れた。お蔭で私はこれで電話のやりとりと、写真を摂る機能としてだけに利用している。便利なものでスマホで撮った画面が、知らないうちにパソコンに入っていて、直ぐ見ることが出来る。これには驚いた。この歳になってこうした機器を多少なりとも扱うことが出来て非常に有り難く思っている。唯漫然とテレビの番しかできない老人が多いようだから。

 

こうして先の犬の写真が動画になっていたので、印画紙がなかったので普通紙に写して、その女性に会ったら差し上げようと思って今朝また散歩に出かけたら、先日とほぼ同じ場所で彼女に会った。そこで写真を上げて「動画になっていたので、もし見ようと思われたらこのメールアドレスに連絡して下さい」と言って別れた。彼女は笑顔で「ありがとうございました」と礼を言ってくれた。

 

朝の散歩には犬を連れた人に何人も出合うが、こうして写真を摂らして貰う気になったのはこの女性だけである。何と云っても仔犬が可愛かったからだ。彼女と別れての帰りに珍しいことに二匹の猫を見かけた。それぞれ違った場所だが、何れも飼い猫だろうスマホを向けても逃げようとはしなかった。猫を連れて散歩する人には出合わないが、以前に一人だけ飼い猫に首輪をつけて紐をもって一緒に歩いている男性を見かけたことがある。彼はその直ぐ近くに住んでいるようだ。流石に猫を連れての遠歩きは無理だろう。

 

外国では虎をこうして連れ歩いていている者もおるようだが、余程飼い慣らしたもの

だろう。人によって犬好きと猫好きとに別れるようである。家内は猫の方が良いと言っていた。理由は犬がじゃれつくのが嫌だと言っていた。私なんか犬も猫も好きだが、飼う気にはならない。最大の理由は、今飼っても恐らく私の方が早く死ぬだろうから、残った犬にしても猫にしても可愛そうである。おまけに毎日の食事や糞尿の世話、更に病気になった時のことなどを考えたら無理である。

 

 私の所へ時々話しに来られる元大学の先生は、昔から猫との生活を続けておられる。先生が夜床に入られたら、必ず同じ床に入ってきて一緒に寝るとか。当に猫と一心同体と云っても良いような生活だ。

 

戦後、動物愛護と言うことが声高に言われるようになった。デパートや大きいスーパーへ行けば飼育動物のフードコーナーがある。更に驚いたことに、彼等が死んだときに火葬して供養すると言ったこともあると聞いている。犬猫とは云え、大切な家族の一員である。 

 

アフリカでは飢餓に困った子供がいると言うのに、一方では贅沢な犬や猫がいるとか。食べ物のなかった戦時中を思うと、動物愛護も聊か度を越しているように思われる。                       

 

               二

 

散歩から帰りいつものように野菜に水をやって家の中に入り、上記の文章を八時頃まで書いた。一先ず書き終えたのでまず神棚の榊の水を替え、次に仏間へ入ったら何かしら「ざわざわ」と雨が降るような音がする。先ほど歩いて来たから分かるが晴天で降雨の心配はない。そう思いながら仏間を後にして外に出た。先ず体操をして次に木刀の素振りを三十三回した。回数は大体この通りである。引き続いて庭に据えてある石の地蔵を拝もうと思って、家屋の橫へ廻っていったら驚いた。水道の蛇口から噴水のように水が吹き出ていた。散歩から帰って石地蔵の傍にある小粒のトマトに水をやったとき、水道の栓を閉め忘れたのだ。

 

二時間ばかり水が放出された事になる。一年ばかり前にもこれと同じ失敗をした。前回は一晩中だったので水道料金が嵩んでいたので、二度と繰り返してはいけないと思い、この水道栓の傍に張り紙をして気を付けていたのだが、いつの間にか其の張り紙がなくなり再び失敗した。人間が馬鹿か賢いかは、物事を慎重にするかどうかで判断することが出来る。此の點を考えると我ながら賢明とはとても言えない。もう二度とこうしたことの無いように肝に銘じなければいけない。

 

この時私はふと次のことを思った。「火災で消防車がやって来て消火に当たった時、莫大な量の水を使用するだろう。その時の水道料金はどうなるか」

私はネットを開けてみた。このネットは実に便利である。私が疑問に思うようなことは何でも回答してくれる。次のように載っていた。

 

「水道法第24條で、水道事業者は、公共の消防用として使用された水の料金を徴収することはできない」

参考までに、毎分2000リットルの放水能力を誇る消防車が30分間放水するとお風呂240杯分で2万円かかる。水道局か消火庁が支払う。

 

それにしても毎年多くの火災が起きている。その時の消火のための水の使用は莫大な量に達するだろう。しかし噴水で洪水になるような事はなかろうが、火災は大きな惨事に発展する。「火の用心」だけは忘れる事なく、これからの独身生活を慎重に送らなければいけない、と今月の終わりに当たり改めて思った。

 

                      2021・7・31 記す

             

 転(うたた)荒涼(こうりょう)

久し振りに友人が午後2時に話しに来るというので、午後の散歩を正午前に済ませておこうと思って家を出た。今日は何時ものコースより少し遠回りをして、湯田カントリ・クラブヘの道を選んで、六地蔵のある丘に向かって歩いた。陽は射していたが風はかなり冷たかった。人影は殆どなかった。ただ一人だけオーバーを着てマフラーを巻いた年輩の女性が、一匹に黒い小さな犬を連れて歩いて居た。その歩き振りがあまりにゆっくりであるのに私は一寸不思議な感を覚えた。

 

漱石の『坊ちゃん』を読むと擬態語がやたらに目につく。いくらあるか数えてみたことがある。70回は出ていたと思う。この数は異常に多いのではあるまいか。だから『坊ちゃん』の文章が躍動感に富んでいて、多くの人に彼の作品を読み始める機会を与えるのではなかろうか。私は文章を書いてもほとんど擬態語や擬声語を使ったことがない。

 

しかし今日はこの子犬を連れた女性のあまりにもゆっくりした歩き方を、どの様に表現したものかと生まれて初めて考えてみた。「ゆるゆる」「よたよた」「そろそろ」「よろよろ」「よちよち」「とぼとぼ」と言う表現が頭に浮かんだ。女性の方は犬の歩調にあわせるかのように、「そろりそろり」と、一方子犬は「よちよち」とした感じだった。それほど異様な歩き振りに、それも犬の歩き方がそうだったから奇異に感じた。

 

最近子犬を連れて歩く人に出会う事はめっきり減った。コロナの関係だろう。それまで、犬を連れて散歩を行う人をよく見かけた。その場合、大抵連れて歩いている子犬は、脇見をしたり、立ち止まったり、あるいはさっさと前へと早く歩くといった勝手な行動をして居て、連れている人はある程度犬の気儘な行動を許した仕方で歩いている。

今日見た人には以前にも一度見かけた覚えがあるので、「犬は何歳ですか?」と尋ねたら、その女性は「今日が誕生日で、13歳です。今病気をして弱っています」と答えた。見てみると、顔も身体も一面に黒いもじゃもじゃとした毛で覆われていたが、よく見ると額のあたりの毛が抜けているようだった。確かに弱っていてやっと「よちよち」歩いて居る風だった。

 

13歳と言えば、犬にしたら決して子供ではなかろう。私は彼女と仔犬ならぬ小犬を後にして足早にすたすたと歩みを続けた。目的地の六地蔵に達したので十円銅貨を供えて拝んだ後、いつものように崩れかけたような石段を登って、山口市街が眼下に広がって見える一寸開けた墓地までやって来た。私はほとんど毎日この場所にまで上って来ると、一休みして深呼吸をすることにしている。ここは道路から10メートルばかりの高さで、山口市が山に囲まれた盆地だと言うことが一目瞭然である。遥か彼方の山並みの稜線が冬の空を背景にしてはっきり見える。その上に浮かぶ大小様々の形の白雲を見ると確かに気持ちが良い。取るにも足らぬような事だが、こうして年を取っても健康であることに感謝するのである。

 

目の前にススキが数本風になびいていた。これらのススキは昨年の秋には群がっていたが、今は殆ど枯れたのであろう姿を消している。それにしても長持ちする草だなと思った。中にはあの細い茎が2メートルにも伸びたのがあり、その先に真っ白な穂がついている。

 

ススキを漢字で「芒」とか「薄」と書くが、こうした姿から思いついた当て字のような気がする。10数年前に箱根の「ススキガハラ」へ行ったことを思いだした。ススキの群生が一望千里とまでは言わないが、見渡す限り緩やかな丘の斜面に広がり、細長い茎の先の白い穂が、風が吹くと一斉に波打つような風景は忘れ難いものであった。今日此の墓地に上り、ススキの姿を見、「ススキガハラ」の風景を思いだして、私は思わず乃木希典漢詩『金州城』を無言で吟じた。

 

山川草木転(うたた)荒涼

十里風腥(なまぐさし)新戦場

征馬前(すす)まず人語らず

金州城外斜陽に立つ

 

まだ萩市に居たとき、人に勧められて詩吟を習った事がある。そのとき此の乃木大将の『金州城』を教わった。その後山口に移って拙稿『杏林の坂道』を書き始めたとき、伯父の日露戦争の『従軍日記』に「本日ハ愉快ニテ我ガ国民ノ頭ヲハナレザル旅順口ヲ降伏セシム」と記して居るのを読み、取材を兼ねて是非現地へ行ってみようと思い、「二百三高地」の現場に立つことが出来た。

乃木希典は『爾(に)霊山(れいざん)』(」)という有名な漢詩も作っている。

 

爾霊山険なれども豈(あに)攀(よ)じ難からんや   

男子功名克艱(こっかん)を期す

鉄血山を覆(くつが)へして山形改(あらた)まる

萬人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山

 

話はもとに戻るが、「山川草木転荒涼」をこれまで何も気づかずに吟じて居た。処が初めて「転」は普通「転ぶ」と読むのに「転ぶ」の意味にしてはどうもおかしい。こう思ったので、帰宅して早速辞書を引いてみた。辞書は有り難い、疑問は直ぐに解けた。

 

 【転】➊まわる。めぐる。

❷ころぶ。ころげる。こける。

❸うつる。

❹うたた。いよいよ。ますます。

 

「転た荒涼」は、戦いが終わったばかりの金州城の外、夕陽が傾いている丘に立った時、そこには戦いの跡がまだ歴然と残って居る。この状景を目の当たりした将軍は、山や川や草木が一段と荒涼たるものに感じられたのであろう。

 

「転た寝」はどうだろうか。ごろんと寝転んでその内知らぬ間に寝入ってしまうから、両方の意味を持っているのかなと勝手に思った。私は過去何十年もの長い間、此の言葉について考えもしないで吟じていたのである。このような事は案外多いのではなかろうか。「門前の小僧習わぬお経を詠む」と言うが、意味も分からずに歌ったり喋ったりする事は結構多いのではなかろうかと反省した。

 

乃木大将は二百三高地において、また金州城の戦いで多くの部下を戦死させた。また彼自身の2人の息子の戦死という悲しい目にも会っている。この悲しい体験を通してこの2つの漢詩を作ったのだろう。それを思うと戦争の非情、痛ましさを感ずる。

 

司馬遼太郎は乃木大将を「愚将」として貶(おとし)めた本を書いている。決してそうではないという反論の文章を読んだことがある。戦略家としては児玉源太郎の方は一枚上であったかも知らないが、人間としては乃木希典という人は高潔で詩人肌の武人だったと私は思う。

 

彼が明治天皇の逝去の後、夫人と共に殉死した事は当時にあっては大きなニュースであったに違いない。漱石は『こころ』の中でこの事に言及し、鷗外は『興津弥五右衛門の遺書』という名作を直ぐに書いている。彼らはやはり乃木希典の人格に感銘を受けたからであろう。令和の今、このような事は一寸考えられない。

 

散歩から帰ってしばらくして約束通り友人が久し振りに訪ねて来た。その時彼は『朝日新聞』の紙片を1枚だけ持ってきた。私は彼が帰った後、そこの書かれてある記事を読んでみた。京大名誉教授・佐伯啓思氏の『コロナ禍見えたものは』という文章であった。佐伯氏の考えは右左にあまり偏らない中庸なものだから、彼の文章は読んで楽しい。

 

彼は最後に、「生の充実には、活動の適当なサイズがある。われわれは、物事にはすべて適当な大きさや程度があり、無限の拡大がよいわけではない、という実に当然の考えを忘れてしまった。その結果「大事なもの」を随分と失い、傷つけてきたのではなかろうか」と書いていた。

 

佐伯氏はその前に次のように書いている

「人は、より大きな欲望の充足を求めて、経済を無限に成長させようとするだろう。世界中を歩き、あらゆる情報を手に入れ、だれとでもつながり、人間の能力を超えた未知の次元にまで足を踏み込もうとする。自由、富、情報、空間、人間能力の無限の拡張が始まる。「拡大」こそが現代のキーワードとなる。」

前述の文章は彼の見る現代世界への警鐘の文章だと思う。彼はオリンピックが本来の純粋な平和の精神を忘れて、商業資本に汚染された不純なものになったとも別の処で言っていた。コロナ感染の未だ収束の見込みが立たない中でも、東京オリンピックを是が非でも実施したいのは、貪欲なる世界の大資本家達だろう。    

2021・2・9 記す

独居漫談

                  

 

私は入浴を隔日に決めている。昨晩入浴したお蔭だろう、ぐっすり寝ることができた。目が醒めたので時計を見たら5時10分前、すぐ起きて洗顔し、机に向かって昨日読みかけたが、どうしても理解ができずに止めていた『文学論』をまた開いた。實は数日前に町内会の広報係の方が突然来られて、「『硫黄島の奇跡』を読みました。これを書かれた方がこの町内に住んで居られるとお聞きし、是非お会いしたくて参りました。毎月『よしき』という広報誌に「吉敷人」として何人かの方を紹介していますが、いい方が見付かりましたので大変嬉しく思います。後日貴方に宛てて質問事項をメールで送りますから、メールアドレスを教えて下さい」との挨拶だった。

 

彼は湯田という名前で、この人を紹介方々一緒に来られた年輩の女性曰く、「湯田さんは数年前の『きらら博覧会』の最高責任者でしたが、今は定年退職されてこの地区の役員として活躍されています」と言われた。見た目に若いので年齢を訊いたら、「82歳です。旧満州奉天から引き揚げました」と言われたので驚いた。私はまだ70歳を一寸過ぎた位だと思ったからである。黒いジャンバーを着てとても80歳を過ぎているようには見えなかった。やはり活動している人は年によらず元気だと思った。

 

その湯田氏から昨日約束の質問事項がパソコンに入っていた。忘れないうちにと思ってこれへの回答をしなければということが頭から抜けず、『文学論』を読むのを中断したのがもう一つの理由である。しかし実を言えば、漱石の文章になかなかついて行けないのが本音である。

 

質問事項は「生年月日」から始まって、最後の「座右の銘」、「夢」そして「若者への提言」の12項目もあった。私はこれまでこのような質問を一度も受けたことはないので、一寸躊躇したが、まあ自分の年齢を考えて敢えて最後の3つの質問に次のように回答した。

 

座右の銘」というほどのものはありません。『無事是貴人』。もう少し具体的に申しますと、『閑(しずけさ)を楽しむ』(『徒然草』にある言葉)と『則天去私』(漱石の目指したもの)。何事にも感謝。自然を楽しむ。まあこういったことです。

 

「夢」というほどのものはありません。急に一人暮らしになりましたが、人に迷惑をかけないようにしたく思います。その為には心身の健康が大切ですから、日々の生活を律するようにしています。

 

別に目標はありません。先人の文章、古典に親しみ、気が向いたら雑文を書き、できたら友人と旅がしたいです。しかしコロナ騒動で当分できないでしょう。そして安らかに死を迎える事が出来たら、最高の人生だったと言えるでしょう。私は何事も運命だと思っています。しかし「棚からぼた餅」だけとは思いません。

 

そして最後の「若者への提言」は聊か口幅ったいと思ったが次のように書いた。

「今IT産業の急速な発達で、物質文化、特に金が支配的になりました。確かに経済は大切ですが、精神的な潤いや高まりが顧みられない傾向があります。これには家庭教育が大切だと思います。結婚して子供ができたら、わが子を愛情をもって厳しく躾けることです。また、漱石は「馬よりは牛になれ」と云っています。この言葉をかみしめて、時にはじっくり我が身を省みることが大事だと思います。しかし、言うは易く行いは難しですね。

拙著『硫黄島の奇跡』には、こういった家庭教育の様子を書いて見ました。

 

こういった思わぬ雑事が入ったので、今朝改めて「第八章 間隔論」を読み始めた。しかし悲しい事に漱石の言わんとしていることが十全には理解できない。第一の理由は漱石の格調高い文語調の文体、その上辞書を引いて初めて分かるような漢字が頻繁に出てくる。もう一つの理由は漱石にとっては理路整然たる趣意であろうが、ぼんくら頭の私にとっては容易には呑み込めない。しかし実例として挙げてある英文は非常に面白く読めた。

『間隔論』の冒頭の数行を抜き書きしてみると次の文章で始まる。

 

形式の幻惑

 文学の大目的の那辺に存するかはしばらく措く。その大目的を生ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に帰着す。浪漫派の材を天外に取って、筆を妖嬌に駆るは鏡裏に怪異の影を宿して、その怪異なるがために吾人をして目を他に転ずること能わざらしむ。写実派のことを卑俗に藉(か)りて文を坦(たん)途(と)に馳するは鏡裏に親交の姿を現じて、その親交なるがために吾人をして目を外に転ずるを欲せざらしむ。能わざらしむと、欲せざらしむと興致(きょうち)において一ならずといえどもこの効果の幻惑に存するは争うべからず。

 

 じっくり読めば何とか理解できるが、このような文章を初めから終わりまで、延々500頁以上にわたって書き連ねてある『文学論』である。当時の東大在籍といえども、学生たちは顎を出したようである。しかし漱石が引用した英文は流石だと思う。

 

 ゴールドスミスとロバート・バーンズの2作家の小詩をあげて「兩詩ともに少女の身を過って、節を汚し、噬(ぜい)臍(せい)の悔を残喘(ざんぜん)に託して天地に跼蹐(きょくせき)するの窮状を歌えるあり。」といって詩を引用している。先ずゴールドスミスの詩を和訳で読むと、

 

美しい娘が身を過まち

男とは誠のないものと後になって気づくとき

その嘆きをどんな魔法が慰めてくれ

その罪をどんな手だてが洗い流してくれよう?

罪をおおい隠し

恥をみんなの目にさらさぬようにし

相手の男に悔い改めさせ

その胸をしめつける手だては一つ ただ死ぬのみ。  ゴールドスミス『女の歌』

 

今度はバーンズの詩を読んでみよう。

 

  お前たち美しいドゥンの堤よ、土手よ、

なんでそんなに綺麗な花を咲かせられるのか。

お前たち小さな鳥よ、なんで歌うことができるのか

私の心は悲しみでいっぱいだというのに。

お前は私の心を引き裂く、枝にとまって

鳴いている美しい鳥よ

お前は私の幸せだった頃を思い出させる、

あの裏切った人が誠であった頃を。

お前は私の心を引き裂く、連れ合いと寄りそって

鳴く美しい鳥よ、

私もそのように坐り、そのように歌って、

自分の運命を知らなかったのだから。

私は美しいドゥンの岸辺を何度もさまよい

すいかずらがからみ合うのを見た

どの鳥も恋の歌を歌い 

私も私の恋の歌を歌った。

軽い気持ちで私は薔薇の花を一つ摘んだ、                        

その棘のある木から。

そして、私の不実な恋人も薔薇の花を盗み

棘のみを私に残した。        バーンズ『美しいドゥンの花咲く堤』

 

 私は大学の卒業論文にロバート・バーンズを選んだ。お恥ずかしいことに選んだ理由は、彼の肖像画が気に入ったからに過ぎない。バイロンにしようかと思ったがバイロンはあまりに有名だから止めた。もう一つの理由は漱石が東大の英文科に籍を置いていたとき、「英国詩人の天地山川に対する観念」という優れた論文を読んで、その中にワーズワスとバーンズを高く評価していたからである。私は東大の学生であった漱石がこんなに立派な論文を発表したことに驚いた。しかし『文学論』にこの詩についての漱石の批評があるのを知らなかった。知っていたら大いに参考になったと今にして思う。さらに加えて云うと、バーンズ詩集をゲーテもナポレオンも愛唱したそうだ。

 

ついでにこのバーンズの詩について漱石がどの様に批評しているかを見てみることにする。長い引用になるが漱石の詩に対する考えが窺えて面白い。

 

この兩詩を一時に唱しおわって、いずれが読者の心を動かすこと最も多きやと問う時、読者もし同じといわばそれにて議論の余地なし。もしゴールドスミスのほう詩情に訴うること切なりといわば、しかるかというて已まん。されども読者もしその批評を逆さまにしてバーンズの痛切なる、前者の及ぶところにあらずと主張せば、余は再びなにがゆえにバーンズは痛切なりやと問わん。読者もし囁き逡巡し、自己の感得を言語の平面世界に羅列すること能(あた)わずといわば、われ読者のために無用の弁を費やして、両者の長短を剔抉(てっけつ)するの愚を憚(はば)からざるべし。G.の詩は冷静なり、端然として窮愁を説くこと木人の舞い石女の泣くがごとし。B.に至っては満腔すべてこれ悲哀なり。日月を傾け山河を貫いてただ悔恨の二字を余すにすぎず。これ兩詩の吾人に訴うる感受の差なり。吾人はこの差より出立せざるべからず。この差より出立してその対象を二作の上に求めざるべからず。

 

長々と引用した。10数年前、私は一人の知人と「イギリスの田園巡り」のバスツアーに参加した。当初外の友人と一緒に行く予定だったが、都合が悪くなったと言って、彼の友人を紹介してくれた。それがその時初めて知り合った知人である。不思議な縁で知り合ったが、天の恵みか實に良い人物だった。彼は終戦北朝鮮から命からがら引き揚げたと言っていた。残念なことに彼はガンで亡くなった。

 

その時スコットランドのバーンズの故郷近くを訪れるかと思ったが行かなかった。しかし今こうしてコロナウイルスが世界中に蔓延している事を思うと、あの時イギリス訪問ができて良かったとつくづく思う。これからこの感染病は一体どうなることだろうか。漱石はイギリスでの留学を口を極めて不愉快だったと言っている事は『文学論』の「序」に縷々書いている。しかし帰国寸前に訪れたスコットランドでの良き思い出を『永日小品』の中の「昔」という小品に書いている。

 

漱石が訪れたピトロクリと言う処はバーンズの生まれたアロウエイとは同じスコットランドでも、かなり離れて居ることが詳しい世界地図を見て分かった。ピトロクリはエジンバラネス湖の中間に位置し、アロウエイはグラスゴーから40キロばかり下方の西海岸に面している。その時の旅ではネス湖まで行ったが其所が旅の最北地であった。それにしても神経症に悩まされていた漱石が、このスコットランドへの旅で多少なりとも癒やされたことは確かである。漱石にとって良き骨休みになったと思う。

 

                    2020・4・17 記す。

人災と天災

私は隔日に入浴している。昨夜9時前に風呂から上がり、就寝の時間だから床を敷いて横になったと思ったらすぐ寝入った。2時頃目が醒めたら浴室の脱衣場が異常に明るい。電気ストーブをつけたままにしていた事に気が付いた。直ぐ起きてスイッチを切り、トイレに行ってまた寝床に入った。床に入り色々と考えた。

テレビで親子が焼け跡から見つかったといった事件があった。家が燃え

ているのに気が付かずに寝ていて焼け死んだのだ。家が燃えているのを知らずに寝ていて、焼け死ぬというような事があり得るかと思ったが、あり得ることだと考えを変えた。

夏の暑い時、庭に撒水した後、ホースの先の放水器具の栓を閉めただけで、元の水道の蛇口を閉め忘れ、翌朝行ってみたら周囲が水浸しで、蛇口から噴水のように水が出ていた。急いで蛇口の栓を閉めた。その月の水道使用料金が異常に高かったからであろう、注意書きが使用量の明細書に書いてあった。水ならお金で解決出来る。しかし火事を起こして、自分が焼死するだけなら仕方がないとも言えるが、近所迷惑また子供たちにも迷惑をかける事になる。大いに反省して火の用心をしなければいけないと肝に銘じた。

 

我が国は以前は皆木造建築だから火事が多かった。「火事と喧嘩は江戸の華」と言うが、明暦3年(1657)1月8日に起きた「明暦の大火」について、『角川日本史辞典』に次のように記載されていた。

 

振袖火事・丸山火事ともいう。火元は本郷丸山本妙寺。江戸市街の大部を焼き、焼失町数800町、焼死人10万。江戸初期の町の様相は失われ、回復にあたっては道幅・町家の規模を統一し、市街を整備して火よけの広小路を設け、本所・深川にも市街を拡大。本所回向院はこの時の死者を祭ってある。なおこの火事は同じ振袖を着た娘三人が次々と病死したので、その振袖を焼き捨てたところ、火がついたままに舞い上がり本堂に燃え移り、さらに江戸市中に飛火したことから振袖大火と呼ばれるようになった。

 

 何だか娘さんたちの祟りによる大火のように思える。火事にもいろいろある。野中の一軒家ならいざ知らず、今日のように都会などで若し不始末の結果火事を起こしたら、隣近所に大迷惑を掛けることになる。先にも書いたように、出火させた張本人はもとよりその家族も世間に重大な責任を負うことになる。ところが今現在、交通事故で相手を殺傷した場合の方の責任を問われる方が大きいような気がする。私はこれはどうも可笑しいのではないかと思う。若し本人の不注意による失火によって多人数の人が死ぬような事があったらただ事ではない。戦争はその意味ではもの凄い犯罪である。アメリカ空軍の東京を始めとする大都市への空爆、とりわけ広島・長崎への原爆投下は大犯罪である。その為に無辜(むこ)の人たちが何十万人と焼け死んだ。それを日本が悪かったと洗脳されて今日まで来ている。

 

マスコミのこう言った宣伝はどう考えても間違いである。話が逸れたが、私は「火宅」という言葉をふと思い出したので辞書を引いてみた。

 

【火宅】(煩悩が盛んで不安なことを火災にかかった家宅にたとえていう)現世。娑婆。

 

 「火宅」と「家宅」では語呂が似ているが、私はなるほどと思った。現実の世の中は、家が焼けるということと同じように、恐ろしい点で人間の煩悩に似ている。煩悩は火事同様に卑近なことであると同時に恐ろしく避けがたいものである。自分の家から火事を起こしたら消しがたい。同じように煩悩も消すのが難しい。「火宅僧」という言葉のあるのを知った。違った言葉で言えば「生臭坊主」と言うのだろう。充分に修行をして独身を通して、人格者として尊敬を受けるような僧侶は今はまず居ない。法然日蓮、西洋ではアッシジの聖フランシスのような優れた人物が今は殆ど居ないから、宗教が廃れたとも言われるのも無理はない。先師とか先生とか言われるのは、昔は僧侶と医者と教師に限られていたが、今は猫も杓子も先生である。国会議員の連中が先生呼ばわりされているが、彼ら政治家は最も金銭欲や権力に汚染されていて、先生と呼ばれる資格はないような気がする。

 

聊か話が「飛火」したが、わたしは明暦の江戸の火事の後、江戸で起きた大災害をちょっと調べてみた。明暦の大火が先にも書いたように、西暦1657年。それから丁度50年後の1707年に富士山の大噴火が起きた。これは「宝永の大噴火」と呼ばれている。宝永4年11月23日(太陽暦では12月16日)午前10時頃、富士山の南東斜面より大噴火が起こり、黒煙、噴石、空振、降灰砂、雷があり、その日のうちに江戸にも多量の降灰があった。房総半島にまで被害が及んだ。2週間にわたって断続的に噴火し、家屋や農地が埋まり、麓の村では餓死者が多数出た。この噴火の49日前に宝永東南海地震(推定M8.6)が起きたとある。

 

これに続くのが1923年9月1日の関東大震災だろう。この震災で全半倒壊、焼失、流失、埋没等の被害を受けた住宅は合計で37万棟、10万5000人以上の死者、行方不明者が発生した。このうち火災による死者は9万2000人弱で、死者全体の9割、地域では東京市(現在の都区部に相当)と横浜市の死者の合計が全体で9割超に相当する9万5000人強に上ったとのことである。

 

これから僅か23年後に米空軍による東京大空襲があった。3月10日、4月13日、5月24,25、26日と以上5回の空襲で死者が10万人以上、3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えている。

 

2020年も数日で終わる。そうすると関東大震災から既に100年以上経ったことになる。最近小規模の地震が頻繁に発生している。地震研究者は近いうちに大規模の地震が起きることは間違いないと云っている。そうなると、それに伴って富士山が大噴火する可能性がある。「天災は忘れられた頃に来る」とは寺田寅彦の名言だが、政府を始めとして国民はこの事をどう考えて居るのだろうか。コロナやオリンピック開催どころの話ではなくなるだろう。今度関東大震災の様なことが起きたら、50万人くらいの人が死に、新幹線も飛行機も動かなくなると云われる。それだけではない、東京への一極集中で日本全体が麻痺状態になるのではなかろうか。私は田舎での一人暮らしだが、有り難いと思うと同時に、火の用心だけはしなければならない、とつくづく思うのである。

                     2020・12・26 記す

恩を受ける

                   一

 

私が大学を出て最初に赴任したのは県立小野田高校である。昭和三十年のその当時は、教員採用試験というものはなかった。私の場合、主任教授の岡崎虎雄先生が、かって旧制山口高校時代の同僚だった小川五郎校長に話をしてくださったので就職できたのである。今なら英会話も録に出来ない者が英語の教員に採用されるなんてあり得ない事だ。お蔭で大過なく何とか三十七年間の教員生活を無事に終えることが出来た。だから私は朝夕仏前で両先生に感謝の誠を捧げている。

考えてみると人間はこうして多くの人の御世話になって生涯を送るのだ。はっきり世話になったと分かる人だけではない。行きずりの人の親切などを加えたらそれこそ数え切れないほど多くの人々のお蔭で今の自分があると言えよう。

 

私がまだ小学生になる前、我が家に一人の老婆がよく来ていた。当時彼女は五十歳くらいだったろうが随分老けて見えた。後になって聞くところによると此の婆さんは小さいとき両親に死に別れて孤児だった。私の祖父が不憫(ふびん)に思って我が家に引き取って面倒を見て、最後は萩市香川津の漁師と結婚させてやったとのことである。その恩を知ってであろう彼女はしょっちゅう我が家に来て、使い走りや子守その他家事の手伝いをしていたようである。

私の父の妹は父と九歳の年の隔たりがある。私にとってこの叔母をこの婆さんが守をしてくれたようで、その後婆さんが結婚して男の子が生まれたとき、叔母がその子の名前を「義雄」と名づけたと云っていた。姓は岩崎である。私が中学生になった頃は此の婆さんはそれでなくても小柄だったが、腰が曲がって小さくなって居たが、時々我が家に見えていた。来ると決して玄関から上がらないで、勝手口とも違う廊下脇の上がり口から入って、先ず脇目も振らずに仏間へ行き、線香を立て、木魚を叩いて仏前でしばらく経文を唱えていた。拝み終えた後はじめて家族の者に挨拶するのであった。今から考えると謝恩の気持ちの表れだと思う。

我が家の者は皆此の婆さんを「めーや」と呼んでいた。彼女の主人は小舟を持っていて漁をして居た、一方「めーや」は渡し船の船頭だった。

 

萩市の主要部分は阿武川日本海に注ぐ所で橋本川と松本川に分かれ、そこに出来た三角州の上に存在する。昔から大雨が降る度に洪水に見舞われていた。したがって安政二年(1855)に姥倉(うばくら)運河が開削され、それまで陸続きだった鶴江台は陸から離された。そのため、鶴江と香川津へ渡るには上・中・下の三箇所の渡し船を利用することになった。昭和三十年(1955)に中の渡し場のところに水平式旋回橋が出来て、下(しも)の渡し舟だけ残された。それまで「ねーや」は上(かみ)の渡し守として舟を漕いでいた。

 

私は昭和七年生まれだから此の三ヵ所の渡し場は良く覚えている。とくに小学校へ入ってからは、下(しも)の渡し舟に乗ってよく川向こうの鶴江台へ遊びに行っていた。渡った直ぐ近くに長い石段があってそれを登った所が神明様という神社の境内である。その周囲には橙や薩摩芋等の野菜が栽培されていた広々とした台地である。神社の位置から萩市街が眼下に眺望できた。我が家のこんもりと繁った大きなタブの木も見ることができた。

昭和十九年に県立萩中学校へ入った時、鶴江地区から通学していた同級生が四人居た。その内今生きているのは一人だけである。彼は銀行マンだったが、定年退職して故郷に帰っている。数年前に奥さんを亡くして私同様の一人暮らしである。

 

私は何回か「ねーや」の家へ行ったことがある。彼女が舟を漕いで向こう岸に着くと舟を係留して、渡し場のすぐその側にある家へ私を連れて行った。今から考えたら掘っ立て小屋に近いような粗末な家が彼女の住まいであった。「こんなものでも食べるかね」と云って出されたものは、冷えた薩摩芋で、それも見た目にも貧弱な芋がゴロゴロと笊(ざる)に入れてあったであった。彼女の子供たちはこういった粗末なものだけを食べて、空き腹を凌(しの)いで育ったのかも知れない。狭い畳敷きの部屋が一間と板張りの部屋だけといったような狭い家であった。小さな仏壇があったように覚えている。それでも子供は育つものである。彼女には息子が三人、娘が二人いた。彼女達は小学校を出た後、さらに女学校に入ったように聞いている。結局は親の生き方を見て立派に成人したのだと言える。

 

                  二   

 

先に述べた義雄さんがこれまた彼の母親と全く同じような人だった。彼も我が家に時々来て家事の手伝いなど積極的にしてくれていた。その時何時も自分のことを「義雄が、義雄が」と云っていた。小さい頃から母親がしょっちゅう我が家に連れてきていた為だろう。私が義雄さんを知ったのは太平洋戦争が終わってからで、さらに一層良く彼と接するようになったのは、私が母校に勤めるようになった時からである。

 

義雄さんは小学校を出ると陸軍に志願してシナ事変に参加、さらに大東亜戦争へも従軍し、二等兵から最後は陸軍少尉まで進級されたようである。我が家に彼が送ってくれたのであろう一枚の小さな写真がある。それには軍服を着て戦闘帽を被り、長い刀を持って立っている義雄さんの姿が写っている。彼は中肉中背というより、どちらかというと平均以下の体格だったが、がっちりとした体で、芯は丈夫だったのだろう。小さいときから親の仕事を手伝い、弟妹の面倒を見てきたので頑丈な体になったのだろう。彼は何事も自ら進んで行うといった性格だった。だから誰からも好かれていた。

 

「私はシナ事変のとき、現地で斥候を自ら申出て任務に就きました。一人で出かけて行きましたが別に恐れる事はありゃあしません。敵情を偵察して上官に報告しますと上官は大変喜んでくれました」と話してくれた。

又こんな話も聞いたことがある。

玄界灘を輸送船に乗船して航行していましたら、アメリカの潜水艦やられて船が沈没しました。十人ばかりの者が大きな木片に捉まって居ましたが、次第に暗くなってお互いの顔が見えなくなって来ました。その時声を掛け合って、しっかりせんにゃいけないぞ、夜が明けたら味方の船が助けに来てくれるから、と云ってお互い元気づけました。こうして真っ暗な闇の中、なるべく声を掛け合い、気持ちを確りと保つようにしていましたが、夜が明けてみると何人かの姿が見えませんでした。人間は何をおいても気力が大事です。弱気を起こしてはいざという時助かりません」

 

義雄さんが気力を持って幾度もの難関を勝ち抜いたのは、小さいときから人生の荒波にもまれて鍛えられたおかげだろう。ぬくぬくとした環境で、勉強だけしかしなかった青白きインテリは、いざという時はこういった力を発揮できない。「可愛い子には旅をさせよ」とか「艱難汝を玉にする」は当(まさ)に至言である。

 

先に述べたように私が昭和三十九年に母校の萩高校に帰ってから義雄さんをよく知るようになった。長男がまだ三歳くらいであったが、正月元旦には何時も午前中に義雄さんが年始に来られて、その時必ず息子にお年玉をくださった。

義雄さんは当時萩市役所に勤めておられた。彼の奥さんの家元が長崎で、戦後一寸長崎に居られたが、母親が年を取ったと言うことで萩に帰られた。その時市役所の臨時採用で、「屎尿処理」の仕事をしておられた。バキュームカーに乗っての臭い作業だったが、「人の為になり、人が喜んでくれるから、何ともありません」と云って嬉々として働いて居られた。この働き振りが上司の目に留まり、正規の市の職員に抜擢されたようである。私が接した頃は市の水道課に勤めておられた。

私の長男が高校を卒業して大学に入るまで、義雄さんから毎年お年玉を貰っていた。前々から貰った金額を合わせたらかなりのものに達したと思う。息子も「岩崎の小父さん」と云って感謝して居た。今や義雄さんも彼の母親も亡き人となった。私の妻も義雄さんに感謝して居たが、妻も昨年五月に帰らぬ人となってしまった。

ここでもう一人の人物についての思い出を語ろう。

 

                   三

 

私が生まれたのは先にも書いたように昭和七年である。同じ年に私の母が亡くなり、父は昭和十五年に再婚した。その直前まで父の妹が家に居た。私にとってこの叔母は、朝鮮で役人をして居た人のもとへ後妻として嫁いでいった。そこにはまだ成人に達していない子供がいた。戦後叔母夫婦は朝鮮から引き揚げて萩に住むようになった。此れはまた別の話だが、こうした事でほんの僅かな期間だけ我が家には父と祖母と私、それに一人の「姉(ねえ)や」つまり女中、今で言う「お手伝いさん」の四人暮らしだった。継母が来てからはこの「姉や」は居なくなった。

 

我が家のアルバムに一枚の写真がある。一人の和服姿の若い女性が白い足袋を履き、両手を重ねて膝に載せて椅子に腰掛けて居る。彼女の座った位置から云えば右横に、洋服を着て白い帽子を被った男の子があどけない稚い顔をして立っている。これが幼きときの我が姿である。私はこの写真を何時どうして撮ったかは全く知らない。

 

私は小さいときは体が弱くて、小学校時代の通知表を見たら、入学して五年生になるまで毎年十日近く学校を休み、とくに四年生の三学期の二月には、出校日二十二日のうち十七日も休んでいる。所が六年生になったときは皆勤で、その後高校に入ってからは殆ど休んでいない。元気になったのだと思う。しかし私は背が低く、中学校に入ったときクラスで前から三番目に位置していた。あの頃は小学校の高等科二年を終えて入ってきた者も居たので、心身共に随分の開きがあった。

 

さて、「姉や」の事に話を戻すと、私はこんな事を覚えている。私が風邪を引いたり腹痛を起こしたりすると、いつも誰かと門田という医院へ一緒に行った。年寄りの先生の診察が終わると、薬局と書いた窓口で瓶に入った水薬か粉薬を貰った。粉薬の場合はそれを看護婦が作ってくれたのでその手順を見ることが出来た。

 

まず、数種の微薬を小さな秤(はかり)で量り、それを丸い乳鉢に一緒に入れて、乳棒で磨って出来上がったものを、卓上に並べられた四角い折り紙のような薬紙に、匙で掬って等分に配分し、それを一つづつ包み、最後に紙袋にその全てを入れて手渡してくれた。それには食前とか食後とかに服用するように書いてあった。五日か一週間分入って居たが全部を服用する前には病気は治った。

 

その日私は姉やに連れられて門田医院へ行ったのだが、帰りに真っ直ぐ我が家に帰らないで東田町(当時萩で一番の繁華な通り)へと回り道をした。彼女が私に一冊のマンガの絵本を買って呉れたのである。その中に一台のトラックが暴走して、人々が慌てふためきながら逃げ惑う様子が画いてあった。その繪を私は今でも思い浮かべることが出来る。彼女は乏しい小遣いから買って呉れたのだろう。又こんなこともあった。

 

あの頃我々が乗り降りする山陰本線の駅は東萩駅であった。この駅から上り線で行ったところに大井駅があり、その次が奈古駅、さらにその向こうが木与駅である。その先多くのトンネルを通過した所にあるのが宇田郷駅である。私は小学校に入ると長い休みには何時も宇田郷村で医院を開業している伯父の所へ行った。従兄たちが居たからである。

話は小学校にまだ入学する前だったと思う。「姉や」と一緒に汽車に乗った事は全く覚えていないが、木与駅を下りたあたりの風景ははっきり瞼に焼き付いている。駅の構内を出て日本海を右手に見ながら海沿いの道を引き返したら、美しい砂浜と松原が連なっている。その浜を「宇久の濱」と云う。その松原の中に数軒の家が建ち並んでいた。その内の一軒が彼女の生まれた家である。彼女は私を自分の家に連れて行ってくれたのである。

 

我は海の子白波の

騒ぐ磯辺の松原に 

煙棚引く苫屋(とまや)こそ 

我が懐かしき住み家なれ

 

彼女の家は、まさしく小学唱歌に歌われているような佇まいであった。彼女の家から松林を抜けた所には美しい白砂の浜が延びており、その向こうは日本海の海原が広がっていた。家は平屋で板敷きの台所に澀紙が敷いてあってごわごわしていたが、艶々と光っていたのを覚えている。ハンドルの付いた機器の漏斗(ろうと)のようなところにうどん粉を捏ねたのを入れて、そのハンドルを回すと平べったい状態で出て来た。今度はそれをその機器の違った部分に差し入れて又ハンドルを回すと、細い紐状のうどんの形となって出て来た。それに出汁を掛けて大きな茶碗で食べたのだが、その時の味は兎も角として、私は初めて見たこの一連のうどん製法を、不思議に思って眺めたのを今なお覚えている。

 

この後「姉や」に連れられて直ぐ近くの小川へ行き、小魚等を捕ったりした。夕方近くだったが、丁度その時下り列車がやってきてデッキに立っていた父が手を振ったのさえ覚えている。父は宇田郷からの帰りで私が「姉や」の家に行っているのを知っていたのだろう。

 

このような断片的な事を印象深く記憶しているが、彼女が何時我が家を去ってお嫁に行ったのかは知らない。小倉、今の北北九州方面へ嫁いだということだけは聞いている。彼女の名前は知らないが姓は「小田」と云っていた。それにしても、二十歳前後だったと思うが、うら若い女性と云ってもいいような年齢で、他家に奉公に行き、そこの幼い子を可愛がってくれたと思うと、私は彼女の親切を忘れる事が出来ない。今なお生きているとは考えられないが、もし逢うことが出来たらどんな感懐を抱くだろうか。考えて見たら茫茫八十年も昔の思い出である。記憶の糸をたぐって何とか書いてみた。

 

                  2020・6・5  記す

恩を知る

                   1

 

 

「忘恩の徒」という言葉を昔はよく耳にしていた。日本人は子供の時から「恩を忘れるな」とか「嘘をつくな」と言い聞かされていたように思う。封建時代の名残だとも思われるが、やはり人間としてこのことは大事ではなかろうか。名利のためなら以前受けた恩義に背いて行動してもよい、人を胡麻化しても構わない、こう言った気運が最近暗々裏にあるような気がする。自由主義をはき違えたものだろうが、人の世にあって寂しいことである。犬猫でも恩を忘れない。有名な忠犬ハチ公の事を80歳以上の人は知っているだろう。

 日本人の国民性でこうした謝恩、報恩、正直ということは遺伝子に組み込まれているような気がするから、容易には廃れないだろうが、一方怨恨、つまり恨みをいつまでも忘れないという国民性もある。隣国の韓国はこの恨みの感情がとびぬけて強いように思われる。この度佐渡金山の世界遺産登録の申請にあたり、韓国政府のみならず民間人も一斉に、我が国のこの動きを察知して、ロビー活動を猛烈に展開して反対運動をしているようである。金山での朝鮮人の労働者の虐待があったとでたらめの宣伝をしている。しかも江戸時代と関係のないことなのに。なぜ彼らはそうして迄わが国に抵抗するのだろうか。

 

 日韓併合のお陰で朝鮮はそれまでの惨めな生活から格段に進歩した。わが国は国家予算の多くを朝鮮のインフラ、教育、その他近代国家にふさわしい状態へと注いだのに、そのことを真逆にとって恨みの感情を発揮して事ごとに我が国を貶めようとしている。

 隣人や隣国が考えの異なる場合実に困る。私自身萩にいたとき隣人が或る日突然豹変して家の境の事で悶着を付けてきた。その為に私はやむを得ず先方の言い分を黙認して遂に萩を去った。このような事はよく耳にする。先方は自分の意志が通ったのは当然だと思っているだろうが、勝手な自分の意思を通しただけである。これが国と国との間となると、避けて逃げる訳にもいかない。いざというときは戦争して国土を死守しなければならない。

 

 今ロシアとウクライナとの関係はそうだと言える。ロシアのプーチン大統領の一方的な思い込みに基づく侵攻で、ウクライナの民間人が子供を含め数百人も死んでいる。このような暴挙は決して許されるべきものではない。しかし世界史を見ればこうした悲劇は枚挙にいとまがないほど頻発していると言える。紀元前218年ローマとカルタゴ間のポエニ戦争で、ローマに迫ってあともう少しという処で補給が續かずハンニバルは破れ、その後カルタゴが完膚なきまでに殲滅され、国土に草木が生えないように塩迄まかれたと聞いているが、これもカルタゴがローマとの停戦協定で示された戦争放棄、平和主義を鵜吞みにして経済発展だけに終始したので、ローマが突如その協定を一方的に破棄して攻め込んだ結果だと言われている。

 問題はこういったことが人類の歴史上多くあるということである。わが国は戦後 「憲法九条」を守って戦争放棄・武力を持たないと言って来たが、実際は自衛隊の発足で軍隊を持つに至った。しかし依然として平和憲法の維持である。だが世界情勢は刻一刻と変わる。どうしてもわが身をしっかり守ることが必要である。防備がしっかりしていれば相手も容易には攻めてこない。人間は闘争本能や支配本能がある。それが独裁者に特に強い。絶対的な権力を持ったものがこうした本能に動かされたら事は一大事である。この先ロシアとウクライナの情勢がどのように展開し終結するか予断を許さないが一日でも速く円満に解決することを望む。

 

            

                   2

 

 

 今日3月2日は私にとっては決して忘れることのできない日である。昭和55年3月3日の新聞に次の死亡記事が載っている。

 

  池本喬氏(いけもと・たかし=山口大名誉教授、追手門学院大元教授)二日午前零時二十五分、肝硬変のため京都府向日市洛西病院で死去、七十三歳。告別式は四日午前十一時から、京都府八幡市大谷二四の常昌院で。喪主は妻勝子(かつこ)さん。

  英文学専攻の禅研究家で、禅の古典を英訳、欧米に紹介した著書が多い。五十二年、勲三等瑞宝章を受けた。

 

 私は昭和25年に県立萩高等学校を卒業した。卒業前までは大学進学を別に考えていなくて、父の考え通り銀行にでも勤めようかと思っていた。しかし父の姉つまり伯母が父を説得してくれたおかげで翌年山口大学へ入学した。教養課程を終えて2学年になるとき、父が萩商業で英語を教えていた関係で私も英米文学部を選んだ。何しろ高校時代までは全く勉強などしなかったので、突然シエィクスピアなどといった原書を読まされてはたまったものではない。更に中世英語とか古代英語などときたら珍紛漢紛である。それでも何とか単位だけは取って卒業できた。今から考えたら僅か3年間の出来事であるが、私の人生は大きく変わった。 

 こういった状態ですぐ高等学校の教壇に立つのだから教わる生徒にとってはいい迷惑だったと思う。私は英文科の主任教授の岡崎先生のお陰で県立小野田高校へ赴任することができた。そして当時「小野田高校の校長だった小川先生が私を採ってくださった。この2人の先生のお陰で教員生活の第一歩を踏み出すことができた。私はいつもこの両先生には感謝している。私にはこの他に大変恩を受けた先生がおられる。それが先に挙げた池本喬先生である。

 

 当時英文科には8人の先生が居られて、助教授または講師で教授はおられなかった。授業では先生方は自分の研究分野に関する講義をされていたように思われる。従って大學で発行する紀要に研究論文を発表されていたと思う。岡崎先生は英国の詩人の研究をされていて、授業では『英国詩文選』という分厚い教科書を買わされた。先生はこの研究で後に教授になられたように聞く。池本先生は英語学と英文法を、さらに古代英語や中世英語を教えておられた。中世の詩人チョーサーの詩を習ったが到底原書が読めるものではなく、一方的に先生の講義を聞いていた。これもオックスフォード大学出版の分厚い教科書での講義であった。

 然し私は池本先生の 人柄というか人間性に何かしら惹かれ、2年生の時1人の友人と一緒に先生のお宅を訪ねた。その頃は学生が先生の家を訪問することは良くあることで、大学に入ったら良き師や良き友の見つけることが一番大事なことだと聞いていたので実行したのだ。小西という先生が居られた。私は何人かの友人と先生宅を訪ねた際、これだけの本を讀めと言って20数冊の本と著者を記した紙をもらった。その中にロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』があった。私は最初にこの本の英訳を手に入れて曲がりなりにも読んだ事を覚えている。これは若き日のベートーベンをモデルにした名作だと言われている。この本は池本先生も推奨されていた。私は岡崎先生宅も一度訪ねたが、この小西・岡崎両先生ともう一人田中先生宅を訪問した以外何処へも行っていない。ただ池本先生のところへは頻繁に行った。

 

 玄関に入った途端、目の前に書架が立ちはだかるように立っていて、洋書がすべての段に並んでいるのを見てまず圧倒された。先生の書斎に通されたらそこにも部屋の周囲は殆ど蔵書ばかりで、私が学者というものはこうした書物に囲まれて研究を続けられるのかとの印象を強く受けた。我が家にはこれといった蔵書は数えるほどしかなく、あると言えば茶道に関する本が少しばかりあるだけだったからである。その後最初に一緒に行った友人はほとんど行かなかったようであるが、私は1人で夕飯を済ました後、片道2キロくらいある道を歩いては先生のお宅へお邪魔した。

 先生はそれまで書斎で勉強されていた様子であったが、快く私を迎え入れて応対して下さった。恐らくその頃は先生は宗教というか信仰の面で悩んでおられたと思う。

 

 先生は鳥取市の出身で県立鳥取第一中学校を卒業されて大阪外国語大学に入られた。先生は語学が堪能で、英語・独逸語・フランス語・アラビア語・インド語など7か国語も読むことができたようである。大學卒業後一時貿易関係の会社に入られたが数年後退職され、あらためて九州大学の英文学科に入ってさらに研鑽を積まれた。先生の厳父は小学校の校長で、長兄は鳥取中学校で絵画と柔道を教えておらた。先生はこの長兄を尊敬されていた。中々立派な方で、短歌を嗜み、宮中の歌会始めの会に選ばれて参列されている。鳥取名誉市民第1号にもなって居られる。次兄は軍人で将官だと聞いている。

 この次兄の奥さんの妹と先生は結婚されている。兄弟同志の結婚だが先生の奥様は繊細な神経の方、子供さんができたが幼児期に亡くなられそれから奥様は一時ノイローゼになられ、対人恐怖症になられたようである。

 「山本君、家内が会うのは君だけだよ」と言われたことがある。私がしばしば訪ねていたのでそのうち奥様も気を許されて夕飯のご馳走に与かったこともある。

 

 その後先生は山口大学を定年退職されて、大阪にある私立の追手門大学に再就職された。そして京都市の近くの長岡京市に居住されるようになった。私はその頃は萩高校に勤務していた。然し私の妻の姉が滋賀県に住んでいたので長期の休みに姉のところへ行ったついでに先生を3度訪ねた。

 「いつでも来てくれたまえ。君に泊まってもらえるように蚊帳を買った」と言われたこともある。 

 この長岡京市には長岡京跡がある。桓武天皇の初めての都である。一度妻を伴ってお尋ねした時、此の長岡京跡へ案内された。その時先生が「山本君。君の奥さんはベストだよ」と言われたことを今も覚えている。

 話を元に戻すが、奥様の状態が一時非常に悪化して精神科の病院に入れられた時、先生ご自身が非常に悩まれたのである。

 「山本君。僕はこれまでカトリックの教えを真面目に学び教会へも行って神に祈った。しかしどうしても救われなかった。自分の体がもたないまでになった。家内を残して死んだら、家内はどうなるかと思った。しかし禅を学ぶことによって何とか精神的に安らぎを得ることができたと思う」

 先生の実家は禅宗で、先生の長兄がよく坐禅をされていて、この長兄を先生は大変尊敬されていたことが禅に向かわれるきっかけになったのだろう。だから先の新聞の記事にもあるように禅関係の文献を英訳して海外に紹介されたのである。

 先生が出版される度にその本を頂いたが、私にはとても満足には読めなかった。それでも先生のお陰で禅というものをほんの少しでも知ったことは、私にとって非常に有難いことである。このような点でも私にとって池本先生は恩人である。

 先生は趣味としてバイオリンを弾いておられたが、私は一度聞いただけである。何しろ私には音楽的素養が皆無だから。しかし今はよくネットで音楽を聴いている。私はどちらかというと絵画に興味があり、展覧会などによく出かけていた。一番感銘を受けた画家はフランスの巨匠ジョルジュ・ルオーである。彼の個展を昭和29年、大学卒業1年前、卒業論文に必要な本を買う目的で父に頼んで上京した時、たまたま上野公園の美術館で開催していたのを見たのである。その時初めて西洋画に触れ、このルオーの絵を見て強い印象を受けた。その時のことは以前書いたが、そういったこともあって、私は大学に入ったこと、そして英文科の先生方に教えを頂いたことは、更には家内が来てくれたことも皆、人生では偶然のことだが、本当に有難いことだと思うのである。

 

                 3

 

 

 上記の拙文を途中まで書いたとき正午前だったので、好天に誘われて散歩に出かけた。昨日は朝から小雨が降っていて多少寒い感じだった。今日は朝から晴れ上がって散歩には申し分ない天気である。しかし向かい風がきついのでマスクをしたら多少寒さを凌ぐことができた。今日はいつものコースとは違って直線距離にして我が家から500メートルは優にある吉敷川の河岸を歩くことにした。私は水際まで下りて行って水の流れの直ぐ傍を上流に向かって歩いた。清い水が枯れた葦の群生の根元をさらさらと流れていた。ゴロゴロと川底には白くなった石がある。魚は全く見当たらない。魚どころか生物と云ったらたった一羽のカラスが目に留まっただけである。それに一匹の小さな蜘蛛が土手から上がる時石段の上にいた。

 ネットで見たのだが 元東大教授の養老孟司氏が「農薬を使っているのは、面積当たり世界で日本が第1で、韓国が第2です。そして自閉症は日本が一番多いです。私はタイやブータンへ行ったことがありますが、あそこではハエや蚊など決して殺さないで、手でこうやって追い払うだけです」と言っておられるのを見たが、そういえばここ最近カタツムリやトカゲや蟹などといった小さな生き物の姿を見かけない。このことは人間にも何らかの影響があると思われる。

 散歩の帰りにコンビニで「山口新聞」を買った。新聞を読むのは数年ぶりである。今は新聞よりネットの方が情報が早いし、こちらの方が情報が正確だと思うので新聞の購読はもう3年前に止めた。久しぶりに見てみると、「ロ、州庁舎ミサイル攻撃 首都キエフ北方部隊増強」の見出しで記事が載っていた。3面、4面もウクライナ関係であった。ウクライナの今の状況は果たしてどうなのか、本当の姿は一体どうなのだろうか。この新聞なども皆海外の報道を借用しているのではないかと思う。

 

 散歩から帰って我が家の前に来た時、塀壁越しに紅梅が丁度見ごろに咲いているのに気が付いた。恐らく我が家の前を通る近所の人の目を楽しませてくれるだろうと思った。何と言っても自然は良い。草木もそうだが、生き物も人間と皆仲良く共生ができたら一番良いのではないかと思うのである。

 わが国は今のところ有難いことに平和である。

 そういえば今日は私の曽祖父、通称、梅屋七兵衛の祥月命日でもある。私は今朝特別の気持ちを込めて仏壇で先生と曽祖父に感謝の誠をささげた。もう少し先生についての思い出を書こう。

 

 先生は先にも書いたように昭和55年3月2日に亡くなられた。私は一度もお見舞いに行かなかった。奥様のお具合が悪くて交信ができなかった為でもある。死亡されたのを山口大学に勤めていた友人が知らせてくれた。私は授業が終わり、翌日の休暇届を出して先ず家内の姉がいる滋賀県へ行って一泊させてもらって翌日の葬儀に参列した。私は姉の家で、葬儀に際し1人の弟子として弔辞を捧げようと思い、その日の夜考えて半紙に毛筆で書いて式の終わりに読んだ。とっさの思い付きだが後から先生の親戚の方から礼を言われた。

 それから1年ばかり経って、先生の姪御さんご夫妻から連絡があって、先生の蔵書をもらって欲しいとの連絡があった。私は宝塚市まで出かけて行った。お座敷一杯に多くの書物が並べてあった。私は遠慮なくいただくことにした。然し禅関係の本は結局あまり目を通すことができなくて、先生が山口市におられたとき、そこの住職と昵懇の間柄であった洞春寺という古刹へ貰っていただくことにした。

私が今一番読んでいるのは『良寛全集』上下巻と『芭蕉事典』である。

 

 私が先生に初めてお目にかかり、それから約20年の間で、先生から頂いたハガキは139通、封書は24もある。今それは全部手元にある。非常に細かい字で書かれたのもあるし、実に奇麗な英文のハガキも5通ばかりある。岩波判の『漱石全集』には「書簡集」と「続書簡集」の2巻がある。私は試みに漱石が誰に一番多くの書簡を出したか見てみたら、小宮豊隆に121通で1番多く、次が高浜虚子に宛てて当てて109通出していた。しかし漱石の通信した相手は184人もいて、50数通貰っている人も数人いる。彼らは皆漱石からの書簡を保持していたことがわかる。これから分かることだが、如何に漱石筆まめで、友人・知人を如何に大事にしていたかということである。

 私の場合、池本先生から頂いた書簡は今読み直してみると本当にありがたい。私は先生の御恩に果たして報いたかと忸怩たる思いである。実は今日先生の姪の方が宝塚におられるので、電話してみたらご健在で話ができて嬉しかった。92歳になられるのだがよく覚えておられたので、一昨年上梓した『硫黄島の奇跡』を送りましょうと言ったら、喜んで読ましてもらう言われ、有難く思った次第である。

 考えてみたら人生において人との出会いは不思議である。数えきれないほどの人と接するだろうが、こうして縁が生じて後々までも繋がりが切れないというのは少ないのではなかろうか。親子の縁、夫婦の縁、師弟の縁、友人との縁、考えてみれば各種多様であるが、折角の縁は大事にしなければとつくづく思うのである。

 

 最後に今日ネットで面白いというか、眼から鱗が落ちるような話を聞いたので紹介しよう。

 筑波大学教授の中村逸郎氏は『ロシアを決して信じるな』(新潮新書)という本を2021年に出版している。質問者はこの本を讀んでインタビューをしている。数多くの質問をしているが、中でも一番驚いたのは、いまのプーチンは2000年から2008年まで大統領であったプーチンと、その後首相を務め、2014年から今に至るプーチンとは違う人物であるということである。ちょっと信じられないことだが、最初の奥さんはこのことを知って離婚した。又ドイツのメルケル首相も、ドイツ語が堪能なプーチンでもドイツ語のアクセントが違うので、それを見抜いてその後はプーチンとは交渉をしなくなったということである。

 もう1つ驚くべきことは、ロシア人はモンゴルやナポレオンなど、過去度々国土を侵略された。又現在共産主義とは言え、独裁政治の厳しい管理下に置かれている。おまけ冬季にはマイナス45度にまで達するような厳しい環境である。彼らはこういった政治的にも自然にも厳しい状況下であるがために、解放感を求める考えは猛烈に強い。したがって彼らはあのアルコール度の強いウオッカを愛飲し、問題はその飲んだ後だが、ガラスコップを床や壁に投げつけて木っ端みじんに割り、その時の破壊音に満足感を覚えるということである。ロシアの歴史を見れば、反逆者への虐殺、拷問、集団的破壊活動やスパイ活動など異常である。こういったことは我々日本人には考えられないことである。

 以上の事はインタビューのほんの一部である。今ロシアがウクライナに侵攻しているが、これからどうなるか全く予断を許さない。益々ロシアは一般民間人を殺戮していくのではなかろうか。

 人間の中には自己の欲望利益のためには、他人を平気で殺すものがいるということを忘れてはいけないし、そのためにはこれまでと違ってわが身を自ら守らなければいけない。決して能天気であってはいけないと思うのである。学校での成績がただ良いだけで、国家公務員試験に合格し、外務省に入ったような役人では、海千山千の外国の外交官とは太刀打ちできないと中村教授は言っていた。

 

海行かば 水漬く屍

今朝目が醒めたのは六時十五分前だった。最近は夜中の一時頃よくトイレに行くから、朝起き上がるのがどうも遅くなる。洗顔の後昨日から読み始めた瀬沼茂樹の『夏目漱石』を続けて読んだ。漱石の誕生から英国へ留学して帰国した頃迄だが、実に的確に良く書かれていた。私は唐木順三の『現代史の試みを』併せて読んでいるが、その書評を瀬沼氏が書いているので改めて瀬沼氏の存在を知った。ひょっとして彼の本を買っているのではないかと思い書架を探したらやはり買っていた。彼等二人とも一九〇四年生まれだから、私より二十八歳年上である。

 

私はこの本を一九八四年に手に入れている。著者が八十歳で亡くなった年である。今考えると買っただけで全部は読んでいない。本は一度や二度読んでも忘れる。良い本はくり返し読む必要がある。この本は一九七〇年に出版されて、私が入手した時既に「第12刷」とあるから余程よく売れたのだろう。確かにこの度読み始めて、実に良い評伝だと思った。

 

それにしても漱石の頭の良さには驚く。頭脳明晰であるが故に、凡人には及びも付かないことを考えて、自ら頭を悩まし、本人の苦悩はもとより家族の者も巻き込んでいる。

しかし漱石は人間として実に誠実で暖かさも持っていた。そして人間としての生き方を真剣に追求したから、あれほどの優秀な弟子が漱石の下に集まり、いわゆる「漱石山脈」を形成したのだ。

 

私は大学の卒論で、スコットランドの国民的詩人「ロバート・バーンズ」について書いた。それというのも漱石東京大学・大学院生の時書いた、『英国詩人の天地山川に対する観念』という論文を読んで、バーンズの事を知り、曲がりなりにも論文を提出して卒業できた。それから今日まで漱石の作品や研究論文などを読むのを楽しみにしてきたが、いつ読んでも面白くまた教えられる。山口市に移ってすぐ、弓道の稽古を少しした事で、『漱石と弓』という文章を書いたが、それからは何も書いていない。しかし彼について読むのは楽しみである。敢えて言えば、私の好きな作家は漱石と鷗外である。我が国の作家としてこの両人だけは読むべきだと識者の多くが言っているので、それに従っただけだが、私としては良かったと思う。

 

七時になったので今日は朝の内に散歩に出かけようと思った。昨日は夕方の六時半に出かけたが、まだ西陽が照っていて汗ばむほどであった。実際に夕陽が山陰(やまかげ)に沈んだのは七時前だった。と言うことでこれからの散歩を早朝に切り換えようと思い立ったのである。夏季になったら七時でももう遅い。六時頃家を出るべきだった。七時だともう朝日は上って氣温も上昇している。多くの小学生が学校へ行くのに出合った。小学一年生くらいの小さな子が大きなランドセルを背負っているのを見ると、まるでランドセルが歩いているようだ。しかし六年生ともなればずいぶん背が高くなって、中には大人の背丈に匹敵するようなのも見かけることがある。我が家の周辺には新興住宅が多く建っていているので、こうして朝の登校時刻になると、どこからともなく出てくる多くの小学生の姿を見かけて活気があって良い。

「お早う」と声をかけると、マスクをしたままで「お早うございます」と丁寧に返事をする子もいる。

 

自動車道路から斜めにそれた小道に入ると、その細い径に沿って一メートルくらいの幅の溝があり、山からの清流がさらさらと流れている。笹の枯れ葉が浮いており、水面に光が当たって美しい波の紋様ができている。溝の反対側は畑で、大きな栗の木が二本と柿の木が一本あって、その枝が部分的に溝を覆っている。今は栗の白い花が房状になって木全体を覆うようにこんもりと繁っている。

 

私はこのススキの穂のような、棒状の十五センチくらいの細長いふわふわした花の房が皆栗になるのかと思って調べてみた。これは皆雄花で、これらの無数とも云える雄花の根元に所々にひっそりと五ミリくらいの雌花があって、その先に雌しべがある事を初めて知った。何だか匂いがするので、鼻を近づけたら雄花の放つ何だか腐ったような異臭であった。この雌花が秋になると淡い緑色の棘で覆われた栗の毬(いが)となって、時々路上や溝の中に落ち、また浮いて流れるのを見かける。

 

柿の枝にも大きな葉に隠れるように二センチ位の小さな真っ青な実がついていた。成熟しても誰も取って食べる者はいない。熟して路上や水の中に落ちている。時々カラスが柿を食べていることがある。

 

しかし枯れた柿の葉は実に美しい。一六四〇年代、初代の柿右衛門がこの赤い柿の葉を見て、彼独特の赤絵を創始して、白磁の美しさとの調和性を究極まで高めたと言われている。

 

さらに歩を進めて小さい石橋を渡ると、溝は行く手の左側に変じ、田圃が右手に広がっている。今は田植も終り、束にして植え付けられた二十センチばかりの早苗が、青々と育って水の張ってある田圃一面にすくすくと成育し、爽やかな青一色に染まった景色は見た目に実に気持ちが良い。

 

ふと見ると、黒豆くらいの体に、不似合いの大きくて長い尻尾をゆらせながら泳いでいるオタマジャクシがいた。近づくと水中に潜り、呼吸をするのだろう又水面に出てきたので、しゃがんでスマホで実態を撮そうとしたが果たして上手くいったかどうか分からない。

 

よく見ると数え切れないほど多くのオタマジャクシが、水中の泥の上に身を沈めていた。そして彼等は絶えず尻尾を動かしている。これらが皆蛙に成育したら田圃は蛙で埋まるのではないかと思うほどいた。

 

何故「オタマジャクシ」と言うのかと調べて見たら、調理用具の「玉杓子」に姿形が似ているからだと書いてあった。「玉杓子」に「御」をつけて「お玉杓子」と尊称されているのかと勝手に想像した。これから彼等が蛙になっていわゆる蛙の合唱も聞かれることであろう。

 

おたまじゃくしはかえるの子

なまずのまごではありません

それがなによりしょうこには

やがて手がでる足がでる

 

私が平成十年に萩から山口に移ってきて、すでに二十三年の歳月があっという間に過ぎた。当時は我が家の周辺が皆田圃で、時季になると蛙の鳴き声が絶えず聞かれたが、今は周辺に家が建ち並び、自然の風景が乏しくなってその点つまらなく感じる。

そういった意味で私は散歩には、よく上記の道筋を選ぶのである。今朝もこの田圃に沿った小道でも何人かの小学生に出合った。

 

何時ものように田圃の側を暫く歩き、今度は自動車の通れる道に出た。ここはアスファルトの舗装はされていない。その道を西に向かって歩み、突き当たりが小高い丘になっている。丘の麓に「六地蔵」が建てられているので、私はいつも賽銭を上げて拝んだ後、その前を通り、数歩行ったところからセメントで出来た段を上って墓地のある平たい処まで行く。まだまだ上の方の丘の斜面には多くの墓地があって沢山の墓がある。私はここでちょっと一休みして眼下に広がる山口市街を俯瞰する。何とも言えない良い気持ちになる。爽やかな風でも吹いてくれると良いが、今朝は吹いていなかった。太陽は東方に連なる山際を離れて随分高く上っていた。

 

そこから帰り途へと歩を移し、不揃いな石段を下りると、又麓にもう一つの「六地蔵」がある。ここでも手を合わせて拝んだ後、歩道に下り立つのである。前の六地蔵との間隔は七十メートルくらいあるだろう。

 

帰りはこの丘に沿った舗装されていない狭い道を北に向かって暫く歩き、それから東に向きを変えて我が家に帰り着くのである。普通散歩の途中、小学生以外に出合うことは殆どない。ただ通勤と思われる自動車には何台も出合ったので狭い道路だから、なるべく右側に身をよけて立ち止まるようにした。

 

しかし今日は途中、一人だけ自分の自宅の前の道路の落葉を清掃している婦人に出合った。この女性には散歩の途中何回か出会った。家の側の道の傍らに菜園を作っていて、今はトマトや茄子がすくすくと良く育っている。三ヶ月以上前になるが、「良く出来ていますね」と声をかけたのがきっかけで、彼女に会ったらよく立ち話をする。

 

実はもう一ヶ月位前になるが、何となくこの婦人に差し上げたら読んでもらえるかと思い、『硫黄島の奇跡』の再版本を差し上げた。

そうしたら今朝のこと、たまたま会ったので挨拶すると、箒の手を休めて、「この前は有難うございました。まだ全部は読んでいませんが、戦死なさってお気の毒ですね。実は私のお祖父さんも、子供がないから男の子を貰ったのに、それは陸軍に取られて戦死しました。ところが十一年振りに男の子が生まれたのですが、この人も今度は海軍にとられて潜水艦で戦死しました。当然ながら遺骨が見つかりません」と言われたのには驚いた。

硫黄島で戦死した従兄は奇跡的に遺骨が見つかったのだが、幾多の戦場では遺骨の見つからないのがほとんどであろう。

 

家に帰り、神仏を拝んだ後、「今日は掃除をする日だった」と気づいて、やや疲れているが思いきって掃除に取りかかった。私は十日毎に室内の一斉清掃を行うことにしている。これも健康のためだと思って、多少大儀でも実行する。

先ず掃除機を階上階下の部屋と廊下全てにかけ、その後水分をよく絞ったモップで板敷きの廊下と階段を拭く。時間にして四十五分ばかり掛かる。

自らに課したノルマを終えて一安心した。汗ばんだのでシャワーを浴び、朝食の支度をし、食べ終わったら丁度九時半だった。

こうして七時から二時間半ばかり経ったことになる。そこでちょっとこれまでのことでも書いて見ようかと思い。書いたのが以上の文章である。

 

ここで私は先に話したご婦人に聞いた話のことを思い出した。折角来てくれた養子が陸軍軍人として戦死し、十一年振りに生まれた愛(いと)おしい我が子が今度は海軍の軍人となったが、海底の藻屑となった。親として何とも言えない悲痛を味わわれたことであろう。こうした話は時には聞くが、自ら体験することと、間接的に耳にする事とは雲泥の差である。 

 

若き命を国に捧げた二人の子の親として、その後の人生はどうだったか。他人には到底うかがい知れないものがあっただろうと想像するだけである。

ご婦人の話しでは、このお祖父さんのところに、彼女のお母さんが、これ又養女となられたとのことである。

 

海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草むす屍

大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ

 

今の若者はこの大伴家持の歌を知らないだろう。たとえ知ってもこの歌を戯れ歌と見なすのではなかろうか。戦時中この歌の下に多くの若者が国のために、「天皇陛下 万歳」と言って斃れた。今はその様な事は先ずあり得ない。しかし萬一我が国が外国から、不法な侵害を受けたとき、若者は国のために立ち上がるだろうか。戦後、徹底的に戦争の罪悪、軍国主義の非を叩き込まれた。そして、個人の自由を謳歌する事をもって、これこそ唯一の正しい生き方だと教え込まれた。しかし、いざという時、彼等は国を守る気概を見せるだろうかと、思わずには居れない気になった。

 

今朝もそうだが、散歩の途中私は毎日、雑草に半ば覆われた小さな墓を目にしながら、その前を何だか申し訳ないような気持ちで歩く。墓石の正面に「故海軍二等機関兵曹 勳七等功七級 原田久之墓」とあり、向かって左側に「昭和十八年七月十二日 コロンバンガラ島沖夜戦 巡洋艦神通にて戦死 原田金次次男 享年二十六」と彫ってあり、右側には「堅忠院孝空義久居士」とやはり彫ってあるのが読める。

この墓石の橫にこれより少し大きい墓がある。これには「原田家之墓」と大きく彫られてあった。戦死し息子の父親はわざわざ我が子のために一基の墓を建てたのだ。

 

コロンバンガラ島」と言って、一体何処にあるのかと思って世界地図を見たがどうも見つからない。そこで大判の講談社とタイムズ社共編の『世界全地図』を出して見たらやっと見つかった。この島はニューギニア島の右端とその上方にあるニューブリテン島に囲まれた「ソロモン海盆」の中にあるきわめて小さな島であることが分かった。

あの有名な「ガダルカナル島」の西方に位置していた。故国日本からはるか離れた南半球にあるちっぽけな島の沖で、彼は軍艦諸共「水漬く屍」となったのである。

 

この墓を建てた父親はもとより、その家族も今はどうなっているのかと思う。戦時中、戦死者の家の門前には「英霊の家」という札が貼られていた。父親にとってはそのような紙切れは、何の慰めにもならなかっただろう。息子の墓を建てた時の父親は、断腸の思いであったろう。萩市春日神社の境内に大きな「忠魂碑」が建っていたのを思い出した。いつの間にか撤去されている。戦争の記憶が薄らいでいく。

まあ何と云っても、戦いのない平和な時代が到来する事を、心から願わずには居れない。

 

                        2021・6・10 記す